「物理数学の直観的方法」を中東イスラム世界に出すことの利点
last update: 2012/06/06
 
 現在われわれパスファインダー・チームでは、「物理数学の直観的方法」をアラビア語訳してイスラム世界での標準参考書とすることが、現在の日本にとって大きなメリットになると考え、そのための行動を起こそうと思っています。 (それが今の日本にとってどんな意義があるかは「物理数学の直観的方法」を中東イスラム世界に出すことの利点に述べられているため、詳細はそちらをご参照ください。)
 
 そしてそれと並行する形で、その背景についてさらに世界史レベルから詳しく説き明かしたものが現在のイスラム世界は何をすべきかとして同時掲載されており、現在の混迷を深めるイスラム情勢の中で、日本の理系集団の存在が決定的な鍵になるという、意外な話が語られています。
 
 そちらについて簡単に述べると、以前にこのサイトで「日本の歴史と理数系武士団」という話題を掲載したことがありましたが、これはその話に関連したもので、イスラム世界が近代化を行なうためには欧米ではなく日本の「理数系武士団」を第一のモデルにしない限りは成功しないこと、そして現在の中東世界が混迷を深めているのも、結局はそこを理解していないことが最大の原因である、というものです。そして最後に、そのために日本の理工学書のアラビア語版が重要になる、という話につながっており、現在の複雑なイスラム情勢を把握するためにも絶好の読み物となっています。
 
 これは最初は分量的にもっと短いものだったのですが、この話は海外に向けて日本の存在をアピールするためにも有用であるため、欲を出すうち分量が増えて、これ自体が単体の出版物としても良いほどのものになってしまいました。(ただ今回は、広くこの内容や論旨自体を普及させることを優先したため、あえて電子書籍の形にせず、フリーダウンロード可の形にしてあります。)
 
 この重要な結論は、理系側からイスラム世界を眺めない限り絶対に見出すことができないものなのですが、今まで理系の人間がそれについて述べることなど皆無に近く、その稀少性の点だけでも、現在のイスラム問題にとって決定的な鍵となる可能性が十分にあると思われます。  実際もしこの知識が、現在日本に滞在している留学生などを通じてイスラム世界にもたらされたとしたなら、あるいは同世界の情勢を大きく動かすことになるかもしれず、また現在の八方塞がりの日本にとっても何らかの突破口となる可能性もゼロとは言い切れません。
 
 要するに「物理数学の直観的方法」と、この現在のイスラム世界は何をすべきかの両方、あるいはいずれかを、言語の壁を超えてイスラム世界に伝えることはできないか、というのが、現在われわれが望んでいることです。  とにかく最初の時点では、単に「そういうものが日本にあるらしい」という程度の話が先方に断片的に伝わるだけでも十分で、特に後者の場合、例えば現在日本に留学されているイスラム圏の留学生の方の間から、噂話として草の根的に広まっていく、という形などでもOKかと思われます。
 
 そのためわれわれは現在、そのルートの仲介ができる方を探しています。(なお留学生として大学に籍を置かれている方の場合、東大の西成研究室にご連絡いただく、という形でもOKです。)以上の件について、もし何らかの形でご協力いただける方がおられたなら、ご連絡いただければ幸いです。

 「物理数学の直観的方法」を中東イスラム世界に出すことの利点
 
 以下の内容は、「物理数学の直観的方法」をアラビア語訳して、中東イスラム世界での標準参考書とするという構想について述べたものである。
 今まで日本の理系世界は、イスラム世界に対する関心が極めて薄く、そこに視点を向けてこなかった。しかし日本の経済力が斜陽化して中国に脅かされている現在、それを行うことは国にとって非常に重要な意義を帯びているものと思われる。
 そこで、具体的にそれが現在の日本や大学・出版業界などにとってどう有用であるかについて、以下に述べてみたい。
 【1】 日本が書籍のブランド力を高めることの必要性
 現在、日本の経済力はかつての力を失い、それに伴って国際的なプレゼンスも低下しつつある。そこでそれを補うために、日本は文化的発信力を強化してそれをカバーすべきだとの声も多く聞かれているが、今のところみるべき成果は乏しい。
 確かにサブカルチャーの領域では現在の日本には結構発信力があるが、それはいわば全体から見れば一種の下流領域でしかない。そして本当に重要な「上流領域」である学術書の分野となると、依然として欧米の遥か下にあって、ほとんど海外に出て行くことができずにいる状態である。
 しかしその上流領域を押さえることができねば、結局は国際社会では負け組になるしかないのであり、そしてこのまま手をこまねいていると、そこを先に中国に押さえられて永久に手遅れになるという事態も十分に予想されるのである。
 
 ではその問題においては何が最大のネックになっているかというと、それは要するに日本人が書いた出版物には海外でブランド力がなく、そのためそれらが海外に出て行くことができないという点にある。
 一般にはそれは「日本語という言語の壁」によるものだと言われるが、それは正しくない。その証拠に、日本のコンテンツの中でも例外的に海外でのブランド力をもつアニメや村上春樹の文学作品などの場合、それらは即座に翻訳されて海外で流通している。
 これを見ると、言葉の問題は第一の要因ではなく、海外の人が「翻訳しても読みたい」と思うような魅力やブランド力に欠けていることこそが、その真の原因だということがよくわかるのである。
 しかしそのように学術書にブランド力がないことで、過去に日本は具体的にどう困り、そしてサブカルチャーなどが評価されているだけではなぜ駄目なのだろうか。
■ 書籍(学術書)のブランド力がないことで日本経済がどう苦しめられたか
 実は今までこの問題は、過去に経済などの分野でかなり深刻な問題を作り出していた。例えば政治経済学の場合、日本人の経済学者が国際経済に関するどんなに良い本を書いても、それは国内でベストセラーになることまではできるが、海外で翻訳されて広く読まれることはほとんどない。
 そしてその最大の原因が海外でのブランド力のなさにあるが、そのように日本の経済学の本などが国際的にブランド力がないことで、過去に日本の経済全体が実際に苦しめられていたのである。
 例えばリーマン・ショック以前の時期には、米国の二流の経済学者が書いた「米国永久繁栄論」のような(今見ると噴飯物の)ナンセンスな経済解説書が、何ヶ国語にも翻訳されて世界中で読まれていた。一方同時期の日本国内では、遥かに正しいことを述べていた日本人の著作が何冊もあったはずなのだが、それらはブランド力がないので全く海外に出て行くことができなかった。
 そのため世界経済のルール策定が、米国の市場経済・金融経済の信者の学説に支配され、日本の経済界はそれに逆らって発言や情報発信を行う手段を持ち得なかったのである。
 実際に格付け機関などもそれに基づいて評価基準を定めていたため、当時の多くの日本企業(モノ作りは優れているが金融は駄目)が、その株の価値などを実力より遥かに下に評価され、株価の低迷に苦しめられて経営危機に陥っていた。
 逆に言えば当時もしそれらの著作が海外で翻訳出版されて広く読まれていたとしたら、米国流の歪んだ評価基準に異議を唱えて、多少なりともその状況を改善できたかもしれないのである。
■ バブル期に本当に日本がやっておくべきだったこと
 それゆえ今にして思うと、日本はそれより少し前のバブル期、日本経済が無敵と思われていた時期に、その有利なポジションを活かして「書籍のブランド力」を確保しておくべきだったのである。
 つまり例えば日本の経済学者たちが、この時期に海外読者に向けて「日本経済の強さの真の秘密はどこにあるか」のような著作を本腰を入れて執筆すれば、日本経済の強さという現実をバックにすることで、かなりの権威をもって海外で読まれただろう。
 そのようにしてこの時期に、日本人の著作が確固たるブランド力をもって海外で広く読まれるという体制を定着させておくことで、将来台頭する中国の力に備えておくべきだったのである。
 ところが日本社会はその重要な時期に、あろうことか国内でお笑い芸人を育てることに熱中していたのであり、今さらそれを行おうにも、現在では日本経済自体が羨望や尊敬の対象ではなくなっている。そのため恐らく海外の読者は今ではそんな本には見向きもしないはずで、こうしてみると何とも残念なことに、日本はその絶好の機会をみすみすどぶに捨ててしまっていたのである。
 確かに現在、日本のアニメやサブカルチャーなどには力がある。しかしそれらと国際会議での大人の学問の間には高い壁があり、アニメが如何に人気があろうとも、そこをベースに国際会議の現場や学会まで攻め上っていくことは至難の技である。そのため通常の常識的なルートでその壁を攻略することは、もはや不可能になっていると覚悟すべきだろう。
■ 「イスラム世界+理系」から浸透ルートを作る
 しかし世界全体を見回すと、実は日本が潜在的に米国以上の強いブランド力を持ちえる場所が一つある。それがイスラム世界である。そしてそれは特に理系・技術系を攻め口にした場合に、かなり強力なものとなることが期待できる。
 とにかくイスラム世界にとっては、日本は非キリスト教文明でありながら独自に技術大国になったという特殊な国である。そのため中東イスラム国側としても、できれば米国よりも日本から科学技術を学ぶという建前をとった方が、国民へのポーズとしても何かと都合がよい。
 このことは書籍を浸透させる場合には重要で、他の国、例えば東南アジアや中国では、日本人の理工学書を翻訳出版しても、恐らく読者が手に取るのは欧米人の著作であろう。しかしイスラム世界ではそうはならない可能性があり、そのため理系の本をイスラム世界向けに出して行って、そこからブランド力向上の突破口を開いていくというルートが、一つの手段として考えられるのである。
■ なぜ文系の本では駄目なのか
 ところでなぜ特に「理系の本」かというと、文系の本の場合、現在の日本では経済や政治の国際的なパワーが弱体化していて、いわば本や学問のバックにある国の力に魅力がないのである。
 むしろ中国の経済学者の本を読んでおいた方が、まだしも将来その経済力をバックにして何か現実につながる可能性があるかもしれない。それに比べると、今の日本は経済のみならず政治や外交はそれに輪をかけて国際的に無力で、これでは日本の政治経済学者の本をわざわざ買って読む気が起こらないのは当然だろう。
 しかし科学技術となればまだまだ日本は強力で、そもそも日本の経済発展の真の理由が理系技術者のおかげだったことは、日本人よりもむしろ海外の人間が良く理解している。そのため将来その力を頼りにしたいという潜在的な願いはイスラム側にあって、それは今もくすぶっているはずである。
 つまりそれに関して十分な質を備えた本であれば、イスラム世界ではむしろ米国より日本人の書籍が選ばれる可能性は十分にあり、そこが一種の橋頭堡(それも文化の「上流領域」の)となって、他の分野にも広がっていくことも十分可能なのである。
■ なぜ今までそのルートが開拓されなかったか
 では今までその絶好の攻め口がなぜ放置されていたかといえば、原因は一つで、要するに日本の理系人間はこれまでイスラムに関心がなく、それを本気で考える人間がいなかったからである。
 そのギャップを埋めることは文系のイスラム研究者がいくら頑張っても不可能で、理系の内部からそれが生まれて来るのを待つ以外にどうしようもなかったというのが現実である。
 その観点からすると「物理数学の直観的方法」は突出してユニークな存在で、この本は日本国内での普及率が高いだけでなく、末尾の章でイスラム科学と数学について言及し、かつては西欧の先生だったイスラム科学がどうして西欧に追い抜かれてしまったかの理由が、理系の人間が納得できる形で述べられている。
 そのように、イスラム文明をむしろ高く評価するという理系では珍しい本となっているため、イスラム世界の学生がこれで物理や数学を学べば、西欧崇拝に染まらない理系技術者として育っていくことも期待できるのである。
 それらを考えると、その目的のためにこれ以上の本はなく、これをアラビア語に翻訳して中東で標準参考書とすることは、日本とイスラム世界の双方にとって極めて有益であろうと思われる。
 【2】 留学生への利便提供
 そして日本の良い理工学書をアラビア語訳して浸透させることは、もう一つ別の面からのメリットも期待でき、それは日本の大学にとっての留学生の問題である。
 現在、日本の大学の多くは、少子化による定員割れに悩んでおり、そして国内人口がもう増えないことがわかっているため、その活路の一つを海外からの留学生獲得に見出している。
 これは地域経済の観点からも無視できない問題で、現在の日本の地方都市では、市内にある大学の存在が周辺の地域経済の要となっていることが多く、そういう市や町では大学が定員割れで閉鎖されることは地域経済全体にとっての死活問題で、留学生の勧誘に望みを託しているケースも少なくない。
 
 ところがそのように留学生を獲得しようとすると、今度は別の問題に悩まされることになる。それは、アジアの留学生たちは本音を言えば米国に留学したいのであり、日本はいわば米国に行けなかった学生が第二志望でいやいや行く留学先でしかない。
 そのため「第一志望として日本へ行きたがる」学生をどこかに育てることは、日本の大学にとって非常に重要な課題であり、日本の魅力を高めるよう努める一方、留学先として日本を選ぶ際の抵抗感を少しでも弱めておくことが必要で、その際にこの話が重要な意味をもってくるのである。
 つまり中東などから留学生を募る際には、この本がアラビア語などに訳されていて、彼らが来日前に自国語でそれを読めることは大きな助けとなるのである。
 これは日本人が欧米の大学に行く時のことを想像すればよくわかるだろう。つまりもし欧米の留学先で標準教科書として広く読まれている本が、和訳されていて留学前に十分に読んでおくことができれば、それは留学生にとって大きな安心となるのである。
 例えば言葉に多少不安があっても、留学先で先生や同僚に「あの本の何ページにあった図の解説が・・・」と言えば、相手国の学生も「ああ、あれね」という形で話が通じるだろう。
 つまりそのように、良い著作を何冊か選んで相手国で翻訳出版しておくことは、その国の学生が日本へ来る際の精神的なハードルを下げて、日本を留学先に考える選択をしてもらうことの助けとなるのである。
 そして現在の日本の理工学書で、その候補となりうる本を何か一冊選ぶとすれば、あらゆる条件から考えて、やはり「物理数学の直観的方法」以上の書籍はないと思われる。
 【3】 日本の出版界にとってのメリット
 またこれは当然ながら、日本の出版界にとってもメリットとなるだろう。つまりもしそのように、日本で出版されたレベルの高い理工系学術書(別に理工系には限らないが)が、何冊もアラビア語訳されてイスラム世界全体で広く読まれるという習慣が一般化していったなら、最初からそれを狙った出版企画が可能になるからである。
 つまり日本国内での発行部数が少なくて利益を見込めないと予想される本は、今までなら出すことはできなかったが、もしそれがアラビア語訳されることを最初から期待できるなら話は別で、何しろアラビア語の場合、その潜在人口は極めて多く、中国語のそれと遜色ない。
 つまりその場合には出版社は、その権利による収益も加味して黒字にできる見込みが立ち、日本国内での出版企画にゴーを出せる可能性が出てくるわけである。
 こういう場合、とにかく突破口を開く役割を果たす本が1冊必要なのであり、その観点からしてもその一冊として「物理数学の直観的方法」はやはり最有力候補であろう。
 
 以上、この本をイスラム世界で翻訳出版する利点について述べてきたが、実際にこれは国全体にとって極めて有効であるため、内外の努力をそこに集中することは十分な価値をもっていると思われるのである。
 
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現在のイスラム世界は何を参考にし、何をなすべきなのか
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