進化とアクティブ知覚(続)

※前回掲載の「進化とアクティブ知覚能力 エコーロケーション能力の起源と人間の感覚」はこちら

検証の原理的な難しさ
 それにしてもステルス・デザインと閉塞感に関するこのような話は、どのようにすればきちんと検証して精密な科学にしていけるのでしょうか。しかし大体、人間の閉塞感と物体の仮想的なエコー強度の相関関係を正確に立証することは容易ではありません。
 そしてまたその実験方法に関しても、一見すると大学あたりで予算をつけて大量の被験者を募集し、大規模な実験を行なうことなどが、真実に近づく最も有効な手段のようにも思えますが、話はそう簡単ではないのです。
 例えばこれを国の予算で、国立大学の一大プロジェクトとして大規模な実験を行なったとしましょう。つまり建物の写真スライドを大量に用意し、募集した数万人の被験者にそれらを見せて印象を用紙に記入してもらい、それを物理的な理論値と突き合わせて、どの程度一致するかを統計的に見てみる、などということを行なうわけです。
 一見する限りでは、このような大規模な実験を行なうことで、たかだか十数人の被験者で細々と実験を行なう場合に比べて、比較にならないほど科学的な精度が得られるように思えます。


先入観の罠
 ところがしばしばこれには大きな落とし穴があり、それはこの場合、「その実験がどんな結果を期待しているのか」を被験者があらかじめ知っていると、無意識のうちにその先入観に影響された印象を紙に記入してしまう恐れがあるということです。
 そのため被験者が実験目的や検証したい仮説が何であるかをなるたけ知らない方が良いのですが、皮肉なことにそういう組織的な大規模実験をやろうという時には、社会もそれに注目して情報が流布されるため、かなりの被験者がその内容を知っている可能性が高く、おまけに規模が大きいほどそれが一種の流行として人々の印象を支配してしまいがちです。
 そうなると結局のところ科学的信頼性という点で、十数人程度の頼りない実験と数万人規模の実験では、意外にもプラスマイナスで大体同程度のものになってしまうことが多いのです。
 
 
物理的な測定が抱える本質的難点
 要するにこの場合、収集するデータが「被験者の主観を言葉で表現したもの」であることがネックなのですが、それならば例えば脳に電極でも取り付けて、建物の写真を見せた時の脳の電流変化を調べる、といった方法なら客観的に科学的データが得られるのではないでしょうか。しかし実はそれも原理的に困難なのです。
 この場合、仮に電気信号などの形でデータが得られたとしても、それが具体的に何を表すのかを知る段階で困難に突き当たってしまいます。それというのもその反応データの中には視覚をはじめとする大量の情報がごった煮になっていて、その特定のものを分離することが難しいからです。
 例えば頭に電極をつけて、同じような建物のスライドを2回見せ、最初が快感、次のものが不快感、という信号データが得られたとしても、それが建物自体の閉塞感の大きさを示すものであるとは限りません。
 極端な話、1枚目の反応が「お、美しい」であったとしても、2枚目を見せた時の不快感が「何だ、同じようなものを見せやがって、いらいらするな」という理由によるものであるかもしれず、信号パターンが何を意味するのかは、結局本人の報告と付き合わせる以外に知りようがないのです。
 つまり結局はそこが頼りない聞き取り調査に依存せざるを得ない以上、完全に「科学的」に行なうことは実は原理的に不可能であることがわかるでしょう。


動物実験も難しい
 またイルカを使って動物実験できないか、という話も同様の困難に遭遇することになり、むしろイルカのように、頭は賢いが、口はきけない、という生き物は、こういう複雑な実験になると、一番厄介な相手になりがちです。
 実際、彼らのある特定の行動パターンが習性によるものなのか、それが単に遊んでいるだけなのかを外から判別することは非常に難しいと言われ、例えばイルカには人命救助の本能があるとの言い伝えがあって、現実に溺れている人が助けてもらって岸まで運んでくれたという話も報告されているのですが、実は専門家に言わせると、これが人命救助の本能なのかそれともただ遊んでいるだけなのか、全くわからないのだそうです。
 それというのも、確かに岸まで運んでもらって助かった人がいたのは事実でも、それが単にイルカが遊んでいるだけだった場合、逆に沖まで運ばれて、そこで遊ぶのに飽きて置き去りにされ、そのまま溺死して行方不明として処理された例が同数あるかもしれないというわけです。
 まあイルカの場合には、直角のプール(音波反射がきつい)で泳がせた場合と、音波のステルス性を考慮したプールで泳がせた場合で不快感を比較する、という程度の実験はできるかもしれませんが、まあそのあたりが限度で、結局そういう実験では、どれをやっても精度には厳しい限界があると言わざるを得ないわけです。
 

最良の方法=「細く長く検証を続ける」
 以上のことを考えるならば、これを検証していく最も有効な方法は、要するに「細く長く続ける」ことであるということが言えるように思えます。
 とにかく先ほどのような大規模な組織的方法を短期集中型で行なう場合、先入観が一時的にバブル的に膨れ上がって結果を歪めることが多く(実は最近では権威ある学術雑誌においてさえ、それに振り回されることは大きな問題となっています)、それを防ぐにはむしろ一つ一つは小規模な作業を、長期間にわたって繰り返し続けていく方が有利なわけで、その期間が十分長ければ、データ量の少なさという弱味も次第に解消されていくことになります。
 
 そしてそれを現実に行なうには「安く手軽に実行できる手段が広く提供されている」ことが条件となりますが、もしここにその検証に使えるソフトウエアがあって、それが公開されて誰でも使えるようになっていたとすれば、恐らくこれはそのための手段としては最適でしょう。
 つまり広い範囲の人々が各自で、そのソフトを用いていろいろな建物のステルス効率を計算し、自身の感じた閉塞感や開放感がその値と一致するかを、何年にもわたって交代で調べ続けていくわけです。そしてもしその結果に大きな乖離が認められるという意見が多くの場所から聞かれた場合、それを減らせるよう計算方法を徐々に修正していき、もしそれでも相関関係がどうやっても破綻するようであれば、最終的に理論は否定されるという寸法です。
 要するに先ほどの話からすると、実はこういう方法のほうが、巨額の予算をかけて大学で実験を行なうよりも、長期的に見れば遥かに高い精度を保障してくれる可能性が高いと考えられるわけです。
 
 このサイトで公開されている計算ソフトは、まさにそのためのもので(まあ商品として作られたものではないため、使い勝手やサービスに関して少々無愛想な点はご容赦願いたいのですが)、そのための最低限の能力は備えていると言ってよいと思われます。
 このソフトは、基本的には比較したい二つの建物の写真を用意してそれを入力し(その写真は、例えば本に載っているポン・デュ・ガール水道橋の比較写真---このサイトにも掲載されています-----のようなものがあれば最適です。ただし正面からの写真の方が使いやすいですが)、それらの画面の上をマウスでなぞっていくだけで計算ができ、高度な知識がなくても一応使うことができます。
(さらに一種のおまけとして、両者の体感面積を比較計算し、そこの地価を入力すると、いくらの損をしているかを出してくれる機能がついていますが、まあこの機能は半ばご愛嬌とお考えください。)
 ソフトで用いられている計算方法の詳細に関してはここでは省略しますが、その計算方法を確立する際には、実は物理的に「2乗4乗問題」というものをクリアしなければならなかったなどの問題などがあって、そう簡単ではなかったのですが、そのあたりの話は別の機会に語ることにしましょう。


「思考経済」とステルス・デザイン理論の「科学」としての価値
 最後に、ステルス・デザイン理論の場合、そのどこに「科学」としての価値があるべきかについて一言述べておきましょう。
 そもそもそれ以前の話として、科学だの理論だのに関しては一般人、というより専門家すらしばしば忘れてしまうことが一つあり、それは学問なるものの本質が実は「思考経済」のための道具に過ぎないということです。
 「思考経済」とは何かというと、要するに「最小量の知識・情報で最大限の事象を認識・把握できるようにする」ということで、数学だろうが物理だろうが、結局のところこれがすべての学問の本質なのです。
 逆に言えばその思考を効率化するための道具があるならば、たとえそれが実体をもたない仮想的なものであっても構わないことになるのですが、この考え方は、科学は「絶対的な真実」を追求すべきものだ、という信仰に首までどっぷり浸かった人には居心地が悪く、かくいう私自身、高校時代の物理を学びたての頃には、こうしたドライな考え方には大いに反発していたものです。

 しかしこれはやはりどうしようもなく事実であって、よくよく考えると現代の科学もかなりの部分が実体をもたない虚構の概念の上に成り立っており、例えば原子だの中性子だのといった「粒子」にしても、実はこれらは最初は19世紀以前の、まだピンポン玉のような粒が実体として存在していると信じられていた時代に導入された概念で、現在ではそれらは一種のエネルギーの塊のようなものでしかないと考えられており、そんなピンポン玉のような粒が実在すると考える科学者は誰もいません。
 しかしそれでもそれらを仮想的に「粒」と考えて、体系として整理することは思考の大幅な簡略化につながるため、一種の虚構としての「素粒子」論はきちんとした科学として現在も残っているというのが実情なのです。


和算と思考経済
 そして思考経済の場合、一般に2つの別々のものを統一的に1個の体系で扱えるようにすると、その理論としての能力は2乗に比例して向上し、4倍の能力をもつということが、一つの重要な原則です。
 その最も顕著な例が和算と西洋代数学の関係で、和算の体系では「つるかめ算」や「植木算」などが別々の理論として存在していますが、それに対して中学高校で学ぶ一次方程式の概念は、それを統一的に一個の体系で扱えるようになっています。つまり見方によっては後者は単に一種の簡略化を行なっただけに過ぎないのですが、それが実はどれほど理論としての飛躍であったかは誰の目にも明らかでしょう。
 しかし当時の和算家たちは、別にそんな西洋代数学などを導入せずとも、問題はつるかめ算などですでに解けるのだから必要ない、それは何ら新しい発見をしていないではないか、と言って最後までそれを拒否することが多かったようです。
 そしてある意味でステルス・デザイン理論の場合も少々それに似ており、これは部分部分を取り出せばそれまでの経験的なデザイン論で各個に扱えるものも含まれているため、それらに関してはあるいは従来のデザインの業界からは、かつての和算家に似た反応が示されることがあるかもしれません。
 しかしここでそれを統一的に取り扱えるようにすることは、数量的な一元化の道を開き、思考経済の観点からは次元の異なるほどの飛躍となる可能性を秘めています。


デザイン思想と思考経済
 本にも書きましたが、もともとこの理論は、近代の効率万能・シンプル万能主義に基づくデザイン思想の暴走に対抗してバランスをとるためのものとして導入されたものです。
 ところが伝統的なデザイン思想は、それがばらばらな経験論で成り立っているという大きな弱点を抱えており、それに対して近代的なシンプル万能主義の側は単純な一つの原理、要するに「ごてごてした無駄な装飾を取り払っていけば美しいものが出来上がる」(しかしよく考えると、そもそも何を根拠にそんなことが言われ始めたのか、今となってはよくわからないのですが)をすべてに適用していくだけでよく、それによって伝統的なデザイン思想を各個撃破していくことが容易に出来たのです。
 
 つまり近代デザイン理論は、思考経済の点で期せずして優位な立場に立っており、伝統的なデザイン思想の側がもしそれに対抗しようと思ったら、こちらも何か統一的な指導原理(それは仮想的なものでも差し支えありません)を導入して、従来ばらばらだったものを一元的に扱えるようにし、思考経済としての能力を引き上げる以外に手段はないわけです。


この理論の真価 
 以上からするならば、この理論の真の価値も実はそこにあり、数値化などを可能にするというのも、むしろその結果に過ぎないとも言えるかもしれません。
 そしてその観点や目的からすると、ステルス・デザイン理論の場合、たとえ人間の頭にアクティブ知覚が実体としては存在していなかったとしても、もしこれを用いることで閉塞感と形状の間の一定の関係を仮想的な体系で統合し、思考経済の面での能力を大幅に引き上げることができたならば、少なくとも経験科学としては一応それで十分だということになるでしょう。
 
 こうしたことを考えると、どうもこの理論は、科学哲学の捉え方という点で、従来よりも一段深い洞察があってこそ、真に有効に用いられるものであると言えるようです。
 なお将来的な観点から哲学的なことをつけ加えると、この考えは将来的には「碁石理論」(これに関してはこのサイトに掲載されていますので、興味がおありの方はそちらをご参照ください)のための道具としての役割が期待されており、むしろそちらの方が遥かに重要となってくるものと思われます。
 しかしそれに関してはここではとても述べる余裕がないので、それはまた後の機会に譲るとしましょう。

20071014 長沼伸一郎



Pathfinder Physics Team