TOP
碁石理論からするステルス建築技術の社会的意義
(2004年9月例会講義 長沼伸一郎)


 今日やる話は、ステルス建築の社会とか経済に対する意義ということで、まあこれは断片的な形では以前に何度かやったことがあるんですけども、今回まとめてやっておこうということです。
 
 それともうひとつはそれと関連した話で、現代のように文化が爛熟してくるとそれが破壊的な方向に向かってしまうということについて、それを碁石理論とつなげて解説することもやっておきたいと思います。


●ステルス建築の社会や経済に対する意義

 まずステルス技術が、今の資本主義社会、経済にとってどういう意味があるかという話題です。まあステルス建築理論自体が、そもそも最初、この暴走する資本主義経済を何とかして遅くする方法はないかという問題意識から派生して出来てきたもので、そしてそれと同時に生まれたのが碁石理論ですから、最初からこれらは二人三脚で出てる部分はあるんですね。
(碁石理論については http://pathfind.motion.ne.jp/goishi.htm も参照の事)

 まずステルス建築の場合、確かにこれは街並みをきれいにするとか、そういう美観上の効果もありますけれども、やっぱり最初に出て来た時には、文明社会の閉塞感を減らして安らぎ感というか広がり感というものを増やすことで、碁石理論でいう呼吸口を増やして行くという意義が多分に入っていたんです。

 では経済を遅くする手段を探すという観点からすると、ステルス理論はどういう意義があるのか。それを碁石理論の観点から見てみましょう。

 まず碁石理論の一番重要な概念としては、言うまでもなく呼吸口の数が人間の幸福感を支える原点で、それが最も重要であるということですが、それに対して今の資本主義経済を支えている思想というのは、とにかく青石(*欲求の充足を示す)の数を増やして行くことが幸福なのだということで、これが資本主義社会の一番の前提になっている訳ですよ。

 しかし青石を増やすことイコール人間の幸福を増やすことではないということは、最近では誰にでも感じられるようになってきています。ただアメリカ文明の黄金期、世界全体の資本主義経済が上向いてたころは、それなりに人間は幸福感を感じており、そのため人々はそれを正しいと信じていました。

 何故そういう幸福感を感じていたのかと言うと、実は資本主義社会の場合には外を塞いでいる赤石(*欲求の禁止を示す)の部分を壊して、そこに穴を空けてここに外との呼吸口を開くことで、一時的に呼吸口を増すという機能が確かに付与されていた訳なんですよ。

 だから実際は青石が増えていたから幸せだった訳ではなくて、赤石を壊すことで呼吸口が外側に生まれる。それが実は資本主義社会で、ある程度の時期人間が幸福であったことの本当の原因だったんですよね。

 そして碁石理論のもう一つ重要な概念は、いわゆるジョイントの概念です。つまり緊密な絆の存在する共同体では人間同士の間に一種の精神的なジョイントが発生し、一人の持っている呼吸口を他の人間が共有できる。そしてある個人が、自身に関しては周囲全部を碁石で囲まれてしまったとしても、ジョイントでつながった塊の中に呼吸口があれば、それで精神的には人間は生きて行けるということです。(図1)

 これがやはり碁石理論の一番大きい、文明に対する一つの提言と言えると思うんですが、要するによく出来た共同体があれば、その石の塊の内部にある呼吸口を皆で共有することで、たとえ外側に呼吸口がなくても、人間は精神的に生きていくことができる。
 それに対してアメリカ型文明の場合、とにかく外側に呼吸口を求めていくシステムになっていますから、外へ外へととにかく拡大を続けていないと、一定量の呼吸口を確保することができないわけです。

 それで、これは前にもどこかで述べたことがありますけれど、これは資本主義が止まれないメカニズムのうちの、人間の精神にかかわる部分と密接に関連してくるわけです。


●新しい体制への移行
 要するに、現代の暴走資本主義から脱却するには、碁石理論の場合の呼吸口数の極大化を達成できるような新しい技術体系ってものを作っていくことが必要であろうということになるわけです。

 その時に、まず最初の段階としては、青石を増やすことではなくて、呼吸口を増やすことを目的とした技術を確立していく。それが第一のステップであるというのが、ステルス理論が導入されたことの一つの経緯になるんですよね。

 さらにステルス理論の場合には、例えば建物一つ一つでやっていくこともできますけれども、やっぱりステルス理論がある程度進んでいくとなると、街全体で共同して閉塞感を減らして行こうという機運が生まれる可能性は、高い訳なんですよ。

 そうなってくると、うちの建物でステルスをこれだけやったから、隣との共鳴効果を作ることで、もっとステルス性を上げたいというような欲求というのも当然出てくるでしょうから、一つ一つの居住空間のステルス性を極大化するというんじゃなくて、街全体の体感面積を上げるという点で、お互いにジョイントで繋げて呼吸口を共有化して行くという流れを作る一つの技術として、このステルス技術は要求された訳です。

 それと、もう一つ大きい問題として、社会システムが外側の呼吸口に依存する体制から、内側の呼吸口に依存する体制に移行するためには、その間の移行期の経済をどうするかが大きな問題になる訳ですが、この場合碁石理論が持ってくる経済原理として、「人間社会というものは呼吸口の数を極大化する方向に動いていく」という原則があって、これを使うことができると考えられます。

 つまりステルス理論が本当に呼吸口を増やすことに役に立つならば、経済が自然にそちらに惹かれて動いていきますし、それに基づいて都市の造り替えをやっている期間は、十分な経済的需要を確保できます。そのためこの過渡期の期間は、社会も精神的に従来の資本主義と同じ原理で動いていて差し支えないことになります。

 そしてそれが完成した時には、今度は内側で呼吸口を共有化することで、全体として安定した社会状態に移行する。まあこの時には純粋に経済的な需要はゆっくりしたものになってしまうわけですけれど、この時点までにもし社会全体のシステム運営が、青石の極大化ではなく、呼吸口の数が極大化すればいいというシステムで立っていけるようになれば、社会は少なくとも精神的には十分安定化させておける。

 つまり碁石理論とステルス建築理論をうまく組み合わせる事で、過渡期とその後の安定期の双方に対処するための処方箋を一応提示できるわけです。ここは従来の環境問題や自然保護運動などの致命的なネックとされていたところで、それを本気で実行に移すとたちまち経済が破綻して餓死者が出るというジレンマを抱えていました。これはその難題に対する処方箋となりえる訳ですよね。

 もっとも現実にはそれでも難しいというかもしれませんが、しかし「現実」ということからするならば、これから先この暴走経済をこのままにして、青石増やして行くというんだったら環境問題だけでも破綻するだろうし、現実にはこっちの方がどうしても無理があるんですよ。

 そうならないためには、やはり安定した内部の呼吸口の数が増えればいいという態勢に移行しなければならない訳ですけれども、ただそのためには確かにステルス理論一つだけではやはりどう考えても力不足です。
 実際問題として考えた場合には、社会全体のそこら中でそういう技術を何十個も新しく編み出して、それらを組み合わせて行かないといけないだろうと思うんです。ただそのためにはやはりお手本になる最初の技術というものが必要でしょう。

 ステルス理論はその最初のお手本という形で、まずモデルテクノロジーといいますか、ここで、「建築だったらこういうことができる。他の分野だったらこれと似た考えでそういうものができるんじゃないか」、そういう一種のムーブメントを起こすことで、たくさんそういう技術を作ることでのみ、移行が可能であろうということです。そのための最初の突破口がこのステルス建築理論であるというのが、その真の社会的意義だということです。


 ●文化の爛熟と人間の破壊衝動
 
 ステルス理論に関しては大体以上ですが、ここでもう一つの話題に移りましょう。

 一般に文化が爛熟して行くと、人間は秩序というものに嫌悪や軽蔑の感情を示すようになり、それを破壊する過激なものに喝采を送る傾向があるんですが、今の爛熟した資本主義社会を見ても、そういうことは言えるようです。

 若い世代なんか見ると「過激である=善である」という強い思い込みみたいのがあるわけですよね。やっぱり世の中、ぶっ壊すのが偉いんだと(笑)いうことになってしまって、何か物事を皆で作ろうというよりも、ひたすらぶっ壊す方が尊いんだという方にまとまってしまっている。それで文化全体も、モラルの崩壊なんてのは言わずもがなで、例えばコミックなどを見ても、やっぱり不良が主人公のものが圧倒的に多いんですよね。

 要するに世の中に反抗して、ぶっ壊す奴がやっぱり一番のヒーローなんだということで、音楽にせよ何にせよ、全部がそういう方向に向かっている。

 この点について社会評論なんか見ると、こういうのは人間の本性だから文化が発達してしまえばやむを得ないことなんだと言う風な、ちょっと諦めの論調があることは確かなんですけれども、でも実際そうなのか。
 
 もう少しこれを詳しく分析してみると、必ずしもそうでない道もあるんじゃないか、という気もしないでもないわけです。そしてこれが先程の話と全く同じものに相当している訳ですよ。


●碁石理論での分析

 それで碁石理論がここでどう関連してくるのかですが、ここで重要になるのは、碁石理論の場合、このジョイントは社会的な上下関係の点から見ると、横同士には発生しない。例外的な場合として、外側を共通の敵で塞がれた場合にはジョイントが生じる場合もありますけども、全くそういうものがない条件だと横同士の完全に平等な立場にある人間の間では、一般にジョイントは発生しません。

 ジョイントが実際に発生するのは縦方向で、上にジョイントが発生する場合が碁石理論のページ(http://pathfind.motion.ne.jp/goishi.htm)に書いたアイドルなどの場合で、下に発生する場合は例えば、ペットとか、動物愛護とかそういうものなんですよね。

 トックビルなどを読んでも分かるとおり、安定した社会というのは実はそういう人々の絆が上下関係の絆というものを基礎にして、大きな石の塊の共同体を作っていて、うまく呼吸口が共有されてる状態です。それに対して人々の地位が完全に平等になって行くと、段々そういう関係は途切れて行ってしまう。

 つまり現代のように人々の関係を段々平等化して平坦にして行くに従って、ジョイントは徐々に切れて行く訳です。そして個人というものがどんどん孤立して存在していくことになる。ただその絆を破壊した一瞬の間だけは、ジョイントの部分が切れて切断部分に穴ができ、一時的にはそこに呼吸口がひとつ生まれる訳ですよね。(図2)

 例えばちょうど一人暮らしを始めた最初の時の解放感なんていうのはそれで、ごく短時間を取ってみるならば、こういう風に人々の人間関係を全部平等化してバラバラにして行くことで、一時的には呼吸口の数は増える。しかしそれがしばらく経ってみるとそこが青石で塞がれてしまうから、長期的に見れば呼吸口の数は以前より減って行くことになる訳です。

 その場合には石の塊が全部バラバラになってますから、一人が一個分の呼吸口でしか呼吸できない。たくさんの人がつながって、ジョイントが生まれてる場合には、他の人の呼吸口を使って呼吸ができ、社会全体として実質的な呼吸口数は多いですけれども、石の塊のサイズが小さくなってしまうとそれができない。

 これがある意味で、伝統社会と資本主義社会の精神構造の大きな違いだと言えるでしょう。
 とにかく現在の資本主義体制の中で精神的に生きていくためには、外へ外へと呼吸口を求めて行かなければいけない。
 
 そのためには平等化を進めて、できるだけ個人が動ける余地を大きくしておく必要がある。これは本来の望ましい状態、つまり石の塊を大きくして呼吸口を共有する事とは逆方向の動きをどんどん進めなければいけない。そして現代のように縮退の進んだ社会では、その悪循環からなかなか抜けられない訳ですよね。

 逆に言えば、昔の安定した伝統社会というのは、社会全体が非常に緊密にシステムとしてまとまっていましたから、秩序立った社会の中で、ある一定の呼吸口を維持することは出来ていたと思うんです。

 ところがアメリカ型文明の行き足が止まってしまった状態の中では、子供達を見てると、秩序の中にとどまるということイコール非常に閉塞感の中で忍耐を強いられると言うことになってるんですよね。

 これはなぜかと言うと、昔はやっぱり社会の出来が良かったですから、塊の内側にある呼吸口の共有だけで、人間が生きていくのに十分な量の呼吸口を確保できていた。
 ところが中途半端にアメリカ化して、呼吸口を共有できる共同体の有効サイズが小さくなってしまい、その内側に留まっていたのでは、十分な量の呼吸口を確保できなくなったわけですよね。
 そういう場合、できるだけ社会を壊して外に呼吸口を求めるしかなくなってくるわけです。

 実際問題、とりあえず今の秩序とか上下関係を壊して、ジョイントのどこかを切断すれば、その切断部分に2個の呼吸口ができますから、確かに現在の風潮である、文化をとにかくぶっ壊して行くということには、短時間の間、呼吸口を増やすという点ではむしろとどまっているよりも良いという事情があるんです。

 子供の世界で、今は素直な優等生がとかく否定的な対象として見られがちというのは、やっぱり現行秩序体制の中で「いい子」で居続けようとすると、その乏しい共同体内部の呼吸口の数の中で暮らさなければならないから精神的に参ってしまうわけですよ。

 その状態から脱するためには子供達としても、上下関係を何でもかんでもとにかくぶっ壊せば、暫くの間は呼吸口が得られる。それで荒れる方向に走っている面は多分にあると思うんです。

 だとすればそれに対する処方箋は本来何であったかというと、平等化や自由化を押し進めることなんかではなかったわけですよね。

 つまり高いレベルの安定した呼吸口の数をたくさん共有できるような、そういう安定した文化秩序体系があって人々をその秩序体系の中に取り込むというか、自発的に参加させておくことこそが、本来はベストだったわけです。


●アメリカ文明の持つ特殊な条件

 そう考えてみると、実はアメリカ文明と言うのは、本来矛盾するはずの外と中へ呼吸口を求める要求がたまたま一時的に一致した例外的な状態だったと言えるでしょう。

 つまりアメリカ文明がなぜ人気があるかと言うと、創造的破壊の快感という奴ですよ。アメリカ文明の本質は今までの古い物事を破壊することにある。破壊する事イコールアメリカという文化に参加することなんですよね。

 まずこの破壊効果によって外側に呼吸口は多く得ることができます。そしてなおかつその破壊行動に参加した事で、アメリカという「創造的破壊を世界に広める尊い文明」へ参加したことにもなる訳で、このときアメリカ人は内側の呼吸口も共有しているわけです。
 だからこの場合、外側に呼吸口を増やす一方で、内側にも呼吸口が増えるという、両方で増えるような構造が一時的に生じていたわけなんですよ。

 アメリカが創造的破壊の文明として立っていられたというのは、これはまあハーモニックコスモス信仰があってこそ出来たことで、現実はその「創造的破壊による社会的進歩」は単なる「社会の縮退」に過ぎませんでした。しかしともかく、それが幻想として維持されている間は、外と内と二重に呼吸口を得られる構造になってた訳ですよね。それが世界の人々をアメリカが素晴らしい文明であると錯覚させる大きな原因だったと言える訳です。
 
 それ以前のヨーロッパの社会の場合は、うまく緊密に構成された社会がありましたからたとえ停止した状態でも、内側の呼吸口はかなり十分にあった。けれどもアメリカは更に、それに加えて、破壊によって外側へ呼吸口が増える効果も同時に享受することが可能になっていたわけです。

 しかし調子に乗って社会を縮退させ続けていたものだから、そこら中でジョイントが途切れて内側の呼吸口は不足するようになった。そこで以前にも増して外側に呼吸口を求めざるを得なくなってきた。それが単なる破壊であっても、窒息の危険に晒されてそんなことに構ってはいられなくなったというのが、アメリカの60年代以後の状況だと言えます。

 つまり実は、文化が爛熟して行くとそれを破壊する方向に向かうというのはまさに、内側の呼吸口の数が足らなくなって来た結果、一種の悪循環として起こる現象だと、基本的にメカニズム的にそう言える訳なんですよ。だからその処方箋はそこを踏まえた上で描くべきであるというのが私の見解です。


●破壊衝動のもうひとつの理由
 
 ただもう一つここで補足しておくと、人間の破壊的衝動はこれだけが原因ではないということは、心のどこかに留めておく必要があるでしょう。
 (前にちょっと新プラトン主義の話と一致した所があるんですけども=新プラトン主義の稿は未掲載)、社会が文化的爛熟に達すると人々がそれを破壊する方向に向かってしまうというのは、ひとつ注意するべき点は、全部の条件が整っていてもなおかつ人間にはそういう破壊的衝動があるということを、付随した条件として覚えておく必要があると思うんです。

 (これは、以前に新プラトン主義のところでも話したことがあると思うんですけども=上に同じ)文化の型にはアポロ的な文化とディオニソス的な文化っていう2つがあります。アポロ的というのは建設的、創造的で、生命の世界に基礎を置くもので、ディオニソス的というのは、破壊的で感情的で、死の世界に基礎を置くものです。

 そして建築などは多分にアポロン的なものがあるんだけれども、音楽と劇とか、そういうものは多分にディオニソス的なものがある。

 そして「死への衝動」、これは心理学の用語で「タナトス」と呼ばれますが、人間というのは死への意志に基づく破壊衝動というのがすごく強くあって、文化というのはそれをも許容していないといけないという点がかなりあったんです。

 今は確かに見てみるとね、世の中が全部平らいだ状況にあったとしても、音楽や、カタルシスを求める映画は破壊的な所に行こうとしてしまうという性癖を、本質に抱えてる部分があるんですよね。

 だから、昔のヨーロッパというのは、ある意味それを十分理解した上で、うまくそれを押さえて秩序の中にそれでも取り込んでおくという配慮があったと思うんです。
 そしてディオニソス的なものというのは死の概念と結び付いてますから、これは必ず宗教と競合関係にある訳なんですよ。

 そこに注目してみると、ヨーロッパのゴシック聖堂などは、そこを押さえる仕掛けとしていかに強力な威力をもっていたかというのが分かる訳ですよね。そもそも教会という死を意識した建築を作るという宗教的な事業のために、何百年もかけて人々を建設に参加させる訳じゃないですか。

 つまり死という本来破壊的衝動にあるものを教会の建設という形で、創造的な方向に向けて安定化させる。そして、ゴシック教会の中で荘厳な教会音楽がバーッと流れて来て、これはロックなんかじゃもう太刀打ちできないような、そんな神の世界につながるすばらしい音楽を作ることで、音楽の持っているそのディオニソス的破壊衝動も、うまくゴシック聖堂の中にうまく取り込んで行くことができていた。

 だからヨーロッパの街並みなんてのはステルス性も高く、緊密にできていますけども、同時にタナトス、ディオニソス的、破壊的衝動というものを、うまく吸収する仕掛けも街の真ん中にドーンと据えられていたということですよね。これはやはり我々が将来、社会を設計するうえで頭に留めておくべきことで、ただ単に世の中をうまく平らいだようにするだけでは、社会の秩序は完全には維持できないということです。

 これを維持し損ねると、人間がもともと持っている「死への意思=タナトス」が、破壊的衝動を媒介にして、外側に呼吸口を作ろうとする社会内部の力学と手を組み、どんどん破壊が加速する悪循環を作り出して行く。人間社会の文化というものはそういう不思議な性質を持っているんです。

 要約すると退廃期・爛熟期に入った文化が、破壊的に向かう原因は2つある。一つは呼吸口の数が足りないから、現在の共同体の石の塊を壊して外側に呼吸口を求めて行かなければいけないという衝動、そしてもう一つは人間に元々ある死への意思による破壊的衝動というもの、その2つがあるんだということを、理解していることが今後の社会の設計を行う上で、頭のどこかに必ず留めておくべきものであると考えます。

 ステルス理論から派生して、ここまで話が来てしまいましたが、とにかくまあそういうことが言えると思います。

TOP