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カリキュラムへの意外な提言

現在、理系大学の教室の中が学生の学力低下で危機的状況にあることは良く知られた現実であり、そして今やそれが今や国家的大問題になりつつあると言われながら、有効な対策がほとんど見当らない有様です。
 ところが「物理数学の直観的方法」第2版の出版後、いろいろな方から意見を伺った結果、それまで気づかなかった意外な事実がいくつか浮かび上がってきました。

 そしてそれは現実にカリキュラムの中でも応用が効くと思われるため、この場でそれを少し提言のような形でお伝えしようと思います。これは今の状況下ではあるいは貴重な情報であるかもしれず、理系の世界の行く末に何らかの不安を感じておられる方は是非ともご一読ください。
 特に現場で実際に物理の講義や教育に携わっておられる方にとっては、明日からすぐにでも実行できるものも含まれているため、ご検討いただければ幸いです。

以下の内容は大きく

・提言1 ラグランジュ点の隠れた効用
・提言2 「一里塚」の必要性
・提言3 あなたの真の年齢は?

の3つに分かれています。


・提言1 ラグランジュ点の隠れた効用

 まず第一の提言は、現在の理系大学の講義が学生の学力低下で崩壊寸前にあるというこの状況下、ひょっとすると「ラグランジュ点」に関する問題というものが意外な力をもっている可能性があり、一種のカンフル剤の役目を果たしてくれるかもしれないということです。

ではその詳細です。
 さて実際、最近では学生の数学や物理の学力が落ちているばかりでなく、物理全般に対する興味や知識も低下しつつあるようです。例えば一昔前ならば、三体問題に関しては理系の学生なら大抵は知っていたものですが、最近ではその言葉そのものを知らない学生というのも珍しくなく、さすがにそれには慨嘆を禁じえません。

 ところがここで意外なことに気づいたのです。それは、三体問題については知らない学生が、なぜかラグランジュ点という言葉だけは知っていることがしばしばあるということです。
 不思議に思って調べてみたところ、その現象自体が意外に深い背景をもっていて、むしろ彼らの青春期の文化的背景から来る問題が、そこにひょっこり頭を出しているものであるらしいことがわかってきました。

 思えば昔に比べると科学もずいぶん安っぽく大衆化してしまい、理系の伝統的文化体系が果たして彼らの少年期に影響を与える力を持っているかは疑わしいものですが、そういう文化的劣化の問題はこの時代、理系と言わず世の中全体の一般的現象です。
 例えば昔の学生たちなら、例えば映画や小説に関して、多感な精神形成期に強い影響を受けた海外の「名作」というものを心の中に1本や2本はもっており、水を向ければしばしば熱く語ったものでした。

 しかし現代の学生の場合、同じ問いに対してそのように情熱的な答えが返ってくることはかなり稀です。実際その時期すでに新作映画や小説のほとんどが、単に金だけかけた空疎な使い捨てファッションに堕しており、彼らの心の奥底に何も残っていなかったとしても不思議はありません。

 しかしその不幸な状況の中でも、彼らにはそのかわりになるものが与えられており、彼らの場合そこを埋めているのが(今や世界に冠たる)日本のアニメなのであって、そしてラグランジュ点の話は、数ある作品の中でも最も彼らに影響力の強い「ガンダム」の設定で使われているため、その単語は強く心に刻まれているというのです。

 そこで試みに、三体問題という言葉に何の反応も示さない学生に「ラグランジュ点というものについて知っているか」と尋ね、イエスと答えたならば、続けて「三体問題とはその話のベースになっているものだ」と言うと、見てわかるほどに態度が違ってくるのです。

 実際青年期に強い影響を受けた文化や作品というのは、それとかかわりのある単語だけでも特殊な効果をもっているもので、退屈な話の中にその単語が混じっているのを耳にしただけで、途端に頭が覚醒してしまうなどというのは、よく経験するところです。

 そして昔は「相対性理論」という単語には確かにそういう魔術的効果があったものですが、どうも最近それが弱まっているように感じられてなりません。
 しかし先ほどの話を踏まえて彼らの青春期の状況を見てみると、例えばその時にはすでにブラックホールなどという単語も世間の手垢がついていた上、どうも昔と較べてノンフィクションあるいはSF映画・小説の分野にも、相対性理論への夢をかきたてる「名作」が存在しておらず、刷り込みが弱くなっていることにもその一因があるのではないでしょうか。

 実際先生たちの、理系離れを食い止めようとする涙ぐましい努力が、空回りに終わっていることには、その点に気づかずにいることが少なからず影響しているように思えなくもないのです。

 まあそれはともかく、提言というのは次のことです。つまり学部1年ぐらいの力学の講義や演習で、ラグランジュ点をネタにした問題をいくつか用意して、それを講義の中心に据えるか、力学に入るきっかけを与えてみてはどうかということです。

 大体今の多くの学生の実力では、講義であまり高級なことをやっても頭に入るかどうかは疑わしく、どうせ全部無駄になるぐらいならむしろ最初から目標を絞り込んで、天体力学の一番基礎的なことだけはしっかり身に着けさせて送り出した方が賢明なのではないかとも思えます。
 そしてもし本当に「ラグランジュ点」という単語が彼らの間で特殊な覚醒効果をもっていて、その士気を刺激する一つのきっかけになれば、それはもっけの幸いというものです。

 そして比較的高齢の教員の方の場合、何もアニメの話をして学生に合わせる必要など全くありません。反応する学生には、ただ「ラグランジュ点」という単語を言えば恐らくそれだけで自分から反応してくるはずです。(過度におもねるのはかえって逆効果となる可能性があり、最初に単語一個の響きで覚醒させた後は、むしろ知らんぷりを決め込んで突き放した方が効果的かもしれません。)
 それゆえせいぜい「スペースコロニー計画で利用が実際に検討された」ぐらいのコメントをつけ加えるだけで止めておいても、恐らく十分です。

 とにかくこのことは、講義や演習の機会に一度試してみる価値はあるのではないかと思うのです。これは、明日からでもすぐ実行できる上、たとえやってみて駄目でも別に講義にマイナスにはならず、単なる普通の演習問題としてもちゃんと使えます。
 一方もし本当に多少なりとも効果があるものなら、これはもう一種のカンフル剤として広く全国的に採用しない手はありません。

 それゆえ興味をもたれた教員の方は、是非一度やってみてください。(その際には、本HPに掲載の「ラグランジュ点問題の直観的方法」が良いテキストになるでしょう。もっともその場合、今の普通の学生相手にはその前半部分だけで当面十分かと思われます。)

 またもし、自身は教職に携わってはいないものの、客観的に見てこの手段が有効かもしれないとお感じになった方がおられましたら、今もどこかの大学で現在講義に悩んでいるがこの情報に接する機会がないという教員の方の耳にも届くよう、メールなどでなるたけ広くこのことをお伝えいただければ幸いです。
 とにかくいくら有効なプランでも、その存在の情報自体が狭い場所でくすぶっていては何にもならなので、ここは是非とも広範囲なご協力をお願いしたいところです。

・提言2 「一里塚」の必要性

 本当はこの話を私自身がするのは少々心苦しいのですが、周囲の強い勧めもあるため、あえて記しておこうと思います。
 それは今の学生たちにとって、数学を学ぶときの目標や一里塚というものがどうも見えにくく、そのように先が見えないことが士気を殺ぐ大きな要因の一つになって、学生全体の数学能力の低下にもつながっているのではないかということです。
 そして提言というのは、その際に「物理数学の直観的方法」をその「一里塚」として最大限に活用すべきではないかということです。

ではその詳細です。

 実際今のカリキュラムにおいては、学生たちの目からすると、何だか前途に学ぶべき数学が山のようにあっていくら学んでもきりがないように思えてしまい、一体全体何冊本を読めば「免許皆伝」になるのかさっぱり見当がつかないという不安の中で立ちすくんでいると想像されます。

 もっともそのこと自体は今に始まったことではありませんが、ただ昔の学生の場合、難しい数式で埋まった分厚い本の先には何か神秘的で素晴らしいものがあるという、一種の憧れや思い込みも強く、それがこうした不安に打ち勝つ力を与えていました。しかし今の学生にはそれが希薄な分、相対的にこの種の不安感がより重くのしかかってきている恐れが大きいように思うのです。

 しかしながらこういう場合、もし一種の「一里塚」となるような本が1冊あって、とにかくこの本1冊を読破しさえすれば一応はOKなのだということが保証されてさえいれば、目に見えるゴールが設定されたことにより、多少の困難があっても学生たちは不安なくそこに向かって前進できるようになるはずなのです。

 そしてこのとき何よりも重要なのは、その冊数を思い切って絞り込むということです。実際、その種の「一里塚」となす本にしても、それがばらばらに10冊も20冊も挙げられていたのではせっかくの効果がほとんど消滅してしまいます。そのため可能な限りそれを統一して、できればたった1冊、最大限でも3冊というあたりに絞り込むことがどうしても必要です。

 この場合、確かに最初は少数に絞り込んだことで分量面の不安があるかもしれませんが、学生はその一里塚を通過しさえすれば続いて何冊でも本を読めるようになるため、結果的に学生が読む冊数は増えることになり、ここは目先の分量にこだわるべきではありません。

 さてそこでその一里塚になる本の候補をどうすべきかというのが次の問題ですが(そしてこれが我田引水になるので気が引けるのですが)、現在のところその最有力候補となるものは、やはり「物理数学の直観的方法」をおいて他にないのではないかというのが、われわれの一致した見解なのです。

 その候補たりえる理由は、何と言ってもあの本が、すでに13年間にわたって数万部が売れており、数万人の読者(実はあの本は東大教授に隠れファンが多いことでも知られており、「読者」にはその層も含まれています)による、長期間にわたるかなり厳しいチェックを経てきているという事実です。
 一般的に言って、その一里塚となる本の候補を絞り込む際には、大体3つの条件を満たしていることが確認されていなければなりません。それらは

・教員側の「上から」の審査として、内容の面で大きな欠点がなく十分信頼性があるか。
・学生側の「下から」の審査として、本の内容が学生側にとって質や量の点で本当に望ましいかどうか。
・本の寿命が十分長く、この先2年や3年で陳腐化しないだけの生命力があるか。

の3点ですが、本書の場合、読者の中にかなりの教員が含まれているとすれば、まず最初の条件は事実上チェックが完了していると思ってよいでしょう。

 次の第2の条件は教員側からは本来わかりにくいものですが、本書の場合学生側の読者層から、分量や扱う項目の点でこれが実用上、大学4年間で必要十分なものを最も適切にカバーしているとの意見が多く寄せられており、これもクリアされています。

 最後の条件に関しては、13年を経て出版された改訂第2版が再び受け入れられているという事実がその証明で、ある意味でこの間にそれにとって代る本が出現しなかった以上、次の十年間も恐らく生命を保ちえる可能性が高いということになります。(また現在すでにあの本は理系ばかりでなく経済・金融界でもかなり普及してきているとのことであり、その面でもスタンダードとするには最適です。)

 この結果は下手な委員会の調査よりも遥かにごまかしが効きにくいため、わざわざ調べ直すよりこれを既成事実として採用してしまってもまず差し支えないと思われます。他にも候補はあるかもしれませんが、どうせこれだけの条件をパスしている本の数は最初から限られていますから、たとえやってみて不都合が出てきても後で変更するのはそう難しくはありません。

 ところでこういうことを言い出したのにはもう一つ理由があります。数年前ごろからですが、本書に接した学生の中には、むしろ本書で育った若い教員の方が講義で参考図書に指定したことがきっかけになっていたというケースが、しばしば見られるようになってきています。

 そしてその状況を見ると、どうも今の学生にとって本書のレベルが相対的に彼らのレベルより心持ち上になっているらしく、そのため学生は(本書の場合に限らず)全般的に言って、良い「参考図書」を自分の目で見て判断する自信がなくなってきているように思うのです。
 だとすれば、教員側がある程度アシストして「目標図書」をはっきり指定してやることの必要性が昔より増していることになり、その面でも「一里塚」の制定が必要になってきているのではないかというわけです。


ではこの提言の内容を、最後にあらためて整理しておきましょう。

・まず今の状況では、教員側は昔より実力の落ちた学生相手に、そうそう手取り足取り初歩に戻って教育を行う余裕がなく、また下手に学生のレベル低下に理解を示してやると、今度は学生がそれに甘えてさらにレベルが落ちる悪循環に陥る恐れもあり、態度を決めかねてなかなか積極的な対応ができずにいるのが現状かと思われます。
 一方放っておかれた学生は、ゴールがどのぐらい遠いのかわからないまま霧の中に立ちつくし、どの情報を信じてどちらへ歩いていったら良いか見当がつかないまま、ただただ怯えているしかありません。

 こういう時、せめて「一里塚」となる本が目に見える形で明確に示されていて、迷うことがあったらとにかく自力でこの比較的薄い本1冊を読破することだけを目標に前進せよ、と指示されておれば、教員・学生双方の負担がかなり軽減されるはずなのです。(また同時にその一里塚は、大学数学のレベルはこのラインより下げないという無言の宣言として、学生の甘えに釘を刺すための指標でもあります。)

・つまり具体的に教室でなされるべきことは、単に次のことだけです。すなわち教員側がまず講義の開始にあたって、現在の状況下ではとにかく本書一冊を読めておりさえすれば、理系の4年制大学の数学は一応修得できていると思ってよいのだと学生に保証してやり、そしてどの道を通っても良いから、せめてこの一里塚に到達してから卒業せよ、と彼らにはっきり指示すれば、それで一応十分なのです。
(なお彼らにそれを伝える時期に関しては、必ずしも講義の最初である必要はなく、どうせなら先ほどの提言1と組み合わせて、ラグランジュ点の話をした時についでに行うというやり方でも良いかもしれません。)

 これは要するに以前からすでに教室行われていたことに、もう少しきちんとタイトルをつけて若干の補強を行うだけのことなのですから、それを実行することで今さらマイナスが生じることは、まあないと思って差し支えないと思われます。
 そして最初の一歩としては、単に教員間やメール仲間の間での合意ないし自主的な運動として、各自が講義の最初にめいめい実行するだけでも十分なのです(無論ゆくゆくは正式に全国的に行うべきではありますが)。これは本来文部省の許可がいることでもないので、その気になれば明日からでも十分に実行可能だと言って良いでしょう。

 ともあれあの本が第2版として再出発したことを機に、もうそろそろ大学でも双方の負担軽減のため、「一里塚となる本の指定」ということを、半ば正式にやっても良いのではないかというのがわれわれの見解なのです。

・提言3 あなたの真の年齢は?

 提言ついでに、半ば余談としてもう一つつけ加えておきます。といっても、これはカリキュラムに関する提言などでは全然なく、現在これをお読みの皆さんご自身の日常に関するちょっとした提言のようなものです。
 これは前の二つとは違って物理教育との直接的関連はやや希薄ですが、長期的・間接的影響は馬鹿にならないものがあるため、あえてここに並べて記しておきますので、一種の読み物としてお読み下さい。

 世代論について語るときなどに良く言われることですが、昔の年齢は大体1.5倍しないと今の年齢にならない(つまり今の30才は昔の20才)と言われます。つまり今や人間の物理的な年齢と社会的な年齢の間に、昔に比べて1.5倍ぐらいの誤差が生じているというわけですが、実は世の中がそれをどっちつかずの態度で扱っていることが、いろいろな場所で深刻な問題を作り出しているのではないかというのが、この部分の話題です。

 そしてこれは、現代において何事かをなそうという青年の上には非常な困難として降りかかってきてしまいます。それというのも、まず彼らが20代の時は(昔の換算ではまだ10代なので)世の中の巨大さに対して自分の知識が相対的に昔より未熟すぎることになり、実際に自身もそれを感じて到底動き出すことができません。
 つまりこの時は自分が年の割に幼いように思えて(本当はそれが当たり前なのに)、要らないプレッシャーを抱え込んでしまいます。
 一方30代の後半になってようやく何とか最低限の知識を修得した頃には、今度は逆にもう年をとりすぎているという世間的な常識がのしかかってきてしまい、この場合は見かけの年齢がプレッシャーをかけてきます。
 結局これではいつでも身動きがとれないことになってしまい、せめてどちらか一方だけにはっきり決めてくれれば、それでも何とかやりようがあるのです。

 そうしてみると、実はむしろ世の中がこの1.5倍の年齢誤差を薄々感付いていながら、単なるお話程度に軽く考えて中途半端に扱っていることこそが、事態をやっかいにしている元凶なのかもしれません。つまり1.5で割った「換算年齢」というものに、もっと本格的な市民権を与えることが必要になってきているのではないかということです。
 特にわれわれの立場からすると、せっかく何とか力がついてきた頃に、もう30だから、という言葉の圧力に負けて世の中を諦めてしまう人が多いことに頭を痛めており、それを少しでも軽減したいというのが本音と言えば本音です。
 ではこの件に関心のある方のために、以下にもう少し詳しい話をしてみましょう。


 ・実年齢の無意味化
 実のところこの話は、「換算年齢にどの程度の意味があるか」というよりも、むしろ「今や物理的な実年齢が社会的にどの程度無意味化しているか」という話として論じた方が早いのではないかと思えるのです。

 まず第一に肉体的な問題。これは言うまでもなく平均寿命が伸びてしまったという物理的な問題から来るもので、すでに生命保険会社などでは「人生ゴムバンド説」つまり人間の一生がゴムバンドのようにそのまま伸びているという話として、半ば常識であるかと思います。
 実際外見的にも今の50代と昔の50代では相当に差があり、この面では実年齢の直接的比較は意味がなくなってきています。

 第二に組織的問題。これは組織の上が隠居せずに詰まってくれば、下の方は出世が遅れて相対的に低年齢のままでいなければならないということです。
 実際こういう状況では、下手に精神年齢が上がると組織から浮き上がってしまい、むしろ精神的に幼い状態を維持していないと、遅くなった組織の階段上昇速度についていけません。そしてこれがやはり相対的には1.5倍時間がかかるようになってきています。

 第三は、先ほど述べた情報量の絶対的増加の問題。これは世の中を理解するのに最低限必要な情報の絶対量が増加したため、少なくとも昔と同レベルに到達するためには1.5倍ぐらいの学習時間を要求するようになってしまったということです。
 実のところ今や世の中を理解するには理系と文系の両方の知識がなければ本物の知性とは言えず、例えば昔ならそれで通用していたはずの大学の雄弁会の政治論なども、文系だけのいわば半分の議論で無理に外見を取り繕ったものでしかない以上、今や昔の高校生の政治論議程度の意味しか持たない有様です。
 そして精神年齢という概念自体が、要するにその情報量修得の度合いのことに他ならないのですから、昔と同じ時刻表でそれを期待するということ自体、実は神童を不自然に量産しようとする歪んだ教育プログラムのようなものだとさえ言えます。

 こう見て来ると、むしろ今や実年齢というものにどの程度の意味が残っているかの方が疑わしくなるほどで、あるいは単に地球の公転周期で決まる暦が昔通りの1年365日であること以外に確固たる理由は残っていないのかもしれません。
 そうなるとむしろこの際、いっそここで地球の公転周期も1.5倍になってくれれば最後に残った殻が一掃されて、その新しい暦に移行することで社会常識のバランスが全部健全な状態に戻るのではないかとさえ思わないでもないのです。(実際それは、社会が完全一律に年齢インフレ状態の中にあるため、デノミを行うことで「高齢化社会」という問題自体を一旦リセットして消去してしまうようなものです。)

 まあ地球の公転周期をいじるのは無理ですから、ここは実年齢の意義をいまだに過大評価している古い常識の方を何とかするしかないでしょう。

 さてではそのためにどうするかについての提言ですが、
・まず皆さんが、ご自分の年齢を1.5で割って現在の「換算年齢」を知ることです。
そして昔の歴史の本をひもとき、過去に歴史を動かした人々とその換算年齢で比較してみてください。(もっともこの場合、逆に彼らの年齢に1.5をかけて現在と比較する方法の方が暗算は楽です。なお、1.5で割るのではなく0.7をかけるという方法でもほぼ似たような結果が得られますが、前者の方が計算が楽であることがやや多いので、ここでは1.5の方を採用しています。)
・そして現在では、「1.5倍問題」の中途半端な扱いが、例えば前述のように若い世代に二重のプレッシャーをかけているなどの、意外に深刻な問題を作り出していることを、なるたけ多くの機会を捉えて世の中に伝えることが望ましいと思われます。

 そして後者のためのやや過激な手段としては、いっそ皆で自分の換算年齢がいくつであるかを周囲に堂々と宣言してしまうというのも一つの手です。
 もっとも、例えば正式なプロフィールにそれを併記するのはかなり度胸が要りますし、実際誰も彼もが無制限にそれを行うことに対しては、疑問や反発の声も多いと思われます。
 そこで将来的には、例えばある種の義務を自分に課すことを条件にその権利を与えるなどというのも一つの手段で、その具体的な条件としては、次のようなものが一つの例として考えられます。

 そもそもこれはかつてのように、世の中の巨大さと向き合ってそれを動かそうとする人にのみ必要なことであって、自分の周囲数十mの中の安泰を追い求めることがすべてという「町人的」な一生には、本来不要な概念です。
 ところが現在では後者のタイプはやたらに元気が良いというか、実際一般的風潮としても、むしろ天下国家や文明の行方に一切関心をもたないことがスマートで格好良いことになってしまい、それを自慢げに公言する「自分主義者」の増加には世界的に悩んでいます。
 そして厄介なのは、そういう自分主義者の開き直りに対しては抑制はおろか、その代償に何らかのハンディを負わせる手段が20年ほど前からすでに完全に消滅していることです。
 そこでどうせならその際のハンディの手段としてこれを利用できれば一石二鳥ではないかというわけです。つまり少なくとも建前として、そのような開き直りを行わないことを何らかの形で表明した人間に対してだけ、フォーマルな場で自分の換算年齢を言う権利を与えてはどうかというわけです。
 これによって二つの問題を同時に解決できれば願ったりかなったりですが、まあどちらか一方ができれば十分でしょう。(もっとも今の段階でここまで駒を進めるべきかは、また別の議論でしょうが。)

 まあそれはともかく、これは学内だけの問題ではなく、社会全体の活性化の問題にも影響する可能性があります。
 実際、世の中全体がある日、自分の年齢が実はもっと若かったのだということに気付き、その新しい常識が共有されるとなれば、少なくとも一時的にせよ社会全体が精神的に少し若返って活性化する可能性は小さくありません。つまり「社会の高齢化」という陰欝な雲が吹き払われることになるわけで、そういった意味では、これは行政側が政策ないし運動として行ってもよいぐらいです。

 では次に、この問題に参考となるようなエピソードをいくつか紹介しておきましょう。
  エピソード1・志士たちの長きモラトリアム
 およそ現代の日本に生まれた青年たちが、世の中を動かすということについて何か考える立場に立った時、恐らく一度は過去の青年たちが何をどうしたかの歴史を振り返ってみるはずであり、そしてその際に参照されることの最も多いものは、幕末動乱期の人間模様ではないかと思われます。
 そしてその登場人物たちの当時の年齢を知ったとき、大抵は彼らの若さとそれに似ない老成ぶりに驚きを覚え、それに引き較べて自分はどうかと振り返ると、むしろ自信を失ってしまうことが多いものです。

 ところがひとたび1.5倍換算を用いるやその光景は一変し、それなりに手の届きそうなものへと姿を変えることになります。
 具体的な換算はご自身でやってみた方がよいと思うのでここでは行いませんが、とにかく当時はまず世の中全体として大体40代で隠居するというのは割合普通のことで、その年で早くも「翁」と呼ばれているケースも珍しくありませんでした。そのため幕府の老中(時代劇では白髪のかつらで演じられます)なども大体そのぐらいか、あるいはもう少し若いのが普通でした。
 しかしこれは1.5倍なら60代というわけですから、現代の政界の感覚に照らしてもよく適合し、その中では幕末の20代30代の登場人物たちもそう若過ぎるというわけでもなかったことになります。

 そしてそうやってみると今度は、当時の志士たちが本格的な活動に入る前に、いかに長く遊学だの何だのと、モラトリアムじみた期間をもっていたかに気付かされます。
 その最たる例と言えばまず坂本龍馬の場合で、彼は大体27才ぐらいまで、仕官をするでもなく率先して政治活動をするでもなく、かと言って道場を開いたり家業を手伝ったりするでもなく、何だかよくわからない日々を送っていました。
 ところがこれを1.5倍して現在に置き換えると、傍から見れば大体40ぐらいまで仕事らしい仕事もせず半ばぶらぶらと過ごしていたということになるわけです。しかしこれほどではないにせよ他の場合もまあ似たり寄ったりで、周囲の社会もそれを許容していました。やはりそれは、世の中を動かすスケールの大きい人物は、所詮15で奉公に出した青年の中からは良くも悪くも生まれてこないということを、社会全体が知恵として知っていたからでしょう。

 少なくとも一つだけ言えるのは彼らが、当時の「大人の社会」に直面しても気後れしないというところまで精神的に成長した後に、はじめて世の中の困難の中に足を踏み入れていたということであり、換算年齢の問題がすべて裏目に出ている現代の若い世代とはまさに対照的です。

(注・なお年齢換算を詳細に実態に適合させるには、60才以降については必ずしも一律に1.5で割るのでなく、多少の修正が必要のようです。つまり現在の年齢は、60才までは1.5で割りますが、60才以後に重ねた年齢はそのまま加えるようにすると、昔の状況に最もよく適合するようです。例えばその場合、今の80才は昔の年齢では40+20で60才に、また今の90才が昔の70才に、それぞれ相当することになります。)


  エピソード2・オフィーリアは誰が演る?
 実を言うとこのような換算年齢の話をすると、時に一つの疑問が反論として出て来るものです。それは、現在の犯罪の低年齢化や、あるいは十代の若手タレントが昔に較べて大人びた応対をしたりすることに見られるように、むしろ若年層は一面で妙に早く成熟しており、話はむしろ逆なのではないかということです。

 なるほど確かに少し前の時代と比較する限りではそのようにも思えますが、しかしもっと昔と比較するならば、必ずしもそうとは言えなくなってくるようです。その一例として、芸能界の年齢に関するエピソードを一つご紹介しましょう。
 話は昔の英国のシェークスピア演劇のことですが、実はシェークスピアの時代には、社会的通念として「女優」という存在は許されていませんでした。このあたりの事情は江戸時代の歌舞伎によく似ていますが、しかし英国の場合、歌舞伎と違って男性の女形に相当する存在もありませんでした。
 それでは「ロミオとジュリエット」のジュリエット役や、「ハムレット」のオフィーリア役は一体誰が演じていたのでしょうか。実はそれらは主として声変わり前の少年が演じていたのだそうです。

 子役で登場するならともかく、あんな難しい演技をそんな幼い少年がこなしていたとは少々驚きで、現代のジャニーズ事務所の若手タレントがいくら昔より大人びているといっても、彼らはすでに声変わりしているのですから、現代の芸能活動の低年齢化もまだまだというところでしょうか。

 これ以外にも例えば以前、源氏物語の中で大人の恋愛談義に花を咲かせている女官たちの年齢が、本当はいくつぐらいだったのかという話を聞いたとき、そのあまりの若さに驚いた記憶があります。
 どうもこうしたことを見ると、現実にはむしろ20世紀の初頭からの数十年間、少年たちが例外的に純朴な時期があって(それは恐らくこの時期に階級間の撹拌が行われて農村と都会の平均が標準になっていたためです)、現代の少年がませて見えるのは、実はその例外的時期と比較しているから一見そう見えるだけなのだと考えた方が正解のようです。


   エピソード3・孔子はいつ学に志した?
 昔と今の換算年齢の問題がある意味最も象徴的に現われているのは、あるいは孔子の有名な「われ十有五にして学に志す」という言葉であるかもしれません。しかし現代の世界でこれを高校生への説教の台詞に使って、同じ年だからしっかりしろなどと言うのが完全に無意味であることはさんざん論じた通りですが、ではこれを換算年齢のフィルターを通すとどうなるでしょうか。
 実は彼の15才を1.5倍すれば今の22ですから、意外にも孔子といえども今の大学生の年齢の時には、まだ学に志していなかったということになります。(同じくその後に続く「三十にして立つ、四十にして惑わず」の言葉も、1.5倍しなければ現代の世界にはどう見ても適合しないようです。)

 しかしこの話は、もはや単なる面白い話題ですむような代物ではなく、現実に学内で大きな問題となって現われている可能性が濃厚です。
 実はわれわれの間では「魔のD2」ということが語られており(「D2」とは博士過程の2年目のことです)それは、それまで順調に歩んできた学生がここに差しかかると、突然パニックを起こしたように深い悩みの中に落ち込んでしまうという現象です。
 そして多くの場合、そこですべての夢を捨てて完全に長いものには巻かれろ式の生き方になってしまうか、あるいは大学を捨てて外へ出てしまうかのいずれかになりがちなのであり、どうやらその原因がここにある可能性が高いのです。

 しかし年齢に1.5倍の狂いが出ているとすれば、研究者の年齢にも歪みが出てきて当然で、例えば一昔前までは、学問の世界では独り立ちできる年齢というものが大体20代末ごろ(「三十にして立つ」の言葉ではありませんが)に設定されており、そのため博士過程もその時期に合うように置かれています。
 しかし言うまでもなく修得すべき知識の増大により、現在では20代で昔と同じことを行なうことは現実にはほとんどの研究者にとって不可能に近くなっています。実際第二次大戦前ぐらいまでは、ある分野で年間に出る論文が重さでせいぜい数kgに過ぎず、20代の末でそれを把握して自分なりの思索をそこに加えることも十分可能でした。ところが現代ではそれは低めに見積もって優に1トンに達しており、にもかかわらず制度上、昔と同じ年齢で学位論文を書かねばなりません。

 ところでその「研究者の独り立ち」ということですが、そもそも一昔前には何ができるようになった時点でそれが許されると考えられていたのでしょうか。それは要するに、与えられた状況の中で真の問題が何かを自力で洞察できるということであり、言葉を換えれば研究テーマそのものを自分で創造できるということであったように思います。
 一方それに比べると、テーマが決まった後にそれに沿って調査や実験を行って論文を書くという、傍目からはいかにも学者らしい活動は、いわば仕上げの事務仕事でしかなく、単にそれだけを意味など何も考えずにやれば良いというなら、受験生に毛が生えた程度のものでしかありません。

 ところが現在ではタイムテーブルが狂っているため、ほとんどの場合、肝心の前者の部分を全部オミットして後者だけしかやる時間がなく、単に上から与えられたテーマを論文にするだけの作業で外見だけを昔の学位に似せているのが現状です。
 全く本末転倒もよいところですが、とにかく学生たちは「魔のD2」の博士過程2年目で、突然自分がその矛盾に直面していることに気づくのです。そして皮肉にも思索能力に優れた学生ほどここで深く悩んでしまい、逆に何も考えずに教授に言われた通りに課題をこなしていくだけの受験秀才型の学生の方がここを通過しやすいようです。
 しかし悩んだところでこの年齢で自力で壁を突破することは物理的に不可能と言って良く、これは恐らく欧米の大学でも同じことです。

 そしてその結果は、どうやら意外な弊害となって現われてきているようです。近年よく世の中で、科学者たちが自分の研究のもたらす結果をろくに考えもせず目先の業績だけを追うという、その無責任ぶりが非難されています。
 実際確かに昔と比べても、良い意味で不器用にそうしたことを思い悩む人は減少傾向にありますが、しかし以上の話に見られるように、実は研究者たちは一本立ちする一番大事な時期に「テーマの意味など深く考える余裕などない」ということを踏み絵のように踏んできてしまっており、一度それをやってしまうとその習慣を抜くのは本当に大変なことなのです。科学者の無責任ぶりを非難するジャーナリストは世に多いものの、そのうちのどれだけがこのことを知っているかは怪しいものです。

 もっとも今のところ大学内部の問題としてはこれに対する妙薬はなく、ただ1.5倍の「年齢インフレ」がすべて裏目に出ていることが大きな元凶の一つになっていることを世間が理解し、それを考慮してなるたけ長いモラトリアム期間を与える程度のことしかなさそうです。
 しかし現実にこちらの身近な問題としても、この障害によって何人の若い有為の人材をみすみす手元から奪われたかは枚挙にいとまがなく、たとえ僅かでも対応を望みたいところです。
 ともあれ少なくとも、提言の中の年齢計算を実際にやってみることで、錯覚から来るプレッシャーから脱却する方が一人でも増えたとすれば、この部分の目的は一応達成されたことにはなります。

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