幕末〜日露戦争における海軍戦略

今日は幕末の海防論から日露戦争にかけての話が主題ですが、幕末の海防論というこ
とで、戦略論の話に入る前に日本人と海軍戦略についての話も少しやっておきます。
 幕末に西洋の軍艦が日本に迫ってきた当時、日本人の間で海防論がものすごく流行
りました。この時「とにかく砲台、お台場を作ろう」っていう話がドオッと出てきた
わけですよ。それに対して「そんなもの作ったってだめだ、艦隊を作らなければいけ
ない」と言ったのが勝海舟たちであって、でもそれは当時の日本人の感覚からする
と、なぜそれが必要なのかよく分からなかったというところがあります。当時の議論
をここで振り返ってみましょう。

 当時の戦術理論なんですが、軍艦と砲台が打ち合ったときには必ず砲台が有利にな
る、というのが一種の固定観念、常識としてあったわけです。それは何故かと言いま
すと、当時の大砲は射程距離がかなり限られてるものでしたから、高い位置に置いて
あると、より遠くまで届くわけです。だから高い位置に大砲を置いておくと、それに
対して低い位置にある戦艦の砲台と比べて、差としていくらかのの射程距離が稼げ
る。となると、たとえばある海岸砲台がこの高さで300M射程距離が稼げるとなれ
ば、距離300Mのところでは戦艦のほうは打たれっぱなしで打てないという状態に
なるわけですから、必ず同じ大砲で打ち合ったならば砲台の方が勝つ、というのが当
時の海防論をやるときのまず第一原則だったわけです。
あるいは次のようなことも指摘できます。戦艦と海岸砲台が打ち合う時には、同じ大
砲を装備している場合であっても、砲台の場合には、このコンクリートトーチカの非
常に狭いところに命中させないとダメージを与えることはできない。一方、戦艦の場
合には船のどこにあたっても大きなダメージを与えることができますから、当たって
困る部分の面積を比較すると、砲台の方が大体10分の一から100分の一位のサイズに
なってしまう。だから同じ距離で同じ大砲を打ち合ったならば、必ず砲台の方が勝
つ。これは現代にいたるまでも変わらない原則です。
ところがこの海岸砲台が船を撃沈した実例はほとんどないんですよ。何故かと言え
ば、近寄ったら必ずやられるっていうことが分かり過ぎてたから、結局誰も最初から
近づかなかったということなんです。だから海岸砲台って第二次大戦中にもたくさん
作られましたが、それは実は大量の不戦勝があったわけですよね。だからそういった
意味では、海岸砲台を作るのが無駄ではないと言うのは、一応第二次大戦でも同じよ
うな話でした。
 話を戻して、じゃあ何で海舟はその有利なはずの海岸砲台を良くないと言ったかと
いうと、もうこれは考えてみればすぐ話はわかることで、砲台を日本国中津々浦々本
当に砲台をハリネズミみたいに固めちゃえば、そりゃ確かに戦艦から日本を防衛でき
ますけれども、でも実際はカバーできるところなんて10%もないわけです。だから
砲台のないところに艦隊が行かれたら、そこはもう無防備ということになります。そ
ういった意味で、コストと機動性の問題を考えるならば、絶対的に艦隊を持たなけれ
ばいけない。それが勝海舟たちの認識していた点で、また他の日本人が良く分かって
なかったところなんですよね。
実はこういう部分は未だに、ある意味で日本人の発想の中に引き摺っているところが
あります。ビジネスなどやる場合にも、これからも接することはあると思うんですが
・・・。
例を挙げて説明しましょう。たとえば島の上に一つ城があって、この城を取ればこの
島は確実に制圧できるという状況があったとしましょう。日本人の場合、必ず城をと
りに行っちゃうでしょう。でもね、私がもしこういう状態に置かれたならば、私自身
は城を取りに行こうとは多分しないでしょう。そのかわりに私は、艦隊をもって島の
周囲の制海権を得る。そのかわり誰か同盟者を一人選んで、この城はそいつに取らせ
る。その上で、自分が必要なときにその城を使わせてもらう権利を、ある程度買って
おくという形にしておいて、この島が終わったならばこの島はこいつに任せて、艦隊
でもって次の別の島へ行き、次の人間と同じ契約を結ぶ。そうなるとこの島が10個く
らいになると、艦隊というのは1個あれば全部、制海権は取れるわけですから、結果
的に制海権を持っている者の力の方が上回っていくでしょう。日本人というのはどう
もこういう発想ができなくて、常にこの城を取りに行っちゃうんです。これは今の特
許紛争がまさにそれでして、日本人はとにかく特許を取りに行って数を稼ぐというこ
とに全部の中心が行ってしまいがちなんですが、実は特許なんてのは所詮ルールの世
界ですよ。ルールを変えてしまう権利を持っているところは、相手の権利を全部無効
化しちゃうことができる訳ですからね。たとえばアメリカの場合には特許の数で劣っ
たとしても、ルールを変える権利だけは手放さない。要するに島の周囲の制海権を
取ってしまうという発想でわりと来ていると思うんですよね。だからルールを変えて
しまう権利の方を彼らはメインと考えるけれども、日本人の方は、もろに島の城を取
りに行っちゃう。これはもうビジネスの現場でもそこら中の人がいまだにこの発想か
ら抜けられないという点を抱えています。これは将来非常に大事な問題になってくる
と思うんですが、まあこれはちょっと頭に入れておくといいと思います。

 当時はそんな状況でしたから、そもそも何で日本が海軍を持たなければならないか
というのは、海舟や竜馬などはその必要性を納得させるのに大きな抵抗を感じていた
ようです。やはり素人は今述べたような発想に固執しているわけですからね。それで
お台場なんてものを作っちゃった訳ですから。考えてみればお台場なんていうのは、
砲台の位置そのものが低いですからね。同じ大砲を置いといたら低い方が絶対弱いに
決まっているじゃないですか。だからお台場なんてものはもう無意味の極みたいなも
ので、ただなんかやっているということを取り繕うためのものでしかなかった、当時
の状況の徒花みたいなものだった訳ですよね。そのぐらいやはり当時の日本人には海
軍戦略って言う意識が欠けていたということは是非覚えておくといいと思います。

 まあこの話はこの話として、日露戦争の海軍戦略ということになるわけですが、そ
もそも何故ロシアという陸軍国の勢力が、攻めてくるのに、海軍がそんなに重要だっ
たのかということは、日本人の多くがまだ常識としてあまり知らないことだと思うん
です。パッと質問されて答えられる人ってあまり居ないでしょう。これは、プサンと
いう場所をロシアに取られちゃったら一体どういうことが起こったか、ということ
が、この問いに対する答えの大きな主題になっていると思うんです。プサンをロシア
陸軍に完全に制圧されたならば、日本という国はこれから先、生きていくことはでき
ないということが当時の状況としてあったんです。ではなぜここがそんなに重要だっ
たのかということを示すために、一番分かりやすい例が、実は日露戦争の海軍戦略を
見ることなんですよね。では具体的な日露戦争の海軍軍略について見てみましょう。

日露戦争の海軍戦略の最大の眼目は、ロシア海軍が3つに分かれて存在していた、と
言うことです。
一つはウラジオストク、もうひとつは旅順、そしてもう一つは遠く、バルチック艦隊
です。日本としては自国の艦隊全部を集めれば、各一つに対しては対抗できる。3つ
が合同されたら絶対勝てないという状況にありました。日本としてはどういう戦略を
取ったかというと、対馬海峡付近にいつも艦隊を常駐させておいて、この3つが合同
することが決してないようにしました。それで時間を稼ぎつつ、一個一個破壊してい
くという戦略が取られました。とにかく3つが合同しないように、各個撃破していく
というのが最大の戦略の眼目でした。当時としてはとにかくバルチック艦隊が廻航さ
れてくるのに非常に長い時間がかかった。だからバルチック艦隊が来る前に旅順艦隊
を潰しておくというのがまず、最大の優先課題だったわけですね。そのためまず日本
海軍は何をやったかというと・・・。

旅順のロシア艦隊は、バルチック艦隊が来る前に海へ出て行ったら不利だから、とい
うのでずーっと旅順港の中に塞ぎ込んだまま出てこようとしなかった。だからこの
際、旅順の港そのものを古い輸送船を湾口のそばで沈めて、外から封鎖しちゃおうと
いう作戦が考えられました。これが港湾閉塞作戦として知られたものなんですが、こ
れは必ずしも充分ではなかった。
その次に止むを得ない手段として取ったのが、旅順艦隊を陸からの攻撃で沈めてしま
おうというプランだったんです。そのために、旅順港を見渡す高地が是非とも観測点
として欲しかった。その高地として要請されたのが実は203高地だったんですよ
ね。203高地を取ってしまえば、その外側に居る日本の陸軍の砲弾で山越しに打っ
て艦隊を全部沈めることが出来る。そういう状態にあったわけですが、その203高
地の攻防戦は屍山血河のすごい戦いになりました。それでもバルチック艦隊が来る前
に、うまく203高地を落とすことが何とかできて、やっとのことで旅順艦隊を沈め
ることが出来た。
この時バルチック艦隊は途中まで来ていたわけですが、ウラジオストクまでは何とか
合流しようとしました。そこで日本側としては対馬海峡でこれを迎え撃とうとした
と。これが日本艦隊の作戦の方針です。

 もしここで日本海軍が沈められてしまった場合、当時としては何が起こったかと言
うと、まずやはり朝鮮半島にいる日本軍が後ろの補給線を完全に断たれてしまう訳で
すから、全滅しちゃう可能性がある訳です。ですから、戦術的に見てもこれは絶対に
落とせない戦いだったわけです。これは実際に戦いが朝鮮半島で始まった場合に必要
とされる議論ですが、仮に朝鮮半島に日本陸軍が居なかったとしても、実はこのプサ
ンをロシア海軍の基地にされちゃうと大変困るという状況がもともと生まれていまし
た。それはどういうことかと言うと、さっき見たように、朝鮮半島付近に日本海軍が
居座っていると、ウラジオストク艦隊と旅順艦隊を分断できるという大変大きいメ
リットがあった。このメリットが逆に全部ロシア側に行っちゃうわけですよ。という
ことは相対的に優勢なロシア海軍がプサンを基地としてここに居座ったとしたら、日
本海軍は対馬海峡を通れなくなりますから、結局日本海軍を太平洋側に置いておく
か、それとも日本海側に置いておくかの二者択一を迫られてしまうわけです。そして
仮に日本海側を明渡してしまった場合には、日本海側が全部ロシア海軍の砲撃の危険
に晒されるわけですよね。また日本海海軍の沿岸ルートも使えなくなっちゃうから、
産業の発展にとって大変不利になってしまう。だからどうしてもやはり日本海でロシ
ア海軍を勇躍させるわけには行かないということで、今度は日本海に置いてしまうと
どうかというと、太平洋航路、外に出る死活的な貿易ルートがロシア海軍の危機に晒
されてしまうという訳じゃないですか。だからもしプサンに基地を作られて、それで
直接シベリア鉄道をつかって補給ができるようになったとしたならば、この時点で日
本というのは終わってしまうわけですよね。それを防ぐためには何をしなければいけ
なかったか、といえば日本としてはとにかく、プサンよりももう少し先に陸軍を進め
て、それで絶対にプサンが基地にならないようにしておいて、なおかつ朝鮮半島付近
に日本海軍を居座らせる。これ以外に日本が生きる道は無かったわけです。
それで、ここでものすごく重要なことがあります。当時日韓併合ってやりましたが、
よくみるとこれは当時の日本にとって次善の策でしかなかったっていうことがよく分
かるんです。つまり最善の策はなんだったかといえばそれは、韓国自体が近代化を
やってくれて、韓国陸軍がロシア陸軍の南下を防いでくれる。これがベストの選択
だったんですよ。ところが韓国としては韓国陸軍単体で、それをやる事はできない。
なぜならばもし韓国が海軍力を持ってなかった場合には、ロシア海軍に後ろから回ら
れ上陸されて、挟み撃ちにされてしまう危険がありますから、それを防ぐためにはど
うしても、朝鮮半島の両側を共に日本海軍が固めておいてくれなければいけない。そ
して、韓国には単体で陸軍と海軍を建設するだけの国力はないですから、どうしても
韓国は陸軍だけに集中せざるをえなかったであろうといえます。そうなれば日本と同
盟して、両翼を守ってくれる海軍力を日本に依存しなければ絶対にできなかった。日
本としても韓国がそれをやってくれるならば陸軍を作らなくてもよくて、海軍に全部
を集中してしまえばいいわけですから、日本にとって非常に有利な国力の使い方がで
きるようになるわけですからね。だから本来ならば日韓併合というのはこれが出来な
い場合の次善の策でしかなかったということがよく分かるわけです。だからこれはあ
る意味日韓の歴史を知る上で重要なことだと言えるでしょう------まあちょっとこれ
は韓国側からすると日本側にとってちょっと都合のいい歴史のように聞こえるかもし
れないですが------しかしこれは事実です。
やはり日韓併合というのは本来は日本側としてはやりたくはないことだった、次善の
策でしかなかったということなんですよね。逆にいえば西郷隆盛などはそのあたりを
よく知っていたらしいんです。当時、日本という国は急速に日本文化を捨てて西洋化
しているということで、当時の韓国の保守派から裏切り者よばわりされていたわけで
すよ。その時に、昔の日本の格式ある礼式に則って韓国と正式に外交関係を結びに
行って、そうじゃないんだ、我々が裏切り者よばわりされるような存在じゃないとい
うことを彼らに認識させるということが、西郷の最大の目的だったらしいんですよ
ね。それを行くのが危ないのなんのっていうので、結局征韓論という思わぬ方向に
行ってしまったのであって、西郷は別に韓国を併合する意思とかは全くなかったらし
いんです。そしてこの辺の話は、勝海舟とか島津斉彬などの先覚者たちは非常によく
分かっていたらしいんです。ロシアの南下を防ぐためには、とにかく日韓合同でやる
しかない。それで、日韓合同で北への守りを固めたならば、今度は西からの侵攻作戦
をマレーあたりで食い止めるしかないんだと、そういう構想を島津斉彬はすでに持っ
ていたらしいです。つまり、我々がこういう話を聞くとすごく新鮮に聞こえますけれ
ども、実は幕末の先覚者たちはこういう事をある程度までは全員知っていた、ある意
味我々よりもはるかに優れた海軍戦略の常識を持っていたということはちょっと知っ
て置いたほうがいいと思います。

今の話を見ても、明治以来日本の海軍戦略的常識やセンスというのは、さっぱり向上
していないことが残念ながら分かりますね。逆にいえば日本のその潜在的パワーは、
明治以来これだけ上がっているわけですから、ここに古典力学と海軍戦略のセンスを
もって新しい設計図を書こうと思えば、逆にいえばどれほどのことが将来できるであ
ろうか、ということにもなる訳ですよ。

カッテンディケが当時言っていたという「日本は海の強国になるということは約束さ
れている、しかしながら多くの偏見がそこにあって、その偏見を全て取り除くには大
変大きな時間が掛かるだろう」という言葉が残っていますが、やはりカッテンディケ
も、海舟たち以外の人間を見たときには海軍戦略的センスの乏しさを痛感してたん
じゃないでしょうかね。
皆さんここで何回か講義を聴いて、海図を見ると、俺だったら海軍力使ってこう攻め
るだろうなあ、という、そういうセンスはすぐに、ある程度生まれてると思うんです
よね。だからそういった点からすると、教育次第でそれはどうにでもなるものだと言
えるでしょう。そもそも古典力学のセンスというものが日本には無かったわけですか
ら。それはやはり理工学部でちゃんと教育を施せば、ある程度できるようになるわけ
ですからね。そういった意味では海軍戦略のセンスというのも、本当に国がそこにし
か生きる道が無いとなれば、身についてくるとは思うんですけどね。

世界を全体として見てその勢力均衡をどこで図るか、それがやはり海軍戦略の行き着
く果てだと思うんですよ。だから陸軍で帝国をつくる場合には、力でどう制圧する
か、という発想になりますけれども、海軍力的思考というのは自分のサイズに限界が
あるということを認識することから始まって、そのためには世界全体を見て勢力均衡
をどこでどうやっていくかと考えることから始まる。だからまさに海軍士官は地球儀
を見て考えなければいけないということが言われます。要するに部分部分の地図だけ
見ていても、海軍戦略は絶対に立てられないんだということの一つの教えでしょうか
ね。そういった点からすると日本人というのはちょっと視野狭窄になりがちじゃない
ですか。これが流行っているとなればそこだけに目が行きがちっていうのは、その辺
の弱さが、あるのかもしれません。

Pathfinder Physics Team