理数系武士団の研究‐‐‐竜馬のファッションは渋谷系か秋葉系か
last update: 2010/09/24
 
■CONTENTS
  
はじめてこの話をお読みいただく方に・・・「理数系武士団」の話の要約
  第1回・なぜ政界からは「現代の竜馬」が出てこないのか
  第2回・竜馬のファッションは渋谷系か秋葉系か
  番外編・もし今、司馬遼太郎が「竜馬が> 行く」を書いたなら「大政奉還」をどう説明したか
  第3回・「竜馬が行く」の面白さは本当はどこにあったのか
 
第2回・竜馬のファッションは渋谷系か秋葉系か
 
 この連載では、内容的に硬軟取り混ぜて肩の凝らない話題も扱うことになっていましたが、前回は多少硬めの話が多かったので、今回は少し趣向を変えて、それとは思い切り逆のやや俗っぽい視点から「理数系武士団・第4タイプ」の周辺に迫ってみたいと思います。
 そしてそのための切り口として、その代表である竜馬のファッションというものが、この観点からすると本当は現在の何に近かったかという、ちょっと面白い視点から眺めてみましょう。
 この話題は、当時の理系おたくたちの姿を通して眺めるとむしろすっきりとした絵を描くことができ、そしてその視点を入れると、話は単なるファッションから思わぬ方向に進んでいくのです。
■ 竜馬の着崩しは本当にストリート系?
 竜馬のファッションと言われて誰でもイメージするのは、ぼさぼさ頭で袴の下にブーツを履き、ふところ手をして少し着崩したスタイルでしょう。そして現在の竜馬ブームの中、その少し着崩した服装を現代のジーンズの腰ばきになぞらえ、それを渋谷のストリート系ファッションのようなものだと考えればどうか、という話がありました。
 要するに竜馬自身を渋谷にたむろする若者の仲間だと考えようということで、一見それなりに妥当な解釈にも見えます。しかしそれを当時の江戸の若者のファッションの実態の中にはめ込んで眺めると、意外にもそれとはかなり違う絵が浮かび上がってきてしまうのです。
 大体、司馬遼太郎の「竜馬が行く」にも彼のファッションに関して「笑うべきことかもしれないが、竜馬ほどのおしゃれはまずすくない。ただ、おしゃれの才能が皆無なだけである」という言及があり、まあ彼のファッションセンスはこの一言で言い尽くされていると言って良いでしょう。
 そんな彼に現代の渋谷を歩かせること自体、この段階ですでに苦しいのですが、それ以前の問題として、そもそも当時の江戸の町人の若者たちの「ファッション命」の話が仰天もので、こうした解釈を根底からひっくり返すようなものだったのです。そこでそれを少し見てみましょう。
■ 当時の江戸のファッション狂想曲
 以下の話は昔、亡くなられた漫画家(というより江戸文化研究家)の杉浦日向子さんが書いておられたことのうろ覚えの引用なのですが、とにかく当時の江戸の若い男の子たちのおしゃれとファッションにかける情熱というのは並大抵のものではなく、その狂想曲は爆笑するような代物でした。
 とにかく当時は全体的にサラサラで薄い感じの清潔な男性が良いとされ、「濃い」顔は人気がなかったようです。そのため毛むくじゃらではモテないというので、男の子たちは脱毛やお肌の手入れにせっせといそしみ、そこに賭ける努力たるや、涙ぐましいほどのものでした。
 また清潔感が命というのですから、当然ながらお口のニオイなどがあっては天下の一大事で、彼らは口臭予防のために日に何度も歯磨きに励みます。
 しかし何しろ当時の歯磨き粉は質が悪くて、すぐに歯がぼろぼろになってしまうため、冷たい水を飲むと歯にしみて激痛で七転八倒し、結局若い男の子たちは皆、少し暖めた水しか飲めないという、実に情けない有様になっていたといいます。
■ 男の子たちの涙ぐましい努力
 そして毛深くてごつい風貌は駄目となると、例えば頭の上に結っているまげにしても、太いものはイケていないというので、なるたけ細くて繊細にすることが競われ始めます。
 それがだんだんエスカレートした結果、とうとう箸1本ぐらいの太さの極細のまげが流行の最先端となったのですが、何しろ箸1本といえば髪の毛を数十本つまんだぐらいの細さですから、そんなものでは髪粉も十分つかず、すぐにばらけて崩れてしまいます。
 実際問題、そんなものを頭に乗せていたのでは、足を一回ドンと踏み鳴らしただけで頭の上でばらりと行ってしまいかねず、今度はそれが崩れないような歩き方を工夫せねばなりません。その結果、擦り足でそーっと歩く特殊な歩き方ならOKだということになり、それを皆で練習したのだそうで、その姿を想像すると悲しいやらおかしいやら、とにかくご苦労様なことでした。
■ イケイケの女の子たち
 それに対して女の子の側は、少しワイルドな方がいいというのが当時の流行で、髪も必ずしも時代劇の町娘のようにきちんと日本髪に結っていたわけではなく、湯上りの洗いざらしの髪をさっと束ねただけで、着物を軽く羽織るというのが当時の流行でした。
 そして言葉遣いも少し荒っぽい男言葉で「てめえ、この野郎!」などと言いながら、なよなよした男を小突くなどというのが、むしろ普通だったようです。まあ早い話、渋谷のイケイケギャルの江戸版で、人間のやることは今も昔も変わらないものだと、つくづく感心させられます。
■ 本当に百何十年前の話?
 とにかくモテることとファッション以外に何の関心もないというのが、当時の江戸の男の子たちの大半でしたが、強いてファッションの次に何があるかというと、それは道具やグッズなどへのマニアックなこだわりでした。
 例えばキセルなどについては、一般には入手しにくい凝った作りのレアものに関して、彼らはとんでもないほどの薀蓄があり、それらをどうゲットするかが、彼らにとって次なる関心事でした。
 そして驚くのは、江戸のどこに行けばそれが手に入るのかということに関して、一種の情報誌までが出版されていたという話で、ちょうど現代の「モノマガジン」のようなものが、この時代にすでに大量に出版されて出回っていたわけです。
 多少うろ覚えで不正確な点もあるかもしれませんが、とにかく全般的にこんな感じで、これは本当に百何十年前の話なのかと驚くほかありません。そんな彼らは恐らく他のことに関心を向ける余裕はなく、あるいは彼らが当時ペリーの名前についてついて本当に知っていたかも怪しいものです。
■ 若い旗本のおバカ武勇伝
 まあこんな具合ですから、江戸に住んでいると学問などをやってもモテる道理がなく、それは町人ばかりではありませんでした。武士であるべき旗本の子弟も「学問より三味線だ」とばかり一斉にそちらになびいてしまい(手っ取り早くモテようと思ったら、今も昔もやはりミュージシャン路線なのでしょう)、学問はさっぱりだがそちらの方はかなりのもの、という若い旗本が大量発生します。
 当然ながら彼らの学問レベルの低下は目を覆わんばかりのものとなって、学問以前の段階として、彼らの多くは漢字がろくに読めず、その有様が司馬作品などでも述べられています。
 例えば彼らは「会津」という字が読めず、幕末動乱の折に彼らがどやどや会津藩邸の前まで行ったは良いのですが、その表札の漢字が読めません。そのため彼らは表札を見上げて、これはカイズと読むのじゃないか、いやクワイズと読むのだといって、結局そこが会津藩邸だということが誰にもわからずそのまま帰ったという、何ともしまらない話が伝わっています。
 また当時の老中の名前も「何のかみ」の部分が読めず、安政の大獄の大老、井伊直弼なども
「井伊掃部頭(いいかもんのかみ)」=「イイホウキアタマ」、また
「酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)」=「サカイガラクガシラ」
という有様で、これではまともな政治論議など出来たものではなかったでしょう。
■ イケてなかった蘭学・洋学
 国を支える高級武士の子弟がこれでは、日本の先行きもさぞ不安だったと思いますが、とにかく普通の教養としての学問さえこの有様ですから、ましてや蘭学や洋学を学ぶなどということが、どれほどハードルが高く、また人気がなかったかは容易に想像できます。
 というより当時、蘭学を学ぶなどということは、あるいはそれを口にすること自体、イケていないことだったのかもしれません。例えば当時の蘭学は人々からは「蟹行文字」と呼ばれており、これはアルファベットがカニが歩いているような形に見えるということでついた、一種の蔑称です。
 要するにそういうわけのわからない文字を読んだり書いたりする集団として、人々は尊敬どころかむしろそれができる人間を危ないおたく集団のように見ていたのではないかと思われます。
 勝海舟の評伝に、彼が若いとき蘭学を学ぼうとして蘭学者の門を叩いたのですが、海舟が江戸出身だというだけで入門を一度は断られたという話があります。しかしこの蘭学者には江戸の若者が蘭学を学ぶということ自体が、ちょうどファッション感覚で「メンズノンノ」片手に3日で数学や相対性理論を習得したいなどという気を起こした勘違い人間のようなものに見えていて、それで海舟を追い返そうとしたと考えると、良く納得が行きます。
■ そんな世界で田舎出の青年はどうする
 以上の話はどちらかというと軟派路線の男の子たちの話でしたが、一方で不良系のスタイルに関しても江戸ではそれ以上に長い伝統があったと思われ、大体時代劇を見ても、昔から遊び人の若者やヤクザ者は頭の上のまげを斜めに結って、だらしなく着物をはだけて歩く姿が一つのスタイルとして確立されています。
 むしろ現在の渋谷ストリート系は、単純に彼らと直接つなげた方が当たっているのかもしれず、少なくとも当時の江戸では不良っぽい着崩しのファッションで目立とうとしても、そちらにもライバルはひしめいていたと想像した方が良いようです。
 そして竜馬の姿をこの中に置いて「竜馬ファッション=渋谷ストリート系説」を検討してみると、とにかく江戸にはそれほど大勢の「ファッション命」の男の子たちがひしめいており(彼も江戸にいたときにそういうものを見ていたはずです)、田舎出の青年が少しぐらい気取って着崩しをしたところで、入り込む隙さえなかったというのが本当のところでしょう。
■ 彼のファッションは「ロケットおたく」のコスプレに近かった
 大体司馬遼太郎の言うように、彼にはおしゃれのセンスは皆無で、誰も彼のいささか珍妙な、袴にブーツを履いた格好自体は真似しようとしなかったのを見ても、ファッションの落ちこぼれであったことは想像に難くありません。
 むしろ彼がブーツを好んだのは、何と言ってもそれが西欧海軍で使われている実用品だったからで、どう見てもそちらへのマニアックな思い入れが先に立っています。
 そして当時の海軍というものが、最新の宇宙テクノロジーのような一面をもっていたことを考えると、彼にとってのブーツは現代風に言えば、さしずめNASAの宇宙用品や米海軍で使っているミリタリー実物をわざわざアメリカから通販で取り寄せたようなもので、周りにどう思われようがそれを身に着けたかったのではないでしょうか。
 そしてそれをコーディネートも考えず、一切アレンジなしでそのままスーツと一緒に着用し、その違和感で周囲がドン引きになる、という状況を想像すると、多分一番近いのだと思います。
 しかし当時の長崎というのは、今で言えば秋葉原のように「何でもあり」の場所だったから、普通ならドン引きのはずの、どちらかと言えばコスプレに近いそういう格好でも町を歩けたというのが、実情ではなかったでしょうか。
 大体彼のファッションというのは、「海軍で使っているものを身に着けよう」というのがどう考えても最大のモチベーションで、例えば亀山社中では白袴を着用していましたが、司馬遼太郎の記述では、それは西欧海軍が白の衣装を好むということから来ていたとされています。  その意味では一本筋が通っているとは言えるのですが、これはファッション感覚というよりは明らかにマニアの感覚で、人からどう見えるかが二の次になっている点では、やはり渋谷よりも秋葉原のマニアのそれに近いように思われます。
■ 長崎=秋葉原説は成り立つか
 ところで先ほど出てきた「長崎が秋葉原のような場所だった」という話はそれ自体、もう少し注目すべきことかもしれません。要するにここで「長崎=秋葉原説」という興味深い話が、まるで瓢箪から駒のようにファッションの話から飛び出してきたことになり、むしろこっちの方が話としては面白いかもしれないからです。
 当時の長崎については、誰しもそこが貿易の窓口として、海外の物珍しいものが並んでいる場所だというイメージは持っているでしょう。しかしどうも長崎というところは単にそれだけではなかったらしく、その雰囲気は横浜や今の横須賀あたりとは随分違っていたようです。  それに関しては司馬遼太郎の「花神」に面白い記述があります。主人公の村田蔵六(後の大村益次郎)が宇和島藩に雇われて、いきなり蒸気船を作れと命令される場面なのですが、何しろ彼は単にオランダ語ができるだけで、基本的には単なる医者に過ぎず、蒸気機関など見たこともありません。
 そんな彼に、手元の蒸気船の図面1枚だけを参考に実物を作れというのですから、藩も実にとんでもない無茶な命令を出したものです。そして彼の他にもう一人、城下に住んでいた町人で提灯の修繕をしていた変人天才が一人いて、二人でそれをやることになるのですが、とにかく二人とも西欧技術の実物については何も知らず、誰に聞けば良いかもわかりません。
 そこで藩は二人に長崎行きを命じるのですが、命じた重役の側にしても、別に長崎にその専門家がいるという確実な情報をもっていたわけでなく、とにかく長崎へ行けば何とかなるのではないか、というだけのことで派遣を決めてしまうのです。
■ 長崎の理系おたくたち
 要するに当時の長崎に対しては「あそこへ行けば何があるだろう」という感覚を誰もが持っていたというわけで、この台詞が何だか現在の秋葉原に対して使われる言葉を連想させるのです。そしてその時の記述が面白いので、司馬「花神」の中からちょっと引用してみましょう。 ・・・長崎には科学狂とでもいうべき閑人が多くいて、ちょうど隠居が俳句をひねったり盆栽をやるようにして化学実験に熱中したり、数学を道楽にやったりしている。・・・
■ そして例えば
・・・「ブリキ坊主」という町寺の僧がいて金属に詳しく鉄板にスズをひいてブリキを作っている。またドンドロスという手榴弾の製法に通じている町の僧もいれば、両突フイゴで鋳物を作ることの上手な閑人もいる。・・・
 という、まるで「大人の科学」というか、電子部品のジャンクに埋もれて暮らしているような一角が町中に存在していたというわけです。
■ 彼らが歩ける町だったことを考えると・・・
 そしてそういう理系おたくと海外の珍妙な文物がごった煮のようになっていたのですから、現代の日本でそれに近い場所を探すと、やはり秋葉原しかないのではないでしょうか。(だとすれば、現在の大河ドラマで蒼井優さん演じる長崎の芸者「お元」は、さしずめメイド喫茶の女の子?AKB48?いや、さすがにそれは行き過ぎかもしれませんが。)
 それはともかく、少なくとも当時の長崎がそういう「理系おたくの町」としての一面をもっていたことだけは、上の証言からも確かなのですから、身なりの点では何か相当にイケていない格好をしていても、平気で歩けそうな雰囲気が何となく想像されてきます。
 要するにそういう雰囲気の中でこそ、竜馬の袴にブーツという(結局あまり流行らなかった)スタイルが生まれたと考えると、どこか納得が行くのです。
 そしてそう思って眺めると彼のぼさぼさ頭も、ロケットに熱中して秋葉原で部品を探し回っている人のそれに似たものに見えてきて、ファッションやその場所までも含めて全部がぴったり一枚の絵にまとまるってくるから不思議です。
 そこからさらに延長して考えると、もし現代世界で竜馬の行動に最も近いパターンをとろうとしたなら存外、秋葉原を長崎の要領で使うということが、あるいは一つの重要な条件となっているのかもしれず、そこは十分に注目すべきことでしょう。
■ 歴史家は主役を交代させた
 さてそのように蘭学・洋学の青年たちは一般社会では、一種のおたくとしてやや不当な待遇を受けたまま幕末を迎えていたと想像されるわけですが、その後の歴史は彼らの立場を一変させます。
 当時の江戸の「ファッション命」の若者たちは、まさか蘭学や洋学をやっていたイケていない青年たちが歴史を動かすなど、想像もしていなかったでしょう。一方逆に彼ら江戸の「イケていた」若者たちの側は、幕末維新の歴史に事実上全く参加できず、また文化的にも何か残るものを生み出したわけでもないため、いわば「無の存在」としてそのまま歴史の中に消えて行きました。
 そして歴史家たちが当時のそんな世相自体を恥に思ったのか、彼らはあたかも存在しなかったもののように扱われ、記述の中からも抹消されていきます。確かにもし日本人全部がそういう風だったなら、日本のその後の運命も列強に分け取りにされた他のアジア諸国のようなものになっていたはずで、その扱いは基本的にはむしろ正当なことだったと言ってよいでしょう。
 しかしそれがあまりにも徹底していたため、当時の理数系武士団がどういう境遇にあったかが、皮肉なことにかえって不鮮明になっており、現代において再び同じような状況が生じていても、われわれはそれが実は日本史ので繰り返されてきたパターンなのだということがわからなくなっている可能性があります。
 そのため現代の史家は、それを折に触れていろいろな角度から指摘し直すことが必要になっており、そしてそれを行った一人が他ならぬ司馬遼太郎だったのではないかと考えられるのですが、それについては次回以降に語っていこうと思います。
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