実のところ今まで私は、太平洋戦争に関するシミュレーションというのは、それほど真剣にやるつもりはなかったんです。ところがどうも、先日アップした知的制海権のための作戦計画案を振り返ってみたところ、どうもパターン面で共通している部分がかなりあって、それが結構馬鹿にならないぐらいのものであるらしいことがわかってきました。そうなると完全に無視しておくというわけにもいきません。
それにまた一般的な問題として見ても、とにかく社会全体で、太平洋戦争というのは何をどうやっても勝つ方法はないというのが完全に常識に化してしまっていて、国家戦略を考える場合にそこで思考停止に陥ってしまうことが多いように思えます。
ところが例の知的制海権のための作戦計画論のパターンを逆に太平洋戦争に適用してみると、実は太平洋戦争の場合にも非常に大きな盲点があって、意外や意外、そこを突く戦略をとれば、あの悪夢の太平洋戦争にも勝つ方法があり得たのではないかという、驚天動地の結論が導かれてきました。(しかもほとんど無理な設定なしでです。)
まあ太平洋戦争に勝つ方法があったなんていうと、世間的にはそれだけで頭がおかしいと思われることが多いんで、ちょっと公言のはばかられることではあります。(笑)
そんなこともあって、現時点ではあまりそのシミュレーションに深入りするつもりはないんですが、それでもどういう思考パターンをとればいいのかということを覚えておくこと自体は、非常に重要なことだと思うんで、敢えてやっておきたいと思うんです。
さて先日アップした知的制海権のための作戦計画案だと、その主眼は、こちらの主力を常識で考えられるように東(米国側)に向けることをせず、全く逆の西に向け、そして初期段階に初手でそこに拠点を築いてしまうということにあるということになっていました。
ところがこれ、実は太平洋戦争の時も似たような構図があって、まず当時も常識では東、つまり海軍は上から下までやはり主力を東の太平洋側へ向けてアメリカの方へ押していくという固定観念に支配されていました。
これは現在の戦史家やシミュレーションの常識でも依然としてそのままで、当時も今も、とにかく日本海軍は太平洋でアメリカ艦隊を撃滅すると、もうそのこと自体が半ば戦争目的と化していたわけです。(図1)
(図1)
で、すべての戦略はそれを念頭に立てられていたんですけども、ここで私はちょっと、ひとつ、第二次大戦の場合、むしろ西に戦略上の巨大な盲点があったということを指摘したいんです。それというのも、実は当時インド洋には、連合軍の重要な動脈が3本通ってたんです。
それはまず一つは北アフリカのロンメル軍と戦っている英軍、そのアレクサンドリアに対する補給線というのは実は喜望峰回りでこのインド洋を通ってたんですよね。
それからもう一つは、当時ソ連はスターリングラードでドイツと戦ってる最中でしたが、そのときのソ連に対する連合軍からの援助ルート、これが実はイランを通ってたんです。
それからもうひとつは蒋介石軍と日本軍が戦っていたときに、蒋介石軍に対する援助ルートが実はインドとビルマと、ここら辺を通ってたんですよね。
ということは、もし日本海軍がここ(インド洋)を制圧してしまったならばこの3本のルートが同時に、遮断されてしまうことになるわけですよ。
仮にそうなった場合、まずアレクサンドリアは確実に落ちてしまうから、中東全体がドイツの手に落ちると。それからスターリングラードもソ連は支えきれるかどうかわからない、つまりこの時期にインド洋の動脈を徹底的にやってしまうことが、実は第二次大戦全体を左右しかねない巨大な鍵だった。これが実は今まで軽視されがちだった盲点なんです。
(図2)
では具体的に日本としてはどうすべきだったかというと、まあ、ハワイ、真珠湾攻撃をやるところまではそのままで、とにかくシンガポールまでを取るところまでは、史実どおりに進めてOKです。つまり時期的には1942年の2月ごろまでは史実のままでいいですが、問題はそこから先です。
この時点でまだ日本は6隻の空母を持ってましたけども、現実の歴史ではこの時点で日本は引き続きそれを東の米海軍に向けるつもりでしたし、アメリカもそう思っていたわけですよね。
しかしこの場合、日本としては東への進出はこれで一応停止し、むしろ東では徹底した防勢に移行するべきだったというのが、まず重要な一点です。
つまり占拠した島に飛行場を作ってひたすら防備を整える。島の航空基地というのは空母に比べてコストの割に防御能力は強力ですから、マリアナまでの一列に並んだ島を基地化すれば、そこに米艦隊が入り込めないようにすることは十分可能です。
でまあ、おまけとして、やはりニューブリテン島のラバウルとか、ここらへんの、割と楽に取れるところまでは取っといて、これはアメリカ艦隊を半年程度阻止できる時間稼ぎの武器にしておきます。まあ史実でも2月までには大体ここらへんは制圧されてますが、別に死守することは考えず、いざとなったらじりじり後退しながら半年ぐらい向こうの前進を遅らせるために使うということですね。
で、こういう風にして東に対する防備を固めた上で、日本は艦隊、というより攻勢そのものの主力を全部徹底して西へ向けるべきだったというのが、実は私の考えた太平洋戦争の最大の鍵なんですよね。(図3)
(図3)
つまりこの有利な時期に、初手でとにかくインド洋上の島をいくつか取ってしまって、そこを航空拠点として確保してしまうわけです。モルジブとかディエゴ・ガルシアとか、まあ島の候補はいくつか考えられますが、例えば、モルジブの南端にあるアッズ環礁って奴をまず取ってしまうと。
大体当時の常識では、米海軍側としても日本は東の太平洋へ来ると思っていたでしょうから、主攻が西へ向けられるというのは、それ自体が一種の奇襲です。
おまけにこの時期のインド洋のイギリスの空母部隊っていうのは、何せ艦載機が複葉機という有様で非常に弱かったですから、多分日本の空母6隻がここへ本気で来たらイギリス空母の力ではまず、防げるもんじゃなかったはずで、まずこれは1か月や2か月で確実に落ちていたでしょう。
そして、続いてもしも余裕があったならば、一応セイシェルまでを取っておくと。するとどうなるかっていいますとですね、大体この緑の輪で囲ったぐらいの領域が、日本の海軍の航空機の覆域に入るんですよね。ということは、アッズとセイシェルを取ってしまえば、もう、ユーラシア大陸の南岸への重要なルートへの接近路がほとんど完全にふさがれてしまうわけですよね。(図4)
(図4)
これを大体42年の5月までに出来たとすれば、その頃はまだ、ロンメル軍も元気だったし、スターリングラードの戦いもまだ始まっておらず、ソ連がウラルに疎開させた工場の生産立て直しに必死になっているころですよね。
そしてこのインド洋ルート遮断作戦には実は、ある意味でそれよりももっと重要なことがあって、それはこれで英本土インド自体との連絡が連合が絶たれてしまうということなんです。つまりこの段階からもうインド陥落ということまでも視野に入ってきちゃうわけじゃないですか。
この時にイギリスの立場からするならば、まず、このアフリカ戦線への補給が途絶してそこが陥落する。それからソ連が脱落するかもしれなくて、そしてインドを失ってしまうかもしれない。実はこの最後のこれが一番決定的なんです。
・
講和相手の選択
そしてこの戦略のもう一つの大きな特徴は、講和相手の主体をアメリカではなくイギリスに狙いを絞るということです。
私は、当時はアメリカに対して講和を持ち掛けるってことは絶対不可能だったと思うんですよ。なぜならアメリカは10倍の国力を持ってるから、時間さえかければ必ず日本側を圧倒できるということを知ってたわけですよね。時間が味方についてると思ってるからアメリカ側は絶対講和に応じない。
その代わり、そうじゃなくて徹底してイギリスに講和を持ちかけて、いわば連合国側の弱点から、なし崩し的に休戦状態に持ち込んでしまうということ、これが唯一の策だったと思うんです。
まあイギリス側に持ちかける条件としては、もし講和が成って米国との休戦も実現するならば、その時点でもう日本としてはナチスドイツとは手切れでいい。つまりまあ少々節操がないですが、ナチスドイツとの同盟を解消して、一気に寝返って日英同盟復活でもいいというわけですよね。
そして日本側の主張すべき条件は、石油の確実な確保です。つまり例えば、オランダ領の植民地とその石油は日本が頂く。それから、石油を安全に日本に運ぶためのシーレーン防御拠点のいくつかを頂く。
そのかわりシンガポールをはじめ、もと英領だった部分の占領地は、その時点から5年後ぐらいまでにイギリスにほとんど正式返還する。ただ軍事的な重要拠点は、戦争期間中は日本が保持するが、日英同盟という新しい枠組みができれば、その中で、戦争中でも英海軍、英空軍にそれらを同盟国として使用することを許可します、という条件で、さあそちらさえ良ければこちらはナチスと手切れしますけどどうしますか、とイギリスに迫るわけですよ。
そして無論、これが拒否された場合には、日本はロンメル軍に徹底的に協力してスエズを落とし、イランとその石油も共同で英国からもぎ取り、一方中国から引き上げた陸軍をインドに投入し、英国からインドを永久にもぎ取る作戦を本格的に実行する体勢に入るわけです。
それはあるいは最終的な結果として日英共倒れという結末で終わるのかもしれませんが、どのみち実際の歴史でも英国は米国の外交に乗せられて日英同盟を切って日本との潰し合いを演じ、ある意味で実質的に第二次大戦最大の敗戦国になってしまったようなものなのですから、このさい共倒れを覚悟の上で英国にそれを迫るというのは、日英双方から見ても必ずしも外交上、非理性的な行動とは言えません。
その場合やっぱりイギリスとしては、今、日英同盟を結ぶことができれば、一応ここの脅威というのは全部なくなって、対独戦に集中できるわけですよね。で、ここら辺のルートも全部通れるようになるわけですから、インドを保持した上で、第2次大戦にも勝つことができるようになることができるかもしれない。
この場合、とにかくインドを失うということに関して、イギリスとアメリカの間ではその反応に相当な温度差があって、とにかくこれはイギリスにとっては最大の死活問題なわけですよ。実際インドを失っては、たとえドイツに勝っても戦争に勝ったかどうかは疑わしくなるほどで、講和への動機としてはこれだけでも無視できないものがあったと思います。
しかしアメリカとしては、イギリスにそんな講和に走られてはかなわんというわけで、とにかくアメリカ海軍が全力で支援するからそんなことはしてくれるなと、多分そう言ってくるはずです。そうなれば戦略は第二段階というところでしょう。
要するに、アメリカが、米空母がインド洋の日本空母を撃破するから、そんな講和に走るなと要求し、イギリスとしては本当にそれをやってくれるならということで、当面は講和を思いとどまる。ただし、それができなければその時はこっちにも覚悟がある、というわけで、インド洋での決戦が外交上の鍵になるという構図です。
・作戦の第二段階
そしてこの第二段階に突入した場合、そこでの大きな戦略上の鍵になるのが、実は、日本はシンガポールを中心とした内線作戦をとれるということです。つまり日本海軍は6隻の空母をここに集中させて、インド洋方面と太平洋方面のどっちへも出られる有利な体勢を占められるということです。
逆にこれを米国側から見ますと、アメリカとしては太平洋を空にするわけにはいきませんから、ハワイあたりの太平洋にはやはりどうしても2隻は空母を置いておきたい。ところがこの空母がインド洋に行くためには、オーストラリアの南を大きく迂回していかなければならず、シンガポールから最短距離でどっちにも出られる日本側に比べて大きなハンディを負っていることになります。
オーストラリアを迂回している時に無防備の太平洋を日本側に突かれたら大変ですから、結局この2隻は、不利を承知で太平洋に張りつかせておくしかなく、結果的に米空母は太平洋とインド洋に二分されてしまう構図を強いられる公算が高いでしょう。
で、アメリカとしては当時、正規空母を一応6隻ほど持ってましたけども、1隻ぐらいが損傷していると考えると、まあ実働で5隻、そしてそのうちの2隻を太平洋に貼り付けておくとなると、インド洋に割けるのはがせいぜい3隻が限度だと思うんですよね。
(図5)
まあイギリスも空母をもっていますが、もともと弱体ですし、セイシェルを巡る戦いのあたりで1隻か2隻沈んでいる可能性もある。また地中海のマルタ島も危ないとなれば1隻か2隻はひょっとしたら、地中海へ置いておかなければいけない、となると、米英合わせてインド洋にはやはり3隻展開が限度と見ていいんじゃないでしょうか。
で、この時にまだ日本軍は6隻持ってます。(ミッドウエー海戦なんかは最初からやらないわけですから。)まあ、もし不幸にして1隻損傷していて修理中だったとしても、5隻活動できると考えていいでしょう。その場合でもとにかく5対3ですから、よっぽどのへまをしない限り負ける戦いじゃありません。
実際ランチェスター法則を普通に適用して計算すれば、アメリカ側が3隻全滅の時点で日本側には4隻残る計算になります。
ですがここはもっと思い切り辛く採点して、日本側が2隻喪失で、アメリカも2隻喪失ぐらい、そのぐらいの結末になったとしましょう。
しかしこの場合でさえ、この時点でインド洋には日本側が3隻、アメリカ側が1隻を展開可能ということになります。しかしこれでは、アメリカ側がその目的を達成できず、イギリスのシーレーンが遮断されている状況を打開できないということは明らかですから、たとえ戦術的に引き分けでも戦略的には勝負あったというところでしょう。
とにかくアメリカの巨大な工業力をもってしても、現実に新しい空母が就役するのは翌43年の中頃あたりですから、それまでイギリスは何もできずインドの陥落を指をくわえて見ているしかないわけです。
それともう一つ、細かい問題なんですけど、実はこの状況だと、現実の歴史では無用の長物だった日本の戦艦が、かなり役に立つ局面が生まれてくるんですよ。
それというのも、シーレーンを遮断する際には、何と言っても戦艦が海の真ん中に居座っているというのが一番効くんです。それは実効性よりも多分に心理的な問題で、潜水艦の脅威があるぐらいだと、そこに護送船団を強引に送り込んで強行突破するということも行われるんですが、強力な戦艦が腰を据えているなると、しばしば海軍本部が最初から護送船団の派遣自体を断念してしまい、結果的に最も効果的にシーレーンを遮断できることが多いんですね。
それにまた、何と言っても戦艦の「見た目」のプレゼンス効果というのは大きくて、イギリスから見るとそこに日本の戦艦群が居座っていることは、イギリスの権威を刻一刻失墜させて、インド内部の独立派を力づけてしまうのではないかという強迫観念になってきます。
要するにここに戦艦群を置いておくと、それだけで相当な心理的圧力をかけることができるというわけです。
とにかくアメリカがもうこの状況で日本をインド洋から駆逐することに失敗した以上、このインド喪失秒読み状態の中でイギリスが講和に動くのを止めることはかなり難しくなってくることは確かです。とにかくイギリスとしては、戦争に勝ってもインドを失っちゃえば、もう、勝ったことにならない訳ですし、それは一旦失ってしまえば戦後にアメリカに泣きついても戻ってこないと考えるべきものです。
おまけにこの頃は地中海のマルタ島やアレキサンドリアも陥落寸前の有様で、2方向からの陥落秒読みとあっては、さすがのイギリス人の粘りをもってしてもちょっと限界というところでしょう。
だから、この戦略でやると、1942年の8月かそこらまでにはイギリスとの講和を通じて、なし崩し的に休戦を実現できていた可能性はゼロではなかったと思います。
これがもし翌43年の中頃以後にまでもつれこんだとなると、さすがに国力差というものがどうしようもなく表面化してきて、日本側にはもう成功の見込みは全くなくなりますが、秒読みの力を最大限に利用してこの時期までに片をつけられれば、勝利の可能性はそれなりにあったと言えるでしょう。
無論これを行うためには、開戦前から中立国を通じてイギリスとの外交チャンネルをあらかじめ温存し、それをナチスドイツに察知されないようにしておくという、スパイ小説顔負けの高度な外交謀略の周到な準備が必要ですが。
考えてみると、日米開戦自体、もともと英米首脳は、何とかしてアメリカを対独戦に参戦させる手段を見つけようとして必死になっており、そしてヨーロッパから見れば一種の裏口である対日戦というものから入る形で対独宣戦を可能にしていました。
で、今回は日本がその逆を行い、イギリスという裏口から入る形で、対米講和を可能にするというわけです。
こうしてみると、日本はまるで回転ドアを回すみたいにして、アメリカを対独戦に参戦させる一方、日本自身は逆にドアを一回転させて反対側から外へ出てしまうという、奇妙な歴史的役割を果たすことになるわけです。
これはちょっと日本人の思考パターンにはないアクロバットかもしれませんが、しかしアングロサクソン外交の常識に照らせば、むしろ普通の発想、というより、このぐらいのことを考えられないようでは最初から彼らと張り合うのは無理だったと言えるのかもしれません。
一方またこれは日本の国内問題として、陸軍に対しての国内政策の意味もあります。つまり関東軍をどうやって説得するかという問題なのですが、この場合、やっぱり陸軍を最低限、満州内部にまでは退かせないことには、いくら何でもアメリカ側が講和に難色を示したと思います。
そこでこの場合陸軍に対して、海軍の力で蒋介石支援ルートをインド洋から絶つという方針をとるから、直接攻撃はもういいだろうと言って陸軍を説得する一方、インド作戦に備えて待機という名目で、中国本土から陸軍を引き上げてしまう。
さすがに関東軍に対して、満州を放棄せよ、っていうのは、そりゃ無理だったと思うんです。ただ関東軍はじめ日本陸軍が、中国本土からは撤退してとにかく満州の中に引っ込むって条件であれば、アメリカとも何とか講和を結べた可能性は十分あると思うんです。
そうやって中国から一旦兵を引けば、多分すぐに中国国内で毛沢東と蒋介石の内戦が始まるでしょうから、無理に蒋介石に攻撃を加える必要など自然に失せていくでしょう。
まあアメリカに講和を納得させるには、もう少し色をつけてやることは必要で、どうせいらないマーシャル諸島なんかはアメリカに譲る、それからラバウルあたりをまだもっていたら、とにかくシーレーン防衛に関係ない島なんかは全部アメリカにやってしまって、勝ち負けのイメージをうやむやにしてしまう。
まあこのときアメリカとしては、ナチスドイツが片づいたら、その後で2年ぐらいして日本ともう一度戦争をやってこれを取り返せばいいやぐらいに考えて講和に応じると思うんですが、現実にはそうやってるうちにソ連の脅威というものが大きいってことが明らかになって、リターンマッチは取りやめ、ということになった公算は大きいと思います。
そうやってやってみると日本としては、最終的には東南アジアの石油と満州を抑えることができて、シーレーン防衛体勢も確保できる。また日英同盟を復活できた上に、インドに対するある程度の権益も確保できる。これは日本にとっては十分に勝ちですよ。
ただ強いて言うと、歴史の後知恵から見たときのこれの唯一の欠点は、ちょっと皮肉なことなんですが、負けの体験学習ができなくなるってことなんですよね。実は当時の日本の工業技術体系は、例えば部品の規格化という思想がないとか、エレクトロニクスが弱いとか、そういう根本的な欠陥を抱えていました。そして太平洋戦争は、その弱点を一挙に暴露させることで、結果的に巨大な学習効果を日本に与えたんですね。逆に言えば、太平洋戦争の技術的教訓がなければ、日本の技術が現在の隆盛を極められたかどうかは疑わしいと私は思っています。
つまりあの時なまじうまく勝ってしまっていると、その教訓が得られずに、次の経済戦争で負けることになった可能性があるという、実に皮肉な結果が予想されるんですけども、まあそこまで考えない限りはこれはベストの選択だったと思いますね。
まあそれはともかく、大体今までの一般常識からすると、太平洋戦争なんてのはもう何をやっても負けるしかない、勝つということは絶対にあり得ない戦争だというのが常識として定着していたんですが、この戦略でやってみる限りは必ずしもそういうわけではなく、何とそれなりに五分五分で勝利に持ち込む方法がちゃんと存在していたという、実に驚天動地の可能性が出てきたわけなんです。
こうなってくると、これはもうお遊びといって片づけるわけには行かず、それというのも、やっぱり国にとって過去の歴史のどうしようもなかった時期に、後知恵でもいいからそれでも一応どうすべきだったのかという、模範解答をちゃんと一通り知っていることは大変重要だと思うんですよ。
そしてどうも太平洋戦争に関する限り、今までそういうものがあったとは言い難い。太平洋戦争に関しては、一つの決まり文句として、日本は絶対に戦争をすべきじゃなかった、ていうことが言われていますけども、しかし果たしてそもそもそんなことは可能だったのか。つまり日本側が望みさえすれば戦争を回避できたものなのかということ自体が大問題です。
そしてここで私はイラク戦争を思い出すんですが、あのときに、アラブの新聞に風刺漫画が載ってて、それが傑作でした。ブッシュ大統領が花占い、要するに「愛してる・・愛してない・・」というやつをやってるんですが、彼が花びらをむしりながらつぶやいてる台詞が「イラクを攻撃する…イラクを攻撃する・・」(笑)
つまり私に言わせれば、太平洋戦争の時もやっぱりイラク戦争の場合と同じで、どう考えても当時アメリカ側が日本に対して何が何でも戦争をやるつもりでいて、そのために外交的な無理難題を吹っかけていたとしか思えないんで、日本の意志で避けるなんてこと自体、そもそも最初から不可能だったとしか結論のしようがありません。
そのため最初からあり得ない結果を解答にしているために、ここで戦略論議がいつも袋小路の思考停止に陥っているんですが、とにかくもし戦争を避けることが最初から不可能だったのだとすれば、やむを得ない選択として、戦ってそれなりに負けない戦略を一つの解答例として見いだしておくというのは、思考停止に陥らないためにも大変に重要なことです。
実際問題、「戦争はしてはならなかった」という処方箋が、実は日本側の選択肢としては最初から存在していなかったとのだすれば、沖縄戦の「ひめゆりの塔」の悲劇、さらには東京大空襲や原爆の悲劇なども、それらを避けるための処方箋は実は結局はこれしかなかったということになってこざるを得ないのではないでしょうか。
そしてあらためてその戦略の盲点というかポイントを再度整理しておくと、まず日本としては兵力を東へ向けるんじゃなくて、太平洋では基本的に防勢をとる一方、すべてを西へ向けてインド洋で攻勢をとり、初手で拠点を確保してしまって、連合国側の生命線たるこの3本の動脈を脅威する。そしてインド陥落を秒読みに入れながらアメリカではなくイギリスに講和の圧力をかけていき、相手側の戦力増強が本格的に始まる前の1942年の時点で、なし崩し的にでも良いから、一応連合国との休戦に持ち込み、その後は日英同盟の復活ということに力を入れる。まあもともと日英同盟を切ってしまったことは、英外交史上最大の失敗と言ってもいいことでしたから、長い目で見ればこれは向こうにとっても不自然なことではありません。
一方海軍の軍事作戦という観点からしても、当時の日本海軍はせっかくシンガポールというところをとりながら、シンガポールを中心とした内線作戦を取ろうとしなかった。だからみすみす3本のその動脈への締め上げも、イギリスという最大の弱点も、シンガポールを中心とした内線作戦の利益も追求しなくて、シンガポールを落としたところまでは大したもんでしたけども、そのあとは明確なゴールもなしに単に東へひた押しにしていくっていう戦略しかなく、講和も米国内の厭戦気分頼みだった。
実際こうしてみると、日本海軍の発想のどこに欠点があったのかが、あらためてよく浮き彫りになってくると思います。
しかしそれにしても、前回に無形化した形での知的制海権のための作戦計画と比較すると、押さえるべき基本パターンがあまりに似ていることには驚かされます。そうしてみると、これについてあらためて考えることは、お遊びどころか国全体にとって大変基本的で重要なものを秘めているような気がしてなりません。
ですから本当にこれで勝てたかどうかということは一応別問題としても、一つの解答例としてこのパターンは是非頭の中に叩き込んでおいていただきたいと思います。
まああまり精密なシミュレーションを行ったわけではありませんし、それに深入りするつもりもないんですが、できれば将来どなたかに本格的なシミュレーションをやってもらいたいとも思っています。
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・この戦略構想の内容を振り返って (20130905加筆,20130909再加筆)
今回、思わぬ形で、十年近く前にアップされていた太平洋戦争の戦略に関するコンテンツが再び注目を浴びたようで、世の中予想もできないことが起こるものです。〔はてな反応〕〔Twitter反応〕
中にはいくつか批判もあったようですが、批判の中には有益なものも含まれており、最初のアップからかなり時間が経っていることもあるため、良い機会ですから再整理の意味も含めて、それらのいくつかを見直すことを以下に行ってみたいと思います。
そして今から振り返ると、自分はもともと海軍に関する知識については、帆船時代からの英国海軍について、外交と経済の関連から理解することが中心になっていて、そのせいかこのプランもどうもそのテイストが紛れ込んでいたようです。それはともかく、この戦略の眼目を三点に整理すると、次のようになります。
この戦略の最大の眼目
この戦略を考える上での最大の注目点は、英国と米国の国益はヨーロッパ方面では完全に一致していたが、太平洋方面では必ずしも一致していなかったことに着目し、そこを突くことにあります。
英国にとって対日戦の意義は、要するに裏口から米国を第二次大戦に参戦させて欧州方面に引き込む、というただ一点にあり、その後は対日戦が少しでも長引けば英国には不利になってしまいます。(たとえ失ったものを取り返すにしても、それは結局英国には戻ってこずに米国のものとなってしまうでしょう。)
つまり英国にとっては、一旦米国が欧州戦に参戦してしまえば、後はなるたけ良い条件で早期に対日戦を終わらせることが英国の国益である一方、米国にとっては長引けば長引くほど英国が持っていた権益を米国のものにでき、それは一枚岩ではありません。
第二は、シンガポールという「中央位置」を最大限に活かして、米艦隊を戦わずして太平洋とインド洋に二分させるということです。そして一見セイシェルなどは物凄く遠い位置に見えますが、シンガポールを中心位置として眺めると、実はシンガポール=セイシェル間の距離は東京=ハワイ間の距離より短く、それを考えると距離的にそう無謀とも言い切れないことがわかります。
第三は、当時英国が置かれていた切迫した状況、つまりアレキサンドリアとマルタ島が陥落する前に決着をつけねばならない、というタイムリミットを最大限に活用して、その切迫感を講和への強力な動機につなげることです。
そして米国としても、英国の主張するこの厳しいタイムスケジュールに従うことを強要されるはずで、おまけにこの地域は距離的に米国本土から最も遠いため、時間と距離の両面で参謀業務が忙殺される状況に追い込んで、戦略能力を削ぐことが期待できます。
とにかくこのタイムリミットゆえ、英国としてはどうしても1942年中に決着をつける必要があり、そして米国の物量が物を言い始めるのは1943年後半以降ですから、それを使って物量の壁を破ることは十分期待できます。
(なお、アップされた案では中継点の基地はモルディブを考えていましたが、どうもそれはむしろディエゴ・ガルシア島一本に絞ってしまった方がよさそうです。)
先ほども述べたように、私は海軍史の知識については帆船時代の英海軍などが中心で、それに比べると日本海軍そのものの戦術的な面に関する知識については相対的に少なく、強いて言えばシーレーンと潜水艦戦について多少調べたことがあるぐらいで、ツイートされたほとんどの方は私よりそちらの知識は上回っているものと思われます。そしてこのプランにしても、どちらかといえば外交を軍事より重んじる傾向が出ているため、軍事だけの興味から見ると、少々物足りない面もあったかもしれません。
では批判された点についていくつかコメントを。
補給線の問題について
まあこれだけ広い場所に進出するとなれば、補給が破綻するのではないかと疑われるのは、常識から考えてむしろ当然のことと思われますが、前提条件が完全に変わってしまうので、一から検討し直す必要があります。
まず、とにかくこのプランの最大の眼目は、1942年中に決着をつけ、外交的に「回転ドア戦略」で米国を欧州戦に引き入れた後、日本は戦争から外へ出てしまうことにあります。そして現実の日本のシーレーンのデータを見ると、日本は開戦時に500万トン台の船腹を保有していましたが、1942年中には500万トン台をずっと維持しています。
それが500万トンを切るのは、翌1943年の3月になってからで、1942年中に話を限定するなら、そもそも開戦時の船腹を下回り始めるのが42年の11月に入ってからで、それまでは余裕があったわけですから、「42年中に決着させる」という前提が満たされる限り、シーレーンはほぼ完全に維持できることになり、それは常識から想像されるよりは致命的な障害にならないことがわかります。
マルタ島との類推
また、このためにどの程度の船腹が必要かを考える際、要するにセイシェルとディエゴ・ガルシアの2島に関して、地中海でのマルタ島と同程度の補給が維持できればこの戦略は成り立つ、ということを前提に、そのデータを参考にしています。
しかしマルタ島の基地機能維持のために必要だった物資の純粋な量そのものはそんなに多くはなく、「オハイオ」というタンカー1隻が独軍の攻撃をかいくぐってたどり着いたことで、マルタ島の基地は相当に活動を維持できた、などというデータがあります。
またマルタ島には当時25万の島民がいて、その1か月分の生活物資の補給に大型貨物船3隻が必要だったとのことですが、ディエゴ・ガルシア基地などの場合にはその分がほとんど必要なく、そのため両島合わせて1か月あたり3〜4隻を稼働させれば十分ということになるでしょうか。
一方距離的な面では、シンガポール=セイシェル間の距離は、意外にも東京=ラバウル間の距離とほぼ同じぐらいで、そのため当時の日本がこのシーレーンの確保維持にどの程度の労力を要したかは、ラバウルのそれを振り返ると、見通しをつける参考材料の一つとして有効かと思われます。(ちなみに、英本土・米本土からセイシェルまでの距離も求めて比較してみても面白いでしょう。)
それを考えると、このシーレーンの最大の脅威は恐らく英潜による攻撃ですが、それを考慮しても1942年中の船腹500万トン台の維持は決して困難ではなく、この2島の基地機能の維持はそのうちのほんの数隻を割くだけでできるため、補給の問題は意外や意外、それほど致命的なものにはならないと予想されるわけです。
ただし無論、もし講和が成らず1943年の末になっても、まだずるずる続いてしまうということになると、当然この長いシーレーンは成す術もなく寸断され、セイシェルとディエゴ・ガルシアの守備隊も悲惨な玉砕を強いられたはずで、そこは批判の通りです。
シーレーン問題に敏感な英国
そしてこの場合、英国が講和の必要性をどの程度切実に感じるかということが最大の問題となりますが、要するにそれはアレキサンドリアおよびインドへのシーレーンが遮断されるということが、どの程度の深刻さで受け取られるかということです。
しかし英国の場合、シーレーンが遮断されることを国家の重大問題と考える習性の強さは、日本人の想像を遥かに超えるもので、それは独戦艦「ティルピッツ」1隻が大西洋をうろつくだけのことを、英国があれほど深刻に捉えていたことから想像できます。
その点からすると、むしろ大和などはそのために使った方がよほど役に立ったかもしれず、あれをインド洋でうろうろさせてその情報を故意に英情報部にリークすれば、日本側が想像する以上の精神的圧迫を英政府に加えることができたかもしれません。
もっとも、現実には日本はインド洋にまで足を伸ばしたのですが、しかしどうもその目的が曖昧で、何のためにそんな作戦をやったのかわからない中途半端な行動に終始し、こうした効果を何一つ上げることができなかったように思われます。
当時の日本の最大の問題
そもそも私見ではこの時期の日本の最大の問題は、資源や生産能力がどうこう言うより、むしろハワイ作戦とシンガポール作戦が大成功を収めて当初の目的を達成したあと、一体自分たちが何をすれば良いかわからなくなってしまったという点にこそあるように思うのです。
そして明確な戦略目的が定まらないため、資源の集中がうまくできず、ただでさえ少ない資源をさらに不効率に分散させてしまったのであり、また明確な目的がわからないので、戦略自体も何だか場当たり的なものを当てずっぽうにやっていたため、どこか一つ躓くと全体がおかしくなる、という状況に陥っていたわけです。
逆に言うと、もし明確な戦略目標が定まっていて、要するにそこに努力を集中させれば良いのだ、というコンセンサスが確立されていたとすれば、驚くほどいろいろな部分で物事がぴしっとまとまって、限られた資源の有効な戦力としての活用が数倍に増えた、ということも期待できるわけで、あらゆる既知のデータはそれを元に再検討する必要が出てくるとさえ言えるかもしれません。
プラン不在による精神的不安
今回批判された中にも「このプランを進めている最中に東京空襲をやられたら、到底そんなことはやっていられなかったのではないか」、というものがあり、確かに痛い指摘ではあります。
しかし当時の日本海軍が東京初空襲の心理的衝撃でミッドウエー攻略に走ってしまったというのも、結局のところは、はっきりした戦略目的が定まっていなかったため、浮足立って迷走してしまった面が大きいのではないでしょうか。
逆に言うと「こういう案で戦争を終わらせる」という確固たるプランへの確信があったとすれば、その程度では浮足立つことがなく、新聞でどう叩かれようと断固として最初の案から動かなかったということも想像されます。
資源をここに集中したら壁は超えられたか
またこのプランの場合、米豪遮断作戦は本質ではないことになり、それはもっぱら陽動作戦にのみ使われるため、珊瑚海海戦は最初から行われず、それが全てディエゴ・ガルシアおよびセイシェル攻略のために向けられることになります。
そしてまた、この二島の基地化がそんなに簡単にできるのか、という疑問がありましたが、確かに日本の飛行場建設能力の低さを考えると、それは当然の疑問かと思われます。
ただ、例えば国の資源をこの作戦に集中するのだ、という明確な意思があった場合、それが乗り越えられない壁だったかどうかは、とても難しい問題で、常識を一旦全部捨てて考えねばなりません。例えば水上戦闘機の量産化を早めて、ディエゴ・ガルシア島では水面からの発着で代用することがどのぐらい可能だったのか、ということは当時の生産現場や物事の優先順位を振り返っての精密な検討が必要で、容易にはイエスともノーとも言えない問題だと思われます。
このプランの最大の不安要因
むしろ私がこのプランにおいて一番不安に思うのは、そんな軍事面での細かい問題ではなく、むしろ下手に海戦で勝ってしまったとき、国が踊ってしまってかえって陸軍を押さえられなくなるのではないか、ということです。
そのため国内の陸軍に向けては「講和が成立しなかったらインド攻略を行うが、それに備えて休養をとらせるため中国の陸軍を一旦国内に下げる」などの名目で部隊を一旦中国から撤退させてしまい、その撤退イメージを、英国に対しては「講和が成らないとこれがそのままインドに来る」という圧迫感に使う一方、蒋介石に対しては、蒋介石が最も恐ろしいのは日本よりむしろ毛沢東だったことを利用し、「日本が中国から下がってしまったら、毛沢東が真の敵として立ち上がってくる」という不安を与えることに使う、という構想を考えたわけです。
つまりこのプランの場合、インド攻略に関しては、本気でそれをやることなどは考えておらず、むしろその可能性を外交的(および国内政治の)カードとして心理的に用いるというのが、あくまでもその本質です。
しかし外交面は良いとしても、国内で果たしてこの程度で陸軍を抑えられたかどうかは何とも言えず、そのためむしろここがこのプランの最大の弱点でしょう。それに比べれば、細かい軍事的問題は何とかなる、というのが私の実感です。
それにしても今回、全般的に見て思うのは、このような形で軍事よりも外交の観点を重視し、半ば英国外交の立場に身を置く形で太平洋の戦略を検討するというのは、どうも日本においては珍しいことだったようです。そのため私としては、むしろ英国人がこのプランを見てどういう感想を抱くか、というのが非常に興味のあるところで、それこそ一回、日英で共同研究やシミュレーションをやってみたら面白いのではないか、などという気もしています。
蛇足
なお、外国との共同研究ということになると、このサイトに姉妹編として掲載されている「幕末および日露戦争の海軍戦略」の内容が、日韓関係の中で重要になるかもしれませんので、余計なことかもしれませんが、ちょっと紹介しておこうと思います。(この話、上の話とは直接は関係ないので「蛇足」です。)
その内容の重要なポイントとは、海軍戦略の観点からすると、日本にとって朝鮮半島を衛星国化・植民地化することは意外にも軍事的には次善の選択でしかない、という以外な結論です。
つまり当時の日本にとっては、むしろロシア軍の南下を防ぐために、朝鮮半島を独立させて自衛させることで結果的にその南下を阻止させた方が遥かに望ましかったということで、その重要性を海軍戦略の観点から論じています。
それが明らかになるとすればその意味は重大で、要するに日本がパワーポリティックスの観点から望むべき最大のものがそれだったとすれば、「なぜそれができなかったのか」ということこそが、両国にとって真の問題だということになるからです。
そしてこのシミュレーションも(韓国よりもむしろ)英国あたりの第三国との間で共同で行ってみると、国際的に一石を投じられる可能性も期待できるかもしれません。ともあれもし興味がおありでしたら、そちらもご参照いただければ幸いです。
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・勝敗のバロメーターとしての「戦略線の長さの比」 (20130912
追加)
ここではこのプランに関連した話題として、一般にシーレーンや戦略線の「長さの比」に注目すると、興味深いことに太平洋戦争の前半では、その値が日米間で大体「1.7」を境として勝敗が分かれてくる、という面白い現象について述べようと思います。
実はこの数字の背景にはかなり大きなメカニズムがあると想像され、この1.7という数自体が、両国のその時点での国力比と密接に結びついた形で出てくるものと考えられます。(その話は、オペレーションズ・リサーチなどの「一般に戦力は、策源地からそこまでの距離の2乗に反比例して減衰する」という原理に基づいており、それについては後の方で簡単に述べます。)
そしてその理屈をインド洋にも適用してみると、今までのわれわれの固定観念を覆す意外な結果が数字として出てくるのであり、それについても述べてみたいと思います。
いくつかの重要地点でのその実際の値
それはともかく、難しい話は後回しにして、まずいろいろな場所での戦略線の長さの比を実際に見てみましょう。要するに、いくつかの基地の場所や海戦が行われた位置に関して、そこから日本と米国までの距離をそれぞれ測って両者の比を求めてみるわけです。
もう少し具体的に言うと、日本の場合は呉を、米国の場合は西海岸の最大の海軍根拠地であるサンディエゴを基準点に選び、そして洋上の島や基地などから、日本の呉と米西海岸のサンディエゴまで、最短の航路をとった場合の距離をそれぞれ測って、その比を「後者が前者の何倍になっているか」という形で示したものが、以下の数字です。
(例えばある島からサンディエゴまでの距離が、呉からその島までの距離の2倍だったとすれば、その島の値は「2.0(倍)」ということになります。つまり日本に近いほど値は大きくなって、値が大きいほど日本が有利に戦えるわけです。)
そして、いろいろな場所で米国の戦略線の長さが日本の戦略線の何倍になっていたかを求めて、以下に示すと
ミッドウェー =1.1
ウェーク島 =2.6
ガダルカナル =1.6
珊瑚海 =1.7
ラバウル =2.1
という数値になります。(なおこれらの値は、航路の取り方によっても若干の差があるため、大まかな値でさほど正確ではなく、そのため有効数字も2桁で我慢して強引に四捨五入してあります。)
ここから判明する興味深い事実
しかしこの数字を眺めてみると、非常に興味深いことがわかります。それは、その位置にある基地を日本側が保持できるかどうか、あるいはその位置で海戦が起こった時に日本側が勝てるかどうかが、この数字との間にちゃんと相関関係をもっていることです。そして、どうやらその数字が「1.7」あたりを境にして、勝ちと負けが分かれてくるということです。
つまり戦略線の長さの比率という点で、この時期の日本が勝てるための臨界値が、大体「1.7」あたりにあったと見られるのであり、この数値が勝ち負けを判断する一つのバロメーターとなる可能性があるというわけです。
珊瑚海がちょうど距離の臨界点
上の例の場合、ちょうど珊瑚海海戦がその戦略線の長さの比の臨界値「1.7」ぎりぎりの場所で戦われた海戦ということになりますが、実際に同海戦を見てみると、戦術的にはやや日本は勝ちましたが、戦略的には目的を達成できなかったという点で失敗、というのが一般的な評価で、それを考えるとこれを「勝ち負けぎりぎり」のラインに設定するのは、ほぼ妥当だということになるでしょう。
楽に保持できたラバウルやウェーク島
そしてラバウルやウェーク島は、この1.7より数字が大きい、つまり相対的に日本に近くて戦略線が短いため、比較的楽に維持ができたことになり、逆にガダルカナルは「1.6」でそれより小さいため、相対的に戦略線が長くなってその比が臨界点を超えてしまって、それゆえ勝てなかったということになります。
もっともガダルカナルの場合、確かに日本側も苦しい戦いを強いられましたが、米国にとっても楽な戦いではなく、この付近で起こった海戦では何度か日本に負けています。ただその勝ち負けを確率的なばらつきと見て平均をとると、全体としてやや米側のスコアが勝っていた、というのが実情でしょう。
そこから考えても、ガダルカナルの「1.6」は、一応は臨界値より小さいものの僅差であったと判断すべきで、その面からも、それを僅かに超えた1.7あたりに臨界点があったと考えるのが妥当と思われます。
負けるべくして負けたミッドウェー
一方ミッドウェーを見てみると、この数値が1.1しかなくて、臨界値の「1.7」を大幅に下回っており、この相関関係からすれば、負けるべくして負けたことが、数字からも示されていることになります。(なおこれは測り方によっては1.2になることもありますが、いずれにしてもかなり小さい値であることに変わりはありません。)
ここから逆算される米国の当時の有効国力
それにしてもどうしてこの臨界値が「1.7」という大きさになるのでしょうか。実はその背後には「この1.7という数字を2乗したものが、この時期の両国の有効国力比に等しくなる」という論理が存在していると考えられるのであり、そのためここからはそれについて述べていくことにしましょう。
さて1.7の2乗は2.9ですから、誤差を考慮するとおよそ「3」で、要するにこの時期の米国の有効国力は「日本のほぼ3倍」だったと逆算されることになりますが、それでは一体どういう理屈でそうなるのでしょうか。それは「一般に戦力は距離の2乗に反比例する」という原理から比較的単純に導かれることです。
長い戦略線で戦力が1/3になっても出発点で3倍あれば・・・
例えば米国の戦略線がこちらの戦略線より1.7倍長かったとして、それで双方が互角に戦っていたとしましょう。この場合、米国のその位置での戦力は、1.7の2乗に反比例して減衰する、つまり早い話、約1/3に弱まってしまうことになります。
しかしこれを逆に考えてみましょう。つまりそれだけ弱まってもなおその位置で双方の力が互角だったとすれば、それは要するに出発点で送り出されている米国の戦力が、日本側の3倍ぐらい大きいものだったはずだということです。
つまりもし戦略線の長さの比がちょうどそのぐらいになったあたりで両者の力が釣り合い、そしてそれが洋上のどの場所でも成立していたとすれば、それはとりもなおさず、根本的に両国がこの時期に動員できる戦力の比が、ほぼ「1対3」だったことを意味するはずだ、というのが、この話を構成する基本論理です。
そのため結果的に、この1.7を2乗した数値が、図らずも両国のその時期の有効国力そのものに等しくなってしまうことになり、逆に言うとこの「1.7」という数値は、それだけの大きなバックグラウンドから現れてきているということになるでしょう。
この時期の米国の本当の有効国力は?
一般には、第二次大戦当時の米国の民間工業生産力などをコンスタントな値として日本と比較した場合、その国力は大体10倍程度だったと言われています。
しかし戦争初期においては、まだそれが十分に軍需部門に転換されておらず、軍事力に転換可能な「有効国力」という点では、米国はまだそれより少ない値に留まっていて、徐々にそこに向かっていく途上にあったと想像されます。
そのためそれがいつの時点でいくらぐらいだったのか、ということを知るのは結構難しく、多分今まで完全に正確にはわからなかったと思うのですが、これを使って逆算すればそのおおよその推定値がわかり、そしてこの戦争前半期の1942年あたりにおいては、米国の有効国力は大体日本の3倍程度というレベルにあったのではないか、という話になるわけです。
中期以降では変わってくるその数字
1942年の時点ではそのぐらいでしたが、これが戦争中期以降になると、米国はその生産能力をフルに軍事力に転用できるようになり、1943年の終わりごろには日本の10倍程度に達したと想像されます。またさらに末期になっていくと、今度は日本側の国力そのものがダウンを始めて、その差は10倍よりさらに開いていきます。
そして1944年のマリアナ沖海戦あたりを見ると、サイパンおよびマリアナ諸島では先ほどの戦略線の長さの比は「3.9倍」となり、それを2乗した値が約15、つまりこの時期には日本と米国の有効国力比が1対15以上にまで拡大していた、という推計値となって現れるわけです。
難しい英国との臨界値の計算
一方、英国との間でこの数値がいくらになるのかというと、それはデータが少なすぎてわからないというのが実情です。英国の生産力・国力が日本の2倍を超えるものではなかったとすれば、戦力が拮抗する戦略線の長さの比は約1.4ないしそれ以下ということになりますが、対日戦に割ける余分な国力がほとんど残っていなかったとすれば、もっと遥かに小さいかもしれません。
そもそもこの時期の英国の国力計算は、軍事面でも経済面でも難しく、それというのも日本や米国の場合はもっぱら「生産力」から国力が求められるのですが、当時の世界では英国一人が一種の利子生活者のような形で生きていて、国力にそのことが大きく影響していたため、同列の比較計算ができないのです。
いずれにせよ今のところ全期間にわたって英国の値は不明なのですが、ところがインド洋の問題を考えるとなると、そこが不明であることが解析を行う上での大きな難点となってしまいます。そこで問題を簡単にするため(あくまでもこの時期に限ってという形ですが)、以下の仮定を置いてみましょう。
問題を直線的に整理する
そもそも当時の英国は地中海でマルタ島とアレキサンドリア陥落の危機に瀕していて、対日戦に戦力を割く余裕はほとんどなく、マルタ島防衛戦に米空母「ワスプ」の助けを借りたりしていました。
その状態でインド洋に日本が本格的に出てきた場合、アレキサンドリアの背後が危なくなるという、文字通り英国にとっての国家存亡の危機的状況になり、地中海にかかる圧力もその分だけ大きくなってきます。
そうなると、米国も地中海救援のためにより多くの戦力を割かねばならず、本来ならインド洋に展開される戦力からその分を差し引かねばならなくなって、その分の計算がこれまた難しいことになります。
しかしそれならいっそのこと、この計算の難しい二つの部分、つまりインド洋にあった英国の戦力と、地中海にこれから余計に割かねばならない米国の戦力の二つが、ほぼ等しい大きさになると考えて、それを場所を入れ替える形で相殺してしまったらどうでしょう?
つまり戦力区分を「地中海は英国戦力のみ、インド洋は米国戦力のみ」という形にきれいに整理し直してしまい、英国はインド洋にあった戦力を全部地中海に集めてしまうかわり、地中海では米国の助けは借りない、その一方、インド洋はもっぱら米国の戦力だけに任せる、という形にして、問題全体を単純化してしまうわけです。
結局は日米間に帰着できるインド洋の問題
現実にこれは十分にありそうな想定ですが、実は何のことはない、これは当初から想定されていた状況に他ならず、英国がこの国家存亡の危機的状況の中、手持ちの戦力をインド洋から引き上げて全部地中海に集中するため、結局インド洋では実質的に日米の機動部隊だけの激突になるだろうというのは、プランの最初からの想定でした。しかしとにかくそういう形になれば、われわれとしてはずいぶん計算が楽になります。
つまりこの場合、戦力の区分が直線的に整理されることになり、英国の戦力は全て地中海に向けられて日本には向いてこず、インド洋での対日戦の分は全部米国が肩代わりして、結局は米本土を策源地とする米国の戦力の分だけが日本に向けられる、という形になります。
このようにすれば、インド洋の問題も日米間の戦力だけの話に戻ってしまい、さらにその策源地も日米両国の本土となるため、問題全体が先ほどと全く同じ構図に戻って、解析可能な形に置き換えることができるというわけです。
そもそも当時の英国は戦争遂行のための資源のほとんどを大西洋を通って米国から送ってもらっており、ある意味でその真の策源地は結局は米本土なのですから、この想定は単にそれを直線化して話を単純なものにしたに過ぎないという見方もできなくはありません。
先ほどのバロメーターのインド洋への拡張
ともあれ問題をこのように単純化することで、原理的には先ほどの話をインド洋にも適用できるようになります。つまり戦力の区分を整理して、問題全体を「日本と米国がその本土を策源地として対峙する」という形に単純化した場合、そこでも日米間の根本的な有効国力比から導かれる「1.7」という数字が、やはり支配的な役割を演じると想像されるからです。
ではいよいよこれを使って、今まで解析の難しかったインド洋で、その勝敗条件を調べてみましょう。具体的には、問題となっているインド洋の二つの島(ディエゴ・ガルシアおよびセイシェル)について、先ほどの議論の延長という形で、全く同じことを行なえば良いことになります。
つまり先ほどと全く同様に、この2島についてサンディエゴと呉までの距離を求め、前者が後者の何倍かを求めるわけです。果たしてそれはどのような結果になるでしょうか。
インド洋の2島の値は一体いくらになるか
では以下に、その核心となる重要な数字を求めてみましょう。この場合、サンディエゴからは、オーストラリアの南を迂回するルートをとり、呉からは、シンガポールを回るルートをとって、前者が後者の何倍かを比較します。その場合、これら2つの島についての数字は、
ディエゴ・ガルシア=2.3
セイシェル =2.2
という値になります。
ただしこれは西回りのルートで、これらの二つの島については、東回りのルートも考えねばなりません。その場合には米側の基準点を東海岸のノーフォークに定めて、そこから喜望峰を回る航路での両島までの距離を、呉からの距離(こちらは先ほどと同じ)と比較します。それらを総合して記すと、
ディエゴ・ガルシア(ノーフォークから東回り)=2.1
(サンディエゴから西回り)=2.3
(二つの平均) =2.2
セイシェル(ノーフォークから東回り)=1.8
(サンディエゴから西回り)=2.2
(二つの平均) =2.0
となります。
現実には恐らくサンディエゴから西回りで行くよりも、ノーフォークから喜望峰を回ってケープタウン経由で東回りに行動する方が近くてメインになるでしょうが、米海軍の立場からすると、太平洋との戦力の二分を最小限にするために、東回りルートへの戦力投入はなるたけ避けたいところでしょう。
そのため中をとる意味で、平均値の数字も一応記しておきましたが、とにかくいずれの数字を選ぶにせよ、両島とも先ほどの臨界値の「1.7」よりは大きくなることがわかります。
そしてセイシェルに関して、もう少し詳しくこの数値から評価すると、
・米側の戦力全体がケープタウン経由の東回りルートに完全にシフトする前であれば、強襲も十分可能。
・一旦確保してしまえば、その後に米側の戦力シフトが完了しても、セイシェルの維持は1943年中期ごろまでは十分可能。
というのが、この数値からほぼ読み取れるところです。
また、両島の中間付近での海戦となった場合(もし海戦が起こるとすれば、場所としてはそのあたりが一番可能性が高いでしょう)、そこまでの戦略線の長さの比は、ノーフォークから東回りルートの場合で
・ディエゴ・ガルシアとセイシェルの中間付近の水域 =1.9
となり、この位置で海戦を行なえば、日本側は珊瑚海海戦の「1.7」よりやや有利に戦えることになります。無論、海戦は一瞬の運や短期的な条件にも左右されるので、戦略線の長さのこの程度の違いは、必ずしも勝敗を決める決定要因にまではなりませんが、少なくともそこで戦う場合の条件は、それらより不利ではないことは確かです。
意外にも戦略線の長さが日本に有利だったこの水域
つまり意外なことに、日本がこの両島を基地として保持したり、その位置で戦闘を行なったりする場合、それは相対的な距離および戦略線の長さという点で、日本側が勝てる圏内にある、という結果が出てきてしまうわけです。
確かにディエゴ・ガルシアやセイシェルは、一見すると日本から遠くて、そこまで出かけて行くと、如何にも戦略線が伸び切って負けてしまうように見えますが、実際に地球儀上で測ってみると、米国側の戦略線が伸びる割合の方がそれを上回ってしまうのです。
そのためディエゴ・ガルシアなどは最低でも「2.1」で、ラバウルと同程度の数字になってしまい、われわれの固定観念は数理的な面から完全に覆されてしまうことになります。
そしてまたこの位置で海戦を行った場合も、少なくともミッドウェーの「1.1」とは比較にならないほど好条件で戦えるという、これまた常識を覆す数値が出てきてしまうことにもなるわけです。
逆の応用法
さて話をインド洋から太平洋に戻すと、この「1.7などの2乗が米国の有効国力に等しくなるはず」という原理は、逆の形で応用することもできます。それは例えばこの戦争初期の1942年ごろの時期に、他の位置、例えばこの値が2.0となっているような場所で交戦を行った場合、それがどう推移するかの見通しをつけることにも使えるということです。
つまり戦略線の長さが1:2の位置で双方が互角になるためには、米国側は戦略線の出発点で日本の4倍の戦力を用意しておく必要があり、それをこの戦略線を通って送り出した時に、末端のその位置でちょうど両方の力が拮抗することになります。
ところが先ほどの話からすると、この時期の米国が送り出せる有効戦力はまだ日本の3倍程度に留まっていて、そこで勝つために本来必要とされる量の3/4しか送り出すことができず、そのため戦略線の末端で比較すると、結果的に双方が4:3の戦力比で対峙する形になってしまう、という計算が成り立ちます。
つまりその戦力比で、ランチェスター法則を使うなり何なりしてその後の経過を求めればよいわけで、これが本当に使えるとなれば、遥かに柔軟なシミュレーションや解析が可能になることも期待できるでしょう。
確かにこの値だけで全部の勝敗が決まってしまうわけではありませんが、しかしこれは最初に大まかな見通しをつけるメソッドとしてはそれなりに有効で、理屈からすれば戦場が地球全体に拡大するほどその有効性は増すはずです。(ただしこの数値は海軍作戦にしか使えず、陸軍作戦では他の条件がありすぎて恐らく有効ではありませんが。)
いずれにせよ、発展次第では相当に使える便利なツールになることも期待されるため、インド洋以外でも、興味がおありの地点でいくつか試してみても面白いのではないでしょうか。