現在のイスラム世界は何を参考にし、何をなすべきなのか
last update: 2012/06/04
はじめに-----なぜ今「日本の理系」が必要なのか
現在のイスラム世界は、欧米が「革命」とおだてた一連の独裁政権崩壊事件から1年を経たが、将来に何の展望も見えないまま、むしろ前より状況が悪くなる傾向が見えている。
そうでなくとも、中国やインドが近代化に向けて目覚しい経済発展を遂げる中、イスラム世界だけがそこから取り残されて一人、遅れた停滞状態を続けている状況にあり、この数十年間、近代化の試みはほとんど失敗して、欧米からはイスラム文明自体が欠陥を抱えた落第生のレッテルを貼られている。
ではどうしてイスラム世界では近代化がうまく行かなかったのだろうか。しかし筆者に言わせれば、方法論そのものに最初から欠陥があり、そもそもその処方箋の手本を誰に求めるかについて、完全に尋ねる相手を間違っているのである。
結論から先に言えば、日本の幕末から明治維新に至る歴史的事例をケーススタディの筆頭に置き、そこと科学技術との関連から答えを導き出す、という方法を採らない限り、最初から答えは絶対に見つからないはずのものなのである。
■ 日本研究を筆頭に置かねば必ず失敗する理由
ではなぜ日本の近代化の事例を筆頭に置かねばならないのかといえば、その根本的な理由は単純である。つまり日本は、過去に西欧文明と接触しながらそれに征服されることなく自力で近代化に成功した経験をもつ最大の、というよりほとんど唯一の文明だったからである。(それは歴史家アーノルド・トインビーの「日本はトルコ以東で西欧帝国主義に侵略されなかった唯一の国である」という言葉にも示されている。)
もっとも昨今では日本経済には以前ほどの圧倒的な力はなく、中国などの台頭もあって、日本はもはやアジアで唯一近代化を成し遂げた国というわけではなくなっている。しかしそれならこれからは中国を近代化の手本にすれば良いかというと、それには大きな疑問符がつく。
確かに最近の中国の発展スピードは目覚しく、日本が数十年かけて行ったことを僅か数年で行って世界の最先端の製品を生産するまでになっている。しかしその秘密は種を明かせば単純で、要するに現在の世界では、最新の製造機械を米国や日本から持っていって中国に据えさえすれば、ボタンを押すだけで誰でもそういうものが作れてしまうからである。
そもそも現代の多国籍企業というものは、いわば体の各部をばらばらに外国に移転してそれらを電話線でつなぐことで成り立っているようなものである。つまり現在の中国の発展とは、要するに国内に大量にそうした多国籍企業の一部が移植され、グローバル経済の巨大化と共に体内でそれらが膨張したことで、中国自体が大きくなっているように見えているのだと言えなくもない。
これは厳しく言えば「自力での近代化」とは似て非なるもので、専門家の間でも、それが結局根無し草で終わるのか、それともそれを苗木としてやがて本物の国家経済の発展となるのかについては意見が分かれている。しかし少なくともこの方法は、グローバル経済と一体化するために自ら文明としての独自性を放棄してしまうという否定的な側面を持っており、これではイスラム世界にとって本当に参考にはなりうるかは疑わしい。
そのように眺めるならば、非西欧キリスト教国の中で独自性を守ったまま自力でハイテク技術大国になった国は、依然として日本しか存在しないことになる。そのため、イスラム世界が本物の近代化を成し遂げようとする際に参考にできるのは、やはりその日本の幕末から明治にかけての近代化の歴史以外に存在しないのである。
■ なぜ日本からそれを解き明かす論文が出てこなかったのか
そして日本の歴史はイスラム世界にとって、もう一つ別の意味でも参考になる。つまりそれを良く検討すると、そこには当時の欧米キリスト教国が宣教師的本能で無理やり押し付けようとした「毒」の部分を、巧妙に選り分けて除去してきた歴史が記されているからである。
そうしたことを考えると、本来ならイスラム世界は、欧米で書かれた論文などを全て捨ててもまず日本にそれを求めるべきだったのだが、今まで日本で書かれたその種の論文がイスラム世界で広く読まれるということが起こっていなかった。しかしそれはそれなりの理由があったのである。
そもそも日本は何しろ国土が小さくて地下資源にも乏しいため、その国力や経済発展はただ高い技術力だけに依存するしかなく、そのため理系技術者の存在に全てが支えられていたと言ってよい。
つまり日本の発展に秘密があるとすれば、それは過去にどうやって理系技術者の厚い層を育成し、そしてその際に伝統文化と科学技術をどうやって融合させたかという、その一点に尽きるはずである。しかしそこを文系の人間だけで完全に解き明かすのは無理で、どうしても理数系出身の人間が理数系の目で歴史を分析するという難題をこなす必要がある。
それだけでも難しいのに、その秘密がイスラム世界に向けた論文として出て行くにはもう一つハードルがあり、そのためにはまず理系出身の物理や数学に通暁していて、なおかつ日本史とイスラム史の双方にある程度通じた人材が必要になる。しかし今まで日本の理系の人間はもっぱら欧米の方だけを向くよう教育されていて、イスラムに目を向ける理系の人材など皆無に近く、もし政府や外務省がそういう論文の書き手を見つけようとしても、人材そのものが事実上存在しなかったのである。
しかしこの論文の筆者はその条件を満たす日本では数少ない存在であり、これまで筆者は日本国内ではもっぱら理系の物理・数学の専門家として圧倒的な知名度を得ていたが、その一方で、著作の中でしばしばイスラム文明を肯定的に論じ、それを理系読者に伝えることを行ってきた。
それゆえ以下の文章は、その難しい条件をクリアしたものとして、あるいは世界で初めてのものであるかもしれない。実際そこには恐らくイスラム世界の人々が初めて目にする内容が含まれている可能性があり、それを考えると以下は、世界的にも珍しい論文として、イスラム世界の人々が欧米のあらゆる論文を差し置いて、まず筆頭に読むべきものであると考えられるのであり、そうした意識を念頭に置いて以下をお読みいただければ幸いである。
この論文の構成
そのためこの論文全体は大きく3つの節に分かれる。それら各節のタイトルは
第1節・日本が近代化に成功した最大の理由=「理数系武士団」の存在
第2節・イスラム世界はどうすれば「理数系武士団」に相当するものを作れるか
第3節・イスラム世界は当面何をすべきか
であり、各項目の内容を簡単に説明しておこう。
■ 第1節について
まず最初の第1節「日本が近代化に成功した最大の理由=「理数系武士団」の存在」では、日本の近代化の成功理由が一体どこにあったのかについて、実はそれはよく言われるような「勤勉さ」が第一の理由ではなく、むしろ武士階層の中に特異な集団が存在していたことこそが、その最大の原動力となったという、これまで全く明らかにされなかった視点から、その秘密を解き明かしている。
そしてこの節はさらに
1−1・理数系武士団とはどのような集団だったか
1−2・この問題に関するさらに詳細な分析
に分かれている。それらについてもさらに概略を述べておこう。
まず「1−1・理数系武士団とはどのような集団だったか」ではこのテーマ全体の概略、つまり日本の武士集団の特異性としてそのような集団が存在していたこと、そして近代になって特にそれと海軍が結びついたことが、近代化成功の決定的な鍵となったことが大まかに述べられている。
そして次の「1−2・この問題に関するさらに詳細な分析」では、その同じ内容をもう一度もっと深く突っ込んで、それを5つほどの話題の形で論じている。特にここでは海外の読者にとって興味深いと思われる珍しい話題をピックアップしたため、そういう読者は各項目をばらばらに一種のエピソードとして読んでも面白いだろう。
そしてこの節全体の結論として、イスラム世界が本当に近代化を成功させようと思ったら、日本の理数系武士団に相当する存在を育成することが全ての鍵で、それを経由しない表面的な近代化・民主化プランは全て失敗するという結論が導かれている。
■ 第2節について
次の第2節「イスラム世界はどうすれば「理数系武士団」に相当するものを作れるか」では、それなら具体的にイスラム世界はどのような形で何をベースにそれを育成すれば良いかに関して、過去のイスラム世界の「イスラム知識人=ウラマー」に注目し、彼らと数学の知られざる関連を通じて、それをベースにそうした存在を育成することこそが、実は問題の鍵だったのではないかということが述べられている。
この節はさらに以下の4つに分けられ、それらは
2−1・「理数系武士団」に相当する存在としてのウラマーとイスラム数学者
2−2・ウラマーはどのようにして独裁君主の力に対抗できたか
2−3・ウラマー層とイスラム科学はどうして没落したのか
2−4・「知識の海」での世界史的決戦
である。さらに各項目それぞれの内容についても、その概略を述べておこう。
2−1・「理数系武士団」に相当する存在としてのウラマーとイスラム数学者
まずこの部分では、なぜ筆者が日本の「理数系武士団」に相当する伝統的存在として、イスラム知識人=ウラマーに着目したのかの理由が述べられている。
2−2・ウラマーはどのようにして独裁君主の力に対抗できたか
続いてこの部分で、かつてのイスラム世界ではウラマーたちが社会的に君主に対抗する力を有しており、現在の独裁体制は彼らが没落してしまったことによる点が大きいと論じている。
そしてなぜ彼らが当時そのようなことが可能だったかを分析し、彼らがそのような力を手にするためには、当時の彼らが数学において世界の先頭を歩んでいたことが、極めて重要な意味をもっていたということが述べられている。
2−3・ウラマー層とイスラム科学はどうして没落したのか
そしてこの部分では、それならどうしてそのイスラム知識人たちが没落して、イスラム文明が西欧科学に追い抜かれてしまったかの理由が、知られざる数学の秘密とからめて述べられている。
この部分は、理系と文系の間にある話題なので、文系読者はもしわかりにくければ飛ばしても差し支えないが、逆に言うと今までそのギャップゆえほとんど明らかにされてこなかった斬新な内容を含んでおり、いわばこの「知識の世界の戦い」こそが、西欧とイスラムの逆転を決定づけた最大の世界史的事件だったという刺激的な内容が述べられている。
2−4・「知識の海」での世界史的決戦
この部分では上の話をややゲーム的な視点で眺め、その「知識の世界の戦い」がイスラム文明の凋落を決定づけたことに関して、その意義はあたかも一種の世界史上最大級の大海戦でイスラムが敗北したことに等しかった、という視点のもと、その戦略的な経過を眺めるという、一種の面白い試みを行なっている。
この部分では、その敗因がどこにあってどうすれば良かったかということについても述べてあり、知られざる世界史の物語として読んでも興味深いのではないかと思われる。
■ 第3節について
そして最後の第3節「イスラム世界は当面何をすべきか」では、以上の議論を踏まえた上で、それならイスラム世界は一体何をすれば現在の混迷状況から脱却できるかについて、従来の常識とは全く異なる新しい結論が述べられている。
その最終的な結論を要約すると、この場合にはとにかくこの「新しい数学とイスラム法学を共に修めた新しいイスラム知識人」(ここではそれを「テクノ・ウラマー」と呼んでいる)を育成することが全ての鍵となり、それが日本の「理数系武士団」と同じ役割を果たすと期待されること、それゆえ現在の付け焼刃の民主化などには期待せず、むしろその育成に全てを集中することこそが、イスラム世界にとっての最終的な解答だという、全く新しい処方箋が述べられている。
そしてこの節は
3−1・イスラム世界の混乱を収拾する意外な方法
3−2・テクノ・ウラマー層が誕生すれば、イスラム世界は何ができるか
3−3・最も能力ある若者は何をなすべきか
3−4・政権側は何をすべきか
3−5・そのどちらでもない一般の若者は何をすべきか
という具合に、様々な立場で現在何をすれば良いのかが具体的に述べてあり、日本の読者の場合、それらを読んでいけば、その際に日本が具体的にどう関わっていけば良いのかを、自然に理解できるはずである。
全体の構成は以上のようなものであり、それではいよいよ以下に具体的な内容に入ることにしよう。
第1節・日本が近代化に成功した最大の理由=「理数系武士団」の存在
■ 日本の近代化を可能にした二つの真の要因
この論文全体の粗筋は先ほど述べた通りだが、それではここであらためて出発点に戻って、本格的に議論を始めることにしよう。まず、そもそも日本が経済・技術大国になった最大の理由とは、ずばり言って何だったのだろうか?
それについては一般には「日本人の勤勉さ」という理由が常識的に言われているが、筆者に言わせれば真の要因はもっと別のところにあって、それはせいぜい三番目ぐらいの要因に過ぎずない。ではもっと重要なその真の秘密とは一体何だったのだろうか。ここでは答えの方を最初に言ってしまおう。
それはまず第一は、日本には「理数系武士団」と呼ぶべき、人数の点では比較的少ないが独特の人間集団が存在していて、それが決定的な役割を果たしたということである。
そして理由の第二は、彼らが表舞台に出てくる際には「海軍」というものが果たした役割が極めて大きく、近代日本においてはその「理数系武士団」が海軍と結びつくことで、西欧科学技術の本格的な導入が可能になったということである。では以下にその詳細を見ていこう。
1−1・理数系武士団とはどのような集団だったか
■ 民衆ではなく武士階級が主導した日本の近代化
そもそもそれ以前の一般的な話として、日本の近代化や民主化はフランスやヨーロッパのように民衆革命が主導する形で行われたものではない。それは基本的に武士階級=古い時代の軍事貴族が主導する形で行われたものであり、その点で同時期の中国で孫文などが行っていたことや他のアジア諸国の場合とは大きく異なったものであり、まずこの点を理解する必要がある。
つまり日本の近代化においては、武士階級が持っていた規律などが(中国などとは違って)大きな役割を果たしていたというわけだが、しかし従来こういう話題が出てくると、とかく日本刀をバックに精神修養をする「武士の伝統」などというイメージ映像が流されて、その延長で議論をしようとするのだが、実はそれだけでは百%本当の説明にはなっていないはずなのである。
それというのも、そのように戦士階級が政治改革の中核となったというだけなら、日本の他にも、トルコなどいくつかの国の事例が存在しており、それら各国の戦士階級の文化や規律は、それぞれ日本と何ら遜色ない立派なものなのだが、それらの国は軒並み本当の近代化には失敗しているからである。
つまり日本の場合その奥にもう一段深い理由が存在していなければならず、特に理数系文化とその伝統精神をどう共存させたかという点に、他国には見られなかった決定的な特徴があったと考えなければ、本当の意味でその秘密を解き明かすことはできないはずなのである。
日本だけの特殊現象=工学部を志願した武士たち
ではそれを知るためにここで日本の歴史を理系の目で眺め、何かそこで他の国では見られなかった特別なことが起こっていなかったかを振り返ってみると、そこには一つ、一見ほとんど目立たないが実は重要な意味を秘めた一つの現象が見られていた。
それは近代化が始まって日本に工学部というものが新設された時に、そこを志望する若者の出身階層がどんなものだったかを調べてみると、日本の工学部では旧士族階級の出身者が占める割合が極めて高かったということである。
一見すると何だかひどくつまらない話で、一体そのどこがそんなに大事なのかと疑問に思った読者もあるかもしれないが、実はこれは他の国ではあまり見られなかったことなのである。
それというのも一般に近代化で古い階級制度が解体されると、旧戦士階級の若者たちは新社会のどこかに新しく居場所を見つけねばならないが、他の国の場合、彼らの大体は軍人となるために士官学校を志願するのが普通だからである。そのためそこがいわば旧戦士階級の移住先となり、地味な工学部などというところには、大体は平民出身者しか集まらないというのが一般的な傾向なのである。
しかし日本のユニークさは、近代化で居場所を失った旧武士階級(の中の一集団)が、移住先として工学部を選んだことであり、逆に言えば日本の工学部は彼らがまとまって入り込んだことで、当時のアジアなどでは見られなかった特殊な集団となっていたのである。そして恐らくそこにこそ、日本だけが近代化をなし得たことの最も決定的な理由が隠されていると考えられるのである。
■ もっと昔から存在していた日本の「理数系武士団」
そしてその観点から日本の歴史を調べ直してみると、実は日本の武士たちと理系技術の世界の接点はこの時に初めて生まれたわけではなく、もっと昔の時代から日本の武士団の内部には、科学的技術に極めて強い関心を示す人間が(人数の点ではさほど多くないものの)一定数存在していて、それが特殊な小集団を作っていたことがわかるのである。
それについてはこの稿ではあまり深入りする余裕はないので詳細は別稿に譲るとして、ここではそれを示す端的な話題を一つだけ述べておこう。
日本の武士の象徴といえば、恐らく誰もが筆頭に挙げるのが日本刀であろう。これは世界的にも美術品としての評価が高く、刀剣全体の中でも別格的な地位を与えられているが、そもそもこの日本刀自体が、日本の武士集団と理系技術世界との関わりを如実に物語る存在なのである。
実際当時の日本刀は、同時期の中国の青龍刀などとは比較にならないほど優れたもので、単に品質が良いというより構造自体からして全くの別物であり、そのテクノロジーはちょうどプロペラ機とジェット機ほどに差のあるものものだった。その技術がどんなものだったかは結構面白い話題なので、もう少し突っ込んでみよう。
■ 日本刀に秘められていた驚異的テクノロジー
日本刀をご覧になったことがある方ならば、刀の側面に波型の模様が浮き出ていることに気づかれるのではないかと思う。これは日本刀だけの特徴だが、実はこれは単なる装飾ではない。むしろこれは構造上の問題で、日本刀は性質の異なる何種類かの鋼材を貼り合わせるという特殊な方法で作られているため、その接合面が、研いだ時に波型模様になって浮き出てしまうのである。
世界の他の刀剣は、単一の鋼材から出来ていたのでこういう模様は現れないが、日本刀の場合そのような特殊な構造を持っていることで、他の刀剣とは戦法自体が異なる独自のものとなっていた。
世界的に見て、一般に刀剣というものは、その用法において大きく二種類に分かれる。つまり鋭い切っ先で突き刺すことをメインにするか、あるいは横に振り回して肉切り包丁のように刃面の切れ味に物を言わせるか、そのどちらか一方を選択せねばならないのであり、刀剣自体が前者に向く細い剣と、後者に向く太い刀に二分されることになる。
どうして両方はできないかというと、前者のように突き刺すことに向くような細身の長い剣では、後者のように横に振り回して刃面で物を切ろうとすると、横方向の衝撃に耐えられずポキンと折れてしまうからである。一方、刀をもっと太くして刃身を幅広にすれば確かに折れにくくはなるが、そうすると今度は刀全体がナタのように太くなって、突きには向かないものになってしまう。
そのため世界中の刀剣は、フランスの「三銃士」でダルタニャンが軽快な突きを食らわせている細い剣か、中国の「三国志」で関羽が振り回しているような巨大な斧のような刀か、そのどちらかに二分されてしまうのである。(トルコの半月刀なども後者に分類されると思われる。)
ところが日本刀の場合、性質の全く異なる何種類かの鉄を組み合わせた複合材を刀身に用いることで、細長くて折れない刀を作ることを可能としていた。現代の金属工学では、鉄に含まれる炭素の量を調節することでそういうことが出来ることが知られているが、日本刀にはすでにその技術が使われていたのである。
■ 武士たちが秘めていた強い技術的志向
そのため日本刀は、鋭い切っ先で「突く」ことと、横に振り回して剃刀のように鋭い刃面で切りつけることの両方を、一本の刀で同時に行うことが出来るという、世界の他の刀剣にない特性をもつようになったのであり、これほど高度に科学的な造刀法で作られた刀剣は、当時ヨーロッパも含めて世界中どこにも存在しなかった。
そしてこの「一本で両用に使える」ことによって、当然ながらその特性を活かした独特の戦法・用法が可能となるわけで、そのためにわれわれが知っているサムライの殺陣は、世界でも独自のスタイル(映画「スターウォーズ」でも特にモデルにされたように)として発達したのである。
逆に言うと日本の武士たちは、この中国には存在しなかった新しい刀の登場によって、その戦闘様式を、構えから何から新しいものに改めることをどこかの時点で一斉に行ったことになる。
しかし実はこうしたことは、戦士団と技術者の間にある程度重なった部分が存在していない限り、決して起こりえないことなのである。そもそも古今東西、軍人というものは大体は保守的な人種であり、儀礼を重んじる集団ほど、彼らの持ち物に素人やよそ者が改良を加えることに拒絶反応を示したがる。
そして一般に彼らの社会では、戦場の肉体的勇気を誇示する者が威張り散らして、後方の輜重隊や技術に携わる者を見下す傾向があり、ましてや戦法に対する口出しを「素人の」技術者が行うなど言語道断で、彼らが持ってくる新兵器などは机上の空論と頭から馬鹿にして、テストの結果すら見ようとしないというのが普通なのである。
そのためその中の一部に、武士と技術者の両方の性格を持った人間がある程度まとまった人数で集団として存在していない限り、そういうことは起こらなかったものと想像されるのである。
■ 中世日本の科学者集団?
そして日本にはもう一つ、そのような武器・道具に科学的な工夫を加えることを得意としていた集団があり、それが忍者集団である。海外の映画などではもっぱら彼らの超絶的な身体能力がクローズアップされているが、日本人がその本当の史実を見て感銘を受けるのは、むしろ彼らが独自に工夫していた道具や武器の面白さである。
中にはどうやって使うのかわからないものや、明らかにアイデア倒れで実用性の疑わしいものもあるが、とにかくそれらは驚くほどの工夫がこらされていて、まるで007の秘密武器の元祖とでも言うべきものだった。そして彼らは火薬調合などの化学的知識にも通じており、恐らくそういう新知識が当時の一般人の常識を超えていたことが、そうした超絶的な伝説の源となったのだと考えられている(そのため彼らを「中世日本の科学者集団」と呼ぶ人もあるほどである。)
ところが彼らの文化のそのような独創性に比べると、同じ日本文化でも他の部門を眺めた場合、例えば磁器や書画などでは、中国などのオリジナルに地味な品質向上を加えて徐々に独自のものにしていくパターンをとることが多く、そのように突出して質的に独創的な科学的工夫がなされたものは、武器以外の分野ではあまり見られなかった。
それらを考えると、どうやら日本の武士団の中には、理数系への強い志向を持った集団が遥か昔から存在したことが推察され、もともと工学部へ行きたがるような人間がある程度の人数だけ存在していて、その「理数系武士団」という特殊な集団が近代において決定的な役割を果たしたのではないかと考えられるのである。
■ 日本の近代化成功のもう一つの重要条件・海軍の存在
しかし日本でも近代以前の時代には、彼らは多くの場合、刀の製造や諜報部門のようなどちらかと言えば単なる裏方的部分に追いやられて、表舞台に出てくることは稀だった。
ところが19世紀末になって、日本にはその状況を変えることになる重要な要素が出現する。それは近代海軍というものの登場である。
つまりこの時、それら理数系武士団はこの近代海軍の建設と結びついたことによって、本格的に表舞台に出てくることが可能になったのであり、そしてそのことが、結果的に国全体の近代化を進める上でのもう一つの大きな原動力になったと考えられるのである。
そのように思って日本の歴史を振り返ると、それ以前の時代にも彼らは時折、歴史の節々において例外的に歴史の表面に一時的に顔を出すことはあった。そしてその際には共通して見られる一つの現象があり、彼らは何らかの形で「海」と結びついていた時にのみ、海軍力を担う存在として表舞台に顔を出すことが可能となっていたのである。
しかし当時の日本は、内陸国家を志向して海への扉を自ら閉ざしていため、その機会は常に限定的なものに留まっていた。ところが近代化に伴う開国で、とうとう日本は海に向かって扉を開くことを余儀なくされ、そして近代海軍を整備する国家的必要に伴って、ついにこの理数系武士団も本格的に表舞台に出てくることになったのである。
■ それによって突如強大化した日本
そしてこれはまた「どうして日本は近代になって突然、世界史の重要パワーとして登場したのか」という疑問に対する答えでもある。実際それ以前の時代には日本のパワーは(鎖国していたこともあって)ほとんど国の外に出てこず、国際的にその影響力は存在しないも同然の微弱な存在だった。
ところが19世紀末に開国するや、日本の力は一挙に強大化し、アジアというより世界史そのものを大きく動かすほどの強大な存在に変貌する。それはこの日本の「理数系武士団」という秘密兵器が活動状態に入り、その力が海軍と結びついたことが最も大きな原因だったと考えられるのである。
それを示すように、当時の日本が持っていたいろいろな力の指標を眺めると、海軍力だけが突出して巨大だったことがわかる。実際その他の部門を見ると、例えば経済力では当時の日本はまだ世界のベスト10にも入れず、ベスト20も怪しいほどだったが、海軍だけは早くも世界の三大海軍の仲間入りを果たし、米海軍さえ脅かすほどのものとなっていた。(実際それを示すかのように、海軍史上、米海軍の正規空母を撃沈した経験をもつ国は、ただ日本一国だけである)。
これを見ても、「理数系武士団」が近代海軍と結びついて表面に出てきたことが、日本の国際的な力の急速な巨大化の本質であったことがよくわかるのではないかと思う。
■「海軍」が工学部と武士をつないだ
実際に日本の近代化において、海軍が果たした役割は決定的なものだった。そもそも日本における近代科学技術の受容は、大学などの教育機関ではなくむしろ海軍がその窓口となっている。つまり蒸気軍艦を運用するためオランダ海軍から教官を招いて建てた、日本最初の海軍技術学校である「長崎海軍伝習所」から日本の近代科学の受容が始まっており、後の数学界を支える人材もそこから育っていったのである。
逆にそのように考えると、なぜ日本では工学部に士族出身者が多く入るという珍しい現象が起こったのかがよくわかる。つまりそれら旧武士階級の子弟が工学部を志望する際、その精神的動機の中には「海軍の一翼を担う」という意識が少なからず混じっていたと考えられるのである。
彼らはもともと武士団の中でも理数系の工学への好みの強い人間だったが、そんな彼らが近代海軍について知ったとき、これからは肉体的に刀を振り回す人間はもはや戦士団の主役でないことを即座に認識した。そして特に島国である日本では海軍がこれからの国防の主力で、そこでは優れた造船・工学技術こそが重要であることを理解したのである。
その観点からすると、工学部というものはいわば海軍の土台をなす姉妹組織ないし外郭団体として見ることができ、彼らにとっては海軍という概念を介することで、「武士階級の伝統」と「工学部を志望すること」が、当たり前のように一本の線でつながっていたのである。
■ なぜ日本はトルコと違う道をたどったのか
そしてこの「海軍」というキーワードは、イスラム世界の人々にとっては「どうして日本とトルコは20世紀に同時期に近代化を始めたのに、その結末が大きく分かれたのか」という、重要な問いに対しても答えを与えることになる。
実際トルコと日本がたどった道の違いを理解するのに、これ以上明確な説明はないと思われ(これについては後ほどもう少し詳しく述べるが)、トルコは日本にやや遅れてほぼ同時期に近代化を行い、そしてその際には日本と同様に武士団=旧エリート軍人層が大きな役割を果たした。
ところがトルコの場合、それらが全て「陸軍」の中に入り込んだという点が違っており、その精神や活力が海軍と結びつくということは希薄だった。そのため日本のように旧戦士階級出身の若者が工学部を志望するということはほとんど起こらず、厚い技術者層の基盤が生まれなかったのである。
■ この部分の結論
ではこの部分をとりあえずまとめておこう。それは
・日本の近代化が成功した最大の理由は、実はよく言われる「勤勉さ」が一番の要因ではなく、むしろ「理数系武士団」というものが存在して、それが武士の規律と科学技術の橋渡しをしたことこそが、その最大の理由である。
・彼らは日本の歴史においては「海」と結びついたときに例外的に表面に顔を出しており、近代の日本では、海軍の存在が彼らを表舞台に押し出す決定的要因となった。
ということである。
これが正しいとすれば重大なことで、もし日本という「参考にできる唯一の成功例」の真の秘密がそこにあったとなると、今までの欧米側からの分析や提言ではそこがほとんど考慮されていなかったことになるからである。逆に言えば、イスラム世界が19世紀からの近代化に失敗し続けた理由もここから解き明かすことができることになるわけであり、そのため次の1−2で、これをもう少し掘り下げて論じてみよう。
1−2・この問題に関するさらに詳細な分析
それにしても前の1−1で述べたことは、イスラムの近代化を考える上で非常に重要と考えられるため、ここではそのために特に役に立つと思われる話題を5つほどピックアップして、それらについて深く検討してみたい。それらの内容は
話題1・なぜ古い伝統的エリートの精神的な遺産を引き継がないと新社会はうまく行かないのか。
話題2・トルコと日本のたどった道はどのように分かれたのか。
話題3・日本の経済発展は海軍の遺産にどのぐらい助けられているのか。
話題4・日本は宣教師の持ち込む害の部分をどうやって選り分けたか
話題5・日本が古い武士的精神を温存して近代化を行った弊害はどこに出たか。
などである。
これらは日本の読者にとっては、単に先ほどの1−1の結論をもう一度深く突っ込んで論じたものなので、以前の内容を十分納得できたという人はさほど熟読する必要はなく、そういう方は興味のある項目だけを拾い読みして、最後の「まとめ」に進んでも良い。
しかし海外の読者にとっては、極めて面白い情報が詰まっており、今まで聞いたことのない話題も相当に混じっていると思われるので、是非とも一読されたい。
それではまず第1の話題について眺めてみよう。
【話題1】 なぜ古い伝統的エリートの精神的な遺産を引き継がないと、新社会はうまく行かないのか
■ 忘れ去られた一つの重要な法則
とにかく現在の欧米が推奨する民主化プランがなぜうまく行かないかは、先ほど述べた点を無視していることが大きいと思われるが、そもそもそこでは、昔の政治学で一つの知恵として伝えられてきた一つの重要な法則が、まるごと忘れ去られているのである。
その法則とは何かというと、こういう場合新しいエリートをどう育成するかが問題となるが、それはただのエリートでは駄目で「上から三番目のエリート階層」を強力な集団として育成することが極めて重要だということである。
■「上から三番目のエリート層」が鍵を握る
しかし「上から三番目」とは一体何のことだろう?いきなり言われて面食らった読者もあるだろう。それはどういうものかというと、実はこれは古典的な政治学の話で、それは古今東西、社会階級を上から
1・王族
2・上級貴族
3・下級貴族
4・民衆
の四つに分けたとき、上から三番目の「下級貴族」が強い力をもっているとき、その社会は最も活力があって健全だという一般法則である。
これはむしろ昔の18世紀ごろまでの政治学では良く知られていたことで、逆に19世紀に入って忘れ去られてしまった。それというのもフランス革命以後、米国の大衆民主主義にせよマルクスのプロレタリアート独裁の思想にせよ、とにかく社会は一番下の「民衆」が全ての権限を手にしている状態がベストなのだという神話が蔓延したからである。
しかし今やわれわれは苦い挫折感と共に、その神話が誤りだったことを知っている。現代の世界がまさにその見本で、大衆や民衆層はとかく無責任なメディアに踊らされやすく、ヒステリックな感情論や目先の欲望の虜になって、近視眼的な方策を次から次へ渡り歩くばかりで、誰もそれに歯止めをかけられない。
現在の中東の無秩序状態もその一症例だが、しかし一方において、一番上の王族でも駄目なことはこれまた明らかだろう。そもそも現代の独裁政権はこれなのであり、歴史的に見ても一番上の君主が権限を持ちすぎている社会は、すぐに独裁化して専制君主国となってしまう。
そのため消去法で行くと、その間にあるエリート層に期待するのはどうかという話になるのだが、ここで一つ重要なことがあり、それは同じ貴族的エリートでも、上から二番目の上級貴族と三番目の下級貴族では天と地ほどに違うということである。
そして歴史を慎重に眺めると、洋の東西を問わず、上から三番目の「下級貴族」が最も力をもっているとき、社会は最も活力があるということが、経験的事実として言えるというのがこの話である。
■ なぜ上級貴族では駄目なのか
では両者はどう違っていて、どうして「上級貴族」は駄目なのだろうか。そもそも彼らをどのような存在としてイメージすべきかというと、上級貴族の社会というものは現代で言えば、ちょうど芸能界を思い浮かべれば近いかもしれない。
つまりその最大の特徴は、そこが基本的に「有名人」で構成される世界だということである。そして一般に芸能スターである彼らは、とかく宮廷の中で権勢争いに熱中して外の社会のことなど眼中になくなり、やがて宮廷の中で腐敗する運命をたどるのである。
一方それに対して「下級貴族」はどんな存在かというと、彼らは基本的に宮廷の住人ではなく、むしろいわば現場の技術エリートである。彼らは幼少から将校としての教育を受けて育ち、生まれつき一般兵士よりは一段上の地位にあるが、基本的には無名の将校たちであって、新聞に彼らのゴシップ記事が載ることは滅多にないし、大衆がそれを読むこともない。
そのため彼らは大衆の目を気にしてスターの役割を演じる必要はないが、部下の兵士たちの目は大いに意識せねばならない。そして兵士たちをちゃんと動かそうと思ったら、どうしても彼らの敬意を勝ち取らねばならないが、何しろ近くで直接見られているため、それを行うことは遥かにごまかしが効かない。
そのような事情もあって消去法で行くと、結局はこの下級貴族が独裁権力からもメディアのデマゴーグのどちらからも相対的に最も遠く、この層が強い社会が最も健全だということになる。
これは洋の東西を問わないことで、中国の古典的な政治学では、上級貴族を「卿大夫(けいたいふ)」、下級貴族を「士大夫(したいふ)」と呼び、上から三番目の後者が社会を支える最も重要な存在だと見なしていた。
そして日本の場合だと下級武士がこの三番目の層に相当しており、実際に幕末から明治時代の近代化の際に主力となったのは彼らである。(一方日本の歴史の場合、平安貴族などが二番目の層の代表であろう。)また英国ではジェントルマン階級がそれに相当し、18世紀から20世紀前半にかけて英国をヨーロッパの先頭に立たせ、近代文明全体を引っ張ってきたのがこの層だった。
これは非常に重要な経験的事実で、実は近代化を行う際に、新社会を担う新エリート集団がこの層に生まれるかどうかが、一つの大切な条件になるのである。
■ 過去の精神的遺産の力なしでは三番目の層にエリートは育たない
そして日本の「理数系武士団」はまさにその「上から三番目のエリート層」として存在したため、ひいては日本の近代化そのものを成功させる真の原動力となったのである。しかしそれは逆に言うと、この層に新エリート集団を育てることがそれだけ難しいということであり、それが先ほど述べたことと重要な関連をもってくる。
それというのも、そういう形でその層に新エリート集団を育てる際には、何らかの形で旧エリート層が持っていた規律や社会的尊敬をそこに移植することが必要で、それができない場合には大体は失敗してしまうのである。
それは、上から全く新しく人工的にエリート層を作り上げようとした場合の困難を考えればすぐにわかる。つまりそういう場合、その新奇なポストや職種は怪訝に思われるだけでまだ民衆からは何の尊敬も受けておらず、若者がそこを志望すると家族に宣言しても親や兄弟は喜ばないだろう。そういう場所に優秀な人材を引き寄せるとなると、やはりカネや待遇、あるいは権限・特権をそのポストに用意し、それらを餌にして人材を集めねばならない。
ところがそうなるとそれだけが目当ての人間が集まってきてしまい、そんな根無し草のエリートは伝統に殉じる誇りもなく、金と権力がなくなればたちまち誰も頭を下げてくれなくなる脆弱な存在である。そのため国のために身を犠牲にして努力するよりも、とにかく金と権力を貯め込まねばならず、少しぐらいの理想をもった若者がそこにいても、すぐにその渦に呑み込まれてしまう。
そして多くの場合その権勢争いに勝ち残った者が上級貴族化する一方で、競争の落ちこぼれ組が下級貴族層を形成し、後者は一種の敗北者として誇りを失い、ただ上級貴族に這い上がることだけを人生の目的とする存在となって、国を支えるどころか上級貴族以下の腐った弱い集団になり果てる。
そうなると、ただでさえ尊敬されていなかった彼らはますます民衆から軽蔑され、逆に彼らの側も民衆から搾取することだけを考えるようになるという、一種の悪循環に陥るわけである。
■ メディアや独裁権力の力では二番目の「上級貴族的エリート」しか作れない
そして先ほども少し触れたが、現代世界では芸能界など、メディアの強い影響下で作られる人工的な貴族エリート階級は、どうしても二番目の上級貴族的な世界を形成しがちである。
一方軍事技術・科学技術など、技術将校エリートを中心として形成される小社会は、三番目の下級貴族的世界に似た性格を帯びることになる。
そして短期間で人工的に貴族エリートを作ろうと思ったら、前者の方が遥かに作りやすい。実際にしばしば独裁者がその取り巻きとして作る「金ぴか貴族」はそうした存在で、彼らは上級貴族が持つ問題点を全て抱え込んで、足の引っ張り合いと蓄財だけがそこに残ることになる。(現在の「中東民主化」を眺めると、恐らくアフガニスタンの政権の幹部なども民衆からはそう見られているのではあるまいか。)
とにかく前者はメディアか独裁権力かいずれかのパワーを使えばすぐに作れるのだが、後者を作り上げるにはその集団の核となる強い何らかの伝統が必要で、そう簡単に人工的に作ることはできないのである。
これを見ると、日本の理数系武士団の場合、過去の武士階級の精神的遺産を引き継いでいたればこそ、特殊で強力な「上から三番目の層」を形成することが可能だったということがよくわかる。
【話題2】 トルコと日本のたどった道はどのように分かれたのか。
■ トルコの陸軍が相続した精神的遺産
ところで先ほどの1−1でも、日本とトルコは20世紀においてかなり近い条件にありながらどうして違う運命をたどったのかという問題について簡単に触れたが、今度はその話題についてもう少し詳しく見てみよう。
先ほどの話ではトルコの場合、途中まではかなり似たプロセスをたどったにもかかわらず、旧世界のエリートだった戦士団がもっぱら新生「陸軍」の中に入り込んだということが大きな違いで、それが日本との結末を大きく分けたと述べた。
それにしても筆者が20世紀のトルコ共和国史を眺めてつくづく思うのは、そこでの軍の存在の大きさであり、まさしくその精神が近代トルコ共和国そのものを支えていたということである。
実際そこでは世俗権力の政治家はすぐに腐敗してしまうのだが、20世紀後半のトルコ共和国の歴史を眺めると、そうなった時には軍が登場してクーデターを起こすということが幾度となく繰り返されている。
それだけなら他の国でも見られることだが、トルコの特異性は、軍が権力そのものには執着せず、そのように腐敗した政治家を一掃して新しい政治家を政権に据え、ひとたび掃除を終えてしまうと、決然として政治の世界から去っていくということである。そのような例は他の国ではなかなか見られるものではなく、そのため市民の軍人に対する尊敬の念も強かったと聞く。
トルコ軍(特に陸軍)がどうしてそのような精神を持つに至ったかというと、それは何と言っても近代トルコ共和国の事実上の建国者であるケマル・アタチュルクが作り上げた伝統によるものであろう。ケマル・アタチュルクは彼自身が陸軍軍人であり、第一次大戦のガリポリ防衛戦で名を上げた英雄である。そして戦後に権力を握ると理想的な独裁者として君臨し、いかなる政治家よりも廉潔で様々な改革を成し遂げていった。
これを見ると、その後のトルコ軍の将校たちが彼を鑑として生きてきたことはほとんど間違いがない。そしてトルコ軍そのものについて言えば、確かに近代以降は赫々たる勝利の実績はないものの、オスマン・トルコ帝国軍といえばかつてはヨーロッパを震え上がらせた最強の軍隊であり、20世紀後半の国際社会でも、トルコ軍は地理的に黒海方面でのソ連軍の進出を抑えるためのNATOの重要メンバーとして、国際的にもその立場は非常に重視されていた。
つまり近代トルコ共和国の軍はその二つの伝統と名誉を引き継ぐ形で生まれた新しいエリート集団だったのであり、その意味では日本の武士団以上の存在であったと言えるかもしれない。そして民衆も旧世界から引き続く形で社会的尊敬を新時代の軍人たちに向けたため、軍はそれらの名誉を相続する形で、金や権力に執着することなく、共和国の良い政治のためだけに集団で動くことが可能となっていたのである。
■ ケマル・アタチュルクのジレンマ
しかしケマル・アタチュルクは、陸軍をそのような新エリートとして育てることには成功したが、その一方で世俗政治家を国を支える新しいエリートとして育てることには完全に失敗した。
そもそも彼の人格を世俗政治家に引き継がせることは基本的に難しい。それというのも彼は死ぬまで絶対的独裁者であり続けたため、軍人たちは彼の人格をその独裁性ごと引き継ぐことができたが、議会政治家たちは民主主義のルールを守る人間であろうとする限り、それを百%手本とすることはできない。
そしてケマル・アタチュルクのもう一つの皮肉は、彼が有能な社会改革者として徹底した西欧化を断行し、イスラム社会の伝統を根絶しようとしたことにある。一説には彼は日本の明治維新を参考にしたのだとも言われるが、とにかくトルコ語の文字をアルファベットに完全変更したり、女性の社会進出を推進したりと、ある部分では日本の明治期の改革を凌ぐほどだった。
しかしそれは同時にトルコの国民や社会全体を旧社会の伝統と完全に切り離してしまうことを意味し、その結果、新生トルコ共和国で議会政治家を志す人間は、過去の旧エリートの名誉や伝統もケマル・アタチュルクの人格も引き継ぐことができず、必然的に民衆からの敬意も相続できなかった。
結局は彼らは人工的な根無し草の金ぴか上級貴族として、腐敗と権力闘争に明け暮れる人間集団にしかなることができず、近代民主主義を支えるべき文官の政治家は、トルコにおいては健全な形では育たなかったのである。
そして世俗政治家が育たなかったかわりに、トルコでは軍が国を支える存在となったわけだが、しかしそこでは陸軍がもっぱら旧エリート=戦士団の伝統や名誉を引き継いで余りに大きな存在となったが故に、海軍と工学部はどちらかといえば脇役としてその陰に隠れる格好になってしまった。そして特に科学技術の面で、その事実が日本と20世紀の歩みを決定的に分けたのである。
(注)もっとも、文民の議会政治家が真のエリートとして育たなかったという点では、日本もトルコと似たようなものだったかもしれない。実際20世紀前半の日本では、陸海軍が旧世界のエリートの伝統を引き継ぐ存在となって、時に勝手に外交までも左右したのであり、現在の日本の政治について海外から良く言われる「経済(というより工学技術)は一流、政治は三流」というよく言われる傾向も、見ようによってはその結果である。
【話題3】 日本の経済発展は海軍の遺産にどのぐらい助けられているのか。
■ 海軍戦術の先頭を歩んでいた日本の海軍
それにしても日本の場合、「海軍」という仲介者の存在がどれほど大きかったかは、実際にその歴史を眺めてみない限り到底理解できるものではあるまい。そこで次の話題として、日本の旧海軍の遺産がどの程度、現在の日本のテクノロジーを支えてきたかについて見てみたい。
これは海外の読者にとっては、欧米の文献からははなかなか知ることのできない、貴重な情報かと思われる。実際その具体的なエピソードを知らないと、その全体的な重みが一体どの程度なのかはやはり実感としてどうしても理解できないのである。そしてそこが認識できていない場合、第二次大戦後の日本の技術的発展が、占領軍である米国が与えてくれた技術のコピーにもっぱら依存しているという錯覚から抜けられず、下手をすれば将来のプランを大きく誤る危険もないではないのであり、日本の読者は一種のコーヒーブレークとして、以下の話にお付き合いいだだきたい。
さて日本海軍のテクノロジーは、第二次大戦の時期にすでに実は模倣の段階を大きく脱しており、そのいくつかは米軍が戦後にコピーしたほどだった。そしてここで注目すべきは、純粋なテクノロジーの面のみならず、ソフトウェア面ともいうべき海軍戦術の分野では、近代化をスタートさせて僅か2〜30年で日本海軍は世界の海軍戦術の先頭を歩んでいたことである。
その代表的なものが、第二次大戦の40年前の日露戦争の際、ロシア艦隊と戦った1905年の日本海海戦において日本海軍が編み出した「逆T字戦法」であることに異論はあるまい。
これはそれまでにない斬新な戦術で、戦後に各国海軍が競ってそれを採用した。実際にその後、第一次大戦の最大の海戦となったユトランド沖海戦でも英海軍がこれを使おうとしたし、また米海軍でも「ツシマ」の名で海軍戦術の最大のお手本として士官たちに研究され、第二次大戦で米海軍を率いたニミッツ提督をして「この戦法でツシマの東郷提督のように戦ってみたいというのは、われわれ全ての米海軍士官の夢だった」と言わしめた。
また現代の空母の運用思想においても日本の寄与は大きく、現代の超大型原子力空母の運用思想はむしろ日本に源流があると言ってよい。それというのも、実は当時の米海軍の運用思想は日本より遅れたものだったからである。
空母といえば米海軍という印象があるが、第二次大戦前の米国では空母はあくまでも脇役で、主役である戦艦の「目」となる偵察機・観測機を飛ばすことを最大の任務として、戦艦部隊に1隻づつ随伴するという思想で運用されていた。ところが日本海軍はそれを逆転させ、むしろ空母の艦載機の攻撃力そのものを海軍力の主力とする、という新しい用兵思想を採用し、空母戦力を集中させて機動部隊を編成するという、新しい戦術に移行していた。
つまり「空母が海戦の主役になる」という常識は米国ではなく日本海軍によって確立されたと言ってよく、真珠湾の成功もそれによるもので、米海軍はそれを見てすぐにコピーし、現在に至っているのである。
■ 米海軍がコピーした日本海軍のテクノロジー
一方純粋なテクノロジーの面でも米国が戦後にコピーしたものがいくつかあり、以下にそれをいくつか列挙してみよう。
(1) 現在のほとんどの海軍が保有する対潜哨戒機には、空から潜水艦を探知するために「磁気探知機(MAD)というものが装備されている。これは海中に潜水艦が隠れているとその位置の地磁気が鉄の船体の影響で乱れるため、その磁気を感知することで潜水艦の位置を探り出す装置なのだが、これを最初に実用化したのが第二次大戦中の日本海軍だった。それを米軍が戦後にコピーして発展させ、世界中の標準装備となったのである。
(2) 一方潜水艦自体についても、大戦中にすでに日本の潜水艦は当時の米海軍の潜水艦にはない装置がついており、一般に潜水艦というものは潜航中に海中で静止状態を維持し続けるのが難しい。放っておくと浮くか沈むかのどちらかに傾いてしまうため、何時間も水中で待機するには、機関をこまめに動かして深度を元に戻す作業を延々と続けねばならず、その労力は大変なものだった。
ところが日本海軍の潜水艦だけは、スイッチを一つ入れるだけで自動的に海中の一点で静止できる装置が装備されていた。当時の各国の潜水艦にはそのような装置はついていなかったため、戦後米海軍がそれを持ち帰ってコピーし、その後の米海軍の潜水艦にも装備されるようになったのである。
(3) また水中で高速を出せる潜水艦に関しても、日本の方が研究が進んでおり、特に末期の「伊201潜水艦」は、ドイツの新型Uボート21型と並んで(共に戦争には間に合わなかったが)、当時最高の水中速力を誇っていた。その外見は共に驚くほど先進的だったが、ここで興味深いのは両者の司令塔=セイルのデザインで、その形状が両者で異なっていたことが、戦後の原潜の発展史に与えた影響である。
戦後世界のソ連原潜と西側原潜の外見を比べると、このセイル部分のデザインが異なっていることに気がつく。写真を見れば一目でわかるように、ソ連原潜の場合には瘤のように丸い形状で背中が傾斜しているのに対し、西側原潜のセイルは四角く背びれのようにぴんと高く立っているのである。
ところが同じような違いがこの日本とドイツの潜水艦の間にも見られていたのであり、そしてドイツの新型Uボート21型のそれはソ連原潜に似ていたのに対し、日本の伊201潜の場合は西側原潜のそれに似ていたのである。(もし写真を入手できたら比較されたい。)
しかしソ連原潜の場合にはそれは偶然ではなく、ソ連軍はドイツを占領した際にこのUボート21型を本国に持ち帰って研究し、それを参考にしたことを正式に認めている。ところがここで興味を惹くのは、米国も戦後にこのUボートを本国に持ち帰ったのだが、それだけでなく日本の伊201も本国に持ち帰ってテストしていることである。
つまり米国だけが後者を持ち帰ったために、両者のデザインが分かれて発展したとも考えられるのだが、一般に米国の文献は日本の技術から影響を受けたことを書かない傾向があるので、本当のところはよくわからない。
ともあれそれが本当だとすれば、西側原潜のデザインの源流は実は日本にあったことになるが、ただ惜しむらくは日本の場合、せっかくの技術が効率的に組織化されて運用されなかったため、多くが戦争に間に合わず、必ずしも全体として有効な戦力にはならなかったのである。
(4) またこれは直接米軍がコピーしたわけではないが、現代の最新鋭ジェット戦闘機の多くには、機動性を向上させるための「空戦フラップ」というものがついている。つまり飛行機が急旋回する時などには、主翼の揚力が大きいほど鋭いターンができるため、急旋回する一瞬のタイミングで主翼のフラップを開いて揚力を増せるよう、コンピューターの自動制御でフラップを開閉するようになっているのである。(これはF16戦闘機などにも装備されている。)
ところが日本海軍の末期の戦闘機には、早くもこの自動制御式の空戦フラップが装備されていた。ただし当時はまだコンピューター制御の技術がなかったので、機体にかかる加速度のGを水銀で感知してそれを電気信号に変換するという点が違っていたが、とにかく米国ではP51戦闘機などの新型機にさえ、そのような自動制御の装置はまだ装備されていなかったのである。
以上、目についたところを列挙してみたが、それにしても例えば近代トルコ共和国の歴史の中を見ると、この部分が全く欠落していることが、読者にはよくわかるのではないかと思う。
■ 戦後の技術発展を支えた旧海軍の遺産
そしてこれらの技術は敗戦後に日本が廃墟から再出発する際に、遺産として大きく貢献することになった。
例えば日本の造船業は1970年代ごろには、技術的に世界のトップレベルにあって巨大タンカーの世界を席巻していたが、それらの船首に採用されていた「球状船首」は、船を高速で効率良く走らせるための技術として、戦艦大和において研究されていたものを応用したものだった。
また日本の新幹線は、戦後に日本独自の技術として開発され、その存在自体が世界全体で高速鉄道という分野そのものを開拓する役割を果たしてきたが、当時はその車体の空気力学的な設計において、大戦中の海軍の爆撃機「銀河」の機体デザインがイメージ上の参考になったとのことである。
もっとも、大戦中の日本の技術には大きな弱点があり、それはエレクトロニクスと品質管理システム(部品の規格化)の2点である。そのため少なくともそこだけは戦後に米国から学んで集中的に採り入れねばならず、戦後技術がその上に立って再出発したことは事実である。
むしろ敗戦を経験した技術者たちは、その点が日本の技術的弱点だったことを痛感していたため、他国以上に努力をそこに集中し、その成果が先ほど述べたような他の日本独自の技術遺産と結びついたことが、結果的に戦後の大きな技術的発展をもたらしたとみるべきだろう。
ともあれこれを見ると「日本経済は第二次大戦後に米国が教えた技術をコピーして経済大国になった」というイメージは、現実とはかなりかけ離れたものだったことがわかる。
そのためもし現在の中東やアジアの高官でそのイメージを信じ込んで「だからわが国も米国のコピーに専念すれば同じことができるだろう」などと考えている人がいるとすれば、それがどれほどとんでもない思い違いであったかが理解できるのではないかと思う。
逆に言うと、日本側は従来こうしたことをあまりアピールせず、それは謙譲の美徳と見ることもできなくはないのだが、結果的にそうした重要なことが途上国に十分伝わらず、方針を大きく誤らせる害を生んでいる可能性があることは否めない。そのためこれらをもっと正しく伝えることは、図々しいと言われようと、むしろ日本にとっての義務と言えるのではないかと思えてならないのである。
【話題4】 日本は宣教師の持ち込む害の部分をどうやって選り分けたか
■ 近代日本が議会制を採り入れた理由は?=海賊と民主制
では次の話題として、日本は過去に宣教師という存在とどううまく付き合ったか、そしてそれに関連する話題として、日本が近代化を行ったときの精神的な推進力が、本当に民衆の「自由な民主社会への憧れ」だったのか、という点について見てみたい。
それというのも、日本が経済の面で大国となったことについて、海軍の寄与は先ほど見たように大きなものだったが、政治面つまり日本が君主制を捨てて議会政治に移行したこと自体、海軍の存在は深く影を落としているように思われるからである。
余談になるが、読者は「日本で最初に民主制の選挙が行われた場所はどこか」と問われた時、何と答えるだろうか?無論正式には、それは近代化して議会が作られてからだが、実は日本国内ではその千年近く前から、瀬戸内海の水軍・海賊の世界の中で選挙制が実施されていたのである。
彼らは海賊といっても必ずしもカリブの海賊のような無法集団ではなく、むしろ陸での立場を失った武士たちが集まって作った海の土豪のような存在である。そして彼らはほとんどの場合、頭目を決める際に全員の投票によってそれを行っていた。しかしこれは何ら異常なことではなく、むしろ世界的に見ると洋の東西を問わず、一般に海賊の世界では投票という手段が使われることが多かったのである。それは船長を選ぶには、粗暴で腕力が強いだけの人間では駄目で、多少地味でも船を操る技術をちゃんと持った人間を選ばないと全員の命が危ないからである。
これはもっと大きな本格的海軍の場合も同様で、もともと軍隊の中でも海軍という場所は独裁制には馴染まない。陸軍の場合だと、カリスマ的な将軍に大勢の兵士が盲目的に従って、号令と共に巨大な群集となって突撃すれば敵を圧倒できるのだが、海軍の場合にはそういうわけには行かず、様々な部署で機器を操作する大勢の技術者が、自発的な判断で技術的問題を処理する能力が求められる。
つまりそれらの技術士官たちの合議制がかなりの程度要求されるため、もともと先ほどの三番目の「下級貴族が強い権限をもつ社会」と馴染みが良いのである。そもそも海軍をうまく使うには国の政体自体、英国のジェントルマン階層の合議制のような議会政治が適しており、歴史的に見ても一般に独裁君主国や大衆民主主義の国では海軍は使いにくい。
こうしてみると、当時の日本が君主制を捨てて議会政治に移行した理由自体、ひょっとすると「国の政治形態を海軍の運用に適したものに変えたい」ということが本音だった、という見方も出来なくはないのである。
■ 宣教師を警戒した日本
無論一般常識としては、日本の議会政治への移行は民衆の「民主化された平等社会への憧れ」が推進したことになっている。しかし先ほどの話を裏書きするように、変革の中心となった武士たちは必ずしも米国的な、一般大衆がやかましく政治に口を出す大衆民主社会は理想としなかった。
そして当時のキリスト教宣教師たちが推奨したような男女平等社会なども、憧れの対象どころかむしろ嫌悪をもって拒否されたのであり、そうしたキリスト教的「自由」「平等」に関心が薄いことの痕跡は、現在も日本の経済社会に刻印されている。
そのため今でも欧米のメディアから、これだけ科学技術を発展させながらどうして日本は、米国や北欧に比べてその面では先進国中最低というほどに「遅れて」いるのか、という非難や疑問が投げつけられるが、その理由は上のように考えれば一目瞭然だろう。
そもそも今も昔も日本社会は、西欧のキリスト教宣教師という存在に対して非常に警戒心や嫌悪感が強い。日本が彼らと最初に接触したのは16世紀前後のことだが、当初は日本の武士たちは宣教師が布教のために携えてきた西欧の文物に強い関心を示し、一種の最新流行としてキリスト教に改宗する者もあった。
そして鉄砲などは直ちに国産化されて大量に量産されるようになったが、しかしその頃すでに宣教師たちは「日本人たちはわれわれが携えている西欧の技術や文物に興味があるだけで、キリスト教そのものなどには本気で興味を持っていはないのではあるまいか」との疑問を手記に記していた。
間もなくその予感は的中し、一通り西欧の技術などを学んでしまうと、むしろ宣教師の害に気づいた日本は彼らを一斉に追放してしまうのである。その徹底ぶりは、そこまでやるかというほど過酷なもので、その命令に逆らって日本での布教を続けようとした宣教師を捕らえて処刑し、遠く沖の船からも見えるよう、磔にした死体を柱ごと海岸にずらりと並べて立て、宣教師に対して近づくなという威嚇の象徴としたほどである。
それに伴ってキリスト教は正式に禁止され、それまで一種の流行としてキリスト教徒になっていた武士・大名は、数人の例外を除いてあっさりとキリスト教を捨ててしまった。その後キリスト教は悪疫のように扱われて表向きは日本ではその信徒は姿を消し、平等思想を願う一部の下層階級の間で隠れて細々と伝えられるに留まった。
■ 対照的な道を歩んだ日本とフィリピン
一方同じアジアでもこれと全く対照的だったのは例えばフィリピンなどであり、彼らは宣教師に対してさほどの警戒心を抱くことなくそのまま受け入れた。その一方で彼らはちょうど日本とは正反対に、宣教師たちがもってくる西洋技術の部分にはさほどの関心を寄せず、むしろもっぱらキリスト教の部分を受け入れて、国全体がキリスト教化していった。
そしてその後を見ると、両者がたどった道は余りに対照的である。仮に日本が宣教師を危険視せずそのまま彼らのするに任せた場合、日本もフィリピンのようになっていた・・・・かどうかは何とも言えないが、一般的にどうも宣教師を余りに無警戒に受け入れてしまった国は、世界史的に見て何だかぱっとしない状況に追い込まれているように思われる。
宣教師がどう危険かというと、当時の日本人はそれを侵略の「笑顔の尖兵」と見ていた。実際世界史の中での彼らのそのような負の部分をやや皮肉を込めて言えば、「西欧キリスト教国は他国を侵略する際、最初に宣教師を送り込んでその国を骨抜きにし、二番目に商人と軍人を送り込んで経済的な基盤を徹底的に収奪し、最後にその奴隷となった被害者のために病院を建てて彼らを手厚く保護する」という側面を持っていたことは否めない。
さすがにそれは極端な見解としても、歴史家の間でも、果たしてキリスト教宣教師の存在がアジア諸国にとってプラスだったかマイナスだったかは意見が分かれところであり、少なくとも日本が「トルコ以東で侵略されなかった唯一の国」になったという歴史的な結果と、宣教師に対する強い警戒心の間に、何らかの関連を疑ってみるだけの余地だけはあるのではないかと思われる。
そうしたことを総合して考えると、19世紀末の近代化に際しても、どうも日本は西欧文明がまるごと欲しかったというより、実は単に「キリスト教宣教師の部分を取り除いた近代海軍の部分」が欲しかったというのが本音ではなかったか、という見解が成り立たなくもないのである。
そしてまた筆者には、現代の欧米の民主化推奨プランを何の警戒もなしに導入しようとする人々には、かつて宣教師を気軽に受け入れてしまった人々の姿が重なって見えてならない。
確かに日本にも、そういう人々は一定数存在していたが、彼らは例えば過去の邪魔な障害物を除去する際のブルドーザー役として一時的に用いられることはあったが、エリートの主役として安定的な地位にあったことは一度もなく、それがこれまた過去の宣教師の利用法と似ているのである。
【話題5】 日本が古い武士的精神を温存して近代化を行った弊害はどこに出たか
■ 前近代にこだわった日本の陸軍
しかし日本の場合、そのように古い精神を温存したことで、どこかに弊害は出なかったのだろうか?これはイスラムの近代化を考える上で絶好の参考事例であるため、それについて見て見よう。
近代日本の場合、確かに海に囲まれた地理的条件ゆえ、トルコに比べて軍の中で海軍の占める割合が大きかったが、しかし日本では陸軍も強力な新勢力として存在し、共に旧エリート層=武士団の伝統を引き継ぐライバルだった。そして旧精神を温存したことの弊害は、日本の場合この陸軍の中に集中的に現れることになったのである。
実際日本では海軍と陸軍は余りにも対照的で、陸軍は旧世界の武士道の精神だけは引き継いだが、科学技術との適合性を全くもたず、いつまでも前近代から離れることのできない集団だった。
それは現在の国民が両者に抱くイメージにそのまま現れており、海軍の場合には当時世界最大の戦艦だった「大和」などが現在でも青年たちの憧れの対象となっているのに比べて、陸軍の場合は本来なら花形であるべき戦車などは、国辱もののボロ戦車として軽侮されている有様である。
客観的に見ても日本の陸軍の兵士たちは、第二次大戦において最も遅れた装備で戦わされて、時代遅れの銃剣突撃で無駄に死に追いやられたのであり、陸軍の組織自体も、憲兵が威張り散らす、前近代的で危険な忌まわしい集団として国民全体から嫌悪の的となっている。
■ 陸軍の人間たちでは日本刀は生み出せなかった?
まあ当時の日本は戦車などには予算を優先的に回せないという事情もあったのだが、だとすれば拳銃などの(さほど巨額の予算を要しない)個人装備はどうだったのだろうか。普通に想像すると、何しろ日本刀を生んだ国の伝統があるのだから、銃器などもさぞ凝りに凝った芸術的なものを作り上げ、生産数は少ないながら海外からは芸術品として見られていることが想像されるだろう。
ところが陸軍の銃器は、到底日本刀を生んだ国民の作ったものとは思えない代物で、過去の技術を引きずるだけの退嬰的で不恰好なものだった。当然ながら海外からの評価も極めて低く、日本の海軍士官の間では外国製拳銃を自費で購入することが好まれたという。
考えてみると日本の武士集団は近代に入ったときに、その中の理数系武士団の部分がまとめて海軍の側に行ってしまったため、陸軍は残りの人間集団で構成されることになったわけである。
つまりここで一つの仮定として、もし日本の武士層がその内部に理数系武士団を持たず、通俗的なイメージ通りの精神主義的な肉体派の武士だけで構成されていたらどうなったかを想像すると、陸軍こそがその絶好のサンプルだったのではあるまいか。
そしてその場合には、日本刀のような科学的な武器を生み出して標準装備とすることも、結局はできなかったのではないかとも想像できるのである。
■ イスラム世界にとっての史例としての重要性
そのように日本では陸軍と海軍は水と油のような存在で、両者の対立は時と共に激しくなって、第二次大戦の時には国全体を危機に陥れる原因の一つとなった。(第二次大戦中のエピソードだが、海軍の人間が「敵陸軍」という言葉を使うとき、それは米陸軍ではなくて日本の陸軍を意味するものだったいう話まであるほどである。)
そしてここでイスラム世界の近代化を考える過程で重要なのは、この場合の日本の陸軍の立場が、ちょうど現在のイスラム世界に存在するイスラム復興勢力(欧米流に言えばイスラム原理主義者)の立場にかなり似ているように思われるからである。
実際筆者には、イラン革命の際に中心となったイランの聖職者たちの姿が、近代日本での陸軍の姿にどことなくオーバーラップして見える。つまりもし日本が海軍抜きで陸軍の武士道精神だけで強引に近代に突入したらどういう道をたどったかを想像したとき、それはイラン革命のそれと似た経過をたどり、社会も現在のイラン社会に似たようなものになったのではないかと想像されるのである。
■ 二段階に分かれて滅びていった陸軍の武士道
では日本に一時的に温存されたそうした陸軍のような精神は、その後どういう経過をたどっていったのだろうか。歴史的なデータとしてそれを眺めると、それら陸軍系の武士団とその精神は、日本の近代では二度に分けて段階的に解体・消滅していったと言えるだろう。
その一度目はまず幕末の近代化の時で、この時に彼らの中の少なからぬ部分が、武士道の美学に殉じて共に滅びる道を選び、多くが動乱の中で死んでいった。しかしこの時点ではそれはまだ完全には死に絶えず、その生き残りが新しく陸軍の中に居場所を見つけて、そこに棲みつくことになる。
そのため陸軍はいわば古い武士道の空気を濃縮して保存する貯蔵庫のような存在となり、それが先ほど述べたように前近代にこだわって合理的な新技術を拒否する体質につながった。そして第二次大戦の終結と共に、そういう形の武士道は完全に滅んでいったのである。
一方、海軍系=理数系の武士たちは、新しい時代の波が押し寄せてきたときに、刀を捨ててしまうことにさほどの抵抗もなく、動乱の中でも多くが生き残り、新しい世界に必要な人間として、ほとんどが新時代の中核となっていった。
しかし第二次大戦の時には、さすがの合理的な海軍の人間にも陸軍の「サムライの美学に殉じる」意識が伝染し、最後は神風特攻隊という形をとって、組織そのものは陸軍と一緒に消えていった。ところが陸軍の側が組織もろとも消滅していったのに対して、海軍の側は前述のように軍組織そのものは消滅したものの、その中核を支えていた技術的遺産や人間集団は、別の姉妹組織というべき工学部の中にまとまってごっそりと移住し、その遺産や精神は姿を変えて戦後の経済発展の原動力となっていったのである。
■ 陸軍は単なる歴史の邪魔者だったか
その意味で日本の近代化においては陸軍はむしろ障害物だったが、ただそれなら陸軍など最初から無ければよかったかというと、必ずしもそうは言い切れないように思われる。
実際筆者は、第二次大戦において日本が破滅に陥って多くの死者を出したことについて、陸軍とその精神に大きな責任があることは否めない事実だと考えている。しかしそれにもかかわらず、筆者は日本の近代におけるその存在意義を否定しない。
何と言っても日本の陸軍と海軍は兄弟の関係で、一方だけを望んでもう一方を都合よく捨てるわけにはいかないのである。陸軍が温存した高濃度の武士道精神の空気は、確かに濃すぎれば猛毒の国粋主義となって国を破滅に導くことになるが、一方で拝金主義や個人主義的エゴイズムに対する強い抗体をもっており、もしそれを適度に薄めて外の西欧の空気と半々で混ぜた混合気体を作れば、国が規律や独立心をもって近代化を行う際に理想的な精神の源となる。
海軍の場合、まさにそれを行うことで近代化の核となる技術エリートを育成できたわけだが、陸軍がその危険な濃縮気体の貯蔵庫を引き受けていたと考えると、そういう危険な姉妹組織は過渡期において副産物の形で宿命的に生まれてしまうものであり、逆に言えば最初からそうした副産物を生じないような方法論では、結局は近代化にも失敗するのだということを暗示しているように思われる。
それゆえもしここに近代化を始めた時期の日本のような国が二つあったとして、一方の国は陸軍のような過去の精神(武士道)にこだわる部分を温存し、その姉妹組織の中に穏健で技術者的な人間集団を集めてそこから新技術エリートを育てようとしているとする。それに対してもう一方の国は、その種の危険な過去の精神的遺物を全て潰して、徹底的に国民全員の精神を西欧型に再教育し、その中から全く新しく技術エリートを育てようとしていたとしよう。
そして長い目で見て本当の近代化に成功するのはどちらの国かと問われたならば、恐らくそれは前者で、後者は結局は根無し草のエリートしか育てられずに真の意味での近代化に失敗するはずだと、筆者は答えるだろう。
つまりこの理屈をそのままイスラム世界に適用すると、イスラム復興運動を頭から否定してそれを精神ごと否定し、「西欧民主主義への憧れ」を精神の基盤とする形で近代化を成し遂げようとすることは、ちょうど前者に相当することになりはしないだろうか。
もしそうだとすれば、多少の危険や問題点をはらんでいても、あえてそれを甘受してイスラム復興運動を否定せず、その兄弟組織から近代テクノロジーに適合した新しい技術エリートを育てていくことが結局は唯一の方策だという、今までとは少し違う結論が導かれてくるわけである。
■ 二つの重要原則
こうしてみると以上のことは、二つの重要な原則としてまとめることができるだろう。それは
・まず第一に本物の近代化を行うには、旧社会のエリート層の規律や伝統を引き継ぐ形で何らかの新しいエリート層を作り出し、それが新技術社会を担う中核となっていない限り、結局は根無し草の表面的な近代化しかできずに失敗の運命をたどるということである。
(日本の場合、武士階級が近代化の担い手になったことが、この条件を満たした。)
・そして第二は、その際にただ旧エリート層の精神的伝統をそのままの形で残したのでは、せっかくの新指導層が単なる保守団体となって近代化は失敗するということである。そのためその伝統を何らかの形で科学技術文明とうまく調和させる方法を何らかの形で編み出さなければならない。
(日本の場合、武士階級の中に住んでいた「理数系武士団」と海軍が、第二の条件をクリアすることを可能とした。)
そのため結果的にこの二つの原則が満たされることになり、それが近代化の成功、ひいては日本がハイテク技術で経済大国となった最大の理由だったのである。
それにしても読者は以上の数々のエピソードを読んで、理数系武士団の存在とその背景が、想像以上に巨大なものだったことに驚かれたのではないかと思う。そしてそれに比べればよく言われる「日本人の勤勉さ」などという要因はせいぜい三〜四番目ぐらいの小さなものに過ぎないことも、実感としてご理解いただけたのではないかと思われ、その程度の理由を筆頭に置いているような底の浅い分析をいくら読んでも、そこからは何も得ることはできないと筆者は断言する。
■ この部分全体のまとめ
ではここで、「1」の部分のしめくくりとして、全体をもう一度整理しておこう。
・日本の近代化が成功した最大の理由は、勤勉さということよりむしろ「理数系武士団」という集団の存在が決定的な役割を果たした。これによって、旧エリートだった武士階級の規律が工学部と技術者の中に持ち込まれたからである。
・そして日本の場合、近代海軍という存在が理数系武士団と結びついたことが、彼らの力を表舞台に出す最大の力となり、それがトルコとの運命を大きく分けた。
ということである。一方イスラム文明は、19世紀から20世紀にかけてそういう人間集団をうまく作り上げることができず、そこがすっぽり抜けていたのであり、そこがイスラム世界の近代化がうまく行かなかった最大の原因だったと思われる。
そのためイスラム世界の近代化を本当に成し遂げるには、この二つの原則を前提として、日本の例を最大の参考とする形でそうした集団を作り上げる以外に方策はないことになる。
しかしイスラム世界が「理数系武士団」に似たものをこれから作れば良いと言っても、過去の旧エリート社会にそういう資質をもつ人間集団が存在していなければ、それを行うことは難しい。
だが筆者は、物理・数学の専門家としての観点から過去のイスラム科学の実績を慎重に検討し、その結果それに似た存在を作り上げることは、決して不可能ではないと結論している。そのためそれについて次の第2節で詳しく見てみたい。
第2節・イスラム世界はどうすれば「理数系武士団」に相当するものを作れるか
2−1・「理数系武士団」に相当する存在としてのウラマーとイスラム数学者
■ イスラム世界ではどこに理数系武士団の卵が住んでいたか
さて前節の結論では、イスラム世界は日本の「理数系武士団」に似た何らかの存在を、それも伝統的なエリートの精神的遺産に基づく形で作り上げねばならないということだったが、それでは現代のイスラム世界はどうすればそのような存在を作り上げることができるのだろうか。
しかしここで注意しておくとイスラム世界の場合、日本の武士団に相当する「旧世界のエリート層」とは、必ずしも軍人階級を意味しないと思われることである。(先ほどのトルコの例では、軍人層を旧世界からのエリートだと規定して分析したので、あるいは読者はこの点で混乱を起こしてしまうかもしれない。しかし筆者が見る限り、むしろオスマン・トルコ帝国の場合はトルコ一国だけの特殊事例で、イスラム世界全般には適用できない例外と考えるべきである。)
むしろイスラム世界全体で通用する一般的な話として見た場合、筆者にはイスラム知識人・法学者としての「ウラマー階層」こそ、かつての時代にイスラム世界を支えていた真のエリート階層ではあるまいかと思われてならないのである。
注意)ただしここで一つ注意しておくと、筆者は必ずしもイスラム学それ自体の専門家ではない。そのため以下はもっぱら「理系の目から見たイスラム世界」という性格を持っている。逆にそれゆえ、従来の石油と軍事を中心とする中東専門家の論文とは異なる視点が可能となっており、むしろその特性に注目して以下を読まれたい。
■ ウラマーこそ黄金期のイスラム世界を支えた
さて筆者がこの「ウラマー」という存在を理系の目から見てその歴史を知ったとき、それまで考えていた常識とは異なる点がいくつかあることを知らされて、意外な驚きを覚えた。
まず一つは、彼らが必ずしも宗教と法学だけの専門職ではなく、むしろ数学や天文学なども含めた学問全体を担う、広い意味での知識人集団だったということである。
そしてもう一つは、彼らの力が皇帝やスルタンの権力から独立しており、そもそもウラマーたちの力の基盤が、特定の国家権力や官僚組織によらず、そうした知識人の間の緩やかな共同体によって成り立っていたというのが、筆者にとっては意外なことだった。
さらに驚いたのは、彼らは長い目で見た場合、社会を治めていく力に関して、むしろ世俗的君主であるスルタン以上の力をもっていたことである。それというのもイスラム世界では民衆の日常生活がイスラム法=シャリーアの規定によって営まれるため、その解釈権を有する彼らは、長い目で見ると非常に大きな権限を有していたからである。
それに比べると世俗君主であるスルタンや皇帝は、軍の指揮権と限定された公共事業などの行政権を持っているに過ぎず、絶対君主とは言えない存在である。そしてウラマーたちは、むしろ君主と民衆の間に立ってそれをつなぐ存在であり、強力な「上から三番目の層」を形成してイスラム社会全体を健全なものとしており、イスラム文明の黄金期はそういうシステムで支えられていたのである。
(なお英国などのイスラム研究者の場合、しばしばこのウラマー階層の歴史的な立場が英国のジェントルマン階層との共通性を感じさせ、彼らがイスラム世界を支えてきた歴史に感銘を受けることがあるという。)
■ 意外に理数系への適性を持っていたウラマー=イスラム知識人
つまり彼らが前節で述べた重要な「上から三番目のエリート」として実質的に社会を支えていたのだが、筆者がこの伝統的なイスラム知識人・法学者としてのウラマー層に注目することにはもう一つ理由があり、それは彼らが、冒頭に挙げた二つの重要条件のうちのもう一方である「科学技術との融合性」についても、歴史的な実績から見る限りでは、十分な潜在力を備えている可能性があると考えられることである。
そもそも現在でも英語で「代数学」は「algebra」と書かれるが、これはアラビア語が語源であり、さらにアルゴリズム、アルコールなどの言葉もアラビア語起源である。その事実が物語るように、中世の数学や天文学を主導していたのはイスラム圏の知識人たちだった。そして彼らは複数の学問を修めていることが普通で、数学や天文学の他にも地理学や歴史学などを修めている者もあり、そしてその中の一学問としてイスラム法学が存在していたというわけである。
もっとも筆者は彼らについてそう専門的に研究したわけではないので、彼らの中にイスラム法学者と数学者・天文学者を一人で兼ねていた人物がいたかどうかまでは知らないが、仮にそういう者がいたとしてもさほど奇異なことではなく、その意味では他の世界の聖職者とは大きく性格を異にしている。
この点を考えると、前節で述べた二つの重要原則、つまり
・旧体制において「上から三番目」の層に規律正しいエリート集団が存在し
・その中に科学技術に適性をもつ集団が存在する
がかなりの程度満たされることになり、日本の近代化の真の鍵であった「理数系武士団」に最も近い存在が、そこに眠っている可能性が十分に存在しているのである。
つまりそのウラマーの伝統の中から新しく、科学技術に対する適応性をもったテクノクラートならぬ「テクノ・ウラマー」とでも呼ぶべき存在を育てることが、その条件を可能とする最も近道なのではないかと考えられるのである。
2−2・ウラマーはどのようにして独裁君主の力に対抗できたか
■ イスラム世界では誰が「主権者」に最も近い位置にいたか
ではこれについてもう一度詳しく眺め直してみよう。先ほど、18世紀の英国のジェントルマン階層が、このウラマー階層に対して親近感を覚えることがしばしばあったと述べたが、そこで彼らの目から眺める意味で、これを西欧流の概念で解釈し直すとどうなるだろうか。
そもそも一般に近代西欧の政治学では、社会の中の誰が「立法権」を持っているかということが最も重要な問題とされる。そしてそういう存在が「主権者」で、例えば王や皇帝が独裁権をもつ絶対君主国では、王や皇帝がたった一人の独裁的な判断で法律を作ることができ、立法権を一人で掌握しているため、ここでは君主が主権者である。
それに対して現代の欧米型の民主主義国では、立法権を持っているのは、一般民衆の代表として選ばれた議員から成る議会である。中でも特に下院・衆議院(民衆の代表)が立法権に関しては上院・参議院(エリート層の代表)より優位に置かれ、それゆえにこそ「主権在民」つまり民衆が主権者であるという看板が成立しているのである。
ではこの論法でイスラム社会を眺めると、誰がその主権者に最も近い存在だろうか。しかしイスラムの法体系では立法権そのものは人間の手中にはない。シャリーア=イスラム法は神の定めた法律なのであって、人間が勝手に作ることはできず、その意味ではスルタンや皇帝といえども主権者ではないことになる。
そのように立法権そのものは神だけにあって人間の手にないとすると、その一段下にあるのが法の「解釈権」である。そして伝統的なイスラム社会では、これをウラマーが掌握していたのであり、その意味からすれば実は彼らが「主権者」のすぐ下にあってそれに最も近い場所にいたのである。
■ 英国のジェントルマン体制との共通性
そしてこれを18世紀の英国と比較すると、外見は全く違っているにもかかわらず、確かにジェントルマン階級から成る議会政治=立憲君主制にどこか似ているのである。
つまり18世紀の英国では「上から三番目」のジェントルマン階級から成る議員たちが、立法権を事実上掌握しており、民衆はある程度彼らを信用して、それに従っている。そして国王といえども、そこで決まった法に従わねばならないというのが「立憲君主制」で、こうしてみると力学構造の点ではどこか似ていないだろうか。
しかしそう考えると、スルタンや皇帝の立場からすればウラマーがそうした権限を有することは邪魔だったに違いない。例えばオスマン・トルコ帝国は皇帝を頂点とする中央集権国家であり、実際にそこではウラマーは皇帝に圧迫されて徐々に力を奪い取られていったが、しかしトルコ皇帝の絶対権力をもってすら、それにはかなりの時間を要している。
逆に言えばそれは、オスマン・トルコ以前のイスラム世界でウラマーの持つ力がそれだけ大きかったということである。それではどうしてウラマーはそれだけの強い力を手にすることができたのだろうか。
■ ウラマーの力の隠れた基盤
ウラマーが長い目で見てそのように、時に独裁者=スルタン以上の力を持ちえた理由の一つは、無論彼らが単なる知識人ではなく、イスラム法を通じて民衆の信仰心の力をバックにつけていたことにあるが、しかし彼らが宗教をバックにしていたということ自体は、実は答えの半分に過ぎない。
なぜならスルタンの側としても、イスラム法の解釈権をウラマーたちから奪ってしまえば、自分自身がウラマーにとってかわって宗教を司る存在となることができ、そうなれば軍隊と民衆の信仰心の両方をバックにつけて、絶対君主に一歩近づけることになるわけである。
つまりそこから逆に考えると、ウラマーたちはそのスルタン側の試みに対抗できるだけの何らかの社会的な力を有していたはずだということになり、むしろこちらの方が遥かに問題の本質である。
そしてその理由こそ、ウラマー=イスラム知識人が単にイスラム法学という狭い分野だけの専門家ではなく、数学者や天文学者・歴史学者なども含めた広い意味での知識人層を形成していて、イスラム法学がその中の一部分であるという形をとっていたことにある。
そしてもう一つ、当時のイスラムの科学と学問が世界の頂点の地位にあったことが、それを支える重要な要素となっており、この二つの条件があったことが、ウラマーにそのようなことを可能としていたのである。
■ なぜ狭い法学だけの専門職では駄目なのか
ではなぜそうあることが、皇帝に対抗するために必要だったかというと、まずもし彼らが狭いイスラム法学だけの専門家であった場合、スルタン側はウラマーから実権を奪うためには単に狭いイスラム法学の世界だけを相手にすればよく、それなら話は簡単だからである。
そういう場合、まずスルタンや皇帝は、権力で人事に圧迫を加えて国内の裁判官の任命権を掌握してしまえばよい。そのようにして自分が任命した裁判官に、皇帝自身が定めた法令の解釈を行わせていけば、外堀を埋めるようにして容易にウラマーたちを制圧してしまうことができるはずである。
しかしウラマー層が前記のような広い意味での知識人層で成り立っていた場合、スルタンは彼らが制している広大な「知識の海」そのものを相手にせねばならず、それをバックにされるとなかなか対抗することが難しかったのである。
実際そのような状態でウラマー層を完全制圧しようと思っても、その途中で「知識の海」のあらゆる場所から攻撃を受けることを覚悟せねばならず、そして社会を運営するためのあらゆる専門知識をスルタンや政府自身が扱うことは不可能で、どうしてもどこかで彼らの助けを借りねばならず、そのため如何にスルタンといえども、その広さを前にして結局息切れしてしまうのである。
■ 世界の学問(数学を含む)の頂点を制していないとそれはできない
しかしスルタン側はそのような困難に遭遇した場合、しばしば次のような方法に頼ってきた。それは、外国のもっと「格上」の学問を導入して、国内の学者を制圧してしまうことである。
要するに国内で学者たちが知識と学問を支配していたとしても、もし海外にもっと進歩した学問があったなら、君主の側はそれを国内に導入して一段上の権威とすることで、国内の学者たちを一挙に田舎の遅れた二流の集団の立場に落とし、彼らを無力化してしまえるというわけである。
しかし当時のスルタンがそれを行なおうと思っても、何しろイスラム科学自体が当時の世界の最高レベルにあって、ヨーロッパからその代替物を調達しようにも、それはまだ田舎の二流の学問でしかなかった。
逆に言えば、ウラマーがスルタンの力に対抗できたのは、彼らが単に国内で学問とイスラム法の最高権威であったのみならず、彼らの学問自体が世界全体の学問の頂点を制していたことにあり、その条件が満たされて初めてそういうことが可能だったということである。
そして現在から振り返ると、実はそういうことができるかどうかの一つのバロメーターが「数学」だったことがわかる。つまり数学において人類史をリードする存在になっていることが、その文明がそういう地位にあるかを示す最大のバロメーターなのである。
逆に、数学において他の文明の後塵を拝している場合、決して学問の世界ではその文明は頂点の位置に立つことはできないのであり、これは文明史における絶対の掟なのである。
その意味からすると、まさに当時のイスラムの数学は、代数学=algebraの確立によって世界の頂点にあり、そのためにイスラム文明はいわば世界の知識の海そのものを制して、前記のようなことが国際的にも国内的にも可能となっていたのである。
■ 微積分学の登場がウラマーの力を崩壊させた
ところが17世紀になって、ウラマーがもっていたこの力の基盤を根底から覆す世界史的大事件が発生した。それは西欧において微積分学が登場し、それが天体力学において目を見張るほどの大成功を収めたことである。
ニュートンらによって発見されたこの新しい数学は、天体の運行を驚くほど正確に解き明かして、その動きを何万年先までも予測することを可能にし、イスラム天文学をたちまち過去の学問の地位に追いやって、一挙に世界全体の学問の頂点に立つこととなった。
これまで神の世界だった天界の秩序がそのように解き明かされたことは、思想界に巨大な衝撃を与えたが、応用面でもその適用範囲は天文学を大きく超えて広がっていった。実際、惑星や隕石の運動を砲弾などにも応用することで、全ての物体の運動を同じ手法で記述することが可能となり、その結果、機械工学にもアルキメデス以来の巨大な飛躍をもたらすことになって、ついに月にロケットを飛ばすところまで到達したのである。
それが思想的にどれほど巨大な意味を持っていたかは、理系以外の人には少し理解しにくいかもしれないので、詳しい話は次の2−3でまとめて行なうとして、ここでは大略だけを述べておこう。
とにかく微積分学の何が画期的だったかというと、その出現によって、人類は天体や砲弾など(そしてバリエーションとして糸やバネで結んだ振り子なども)のあらゆる物体の「動き」を、完全に追跡・予測する力を手に入れたのである。
そしてやがてこれは一つの思想として結実する。つまり身の回りにある機械などというものは、部品にばらしてしまえば要するにそういう動く物体の組み合わせである。そしてそういう一個一個の部品の動きを完全に把握できるならば、その結果を組み合わせることで、この世に存在するあらゆる機械の動きを把握することができるようになったのである。
そして人体や社会なども一種の機械のようなものだと考えれば、それは人類が世界そのものを神の如く把握できるということになるだろう。これはそれまでの代数学レベルの数学では全く不可能なことで、微積分学の登場によって初めて人類はその能力を手に入れたのである。そう考えると人類史における微積分学の発見は、火や文字の発見に匹敵するほどの大事件だったのであり、同時代のあらゆる世界史的事件を上回るほどのものだったことがわかるだろう。
その一方、イスラムの数学は代数学のレベルに留まってそれに追随することができず、イスラム科学全体がそれらすべてに置いていかれてしまったのである。
■ ウラマーの没落でイスラム世界は独裁政権が支配する場所となった
いわばウラマーたちは、微積分学という新型兵器の登場によって、世界の「知識の海」を制する能力を失い、結果的にイスラム世界そのものが、いわばその海から締め出されて内陸部に閉じ込められてしまったのである。
そのようにイスラム科学が世界の学問の頂点から滑り落ちてしまったことは、ウラマーの社会的地位を支えていた力の基盤を崩壊させ、それはひいてはイスラム世界そのものの姿を変貌させることにまでつながっていった。
つまり世界の学問(および数学)の頂点を制する力を失った時点で、ウラマー層は国内的にもその力を失い、学問と知識の世界全体を自由に行き来する存在であることをやめて、細々とイスラム法学の狭い世界の中だけに閉じこもる専門職に変貌する。それは同時に彼らの精神も萎縮させ、彼らは世界の技術文明に先頭を切って参加する意志を失って、過去の伝統に生きるだけの存在になってしまったのである。
そして「知識の海」の支配権を失って陸に閉じ込められたイスラム文明では、基本的に内陸の陸軍的勢力であるスルタンとその軍隊の実権が次第に増し、彼らが支配する世界へと変貌していく。
現実問題、この時のウラマーたちは、国内でスルタンの権力に張り合うどころか、外から西欧の学問や思想が侵入してきて自分たちが滅ぼされることを心配せねばならない有様となり、スルタンの助けを借りて官民一体でイスラム法を保護せねばならない境遇に陥った。
それはちょうど外海で負けて湾内に逃げ込んできた海軍が、全滅を免れるために湾口を鎖で塞いでそこに閉じこもり、それまで仲の悪かった陸軍に泣きついて海岸に要塞や防備施設を築いてもらうようなものである。
ともあれそのようにして、ウラマーの力が失われたイスラム社会では、その真空状態を埋めるようにして、スルタンのような内陸側の権力が社会の主導権を完全に掌握する社会形態に変貌していったのであり、現在の中東世界の独裁政権はその現代版である。
もともとウラマー層はそれが健全なころは、先ほども述べたように「上から三番目の下級エリート層」として民衆と君主(スルタン)の間にあって、両者をつなぐ存在でもあった。ところがその層が実質的に消滅してすっぽり抜けてしまった結果、19世紀以降のイスラム世界では独裁的な権力と民衆をつなぐ存在がどこにもなくなってしまい、現在ではそうしたスルタンの現代版である独裁政権が富と権力を独占する世界になっているのである。
つまり現在のイスラム社会はいわば頭と胴体をつなぐ「首の神経部分」を失った状態にあり、現在の中東世界の多くは、権力を握っている政権(頭部)が胴体と切り離されて、そこに外から直接、石油という生命維持装置のパイプが接続され、オイルマネーがそこを循環して頭部だけが独立して生きる形になっている。
その一方、頭部から切り離された胴体の部分にはそれがろくに回らず、要するに現在のイスラム社会の多くは体全体の活力で動く構造になっていない。
結局はそれが多くの政治問題を作り出しており、それはこの首の神経部分が再生されない限り、恐らく解決できないのである。
2−3・ウラマー層とイスラム科学はどうして没落したのか
■ そろそろ読むのがきつくなってきた読者の方へ
さて先ほど少しばかり数学に関連した話が出てきたので、文系読者の中にはついていくのが少しきつくなってきたと感じている方もあるかもしれない。その一方で、そうしたことが苦にならない読者は逆に、先ほどの話題について、なぜそういうことになるのかの秘密を具体的に知りたいと思われたのではないかと思う。
そこで後者のような方のために、ここで数ページを割いてそれについて論じてみたい。そのため文系読者の方は、ここから先は飛ばしても差し支えないが、ただそれには「次の一つのことだけを理解納得していただけさえすれば」という条件がつく。
それは、先ほどから述べている数学に関連した問題こそが、世界史の中でイスラムと西欧の逆転を引き起こした最大の原因だったということであり、それに比べれば今までの文系の歴史書でその最大の原因とされてきた、軍事力や経済力のどんな話も遥かに小さなものでしかなく、それらは二番目以下の要因でしかないということである。
そのことに異論があるという方は、どうしても以下をお読みいただかねばならないが、逆にそのことさえ納得していただければ、以下の面倒な話はあらかた飛ばして、この第2節の結末部分までジャンプしていただいても結構である。
■ 西欧の飛躍的発展をもたらしたのはルネッサンスではない
では先ほどの話に戻って、現代の問題の核心部分に横たわる秘密についてもっと詳しく述べてみよう。とにかくこのようにしてみると、イスラム文明が微積分学の登場に対応できず、ウラマー層が没落してしまったことが、結局は現代のイスラム世界全体の混迷につながる問題の全ての原因をなしていることがわかってくる。
一般には西欧文明とイスラム文明の逆転をもたらしたのは15世紀のいわゆるイタリア・ルネッサンスであると信じられているが、筆者に言わせればそれはとんでもない誤解である。
筆者はこの点に関して世界史の教科書は将来はっきり書き改められるべきだと確信しているが、西欧が本当の意味で文明として自立し、人類社会の先頭に立ったのは、17世紀の微積分学の発見からなのである。
そもそもルネッサンスという概念自体、19世紀になってから西欧で作られた異常に誇張された概念で、実際には15世紀のいわゆるイタリア・ルネッサンスの時代は実は「人類史上の大発見の時代」などではなく、むしろ単なる「大翻訳時代」に過ぎなかったのである。
要するにこの時代のイタリアで、アラビア語の文献をラテン語に翻訳することが本格的に始まって、今まで辺境だった西欧キリスト教世界にその知識が入ってきたのであり、確かに西欧自身にとっては画期的な文明開化だったが、単なる翻訳知識の導入である以上、人類史的な意義はさほどない。
しかしたまたまこの時代のイタリアが「美術」という絶好の宣伝手段を持っており、また歴史家が微積分学の意義の巨大さを理解できなかったことがそれに重なって、あたかも現代文明の発展の源がそこにあったかのように錯覚されてしまったのである。
実際に公平に言って15世紀のいわゆるルネッサンス時代には、まだ西欧の学問レベルはイスラムの下にあったのであり、それがはっきり逆転したのは17世紀の微積分学の出現からで、そのあたりから本当に文明全体にも逆転の構図が見え始めてくるのである。
■ イスラム文明の近代数学への参加を阻んだ重要な問い
では微積分学の出現がそんなに大事なことだったというなら、どうしてイスラム文明はそれに対処できなかったのだろうか。実はこの点こそ、文系の歴史家だけではどうしてもわからなかった重大な問題が含まれているのである。
それは、この新しい数学を受け入れるためには、文明自体が一つの重要な哲学的な問いに対して「イエスかノーか」を答える必要があり、そこには文明の根幹に関わる重大な問題が含まれていたのである。
その重要な問いとは何かというと、それは「宇宙はばらばらに分割して扱えるのか」それとも「宇宙は不可分一体のもので、分割しては扱えないのか」という問題である。
これは人体に例えれば最もわかりやすい。つまり例えば西欧医学では、心臓や肺などの臓器をばらばらに扱って、最後にそれを部品のように組み合わせることで人体というものが成り立っていると考える。つまり人体(全体)は臓器(部分)の総和に過ぎないのだから、人体は分割して扱うことができ、そして部分の総和は全体に一致するというわけである。
実は微積分学の思想を受け入れるためには、この世界観を前提として受け入れることが必要なのであり、社会全体がその壁を突破することがどうしても必要になってしまうのである。
ところがここでイスラム文明を眺めると、今度はここに欧米側の数学者には理解できない重要ポイントがある。つまりイスラム文明にとっては実はそれは文明の根幹に関わる問題で、もしそれを受け入れれば文明そのものが壊れてしまうほど重大なものだということである。
実際イスラム文明の根幹をなす「タウヒード」という原理が、まさしくこの「宇宙は不可分一体のものである」ということを意味しており、この原理がイスラムの世界観全体の根幹となっている。
逆に言うとイスラム側にとっては、前者を受け入れるということは、自分の社会を支える思想そのものを否定せざるを得なくなることになり、ここにその「微積分学」という新しい数学を受け入れるための大きな障害が横たわっていたのである。
■ 万能兵器の意外な弱点
ではどうしてこの新しい数学の世界ではその問いがそんなに重要になってしまうのだろうか。(ここで話は再び、理系でなければ理解できない領域に戻ることになる。)それは、実はこの万能兵器に見える微積分学にも一つの大きな弱点が存在しており、そこをカバーするためにどうしてもその前提が必要になってしまうのである。
その弱点とは何かというと、確かに扱う天体や物体の数が2個までなら、この数学は絶大な威力を発揮するのだが、3個になると途端に能力限界に達してしまうというということである。これは「三体問題」という歴史的難題として知られていて、過去の大数学者たちといえども3個の天体が絡み合う問題はついに解くことができなかったのである。
たった3個で駄目というなら、もっと多くの惑星から構成される太陽系の問題には使えないではないかと思われるかもしれないが、実はここに抜け道がある。それは、太陽系などの場合、問題をばらばらに分けて各惑星ごとに別々に扱うことができるということである。
その場合、それぞれ2個づつの天体の問題に分割して各個に解くことができ、かつての天体力学はそのようにして障害をすり抜けることで、大成功することができたのである。
そしてまさしくこれが、先ほどの「宇宙は分割して扱えるか」という重大問題と表裏一体をなしているのである。
つまりもし宇宙が基本的に分割できるものだとすれば、太陽系の問題で使ったような手段があらゆる問題で使えることになり、この新しい数学は見事にその弱点をカバーして、文字通りの万能兵器となる。
ここで読者はおわかりであろう。つまりこの微積分学が革命的な新兵器となるためには、どうしてもこの「宇宙をばらばらにして扱うことができる」(言葉を換えると「部分の総和が全体に一致する」)という世界観が前提に存在していなければならないのである。
■ 西欧民主主義のドグマ=「社会は個人に分割できる」
しかしそれは逆に言えば、もしこの新しい数学が現実にいろいろな問題で絶大な威力を発揮して、何ら弱点を暴露しなかったとすれば、それはとりもなおさずこの前提が正しかったということの、何よりの証拠になるだろう。
そしてその後の経過はまさにその通りで、微積分学の圧倒的な成功は、むしろ思想的にこの「物事は機械の部品のようにばらばらに分割して扱える」という考えに絶対的な信頼を与えることになった。そして近代西欧文明は、これを天体のみならず世の中のあらゆる分野に適用することで急拡大を成し遂げたのである。
それが例えば医学に応用されたわけであり、近代西欧医学では身体を各臓器に分割し、それを別個にそれぞれの専門分野で扱うことで、心臓外科などにおいて長足の進歩を遂げることができた。
しかしこの原理が最大限に応用されたのは、むしろ政治学の分野であったろう。つまりこの原理は「社会は個人に分割できる」という形で応用されて、近代西欧社会思想の大きな柱となったのである。実際、近代西欧社会思想の中心である民主主義・個人主義・人権主義は、どれもこの原理を社会に適用したものであることがよくわかる。
とにかくこの論理を延長すれば「個人の幸福の総和が社会の幸福である」という教義となり、それが正しいとするならば、個人の権利を極限まで拡大することが「良い社会」を作ることにつながるという理屈になる。逆に、個人以上の価値をもつ共同体を考えることは最初から無意味で、もし信仰共同体の利益を守るために個人の権利を犠牲にするなどという社会があったとすれば、その社会制度を根絶することは宇宙の根本原理に照らした正義なのである。
そこから考えると、国際社会における米国の傲慢さも、結局はここに起因しており、これを見てもこの「宇宙は分割できる」という前提こそが近代西欧を支えている一大教義であることが理解できるだろう。
しかしこの思想のバックには天体力学と微積分学がもたらした巨大な思想が存在するため(事実、近代西欧の政治思想の源流はジョン・ロックにあるが、彼はニュートンの天体力学に決定的な影響を受けている)、米国はそれを宇宙の真理と確信して微塵も疑わないのである。
■ 数学がバックにあることが勝敗を決定的に分ける
それを見てもわかるように、とにかく文明の普遍的な設計図を書こうとする際には、数学をバックにつけていることが決定的な意味を持っているのである。
実際その作業では、世界全体で使える普遍的なものだけを原理とせねばならないため、僻地の山奥でしかしか通用しないような特殊事例は基本的に除去して、さらにそれを世界中が納得するような普遍的な概念として表現せねばならない。
その際には数学がバックにあることは最強の武器となり、どれほど深いベテランの経験や老人の知恵もそれには対抗できないのである。実際どんな深みのある箴言のような言葉で「物事は分割できない」と主張しても、その主張が数学的裏づけを持たない限り、それは山奥の知恵のようなものとして扱われ、設計図を書く際には自動的に基本部分から除外されてしまう。
そのため17世紀に微積分学と天体力学が、「宇宙は分割できる」という答えを出したとき、それまでイスラム側がこれこそ本質だとしてきた「世界は分割できない」という原理はそれに反するものとして、イスラム社会の根幹だった「分割不能=タウヒード」の原理は、単なる特殊事例の立場に落ちることになった。
そしてそれ以後、文明の根本設計は「分割できる」思想を基本に据えて行わなければならないということが、人類社会全体の掟として定められることになったのである。
2−4・「知識の海」での世界史的決戦
■ それは「知識の海」での大海戦の敗北に等しかった
要するに宇宙の根本原理がどちらなのかという、その思想の勝負においてイスラム側は負けたのであり、そして意外にも「数学」こそがその勝敗の決定的要因だったのである。そしてそこで敗北したことが最終的にこれだけの結果をもたらしたことを考えると、これが想像を絶するほどに巨大な問題だったことがわかるだろう。
実はこれまで歴史家が数学についてあまり知らなかったために、これこそが西欧とイスラムの逆転を引き起こした最大の原因だったことがほとんど理解されず、世界史の教科書にも記述されてこなかった。しかしある意味でこの「知識の海」での決戦こそが、恐らく他のあらゆるものを差し置いて、この数百年の世界史の行方を左右した最大の事件だったのである。
それは何ら誇張ではなく、その対決の意義はまさしく一種の大海戦、それも世界史上最大級の海戦が戦われたことに匹敵するものだったと言っても過言ではない。
要するにその「知識の海の大海戦」で西欧とイスラムが激突して、最終的にイスラム側の敗北で終わったのであり、それに比べれば世界史の教科書では歴史を左右したとされている「レパントの大海戦」などの意義さえ、せいぜいその1/5にも満たない程度に過ぎなかったと思われる。
■ その「知識の海の大海戦」はどのように戦われたか
ただしその知識の海での対決は、ただ一度の決戦で決着がついたわけではない。確かにニュートンらによる微積分学の発見は、その最も決定的な一撃ではあったが、本来イスラム側にとって最も戦略的に重要だったのは、文明の根幹にかかわる「宇宙は本当に分割できるのか」という最重要問題において、イスラム側の解釈を「世界の真実」としておくことである。
そのため一種の仮想的な海図に投影するならば、むしろそれこそが戦略的に最も重要な中央水域なのであり、微積分学での勝負は、いわばその周辺にある問題として、中央から多少ずれた場所での戦いであったと言える。
それを踏まえてこの大海戦全体の構図を眺めると、それはちょうど、イスラム側が本来守るべき戦略的に最も重要な中心水域からはやや離れた位置で思いがけず決戦に巻き込まれて、そこで基幹戦力が壊滅する予想外の戦術的大敗を喫してしまったという形になるだろう。
ただしイスラム側は、この段階ではまだその重要な中央水域を失ったわけではなく、そして一般的な海軍戦略の常識からするならば、たとえ主力艦を何隻も沈められる大敗を喫しても、その重要水域そのものを確保している限り、それは真の戦略的な敗北ではなく単なる戦術的な敗北に過ぎない。
しかし間もなくイスラム側はそこからも撤退して、この重要水域は西欧側の支配するところとなり、その時点で西欧側の完全な戦略的勝利が確定したのである。
さらにその後の経過を見ると、「知識の海」の支配権を失ったイスラム文明は、結局は最終的に内陸部に立てこもるところまで後退を強いられることになったわけで、そう考えると文字通り、これが大海戦の敗北による世界史的影響に等しいものだったことがよくわかるだろう。
■ 実際には「不戦勝」だった中央水域での決戦
ではイスラム側は具体的には、その最も重要だった中央水域からどんな形で追い払われて、最終的に戦略的な敗北が決していったのだろうか。しかし実は肝心のその中央水域では必ずしも劇的な決戦は起こっていなかったのである。
実際の戦略的な経過を見ると、西欧側はそのように微積分学による決戦で勝利を収めた後、必ずしも直ちに引き続いて、イスラム側の残存戦力に止めを刺すために直接その中央水域に進出し、二度目の決戦を行なって一挙にその残存戦力を殲滅しようとはしなかった。
つまり西欧数学といえども、実はその時に必ずしも余勢を駆って「宇宙が分割できる=部分の総和が全体に一致する」ということを数学的にずばり証明したわけではないのである。つまりその意味では、イスラム側の思想に最終的な止めを刺すための直接的な一撃は、結局加えられることなく終わっていたとも言えるわけである。
実際には西欧側はむしろその中央部分をそのまま放置して、いわば周辺海域とその沿岸地帯を次々に制圧することに専念していった。
つまり微積分学が周辺の様々な問題で次々に成功を収め、その応用で作られた巨大な機械がどんどん実社会の生活圏に根を下ろしていったのであり、そのため全体の構図を眺めると、ちょうど中央水域が周辺の沿岸地帯からぐるりと包囲される格好になってしまったわけである。
確かにこの時点では、まだイスラム側の残存戦力は完全に止めを刺されておらず、もしその気になれば「知識の海」の中央水域に留まり続けることも、一応は可能だったかもしれない。
しかし現実にそれらの巨大な文明機械の威力を見せつけられると、その無言の説得力の前には対抗の術がなく、それゆえイスラム側は、本来の中心課題であるその重要問題での勝負を断念して、自らこの重要水域から撤退していった。そしてこの時を境に、イスラム文明は数学と哲学の知識の海を制する支配権も捨てて、内陸にこもる体制へと変貌していったのである。
逆に言えば、本来なら最も決定的な勝負となるはずのその「中央水域での決戦」は、実際には戦われることなく、いわば西欧側の不戦勝で終わっていたことになるわけで、その後も「宇宙は分割できるのか」という問題が直接きちんと数学的に証明されることはなかった。
つまりその意味では、現在に至るもその問題領域にはまだ誰も本格的に踏み込んでおらず、そこは未だに空白のままなのである。
■ 眠っていた決定的な武器
ではその、当時はきちんと証明はされなかった「宇宙は分割できるのか」という重要な問いは、そもそも人類が証明できることだったのだろうか?
ここでずばり筆者自身の答えを言おう。それは、もしここで微積分学と少し違う新しい別の数学を使うならば、それは「証明できる」、しかも西欧キリスト教側の思い込みとは逆に「宇宙は分割できない=部分の総和は全体に一致しない」という形で証明できるというのが筆者の答えである。
実はこの話は、現在まだ著作などを通じて徐々に広まっている初期段階の真っ最中にあって、必ずしも正式に最終的な認知を受けておらず、その意味ではこれはいわば「未来の数学」であるという但し書きがつく。(その詳細は拙著「物理数学の直観的方法」の終章で述べられており、この話は現時点で約4万人ほどの理系読者が目にしているはずだが、それを否定する明確な報告は未だ入ってきていない。)
それはともかく、この「作用マトリックス」という技法は天体力学の「三体問題」という歴史的難問(それについては先ほどもちょっと触れた)を糸口にしており、これを盲点を突くような形で哲学的な話に用いると、「部分の総和は全体に一致しない」ということが原理的に証明できるはずなのである。
■ 実はイスラム側に逆転のチャンスはあった
そうなるとここで一つの夢物語として、もし仮に17世紀のイスラム世界の数学者が何らかの形でそれに似た数学的技法を発見し、それを使って「宇宙は実は分割できない」ということを証明することに成功していたならどうだったろう?
その場合にはこの歴史的な「知識の海の大海戦」において、たとえ緒戦の第1回目の決戦では西欧側の微積分学に対抗できず敗北したとしても、それに引き続いてイスラム側は、残存戦力をかき集めてそれらにこの新兵器を装備し、最も重要なこの中央水域に手持ちの全戦力を集結させて、再度の決戦を挑むこともできたかもしれない。
そして現実には戦われなかったその2回目の決戦で逆転勝利を収めることができれば、知識の海の支配権をそこから奪回していくこともできたかもしれず、そうなれば現在の世界史そのものが大きく変わっていた可能性も否定できないのである。
■ 今からでも十分に対応はできる
確かに今から見ればそれは夢物語に過ぎず、イスラム文明はそれをイスラムの数学者自身の力で発見することにはついに失敗した。
しかしある意味では、今からでも遅すぎるということはないのである。つまりもしこれから日本と組んで、この未来の数学をバックにすれば、それによってイスラム側の「物事や社会は分割できないできない=タウヒード」を前提とするシステムが必ずしも間違っていなかったことを主張できることになるからである。
要するにイスラムが必ずしも劣った文明ではなかったということを、数学をバックに論理的に分析することができるわけであり、そしてさらに、もしそれを学んだ新しいウラマー層が育ったとすれば、現代のテクノロジーに対応した形で新しくイスラム法を再生させるということも、決して夢物語ではない。
さらに言うならその場合、そのように数学を共通語とすることで、西欧文明とイスラム文明の共存体勢を樹立することも十分可能と考えられるのである。
■ もっと遥かに積極的なその人類史的意義
というより、これはもっと積極的な意義を秘めた話なのである。それというのも現在、欧米内部においても行き過ぎた個人主義による社会崩壊などが大問題となっており、今までの方法論の弊害があらゆる場所で噴出している。
ところが実はそれらはいずれも「世界は分割できる」という設計図の結末なのであり、そしてこの新しい未来の数学は、単に世界が分割できるかどうかという話だけではなく、西欧キリスト教側がどこを錯覚してそのように社会の設計を誤ったかを、数学的な視点から解き明かすことを得意としている。
そのため新世代のウラマーは、その未来の新しい数学を思想のバックとして、むしろ過去のイスラム社会に秘められていた知恵を、現代のその問題を解決するためにテクノロジーと結合させていく役割を担う、という態度で臨むべきである。
そもそも資本主義体制自体が「世界は分割できる」という思想の産物に他ならず、その行き着く果てが現在のグローバル・マネーの金融が化け物のように暴れまわる世界だったのである。
そして今から思えば、本来ならリーマン・ショックの激震で世界が震えた時こそ、イスラム側が自らの正しさを主張する絶好の機会であるはずだった。しかし当時イスラム側は数学という武器をもっていなかったため、結局その時に何もできず、せっかくの機会を指をくわえて見ているしかなかったのである。
これを見るなら、数学というものをバックにしているか否かが、如何に決定的な意味をもっていることがよくわかると思う。そしてその新しい数学を学んだ新しいウラマーを、先ほど述べたように「テクノ・ウラマー」と呼ぼうというわけであり、そして実はそれこそ、日本の歴史において決定的な役割を果たした「理数系武士団」に相当する存在なのである。
それにしてもこれがもし本命の正解だったとすれば、今まで中東研究者や政策立案者がどうして正解にたどり着けなかったかがよくわかる。
実際これは、歴史と数学の両方がわかっていない限り決して出て来ない答えだったのだが、今まで数学のわかる歴史家がいなかったため、そもそも何が問題の本質だったかということ自体が明らかにされてこなかったのである。
さらにここでもう一つ、イスラム近代化の本当の実例として参考になるものが日本の「理数系武士団」の史例だけだったことが問題の困難に拍車をかけ、二重の障壁に遮られて真の解答が表に出てこなくなってしまっていたのである。
そのため冒頭で述べたように、この論文はその難条件を共にクリアした初めてのものであると想像されるのであり、以上の内容がイスラム世界の人々にとって如何に貴重であるかがご理解いただけることと思う。
第3節・イスラム世界は当面何をすべきか
それではこの最後の第3節では、以上の議論を踏まえた上で、現在のイスラム世界は何をすれば良いのかという具体的な方策について述べることにしよう。
そしてこの節では、この問題に関して真に参考となりうる史例は日本の近代化のそれしか存在しないという想定のもとで、各問題ごとにそれを日本の史例と比較検討してみることにする。
3−1・イスラム世界の混乱を収拾する意外な方法
さて以上の議論が正しいとすれば、思いも寄らず現在のイスラム世界の混乱を収拾する方法が浮かび上がってきたことになる。
つまりこれまでイスラム世界の近代化が失敗してきたのは、「テクノ・ウラマー」に相当する存在が欠けていたことに最大の原因があり、全てをその課題を中心に考え直さねばならないということである。
そして現在のイスラム世界の混迷の原因もそこにあり、そもそも(欧米側から推奨された)現在の民主化・自由化・近代化などの設計図では、その前提となる重要原則自体が考慮されておらず、それに基づいて行動しても成功はまず期待できないことになる。
そのためそれらは、確かに応急処置としての意義は否定できないが、逆に言えばその用途は最初から応急処置のためのものに限定し、本命であるテクノ・ウラマーの育成が完了した段階でそれらは捨て去るべきものと考えるべきである。
そしてテクノ・ウラマーの育成に関しては、その科学技術面での知的支援を欧米キリスト教国ではなく、日本に頼るのがイスラム世界にとって恐らく最良の選択である。
要するにイスラム世界は、日本の歴史における「理数系武士団」が真の手本であったこと、逆にその歴史を考慮せずに書かれた米国などの処方箋では最初から有効性を期待できないことを共通認識とし、科学技術面での支援を米国ではなく日本に求めるというスタンスを明確化していけばよいのである。
・日本の史例との比較)
ではこれを日本の史例と比較してみよう。まず基本的な問題として、そのようにテクノ・ウラマーという概念を考えずに書かれた従来の設計図で近代化を行なおうとした場合、それは当然ながら近代の日本においては、ちょうど理数系武士団が存在しなかった状態に相当することになる。
そしてそういう状況を想像すると、その際には恐らく日本は近代化に失敗した可能性が高く、そもそも19世紀後半の幕末時期の政治的内乱を収拾できたかどうかも疑わしい。
この時期の日本を眺めると、前述のように「理数系武士団」が黙々と海軍建設の活動を続けている一方、陸軍および文系武士団側では、開国派と保守派が政治の世界で目的地もわからないまま無意味な闘争に明け暮れていたというのが実情である。
そしてそれらの政治対立は、結局最終的には「近代軍事技術(特に海軍力)をどう発展させるか」という国家的主題に吸収されて自然消滅し、政治的混乱も自然に収拾されていったのである。
そのためもし理数系武士団と海軍の存在がなければ、恐らく内乱が目的地を見失ったまま無意味にだらだら続き、そのうちに欧米列強の介入を招いて日本全体がそれに支配されていったろう。当然ながら近代技術を担う人材の育成もできず、日本の技術大国・経済大国への道はそこで止まっていたはずである。
そしてその場合には周辺のアジア諸国の運命さえも世界史的に大きく変わっていたかもしれない。そもそも現在のアジア諸国がアフリカ諸国と異なる経済発展の過程をたどっていることに関して(米国の経済分析などではそれがかなり過小評価されているきらいがあるが)、日本の存在が極めて大きな役割を果たしていることは間違いなく、実際にアフリカ諸国では日本に相当する存在がなかったことが、東アジアとの歩みを大きく分けたことは、否定のしようのない事実である。
つまり日本の近代化成功と技術・経済の発展が「理数系武士団」の存在に大きく依存していたとすれば、その存在がなかった場合、現在の東アジア諸国もアフリカ諸国とさして変わらない状況に置かれている可能性を否定できないのである。
そしてそこから逆に考えると、現在の中東世界が石油以外の経済発展から取り残されている状況というのは、まさしくイスラム世界に理数系武士団に相当する「テクノ・ウラマー層」が欠けていたためであると考えることができ、ひいてはそれが広範なイスラム世界の経済停滞を招いているという解釈も十分成り立つわけである。
3−2・テクノ・ウラマー層が誕生すれば、イスラム世界は何ができるか
ではもしこれからそのように「テクノ・ウラマー層」が育って、それが日本の「理数系武士団」に相当する存在となったとすれば、その時イスラム世界は何が出来るようになるのだろうか。
まず第一は、これまでイスラム文明は欧米キリスト教文明側から、一方的に「遅れた文明」のレッテルを貼られてきたが、欧米側のその主張は、何しろ科学技術と数学をバックに行われるため、今までそれに対する説得力のある反論ができなかった。
しかしここでもし、前述の新しい数学的技法を習得した「テクノ・ウラマー層」が育って、その数学をバックに反論を行えば、少なくともその状況は劇的に変わりうる。
この新しい数学は、特に米国流の過激な自由主義や個人権利絶対主義のどこがどう間違っていたかを、非常にクリヤーな方法で数学的に立証することを得意としている。そのためこの技法をマスターしたテクノ・ウラマー層が逆に米国に対して、米国の自由主義が従来の数学を拡大解釈した結果、投機マネーと個人主義的エゴに全てが支配される社会を生んでしまったことを、新しい数学をバックにして主張することも可能になるのである。
さらに国内的に見ても、この技法を発展させて用いれば、米国型の制度や近代テクノロジーのうち、どこが毒でどの部分なら安全なのかを、数学という新兵器を用いて判定し、安全なものだけを採り入れていくという、夢のようなことも可能になるかもしれない。
こうなってくると、それは単にイスラムの社会秩序のどこをどう残すかという話に留まらず、世界全体がウォールストリートと巨大メディアの欲望が支配する社会に呑み込まれることを防ぐため、イスラムの伝統的秩序を現代化してそのために活かすという、全人類的なテーマに発展していくことになる。
そしてその際には何しろ今までとは逆に、イスラム側が数学をバックにして米国に反撃できることになり、その際の説得力は従来とは比較にならないものになるだろう。無論その際には日本の理系層と共同でそれが行なわれることになるが、そのこと自体、これからの社会を支える決定的な力となるはずである。
■ テクノ・ウラマー体制の確立で、イスラム経済には何ができるか
それはまた経済の面にも何らかの影響を与えることは間違いない。もっともこれについては現時点ではあまり確実なことは言えないが、考えられる可能性の一つを一種の夢として語っておこう。
これは筆者の印象だが、確かに現在のイスラム世界は中国などと比べて経済発展が遅れているが、そのブレーキとなっている要因は全てが悪いものだというわけではない。そこには資本主義的なライフスタイルや新製品を持ち込むことが、イスラム社会(というより健全な人間社会そのもの)を破壊する危険を持っているのではないかとの、一種の「健全な懸念」がブレーキの一つとなっているように見えなくもないのである。
現実に欧米や日本で家庭に無制限にテレビが入り込んだことが、社会の秩序をどれほど破壊したかを考えると、むしろイスラム側の方が正しいのかもしれないが、もしここでテクノ・ウラマー層がイスラム社会秩序とテクノロジーの両方を視野に入れて、何かこれまで他の世界にはなかった一種の新製品を考案し、「その新製品を家庭に浸透させると、西欧に劣らない快適な生活ができる一方、イスラム社会を安定させることにも役に立つ」というようなものを作り出せたとすればどうだろう。
こういう場合、消費者の側にも公共の利益に役立つという精神的動機が生まれ、それが消費を活気づけることになるだろう。また生産する企業の側でも、社会にそういう意識があって投資家にもそれが共有されると、結果的にそこには良質の資金が集まって、政府の監視がかなり緩くても詐欺まがいのビジネスは自然に排除されていくものであり、そのためこのような確信が生まれるかどうかは、健全な経済を育てる際に天と地ほどに違いを生じるのである。
ただしテクノ・ウラマー自体は企業家でも事業家でもなく、単に新製品の大まかな概念が描けるだけなので、それだけではいきなり高品質の製品を作ることは難しい。そして過去の例でもそういう状態で無理な国産化を強行した場合、せっかく理念やコンセプトは良くても出来た製品の品質が悪くて、結局は皆が外国製品を使いたがって挫折してしまった例は枚挙に暇がないのである。
しかしこの場合には例えば次のような方策をとればよい。それは、何かそのような製品が必要だという構想がまとまった場合、その実際の開発と製造は、日本の企業とその技術力に頼るということである。その場合には恐らく品質の点では世界最高のものが提供できるはずなので、それをスタンダードとしていけば、出来た製品の品質の劣悪さでその製品分野自体が死産になるということはない。
ただしその場合、恐らく日本で作られたそれらの高品質の製品は多少割高になるので、基本的にそれらは富裕層向けのものになるとは思われる。しかしその場合には、むしろそれを持つことが社会的なステータスになるよう持って行けばよい。そしてそのような常識が定着したならば、今度はそれを手本に多少質を落とした低価格の普及品も並行して開発し、それをイスラム世界の内部で生産する体制を作って、両者で棲み分ければよいのである。
そのようにすれば、今までの精神的なブレーキが取り払われて、イスラム経済に本物のエンジンが生まれる可能性は十分にあると思われる。
■ 日本企業の立場からのメリット
しかし日本の企業の立場からすると、せっかく上のような話を聞かされても、それだけでは思ったほどには魅力を感じないかもしれない。それは、もしそういう状態になったとしても、どうせしばらくすればすぐに韓国製や中国製の極めて安価な類似品が現れて、泥沼のような価格競争に巻き込まれるだけだろう、という思いがつい頭をよぎってしまうからである。
そのためそういう可能性が濃厚に存在する限り、上の話も日本の企業にとっては思ったほど魅力的ではないと想像されるのだが、もしここでイスラム世界の富裕層が次のような態度で臨むとすれば話は変わってくる。
それは、確かにしばらくするとそのように中国や韓国の同種製品が現れるとは思われるが、その際にもしそれらが日本製より安価で品質面でも劣らなかったとしても、イスラム世界の富裕層や消費者は「テクノ・ウラマー育成への助力」への対価として、たとえ割高でも日本製のものを選び続けるという意思を示すことである。
実のところ現在の日本にとって、イスラム世界と(石油以外のことで)本格的に関わることは、政治的に通常より大きなリスクを背負うことになるという意識が強い。そのためその精神的なハードルを越えるための何らかの補助手段は、いずれにせよ必要になるはずなのである。
そういう中では、現在の日本企業にとって、中国や韓国との泥沼のような価格競争から解放されるという話は、何よりも魅力的であると想像される。一方イスラム世界側からすると、この場合そのように割高な日本製品を購入することで生じる余分な支出は、結果的にはイスラム共同体を守るための投資資金となっていることは事実である。
つまり役割の点で伝統的な「喜捨」とかなり似たことになるわけであり、筆者はイスラム法についてそこまで詳しくはないので、これを正式にイスラム法の中で喜捨や「ワクフ」などの形で解釈する余地があるのかどうかはわからない。しかしともあれ日本の立場からした場合、もし何らかの形で、多少割高でも富裕層が日本製品の安定した購買層となってくれるという保障があれば、日本側も安心して研究開発投資に乗り出すことができる。
そしてたとえイスラム世界で上から10%の富裕層にしか売れないとしても、何しろ13億人の市場が開くことを考えると、その1割でも十分である。とにかく泥沼の価格競争から解放されて品質向上だけに専念すれば良いとなれば、産業空洞化に対する有効な対策ともなるため、現在の日本にとってこれほど有難いことはないはずである。
なお誤解のないよう言っておくと、これは決してテクノ・ウラマー育成の対価に関する日本側からの正式な要求ではない。ただ、イスラム世界の消費者にそのような行動が期待できるとすれば、それは動きの鈍い日本企業が積極的な研究開発投資に乗り出すための、極めて有効な誘引要因になるはずである。
つまりこれはあくまでも、現在両者の間に横たわるブレーキを取り払って経済の力を引き出すための一つの手段であるとお考えいただいた方が良いだろう。
ただ、いずれにせよテクノ・ウラマーという概念を欠いては、せっかくのこのプラン自体も最初から成り立たないことは事実である。
3−3・最も能力ある若者は何をなすべきか
それゆえとにかく現在のイスラム世界は、市民全員が上から下まで「テクノ・ウラマーを育成することが解答の全てである」ことを理解し、最も能力のある若者は、現在の袋小路の政治運動に見切りをつけて、かつて日本の理数系武士団の若者が海軍を志願した如く、自らテクノ・ウラマーの候補生を志願すべきである。
何度も言うように、現在進行している「民主化」のプランは、上で述べた原則を踏まえていない以上、そこで予定されている付け焼刃の西欧化や憲法制定などは基本的に失敗する運命にあり、それはいわば計算上絶対飛ばないことがわかっている飛行機の設計図のようなものに過ぎない。
また、欧米側が「アラブの春」と名づけた騒乱にしても、それは今のところ「テクノ・ウラマー」育成という目標をプランの中に含んでおらず、そのため上の理屈からすれば何の効果も上げられないことは当然だということになる。
大体あの騒乱は、当初は小麦などの価格が国際投機資本のおもちゃにされて高騰したことに発しており、本来ならその怒りはウォールストリートに向けられるべきものだったのだが、それを手近な自国の独裁者に向け、たまたまインターネットという新しい存在に旧政権が対応できなかったため、思わぬ形でその弱点を突かれて政権が一挙に崩壊してしまったただけの話である。
そのため良く見ると、真の敵であったウォールストリートに対しては、指一本触れるどころかそれを攻略するためにただの一歩も前進しておらず、これで状況が良くなるとすればその方が不思議であろう。
ただし今後、仮にそれがこれから大きく方針転換し、日本の「理数系武士団」を手本にテクノ・ウラマーを育成することを目的の中心に据え換えたとすれば、その場合に限り状況は違ってくる。
つまり騒乱で生じた変化を、すべてそのために役に立つ形に持って行き、活動の全てをそこに集中した場合にのみ、これは歴史から肯定されることになるということである。逆にそのような形に転換できなかった場合、これは歴史的に何の成果も生まなかった失敗として終わることになると筆者は予想する。
・日本の史例との比較)
ではここで再びこれを日本の事例と比較してみよう。
とにかく百数十年前の日本では前述のように、「理数系武士団」としての資質を持った若者が、近視眼的な政治活動や短絡的な排外主義が何の成果も生まないこと、そして海軍の建設とそのための技術の学習こそが、真の解答であることを理解し、目先の政治活動に見切りをつけてそれに従事する道へと転換した。
そして実際にその後の経過を見ると確かにその通りで、日本が独立を守るために本当に役に立ったのは、一見地味で政治とは縁遠い彼らの活動だったのであり、逆に血気にまかせた政治活動や権力闘争は、無意味な流血を引き起こすだけで、ほとんど何の役にも立たなかったのである。
ところがそれでも当時、海軍技術学校に学生として入学していた血気盛んな若者の中には、脇で進行している政治活動に完全に見切りをつけることができず、その学生でありながら誘惑に負けて非合法な政治闘争に参加してしまった者が何人かあった。
その結果、入学者の中から非合法活動に参加したことが後に問題とされて、海軍学校の立場そのものを危機にさらし、結果的に彼らの思慮の浅い行動は国全体にとって大きなマイナスとして足を引っ張ったのである。
つまりそこからの教訓として、イスラム世界の若者の場合も、ひとたびテクノ・ウラマーの候補生の道に入ったならば、目先の政治活動には一切関わりを持たないことが重要だということになるわけであり、これは心に刻んでおく必要があるだろう。
3−4・政権側は何をすべきか
一方政権側の立場から見た場合、現在のイスラム世界では多くの政権が民衆から権利拡大要求や政治への参与権などを迫られているが、それについてもやはりここに解決の鍵が眠っている。
つまりこの場合、政治参与の道に関して、政権側はまずテクノ・ウラマーに関してのみ、門戸を自由に開くというスタンスで臨めば良いのである。要するに直ちに全ての権利を開放することはしないが、テクノ・ウラマーを志願しさえすれば、門閥や出身に関係なく、長期的な意味での政治参与が可能だという体制にするわけである。
この場合テクノ・ウラマーの育成は、複数のイスラム国の間で国際的な共同作業として、日本などの支援を受けつつ行われることが望ましい。それが国際間の作業になるほど、一国内部の硬直した門閥人事が幅を利かせることは難しくなる。そうなれば、今まで政治参与の機会を与えられなかった能力ある若者は、とにかくテクノ・ウラマーを志願すればよく、むしろ性急な政治闘争や権利拡大要求などよりもそこで資格や評価を得ることが、社会を本当に動かす力を得ることにつながるというわけである。
また、権利要求の中でも、性急な社会全体の西欧化・自由化への要求に対しては、それはテクノ・ウラマー体制が確立した時に第二段階として決めることであると規定し、とりあえず「第一段階では見送る」という形でひとまず棚上げにしてしまうのが最も賢明である。
実際客観的に見ても、その両者を一挙に行うことはかなり無理が大きいのだが、そもそもそうした人々が理想の国と思い描く米国自身が、過去の自由化の妥当性に疑いの目を向け始めている有様である。つまりそれが今後数十年でどうなるかを見極めた上で判断するのがむしろ賢明で、そのため米国に憧れてイスラム社会の伝統的慣習を性急に撤廃しようという権利拡大要求に関しては、「第二段階」に分類することで、当面は第一段階として前者に力を集中するのが最も理にかなっている。
ともあれこうした方針は政権側にとっても十分にメリットがあり、もともとテクノ・ウラマーを志願する資質をもつ若者は理性的で人数も限られるため、無秩序な大規模暴動とは結びつきにくい。
そのため、彼らに対しては2−4で述べたように、数学や学問の力が新時代では海軍力に等しいものとして、物質的なテロの力よりも強いのだという文化的認識を(日本と組んで)社会全体で確立し、そちらを志向するようにもって行けばよいのである。
また彼らが仮にテクノ・ウラマーそのものにはならずとも、途中で進路を変えて純粋に科学技術の方面に進んでくれれば、結果的に国内に技術者人口を確保することにつながるので、それはそれで国家にとってのメリットになり、いずれにせよ無駄にはならないわけである。
とにかく国のスタンスを、「優秀な若者はテクノ・ウラマーを志願すれば、それが社会を動かす最善の道となる」という形で明確化し、それを忠実に実行していくことが、それらのジレンマをまとめて解決するほとんど唯一の方策だと考えられる。
・日本の史例との比較)
ではこれも日本の史例と比較してみよう。
大体において世界史的に見ても、海軍の存在がそれ自体、しばしば社会の硬直した身分制度そのものをゆっくりと解消する役割を果たしてきたことは事実である。
日本でも近代化直前の時代には、地方でも中央でも政権の重要ポストは旧来の門閥上級層によって独占され、下級武士の若者は自分たちに登用の門戸が閉ざされていることに不満を募らせていた。
そのため一般の(陸軍系)武士団の場合、下級武士の若者は政治闘争によってしか登用の道を開くことはできず、強引にそれを行おうとしてしばしば流血の惨事を招いたのである。
一方それに対して海軍系・技術系のポストに関しては、門閥貴族では勤まらないことがすぐに判明し、政権側もそのための人材を下級武士から登用せざるを得なかった。実際にそういう層の出身者が後に海軍大臣に相当する重要ポストなども与えられ、(勝海舟などのように)動乱の際に政権の運営を事実上担うことになったのである。
そのように日本では、海軍(および軍の技術部門)から人事の自由化が進行していったのだが、その一方で民衆レベルでの生活習慣の西欧的自由化は、かなり遅れて40年近く後(大正デモクラシーの時代)にようやく始まった。つまり両者の間には相当なタイムラグがあったのだが、しかしそのように両者が同時進行せず、後者が数十年の時間的余裕をもって遅れて進行したことは、結果的に見ればうまく作用したのである。
欧米側の今までの多くの勧告では、両者は不可分でそれらを同時進行させねば意味がないという説が一般的だが、日本の実例を見るならそれは正しくないように思われる。
3−5・そのどちらでもない一般の若者は何をすべきか
では一方、特に理数系に関する十分な資質をもたず、その候補生になるだけの力をもたないごく普通の、若者は何をすべきだろうか。
無論そのように社会がテクノ・ウラマーを育成しようとする際には、周囲から有形無形の支援を行なうことが不可欠となり、当然ながら大勢の若者にもその支援に回ってもらうことが必要になる。
しかしこのプランのもう一つの問題点は、その育成にかなりの時間がかかることである。その間はさほど目に見えるような効果は期待できないため、一種の「時間稼ぎ」がその支援として重要になってくると予想される。
そして「時間稼ぎ」という言葉の裏にはもう一つ重要な意味があり、それというのも、先年動乱で倒された旧独裁政権のいくつかを振り返ってみると、確かにそれらの旧政権のシステムは相当に劣悪なものだったが、その反面で、一応はそれでも自国が欧米の金融とメディアに完全に支配されることに対する防壁を張り巡らせていたことも確かだったのである。
しかし動乱によってその防壁が内側から崩されてしまった以上、ある意味で現在のイスラム世界は旧政権時代以上に欧米の金融とメディアの餌食になりやすい脆弱な状況に陥っているとも言える。
それは「テクノ・ウラマー」という新しい防壁が生まれるまでは基本的に打つ手がなく、その育成が早いか、それともその前に国際金融のパワーに支配されるのが早いかの競争となるとも予想されるため、何とかしてそれまでの時間稼ぎを行うことが極めて重要になるわけである。
■ 時間稼ぎの一例
ではそのためには具体的に何をすべきかだが、こうして考えてくると、実はそのように社会全体に対して「日本の理数系武士団の事例を参考にテクノ・ウラマーを育成することが鍵である」という認識を広めるための活動自体が、十分な時間稼ぎになることがわかる。
つまり例えばイスラム世界の多くの若者が、日本のこの時期の歴史(それは日本でも若者に人気がある)について関心をもち、「理数系武士団」の果たした役割について研究するサークルなどを作って、その成果を社会に発表するなどという活動は、理数系の人間でなくても十分にできるだろう。
実際日本の史例はかなり高度な応用が可能であると考えられるのであり、例えば以前に1−3でイランと日本の陸軍の事例などについても述べたが、そのようにイスラムが近代化する際に様々な場所で使える絶好の教材として、広くその知識を浸透させることは社会的にも意義が大きいのである。
そしてまたイスラム世界の若者が日本のその歴史を学ぶことは、それ自体が海外へのアピールとして馬鹿にならない。
思えば今までイスラム世界は何度も欧米が推奨する近代化・民主化プランを実行して、そのたびに失敗し続けており、それが世界中に報道されてさらにイスラム文明の評価を下げるという悪循環に陥っていた。そのためテレビでそれを見ている海外の視聴者はつい心の奥底で、イスラム世界の若者が自分の文明そのものが如何に駄目なものかを罵倒する台詞を期待してしまうようになっている。
ところがここで海外のメディアがイスラム世界の若者にマイクを向けて、自国の民主化や近代化が相変わらずうまく行かないことについてどう思うか質問したところ、皆が日本に関する研究書をカバンから取り出して、異口同音に「あんな民主化はもともと設計図が間違っているからうまく行かないのは当たり前だ。本物の設計図は日本の『理数系武士団』を参考に新しく書き直さねばならず、それを今書いている最中なんだよ。それが完成するまでは、今のような状況も仕方がないさ。」という意外な台詞が聞かれたとすればどうだろう。
恐らくそのインパクトは欧米世界にとってもかなり大きいはずで、誰にマイクを向けてもそういう答えが返ってきたとすれば、視聴者の中にはこれまでのイスラム観を改める必要を感じる人も出てくるかもしれず、それが状況をポジティブな方向に動かす可能性も否定できないと思われるのである。
・日本の史例との比較)
ではその「時間稼ぎ」の部分に関しては、日本の歴史ではどうだったのだろうか。
実は日本の場合、一般の政治活動に熱中する武士たちは、必ずしも国内で技術者層が力を発揮できるようになるまでの間、そのような「時間稼ぎ」を意識的に行うことをしなかった。そのためその点に関する限りは必ずしも模範となるような事例であるとは言い難く、むしろ日本の場合、その面では幸運に恵まれていたことを指摘する必要があろう。
その幸運とは、当時のヨーロッパがビスマルクのドイツ帝国の台頭で、英仏などの列強諸国が普墺戦争・普仏戦争に巻き込まれていたことである。おまけに米国も南北戦争(市民戦争)の真っ只中にあって、列強諸国がいずれも本国のことにかかりっきりになっており、日本社会が最も脆い時期に本格的な介入ができなかったのである。
そしてそれらの戦争が落ち着いて、列強がアジアに介入できるようになったときには、日本は最も危険な時期を何とか切り抜けてどうにか理数系武士団が海軍建設に動き出せるまでになっていたのである。
そのように日本の場合は国際的な幸運に助けられて、特にそのための「時間稼ぎ」を行わずともその時間的余裕を得ることができたわけだが、もしそういう幸運に恵まれない国の場合、ある程度意識的にそれを行う必要があるだろう。
■ 日本では「オランダ語の本(技術書)」の存在が途方もなく重要だった
そして最後にもう一つ、歴史からの重要な教訓として伝えておきたいことがある。一般にそのように、ある国の科学技術の発展を外国が支援しようというとき、それを政府間で協議すると、多くの場合まずそのための学校組織を作ろうという話になるものである。そしてそのためには何十億円もの資金が必要だということで頭を抱えて終わりというケースが結構多い。
しかし確かにそれが重要でないとは言わないが、日本の理数系武士団たちの実例を見る限り、実はむしろ彼らにとってそれ以上に重要だったのは、「良い本」の存在だったということがわかる。
つまり当時の日本はオランダ語で書かれた良い教科書を輸入して宝物のように扱い、それを書き写したり翻訳したりすることで科学技術を独習していったのである。
■ オランダ人教官たちの意外な体験
そしてそのために意外な経験をすることになったのが、当時オランダから海軍学校設立のために招かれたオランダ海軍の教官たちだった。彼らは当初、日本人学生に数学や物理を一から教えなければならないと思っていたのだが、日本人学生たちに接してみると、彼らはそれらの内容をあらかじめ本で読んでいて、ほとんどを知っていたというのである。
そして当時の日本には各地にオランダ語を教える私塾があり、そこで多くの若者たちがやはり本だけを頼りに西洋の科学技術を学んでいた。彼らの多くは後に国の産業を支える大きな役割を担うことになり、人数の点ではむしろ彼らがメインであったかもしれない。
大体よく検討すると、当時の日本では近代以降に国を支えた人材の中で、直接オランダ人教官と接した人間は僅かな数でしかない。実際、前記の「海軍伝習所」は入学者の数も少なく、活動期間も短かったのであり、そこから計算しても、建物の中でオランダ人によって行われる教育だけでは、国が必要とする人材を必要な数だけ育てることは到底不可能だったろう。
こうしてみると日本の理数系武士団の場合、最も重要な時期において、政府が作った建物よりもむしろオランダ語の本が果たした役割の方が遥かに重要であったことがわかる。
■ 日本はなぜオランダ語を特別扱いしたか
ところで日本の場合、なぜ「オランダ語」だったのかについては説明の必要があろう。先ほど日本とキリスト教宣教師の関係について1−3でも述べたように、日本は15世紀ごろにイエズス会の宣教師と接触し、当初は積極的に海外の文化を採り入れようとしたのだが、間もなくキリスト教宣教師のもたらす危険について認識し、彼らを全て追放して国を閉ざした。
しかしその際に日本は全ての海外情報を遮断することはせず、窓口を一つだけは空けておこうと考えたのである。そして当時の日本の指導者たちは、西欧の中でも最小限にしかキリスト教宣教師的本能をもたない国はどれであるかを検討し、そしてオランダがその危険が最も少ない国であると判断した。
当時のオランダはイエズス会とは無縁の新教国で、キリスト教の布教ということにあまり関心がなかったのである。おまけに実際に窓口となっているオランダ東インド会社は、いわば貿易にしか興味のない人間が勝手に海に出て半独立国になったような組織だったため、後の英国のように国全体で鼻息荒く自国製品を売り込む商業帝国主義的傾向も少なかった。
そのため日本は唯一、オランダとだけは細々と通商を行い続け、そのせいもあって、オランダ語の本は日本の理数系武士団にとって貴重な情報源であり続けたのである。
■ イスラム諸国にとってその種の本の存在が「何々センター」建設より重要である
そのためこの事実はイスラム諸国にとっても大いに参考になると思われる。つまり先ほど述べたように、とかく政治家同士の間で話をすると、「何々センター」のような建物を作る話になりがちなのだが、むしろ本当に大事なのは、そのように頼りになる「良い本」が存在するかどうかということなのである。
そしてこれまでのイスラム世界の不幸の一つは、当時の日本にとってのオランダ語の技術書に相当するものが、ほとんど存在していなかったということである。実際現在イスラム世界が近代化の教科書とするために欧米の本を入手しても、そこにはかつての日本が警戒したような宣教師的な「毒」が混じっているという疑いを拭い去れず、日本の理数系武士団が頼ることのできたような安全な良書を現在のイスラム諸国が探すのは至難の業だと言わざるを得ない。
しかしもしそのような良書が存在していれば、センター設立にかかる数十分の一の費用で何十倍もの若者がそれを学ぶことができる。逆にそのような本が全く存在しない状態でセンターの建物だけ作っても、それは魂のない抜け殻のようなものにすぎず、形骸化するだけで実効はあまり期待できないのである。
つまり筆者がここで言いたいのは、イスラム世界は日本語をもって、当時の日本の理数系武士団にとってのオランダ語に相当するものと考え、それを頼りに「テクノ・ウラマー」を育成すべきだということである。
要するにまず第一歩としては、「良い日本語の本」を求めて、それを政府間での何々センター建設の話よりも優先させるべきだということである。
ただし、現在の日本の科学者・技術者はイスラム世界に向けて物を書くという習慣がなかったため、そういう新しい習慣を時間をかけて双方で作り上げていく必要があるだろう。しかしそれは多少の時間がかかるだけで、決して克服できない難しい問題ではないはずである。
しかしともあれこれで、イスラム世界が今何をすべきかの道順については、大筋でご理解いただけたことと思う。実際、どんな回り道に見えても、それ以外の経路は存在しないと筆者は断言したい。
>> 「物理数学の直観的方法」を中東イスラム世界に出すことの利点