第2部(特別付録)・「ステルス技術の平和利用」は「L字大不況」脱出の切り札となるか

Update: 2009/05/25

懸案だったネーミング

 実を言うと何年か前にこの考え方を普及させる上で、「ステルス」という言葉は日本国内では一種の軍事アレルギーで抵抗感が強く、それが普及の足を引っ張る可能性があるため、もう少し別の単語を探した方が良いのではないかという議論がなされていました。
 まあこの言葉も、普通に女性などが身近な話として日常的に口にしていればじきに慣れてしまう(例えば少し前の「ビリーズ・ブート・キャンプ」のように)のかもしれませんが、しかしいずれにせよ「ステルス」のかわりにそれを一言で言うおしゃれで口当たりの良い単語がなかなか見つからずに少々困っていたのです。

 ところがこの百年に一度と言われる金融危機が状況を少々変えました。つまり世の中の情勢がこうなってくると、いっそ思い切って
「『ステルス技術の平和利用』をこの大恐慌に立ち向かう切り札とする」
という、かなり踏み込んだキャッチフレーズの方が、なまじおしゃれな台詞よりもこの状況下では魅力的な響きを帯びるのではないでしょうか。
 確かにこれは平時には少々刺激が強いのですが、何しろ現在のこの寒空の状況下では少し前までメディアの寵児であったおしゃれな単語は一転してどれも魅力を失い、そんな中ではむしろがっちりした「ステルス技術の平和利用」という台詞にはかえって今まで感じられなかった頼もしい響きが感じられるように思えてならないのです。
 おまけに経済以外の情勢を見ても、今後イラクに替わってアフガン問題などで否応なしに軍事問題に巻き込まれることが予想され、またそうなってくると例によって「こういう話になると何も言えないニッポン」というフラストレーションが国民の間に溜まってくるだろうということも、当然の如く予想されるところです。
 しかしこの「ステルス技術の平和利用」という台詞はその際にも何か積極的な主張の響きを帯びるため、むしろ世の中にとって二重の意味でポジティブに語れる言葉たり得るのではないかと思われます。

 そこであらためて、この大恐慌の中でこのことがどういう意義をもっているかをあらためて検討してみることにしましょう。これは現在の経済問題を理解するためにも絶好の教材と思われ、その内容は以下の通りです。

 ・微妙にスタート時期がずれた「エコ」ブームの不運
 ・実は効果がなかったニューディール
 ・「サード・ベストのイノベーション」
 ・「国土の狭さ」と内需飽和
 ・経済対策の3つの鍵
 ・@内需の特効薬=「内需飽和を逆手にとって生まれる需要」
 ・A芋蔓式に広がる消費の発展性
 ・B「第三善」と研究開発コストの安さ
 ・エコ経済効果の落とし穴
 ・不況下での自殺防止効果
 ・実行のための残った条件
 ・中国の台頭を見据えて

微妙にスタート時期がずれた「エコ」ブームの不運

 さて現在の世界の経済対策の代表といえば、それはオバマ政権のエコ重視の「グリーン・ニューディール」ですが、それにしても現在の世界全体にとって不運だったのは、世の中で「エコ」のブームがスタートする時期が少々早すぎ、そのブームの旬の時期がこの金融危機と微妙にずれてしまったことではないでしょうか。
 大体この政策にしても、オバマ大統領の口から言われるから多少の新鮮味があるものの、他の誰かが全く同じことを言っても、聞いている側は「今さらエコねえ・・・。」というのが正直なところではないかと思われます。
 要するに世の中で「エコ」のブームがスタートするのが数年早すぎ、不運にもちょうど最初の盛り上がりの時期が一段落して一種の落ち着いた水平飛行の状態に入ったぐらいの時期に、この金融危機が訪れてしまったわけで、これがもしそのブームのちょうど上昇期にぶつかっていれば、「エコ」という言葉の新鮮味がそれだけで人々を新しい消費行動に走らせ、その力でもっと楽にこの谷を乗り切れたかもしれません。
 確かに長い目で見ればエコの必要性には変わりはなく、将来的な需要も実際に期待できるのですが、どうもそのあたりが、「グリーン・ニューディール」が今ひとつ期待感や盛り上がりに欠けることの理由のように思われます。

実は効果がなかったニューディール

 しかしオバマ政権のその政策は少なくとも一つの点では正しく、発表当時は日本の当初の経済対策と比較して「さすが」と言われたものです。
 どこが違っていたのかというと、それは当時の日本の最初の経済対策が、ただダムや道路を作ったり末端の消費を盛り上げたりといった感じの旧態依然の方針であったのに対し、とにかくこちらが環境技術の革新という一種の「イノベーション」を伴っていたことです。
 これはこのぐらい規模の大きな景気後退から脱出する際には決定的な条件となることで、ただダムを作るだけで何もイノベーションを伴わない経済対策はこういう局面ではほとんど効果がなく、単なる予算のばらまきで終わってしまうことが知られています。
 もっともここにちょっと皮肉な話があって、それは本当を言うと第二次大戦前のニューディール政策自体がそのようなもので、経済学者なら誰でも知っていることなのですが、実はニューディールそのものは現実にはほとんど効果はなく、本当に問題を解決したのは、続いてやってきた戦争だったのです。
 そして戦争が問題を解決できたのは、この第二次大戦という戦争が巨大な技術革新を伴っていて、そのイノベーションが民間部門に波及したためだったのであり、そのためプロの経済学者同士が本音で議論をすると「戦争によらずにどうやって恐慌を解決するか」ということがしばしば一つの合言葉となるものです。つまり経済対策の有効性の鍵が「技術革新=イノベーション」の有無にあるのだという点からすれば、確かに21世紀版のニューディールは前回のオリジナルよりも正しい部分を含んでいるとは言えるでしょう。

「サード・ベストのイノベーション」

 しかしそうは言うものの、その効果はやはりどう見ても第二次大戦の経済効果には到底及ぶべくもなく、また一般市民の意識の面でも、早速今日からそれに沿って動き出そうという盛り上がりはあまり感じられません。
 それは一つには先ほど述べたように、エコブームの旬のピークが少し前に訪れてしまったことがあると思われますが、もう一つの大きな理由として「効果が出るのが遅い」ということもあるように思えます。つまり確かに新しい国内需要を狙うための次期商品の候補そのものは、電気自動車などをはじめ、たくさんあるのですが、これらは育てるのにまだまだ時間がかかり、この緊急事態にすぐに内需を引っ張る牽引車として期待することはなかなか難しく、それゆえ即効薬たり得ないというわけです。
 このようにしてみると、エコ・ブームのスタートは実に中途半端な時期に当たってしまったわけで、まず先ほど述べたようにブームの旬をこの時期にぶつけるにはそのスタートは少々早すぎたのですが、一方その実際の需要効果に期待するためには、今度は逆にそのスタート時期は少々遅かったというわけです。

 そしてこれを踏まえてここで再び過去の歴史を振り返ると、ここにもう一つ重要なキーワードがあったことがわかり、それはこういう状況では「サード・ベスト(第三善)」ということが意外に重要な鍵となってくるということです。
 これは第二次大戦の時の英国の戦時技術に関する名言に基づくもので、それは「第三善(サード・ベスト)を戦場に送れ。次善は遅れる。そして最善は結局終戦に間に合わない。」というもので、要するにあまり技術的に高級なものは時期的に間に合うように戦力化することが難しく、それよりも二段階ぐらい落としたものを本命とした方が賢明だということです。
 少なくともこれは当時の状況を振り返る限り完全な真実で、英国や米国では「サード・ベスト」として生産されたものが結局は主力となって戦争を担ったのに対し、日本の戦時計画はそれとは対照的に「最善」にこだわって大幅な遅れを来たし、ただでさえ負けている戦争をさらに大負けさせる大きな要因となりました。
 しかしこれはまさに現在の状況にもそのまま当てはまるのではないでしょうか。つまり電気自動車などはまさにその「次善」や「最善」に相当していて、そこが意外な弱点だというわけです。
 要するに現在の世界に必要なのは、現代版の「サード・ベストのイノベーション」で、これは文系側の素人の思いつきをいくら集めても生まれるものではなく、それがうまく見つからないことが問題の根源なのです。
 (それに関するもう少し詳しいことは《サード・ベストのイノベーション》をご参照ください。)

「国土の狭さ」と内需飽和

 しかしイノベーションによる新製品を作り出すことが鍵だと言っても、消費者側から見ると、そもそも現在の日本ではそういう新しい製品が欲しいという願望自体がやや希薄で、そこがもう一つの大きな障害のように思えます。
 とにかく現在の日本では車にせよ家電にせよ、必要なものは大体各家庭に行き渡って一種の飽和状態にあり、これ以上何か買わせようにも、要るかどうかの話より前に「買っても家に置いておく場所がない」と言われる有様です。そのため狭い日本の中でそれらを売ることを最初から諦めて、国土の広い米国の市場に頼らざるを得なかったわけですが、そこが今回は想像以上のアキレス腱となってしまいました。
 つまりこの経済危機において日本は当初は、米国などと違って金融機関が危険なサブプライム・ローンにあまり手を出さなかったせいで先進国中でその傷は最も軽く、日本の一人勝ちという予想さえ一部に語られていたのですが、しかし間もなくそんな期待は足元から崩れることになり、経済全体が輸出に依存していたことが致命的な弱点となって、米国に劣らぬ大不況に陥ってしまったわけです。
 要するにもし日本がそのような輸出依存体質でなく、このとき国内で売れる「内需のネタ」が何か存在していれば何の問題もなかったわけですが、先ほども述べたように国土の狭さというネックも手伝ってそれが容易ではなく、そのためほとんどのエコノミストの一致した見解として「国内のどこを見ても日本経済が自立的に回復する要素は見当たらない」という話になってしまい、日本の場合、内需を何とか作り出して外需依存から脱却するということがもう一つ、大きな課題となっているわけです。

経済対策の3つの鍵

 さて以上をまとめると3つほどの重要なポイントがあることが明らかになってきたわけで、現在の経済対策で何が重要なのかをまとめて一言で言えば、それは要するに
「『サード・ベストのイノベーション』で内需を作り出すことがすべての鍵である」
ということになるのではないでしょうか。
 もっともこれはそのように一言で言うよりも、3つの中味を個別に述べた方がわかりやすかもしれません。つまりそれは、
 @まず日本の場合、それが国内で売れて内需を喚起でき、米国市場に依存しないものであること。
 Aそれが技術思想の革新を伴った「イノベーション」に基づいていること。
 Bしかしそれは「サード・ベスト」あたりが最も有効で、「最善」のものでは間に合わないこと。
ということで、これら3つを備えたものが見つかるかどうかが問題の全ての鍵であり、そこに直接関係ない経済政策は所詮は当座をしのぐ代用品に過ぎないということです。

 ところが以上を踏まえた上でこのステルス・デザインの構想を眺めると、まさにこれはこの大恐慌のために存在しているのではないか、と思えるぐらいに、ぴったりの条件を備えていることがわかり、私自身、少し前までそんなことは予想さえしていなかったことです。そのため恐縮ですが、上の判定基準に照らしながらいくつか能書きを並べてみることにしましょう。

@内需の特効薬=「内需飽和を逆手にとって生まれる需要」

 まず最初に重要なのは、この「ソフトエコー・デザイン化」が基本的に「内需」の掘り起こしに相当していることです。実際、先ほどの例として紹介した建材なども、米国市場ではなく基本的に日本国内向けのもので、そしてさらに注目すべきは、これが従来の内需の飽和を逆手にとる形で生まれる非常に特殊な需要としての性格を持っているということです。
 先ほども、日本にはもうこれ以上何かを売ろうとしても置いておく場所がなく、そのあたりが内需の飽和と海外市場依存構造の一因だと述べましたが、考えてみるとそれはこの狭い国土に米国流の大衆消費社会を持ち込んだことの必然的な結果で、モノが増えるほど都市の狭いスペースをぎりぎりまで使わざるを得ず、そのためデザイン面でも詰め込みに有利な直方体が多用されて、都市全体がそのような白い直角の効率一辺倒の建物で一分の隙もなく埋め尽くされてしまったわけです。
 つまり日本都市空間の息の詰まりそうな閉塞感は、ある意味でその内需の飽和と二人三脚で蓄積されていったとも言えるわけですが、ここでそれを逆手にとって「その閉塞感を消したい」という要求を新たな国内需要として汲み上げることができれば、むしろその飽和に苦しんでいる日本にこそ、最も多くの潜在需要が眠っていることになるわけで、宿命的な米国市場への依存構造から抜け出しやすい形になっているのです。

 そして先ほどの試算では、まず手始めに家やガレージの直角部分を処理するだけでも、大目に見積もると1兆円近い内需が期待できるということでしたが、現在の状況下でさらに重要なのは、それが消費者にとって価格面で最初の敷居が低いことです。
 例えば先ほどのガレージ用建材にしても、最も安いものはせいぜい数千円のものから手をつけることができ、とにかくこの経済状況では、たとえ良いものであっても最初に何十万円ものまとまった投資が必要というものでは消費者がそうそう簡単に手を出すことができないわけで、最初の第一歩のコストが安く、段階的に購入を増やしていけることは、この不況下では何より重要です。
 その条件を備えた上で、長期的に大きな内需を掘り起こすことができるというわけですから、これは現在の状況下ではまさに理想的な条件を備えていると言えるでしょう。

A芋蔓式に広がる消費の発展性

 第二の特徴は、この需要が基本的に単なる単発のものとして終わらず「二の矢、三の矢」が続いていて、末広がり的な消費の発展性を期待することができるということです。
 先ほどソフトエコー・デザイン化の候補としてリストアップしただけでも、ガレージ用建材、マンションの廊下、自動販売機、有機EL照明などが挙げられていましたが、それらはほんの序の口で、ひとたびこれがスタートすればさらに、家電デザイン、都市計画、店舗デザイン等等、その応用範囲の広さは現段階では十分に把握ができていないほどです。
 そしてその経済効果は、先ほどのガレージ用建材などだけに限定しても、うまく行けばそれだけで1兆円近いということでしたが、不動産全体に波及すればそれは一桁大きなものになるでしょう。
 またその範囲の広さだけでなく、消費が芋蔓式につながって線香花火的に終わらないのも特徴で、例えば消費者が最初に安い建材を一つ買って家のどこかに装着し、確かに効果があったということになれば、家の他の部分も改良したいという欲が生まれて、次から次へ購入が広がっていくのではないでしょうか。

 おまけにその芋蔓は先ほど見たように、都市生活空間の中に驚くほど広い範囲に根を張っていると想像されるため、そのどれか一か所から火がつけば、それが全体に波及してさらに予想外の新しい応用が生まれ、連続的に長期にわたってどんどん広がっていく可能性があるわけです。
 そうなれば企業の側も積極的にそれに参加しないと下手をすれば乗り遅れる恐れがあるため、積極的に設備投資に乗り出す可能性は高いでしょう。つまり新しいものが点と線ではなく面をカバーするように登場しうるわけですが、実はこれこそ「イノベーション」特有の現象で、確かにこれは機械や電子機器の技術革新ではありませんが、「物理学を応用したデザイン思想の革命」という点からすれば間違いなく広義のイノベーションで、そしてこれはメディアが思いつき的に仕掛けた単発的なヒット商品では決して真似のできないところです。

B「第三善」と研究開発コストの安さ

 そしてもう一つの強みは、これが研究開発コストが割合安く、また比較的短い時間で市場に製品を送り出せることです。
 実のところ、この「ステルス技術の平和利用」の中味が、意外にも身近な建物のデザインと閉塞感に関する比較的簡単な話であって、何か電波に関するもっと物凄いテクノロジーではないことは、一見すると恐慌を吹き飛ばすためには威力不足のように見えますが、むしろ話は逆で、だからこそ「サード・ベスト」としての強みを持ちえるのです。
 先ほども、電気自動車などは確かに長期的には有望ではあるものの、いわば「最善」や「次善」であるためにかえって現在の状況には間に合いにくいことは述べましたが、それらは研究開発コストの面でも巨額のものを必要とし、今の状況では巨大企業と言えどもそれを新たに捻出するのは資金的に苦しい状況です。

 ところが「都市のソフトエコー・デザイン化」はまさにサード・ベストであるが故に、先ほどのガレージ用建材の例を見ても、その研究開発コストはさほどのものではありませんし、地方の中小企業でもアイデアさえ良ければ十分に参入が可能です。
 そもそも電気自動車に限らず最近の新製品を見てみると、それらはどれも巨額の開発予算を必要とするため、地方の中小企業などはもう最初からそこに参加すること自体が不可能という状況となっており、それがすでに以前から中央と地方の格差を絶望的なものにし続ける大きな要因となっていました。
 それに対してこちらは、首都の大企業と地方の中小企業が、中央と地方の格差と比較的無関係にほぼ同じスタート地点に立ち、国全体が一斉に参加できるという特性を備えているわけです。

エコ経済効果の落とし穴

 実はこの点に関する限り、最善と目されている「エコ」にも大きな弱点があり、そもそもエコは本来それ自体が目的であって景気のために使うというのは邪道といえば邪道で、どうもその矛盾がこの問題にも現れてしまうようです。
 つまり大企業の場合は、エコの潮流に参加するには当面、電気自動車や太陽電池の開発に邁進すればよく、確かにエコ経済は企業の活性化と一致した方向を向いています。しかし地方の中小企業はそんな高度な研究開発には最初から参加できず、また一般消費者のエコへの参加といえばとにかく「節約」ということになり、それは基本的に経済にブレーキをかけて縮小させる方向に向かっています。
 つまり上と下でベクトルが互いに逆方向を向いていて、地方の中小企業などはそれに挟まれる格好になって身動きがとりにくく、エコの推進がかえって格差を広げる恐れすらないではありません。
 実際、オバマ政権の「グリーン・ニューディール」にしても、理屈からすればイノベーションを伴っている以上、長期的には効果はあるはずなのですが、このベクトル不一致の部分が別の形でブレーキとして作用して、結果的に十分な力を発揮できないことは懸念されます。
 それに比べると、「建物の閉塞感をソフトエコー・デザイン化によって減らしていく」という目標の場合はそういう矛盾があまり生ぜず、それでいて長い目で見ればエコとも十分両立します。
 また地方の中小企業も各地域に合ったものをうまく工夫することで、その地で生きていくことが十分に可能であり、少なくとも当面の問題として、国全体が上から下まで一丸となって参加することが遥かに容易なのです。(その場合、県対抗の全国コンテストなどの形で競い合うなどというのも面白いかもしれません。なおそれに関しては《日本の伝統を活かしたソフトエコー・デザイン建材の例》などもご参照ください。)

 要するに以上の難しい三条件がどれもクリアされているわけで、「ステルス技術の平和利用という『サード・ベストのイノベーション』によって、戦争によらずに大恐慌を吹き飛ばす」という構想が、少なくとも理屈からすれば十分成立しうることがおわかりいただけると思います。
 逆に言うと、とにかく現在考えられている他のどの対策も、容易なことではこの三条件を満たすことができず、消去法で残るものがなかなか見つからないというのが現状で、これは日本だけのことではありません。
 その上さらに地方の工場までを動員できるような、手頃で広範な技術革新ということになると、さらに条件は厳しく、そのためこれは「戦争抜きで大恐慌からどう脱出するか」という問いに答えうる現在のところ数少ない候補なのではないかと思えるのです。

不況下での自殺防止効果

 そして単に経済効果だけではなく、こうした建材の工夫が町の景観を変えていくこと自体の心理効果も現在の状況下では重要で、特に建物の閉塞感が人間の自殺心理に与える影響というものは、この大不況下では無視できないのではないでしょうか。
 例えば仕事が見つからない絶望感を抱えて一人暮らしのマンションに帰ってきた人が、蛍光灯の冷たい光に照らされた閉塞感の強い廊下をとぼとぼ歩く時、何かこの世に一切の希望がないように見えて自殺心理を後押しし、場合によってはその最後の一線を越えさせる役割も果たしてというのは十分に考えられるところです。
 一方マンションに帰ってきたら、その廊下がソフトエコー・デザイン化を工夫した建材の設置で、閉塞感が魔法のように消えて温かみと広がり感のある空間に変わっていたとすれば、少なくとも短期間だけはそれを軽減できる可能性はあり、また町全体に対しても、そういう建材の市場が動き始めていることを実感してもらう効果を期待できるでしょう。
 だとすると、最初の着手点としてはガレージや自販機よりも、むしろマンションの廊下こそソフトエコー・デザイン化の優先候補なのではないかと考えられ、そしてこれは精神的な人助け効果も大きいので、現状ではむしろ多少のコストがかかっても行なうべきことではないかと考えられるのです。

実行のための残った条件

 そうなれば、後はもう十分なメディア・キャンペーンを行ってこの新しい考え方を広めること、そしてそれに基づいて新しいデザインを行う人材を十分な数だけ育成することの二つを行えば良いことになりますが、現状ではそれはハードルというよりはむしろそれ自体がメリットとして作用してくるものと思われます。
 まずメディアによる十分なキャンペーンを行うことは、政府が下手な経済対策で予算を投入するより効果が大きく、これをスタートさせるための最も重要な鍵と考えられます。むしろこの場合の政府の最大の役割は「国がこれを本気でやるべきだ」という見解を宣言することにあり、巨額の予算を投入するよりもそのアナウンス効果に期待した方が賢明でしょう。
 とにかくひとたびそのような合意が国民的に得られれば、もともとメディア側にとってネタとして面白く、例えば「過去の名建築にステルス性の観点から光を当てる」などの企画は、将来の希望につながる魅力的な記事や番組となりうるため、政府に言われなくても十分に行うメリットがあるのではないでしょうか。
 また人材育成はもう一つのネックですが、しかし就職氷河状態に悩む学生にとっては、社会全体がこれを大きなデザイン革命として期待することの精神的な支援効果は非常に大きく、たとえ一年目ですぐに雇用に結びつかなかったとしても、学生にとっては新しいデザイン思想の黎明期に参加できることであるため、その要求が存在すること自体が自発的な活力を引き出す力になると思われます。

中国の台頭を見据えて

 さて以上を見る限りでは肯定的な材料が多く並び、もはやそのスタートを妨げる理由は何もないように見えるのですが、しかしこれでもまだ、今の日本でこれを実行に移すのは難しいのではないか、と思われた方もあるのではないでしょうか。つまり理屈としては正しいように思えるのだが、しかし周囲の空気を考えると、自分はこれを支持すると言って手を上げるのはどうも危ない感じがして躊躇してしまうのではないかということです。
 実を言えばここに最後のハードルがあり、それというのもこの考えや理論の場合、その最初の着想自体からして欧米で生まれたものではないため、まだその「お墨付き」がなく、そのことがその躊躇感の原因となっているのではないかと想像されるのです。

 まあどんな学問であれ、その創生期にはおいては必ず少々危険な雰囲気があって、一種の知的騒乱に巻き込まれるリスクを伴うものですが、日本の場合これまではとにかくそのリスクを嫌い、欧米でお墨付きが出て安全になるのを待ってから、それを受け取って安く量産することで世界市場を押さえるという二番手商法をとってきました。
 無論それによって失うものも大きく、この二番手商法の最大の問題は、とにかく一番手だけがもつ「華=はな」がなく、そのブランド力を他国に譲らねばならないことです。(例えば日本の政治家が今さら「エコ立国」などと言い出しても、その国際的なブランド力では北欧あたりが老舗で、二番手から出発してもそれは失笑を買うだけで国のブランドイメージにはなりません。)
 もっともそういう欠点はありつつも、現実にはそれは国内で無用の知的騒乱を避けつつ経済的利益を得るという点で、それなりに成功だったことも事実であり、その成功体験が習性として染み付いていることも理解できなくはないのです。

 ところが今やその成功体験の構図自体が、中国の台頭によって根底から覆ってしまいました。つまり現在では中国がほとんど同じ能力を持って日本の隣で待っており、欧米でお墨付きが出てから同時に二番手商法でスタートしても、価格競争で日本側には到底勝ち目がないからです。
 確かに現在はこの目の前の大不況が問題ですが、それが終わった時には今度は中国などとのもっと苦しい戦いが始まることは必定で、恐らく日本が「世界第二の経済大国」の称号を失うのも数年以内のことでしょう。
 そして予想される中国との価格競争においては、これからは華のあるブランド力を身に着けて主導権を握っていかないと、その不利を補うことは難しいものと思われ、今後中国やインドが台頭する世界で日本が生きていくためには、もはやその二番手商法の成功体験からの脱却はきれい事ではすまない段階に来ています。(それに関連した話題は本サイトでも《インドの数学パワーへの対応と日本史の中の「理数系の頭脳をもつサムライたち」》 などにも述べられており、興味がおありの方はそちらもご参照ください。)

 そのため先ほどの話に戻って、もしこれを見た方の頭の中に「とりあえず支持表明は控えて欧米でお墨付きが出てから動き出せば良いだろう」という思いが兆していたとすれば、それこそまさにその克服すべき過去の成功体験によるものである可能性が高く、それを考えると、むしろこの構想のもつ「欧米のお墨付きがない」ことのハードルをここで超える試みを行うことは、次の時代のための絶好の演習と捉えるべきではないでしょうか。
 実際、もし今後、そのハードルを超えるための何が登場しても、それが役に立つものである限り、どれも大なり小なりこれに似た問題を抱えているはずで、その中ではむしろこれは最も障害が少ない部類に属していると思われます。
 つまり、この構想が日本にとって持つ真の意義は、実はそのあたりにあるとも考えられ、大不況の切り札にするというより、むしろその先を見据えたハードルを越すためにこそ役に立てるべきものだと思えるのです。

 以上、いろいろと能書きを並べてきましたが、いずれにせよあまり難しいことを考えなくても、とにかく周囲の市街地に放置されている「直角の凹み部分」を片っぱしから埋めていくことから始めれば、そこから何かが動き出す可能性は高いものと思われます。

 >> 第1部 1・「ハードエコー・デザイン」から「ソフトエコー・デザイン」へ に戻る.


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