TOP

歴史上の人物の換算年齢

 ここに挙げた換算年齢という考えは、本部に掲載したものですが、幸い多くの方々から好評を得ました。
 そこで、発展形として著名な歴史上の人物と、その業績がなされた年齢を現代における実年齢に換算してみようというわけです。
 まず、計算方法は極めて簡単で当時の実年齢を1.5倍すればよいわけです。ただし60歳以降は、そのまま加算していくことになります。
 ともすれば、これは単なる冗談めいたお話として考えられがちですが、@平均寿命が延びたことA知的世界へ参入するにはあまりにも必要な情報量が激増し、単純に昔との比較ができないことBしたがって研究課題の哲学的意味まで熟慮してしまいがちな真面目な方にとって、精神的に厳しい(具体例を挙げれば、天才と呼ばれる者達は20〜30歳で輝かしい実績を掲げていますので、劣等感を抱いてしまうのも当然ですし、また組織的にも若手が抜擢されることは、特に日本においては難しい)ことから、意外な効用があるのではないか、という次第です。
 つまり、若手の研究者の志気高揚のために「いまだ我々には時間があるのだ」という意識を植え付け、さらに社会に対する責任感を自らに課す場合には換算年齢を用いた「特権としてのモラトリアム期間」を公式に使用することを社会的に認知できれば、というのが目標になるわけです。
 特に、文系・理系問わず野心的でありかつ「魔のD2」にある方にとっては、決して小さくない意義を持つでしょう。

 さて具体的な人物ですが、とりあえずは幕末の動乱期に生きた人間をリストアップしたいと思います。
 これは、一般にもなじみが深いことが理由となります。特に男性は、自分の年齢を坂本龍馬・高杉晋作・大久保利通・陸奥宗光・勝海舟などと照らし合わせた経験がおありではないでしょうか?また、少し手垢にまみれた言葉ではありますが、現在を第二の維新期と呼ぶことが多いからとなります。
 一方、世界史上の人物や中世期等の人物については、自己同一化する日本の青年は少ないと思われますが、今後徐々に追加していく予定です(例えば、キリスト・アレキサンダー大王・ネロ皇帝はいずれも31〜33で死去していますが、彼等に影響された方は稀でしょう)。

・幕末の五人衆

それでは、実際に換算年齢を用いて、歴史上の人物が、大きな仕事をした年齢を計算してみましょう。

まずは、現代でも特に人気の高い坂本竜馬・高杉晋作の二人と、新撰組の近藤勇・土方歳三・沖田総司をあげてみたいと思います。いずれも30代そこそこで死去していますので、我々にとっての「年齢」の意義を考えるのには最適かと思われます。

高杉晋作

長州藩士。1879〜1868年。維新志士の中では珍しく、実家は馬周り役200石(50石という説あり)の上士の出身。藩校明倫館の後、吉田松陰の下で松下村塾に学ぶ。上海洋行に際して植民地化の一途を辿るアジアの実情を見ることで、尊皇攘夷の思想を抱くようになる。その後、身分を問わず隊士を募集した「奇兵隊」設立。開闢総統。藩内の保守派を、クーデターで一掃。これをきっかけとして長州藩の倒幕路線が決定付けられる。極めて大胆な行動力を有する「動の高杉」と緻密で冷静な「静の木戸(桂小五郎)」のコンビによって長州は数々の危機を脱し、最終的に倒幕に成功したといえよう。

西暦 実年齢→換算年齢 高杉晋作年譜
1839年 0歳→0歳 萩菊屋の長州藩士高杉忠太の長男として生まれる
1852年 13歳→19歳 萩の藩校明倫館にて儒学を、有備館で剣術を学ぶ
1853年 14歳→ 21歳 ペリーが来航する。
1856年 17歳→25歳 吉田松陰の松下村塾に入門。久坂玄瑞と塾の双璧をなす
1858年 19歳→29歳 昌平黌に学ぶために江戸へ渡る。 安政の大獄で吉田松陰が刑死。倒幕の意思を固めたといわれる
1861年 23歳→ 33歳 長州藩主世子毛利定弘付き。藩の代表として上海に視察帰国後、攘夷論を藩に上申するが藩論となりえず
久坂玄瑞・井上馨・伊藤博文などと御縦組結成。イギリス大使館焼討ち事件を起こす
1863年  24歳→ 36歳 藩内の保守派と対立。「東行」と名乗り隠遁生活に入る
長州藩は列強諸国と下関で交戦するが近代兵器の前に惨敗。
藩は海外経験のある晋作を軍事顧問として呼び戻す。下関の治安を奇兵隊が一任される
奇兵隊員が武士を切り殺す事件により、晋作は総督解任。
八・一八クーデターにより幕府と長州の対立が深刻
1864年 25歳→38歳 晋作は藩より講和説得を命じられるが失敗。その責を問われ獄につながれる
池田屋事件にともなう蛤御門の変・馬関戦争勃発。
馬関戦争講和処理のために、晋作は再び身柄が自由とされる
蛤御門の変の制裁名目で、幕府は第一次長州征討を企てる。
長州藩内は幕府恭順派が主流になり、晋作は九州に逃れる
1865年 26歳→39歳 単独で長州に帰還。藩内保守派の一掃のために決起する
1866年 27歳→40歳 藩内保守派の一掃に成功。藩論は倒幕に移る。薩長同盟締結。
晋作は第二次長州征討において海軍総督として長州を指揮、完全勝利を修める
1867年 29歳→ 42歳 下関にて結核による死去。大政奉還の半年前のことであった

           

坂本龍馬

土佐郷士。1835〜1867年。28歳で脱藩後、暗殺されるまでの5年間で各藩の倒幕派と知遇を得る。司馬遼太郎の作品では快男児のイメージが強いが、一介の浪人である龍馬が、要人と交流可能だった理由には諸説あり謎の多い人物でもある。ただし、薩長連合の実現と幕府の大政奉還は彼の業績としてよいだろう。

西暦 実年齢→換算年齢 坂本龍馬年譜
1835 0歳→0歳 土佐藩の郷士として生まれる
1853 18歳→27歳

藩から江戸での剣術修行を認められる。
北辰一刀流千葉道場に入門。
同年ペリーが来航する。

1861 26歳→39歳 武市半平太が結成した土佐勤王党に参加する。
1862 28歳→42歳 土佐勤王党と決別。土佐を脱藩する。江戸に上り、勝海舟の薫陶を受けたとされる。
1864 30歳→45歳 神戸海軍操練所に入所。しかし、同年幕府により閉鎖される。
1865 31歳→46歳 薩摩藩の後援により亀山社中を設立(このことが竜馬が薩摩のスパイ的役割だという説もある)
1866 32歳→ 48歳 薩長同盟を実現させる。幕府が長州征伐に失敗する。
1867 33歳→49歳 亀山社中を海援隊と改称。「船中八策」内で大政奉還論を述べる
京都の近江屋にて暗殺される。暗殺の理由は諸説あるが、武力倒幕を否定された薩長の陰謀ともいわれる。

    

新撰組の三名

新撰組は、歴史の中で武士が必要とされなくなった流れの中で、あくまでも武士として死んでいこうとした集団である(そもそも彼等は厳密には武士ではないにも関わらずだ)。歴史がそのパラダイム変換を行うときには、こうした「犠牲」となる者たちが不可欠なのだろうか?暗殺集団と内部抗争に明け暮れた彼等であったが、今なお、その人気は高いものがある。

近藤勇 1834〜1868年

新撰組局長。多摩の郷士に生まれ天然理心流を学ぶ。清河八郎の浪士隊に参加するも、決別し芹沢鴨らと新撰組を結成。池田屋事件で名を上げるが、政治的才覚には乏しく、歴史の流れに翻弄されるように逆賊として処刑される

土方歳三 1835〜1869年

新撰組副局長。武蔵野の農家に生まれる。近藤と共に天然理心流を修め、以後近藤と行動を共にする。土方は、戊辰戦争を最後まで戦いつづけ、短期間の内に近代戦術をマスターした指揮官として評価できるだろう。

沖田総司 1842〜1868年

新撰組一番組隊長。近藤・土方と共に最古参の幹部。病弱の美形天才剣士というイメージが強く、人気は絶大だが、事実は異なるとの説もある。

西暦 実年齢→換算年齢 新撰組年譜
1863 近藤29→45歳
土方28→42歳
沖田21→32歳

清河八郎による浪士組に参加
京都で袂を分かち、芹沢鴨らと新撰組結成
芹沢ら、水戸派粛清。幕府内部の派閥抗争によるものと思われる

1864 近藤30→45歳
土方29→43歳
沖田22→33歳
池田屋事件。新撰組の名をあげる。
1867 近藤33→49歳
土方32→25歳
沖田25→38歳

新撰組が幕臣として取り入れられる。
坂本竜馬暗殺。新撰組の犯行とする説あり
内部抗争により伊藤甲子太郎暗殺。

1868 近藤34→51歳
土方33→50歳
沖田26→39歳
甲陽鎮部隊として日野に凱旋。歓迎を受ける。しかし、実際は勝海舟らによる、過激派・新撰組の厄介払いであろう。
近藤勇、板橋で逆臣として斬首。
沖田総司、病にて死去。
1869 土方34→51歳

土方は榎本武揚とともに戊辰戦争に参加
土方戦死
五稜郭開城

TOP