碁石理論

 「無形化世界の力学と戦略」において、本には書かれてはいないものの、その背後に何か別の理論なり思想なりが存在しているのではないかと感じられた読者もあるかもしれません。実は以下の議論はその一つで、経済の速度を遅くするためのテクノロジーないしそのバックボーンとなる思想の、目下の最有力候補です。そしてこれは単に経済の速度を遅くするだけにとどまらず、物質的に飽和してしまった文明が行き詰まりから脱出するためにはどうすれば良いかという、未来の文明にとって最も重大な問題に対する最も有望な脱出経路とも考えられており、実際にわれわれの間ではすでに、未来について何事かを構想する際の欠くべからざる道具となっています。(長沼)
(初出・「現代思想」1995年5月号に加筆);

将来の社会設計の目的となる価値基準は何か
                             長沼伸一郎

 現代の世界が直面する最大の問題が何であるかについては何通りかの見解があるだろうが、環境問題がその一つであることに異論を唱える人はまずおるまい。しかしその原因をたどっていくと結局最後には、成長の宿命をかかえた「止まれない」資本主義経済の暴走体質というものに行き着くのである。
 実際その幾何級数的な膨張速度はそれ自体、空恐ろしさを感じさせる代物だが、現在のところそれを人為的に遅らせることは人類の手に余る難事だと考えられている。ちょうど遅い速度で飛べる飛行機を設計することが速く飛べる飛行機の設計に劣らず難しいのに似て、資本主義経済を遅くする方法を確立するためには、今まで速い経済成長を実現するために用いてきたものを上回る高度な学問体系が必要となることは間違いない。
 しかしもし現在の経済学の枠組みの中に留まって経済を遅くする手段を発見しようと試みたとしても、私はその失敗を予言するだろう。なぜならば、現在知られている経済学の体系は、本質的に1次元の体系だからである
 何をもって経済学を「1次元」であると言うかといえば、そこで問題にされるものが結局は金額が多いか少ないかという1次元の量に還元されてしまうことによる。そしてその1次元宇宙の中の力学のゴールがその金額の値を最大化することにあり、またその競争において先手必勝の原則が支配的であるならば、そこにスピードを遅らせる要素が出てくるとはまず考えられない。
 その一方で西側先進国経済を見ると、どうもその1次元の宇宙の中でできることをあらかたやりつくしてしまったように思える。結局のところ、「もう一つの次元」とでも呼ぶべきものをどこかに見つけだして導入し、そしてそれが金額の量を競う1次元宇宙に匹敵する規模をもったものでなければ、この経済世界を安全な巡航速度で遅く飛ばすこともできず、また西側文明そのものがどうしようもなく行き詰まってしまうことになる。
 もっとも、そうした行き詰まりに対する指摘の歴史はかなり古く、例えばオルテガの時代にすでにそうした指摘がなされていた。オルテガは現代を「満足しきったお坊ちゃんの時代」と呼び、「満足が原因で死滅する時代もあるのだ」(大衆の反逆)という。これは現代の豊かな先進国に住む人々の大部分に実感として感じられる言葉であり、同時にこれ以上に文明の将来に絶望を感じさせる言葉もないだろう。それゆえわれわれはそこからの脱出口を探さねばならない。しかし一体どうやって何を手がかりにすれば良いというのだろうか。

「想像力」の意義

 実は先ほどのオルテガの本の中には、一つのヒントが記されている。それはセルバンテスの言葉で「道中のほうがいつでも宿屋よりもよい」というものである。これを、単に夢を達成する過程が偉大であると読んでしまうと、われわれの役には立たない。われわれが読み取りたいのはもっと別のことなのである。
 読者にも経験があるだろうが、大体において旅というものはそれを準備している時が一番楽しく、実際に行ってしまうとしばしばどうということはない。また、欲しいものがある場合でも、大体カタログを見ながらいつ手に入るだろうと想像している時が幸せで、実際に手に入れてしまうと、自分が欲しかったのはこんなものだったのかと、拍子抜けしたような虚脱感に見舞われるのである。
 物を手に入れた時に、実際に幸福感を感じることができる時というのは、むしろそれを一種の道具と考え、これをどう使って次に何をしようかと、想像に浸ることができる場合であることが圧倒的に多い。大量消費時代の消費需要の牽引車となった洗濯機や自動車なども、その先にある「アメリカ的生活様式」という夢の物語の小道具として売り込まれたからこそ、あそこまで需要を引っ張っていくことができたのである。
 これらのことから、われわれは一つの重要な仮定を引き出したいと思う。それは、「人間に幸福感を感じさせるものは、外見からもわかる『幸福な境遇』それ自体ではなく、むしろそれが種となって想像力に転化されたものであり、その『想像の中の幸福』を吸収することで人間は幸福を感じるのである」ということである。
 つまり外面的な幸福それ自体は人間は吸収することができず、人間の心の中で「想像力」という酵素が作用することで初めて吸収できる状態になるというわけである。逆に言えば、外面的な豊かさをいくら与えられても、想像力という酵素が不足すれば豊かさの中で逆に窒息してしまうということである。
 ここで言う「想像力」という概念は、可能性という概念をもその中で含んでいるが、今述べたことも、想像力という概念を狭く解釈して可能性という言葉で置き換えるともっとよく理解されるであろう。可能性とは、現在それがまだ実現していないからこそ可能性というのであって、それはその時点では想像の中にしか存在していない。しかし全てを実際に手に入れて可能性が塗りつぶされ終わった状態よりも、まだ何も現実には手にしていないが可能性の中に莫大な資産が眠っている状態のほうが至福感に満ちていることは、誰にでも理解できることである。ここではこの「可能性による幸福」という概念を心理的な面から一般化し、拡張しようというわけである。
 さて話を元に戻すと、われわれにとって皮肉なのは、物質的豊かさ(あるいは情報)というものが過剰に供給されてしまうと、想像力という酵素がかえって分泌されなくなってしまうことである。喩えて言えば、ビンの中に想像力の種になるものを一つ入れて栓をする。種は密閉されたビンの中で発酵し、気体を出す。やがてその気体の圧力が高くなって栓を押し上げ、その隙間からわずかにもれる。そしてそれを吸い込むときに人間は幸福感を覚えるのである。
 ところが米国を頂点とする豊かな社会はいわば栓が外れっぱなしのビンであり、想像力の種がいくら多くてもそれがすぐに現実化されて過剰に与えられるため、逆にこの「魂の気体」とでも言うべきものを十分に呼吸することができなくなってしまう。そこでその苦しさを補うためハリウッドからホースを何本も引いてきて外部から夢を補給してもらうが、それがまた自分の体内でこの気体を作り出す能力をかえって衰弱させる。そこでついに麻薬に手を出して自分の体の組織を焼き、それが蒸発する時に出る気体を吸い込むことで一時だけ苦しさから逃れるのである。
 要するにこうした問題は精神面において人間の内的な想像力が(外部からの過剰供給によって)枯渇していく過程であり、その病であると言える。オルテガの指摘を含めて現代文明社会が直面する本質的な問題がそこにある。
 一般に人間は苦難それ自体によって死ぬことは稀である。人間を殺すのは実は絶望であり、どんな苦難があってもどこかに活路があると信じている限り、人間は驚異的な力を出して生き抜くものである。こんなことは常識であり、あらためて指摘するまでもない。しかしここで注目すべきことは、希望を断たれることばかりでなく、希望がかなってそれを味わってしまうことでも人間の精神は活路を断たれたと感じるらしいことである。
 人間の精神の深いところにあるもの−−それを魂と呼んでも良いだろう−−を観察すると、実に不思議なことがわかる。それは本質的に「無限」の世界の住人なのである。
 物理学者は次のことを知っている。すなわち数学と物理の最大の違いはどこかというと、それは数学には無限があるが、物理には無限はないということである。数学は本質的に架空の世界を扱うが、物理学が扱うのはあくまでも現実の世界である。つまりこの現実の世界は究極的には全て有限なのである。
 物質、肉体、とにかく現実に人間が生きている世界は有限なのだから、魂は現実に存在しない世界に生き、現実に存在しない無限を呼吸しようとしている。例えば社会の中での理念などはしばしばその理念の限界がどこにあるかが明言されないときに大きな支持を受けるが、有限性が正確に示された途端に力を失うことがある。これは適者生存の進化の論理からすれば実に不思議なことであり、単に種や肉体の保全を図るのであれば、妙な錯覚をもたずに物事の有限性を認識したままで行動できたほうが都合が良いにもかかわらずである。
 一般に肉体や社会を健康な状態に保つ原則は「中庸」であり、それは有限性の認識に基づく。しかし欲しがっていたものを実際に手に入れて知ってしまうことは、いわばその有限性が確認されてしまったわけで、もはや精神の要求を満たすことができない。カタログを見ている間は、(別にそれを無限だと思っているわけではないが)少なくとも有限性は確認されておらず、精神はそこに活路を感じて呼吸できるのである。

碁石の概念の導入

 活路や呼吸という概念を用いたが、これを足掛かりにしてここでアナロジーによる概念の拡張を行おう。それは囲碁と碁石の性質を応用するものである。
 碁石の基本的性質は次のようなものである。それは活路を失った石は死ぬということである。例えば次の図1では左の場合白石は上に活路があるが、右ではそれが黒石で塞がれて、白石は呼吸を断たれて死んでしまう。

          図1

 ここで、黒石のかわりに赤と青の石を用いよう。まず赤の石は「禁止」による希望の喪失を意味する。つまり白石が生きていこうとする行く手に立ちふさがってそれを阻止する要因である。例えば白石を4つの赤が囲んで活路を全部塞いでいたならば、それは生きる希望を全部断たれて精神が絶望のうちに死ぬことを意味する。これは、今までの常識的な考え方に照らしてもよく理解できることだろう。
 一方青の石は新しい視点に基づくものである。4つの青石が白石を囲んでいる状態を、われわれは飽食と情報過多で精神的に窒息した状態とみなし、赤石で囲まれた状態と全く同じようにこの白石は死ぬのである。
 要するに赤は客観的には禁止を、青は客観的には入手を意味するのだが、人間精神は当事者の立場では最終的にこの両者をモノクローム化してともに黒石と同様のものと認識し、精神は窒息していってしまうのである。

        図2(赤石を四角で、青石を三角で表した。)

 これを基礎原理と見なして、以後の議論を進めていくことにしよう。さて囲碁の話に戻ると、囲碁のルールでは石が上下左右に連結している限り、どんなに離れた位置にあってもその活路によって離れた位置にある石は生きることができる。例えば図3のAの場所にある石の塊は、遠く離れた活路Bによって生きることができる。もし活路Bが黒石で塞がれるならば、これらの石は全滅する。

         図3

 これは人間の精神の問題では次のような局面を表現すると考えることができる。例えばAの石の塊を一人の人間と考えた場合、自分自身はもはや活路は失っているが、自分と精神的につながっている者−−自分の子や、自分の理想を引き継いでくれる後継者など−−が元気に活路Bをもっていることで、精神がそこに希望を感じて窒息しないでいる状態を示す。この関係は子供や後継者の場合ばかりでなく、忠臣が主君に対して、あるいは偶像として崇拝する相手に対して(すなわち下から上へ)生じることもある。
 そして囲碁において一番重要なのが「地」の概念である。要するに石の塊の内側にどれだけ多く空白領域を持っているかが勝敗を決める基準となるのである。例えば次の図の4−Aは「地」の一番の基本形であり、4つの白石が確保した空白領域である。また4−Bでは石の塊は2つの空白領域をもち、この場合白石の塊は外側を全部黒で固められているが、この空白領域によって白石は呼吸し、生きていくことができるのである。

         図4A

         図4B

 囲碁においては、勝敗を判定する基準をこういった「地」の数が多いか少ないかということに置いているが、これはゲームの勝敗の基準としては少々珍しい。チェスや将棋では王の駒を取ることで勝負が決まるし、囲碁と一見似たオセロゲームでは自分の色の石を多くした側が勝ちである。空白領域の多さを競うゲームというのは他にほとんど類を見ない。  しかしこのユニークさをわれわれは取り入れようというのである。すなわちわれわれは、ある文明や社会が真に良い状態にあるのかどうかを、その社会状態をこういう方法(ただし黒石のかわりに赤と青の石を用いる)で表示したときに、こうした「地」や呼吸口が多いかどうかでその判断を行なうのである。
 なお話が前後するが、先ほどの図の4−Bの状態がどのような局面を示すのかについて述べると次のようになる。一般に囲碁のルールでは、4−Aのように空白領域が1個のとき外を全部黒石で囲まれると、黒はそこに石を叩き込んで4個の白石を殺してとってしまうことができる。それが4−Bのように2個あると黒はどうしてもそこに石を置けなくなる。
 実のところ人間個人が心の中にもつ夢や可能性というものも、かなり似た性格をもっているのではあるまいか。つまり孤立した人間の精神は、自分自身の内面を不安と疑惑の目で見つめ始めて自分で呼吸口を一つ一つ潰していってしまうのに対し、「隣の芝生は青く見える」の理屈で他の人間が心の中にもつ呼吸口や希望は極めて強固に見える。そのため4−Bのように二つの石の塊がジョイントで結合されていると、(つまり何らかの精神的な絆があると)二人の人間がそれぞれ内側にもつ呼吸口が互いに補強し合って精神的に窒息せずにすむのである。
 考えてみると近代西欧の価値観では、文明・社会状態の優劣は青い石の数がどれだけ多いかで判断され、近代文明はそれを極大化することを最大の目的にしてきたと言える。一方近代以前の、しかしそれなりに良く均整のとれた文明、すなわちある国民がその国の「古き良き時代」というものは、その受ける感じからしていかにもこうした内部にできる呼吸口の数が多い。確かに豊かさという点ではわれわれの時代に劣り、つまり青石は少なく赤石は多かったはずなのに、何となくわれわれの時代よりも住むに値すると感じさせるのは、恐らくそれが原因である。
 では現代の資本主義社会の中に生きる人間の精神状態は、この方法ではどう表現されるのだろうか。これは経済の速度の問題ともからんでくるが、囲碁で示す次の局面に似ている。次の図5に示す状態では、白石の塊は内側に呼吸口をもたず、A点だけが唯一の呼吸口である。ところがうかうかしていると、ここに黒石を置かれてしまうため、白側としてはこの位置に先に自分の石Bを置くことで活路を維持しなければならない。ところが次に黒石をその先の位置Cに置かれると、前と似たような局面になってしまう。

       図5

 結局盤面の縁にぶつかるまで同じようないたちごっこが続くわけで、白側の塊は窒息の脅威から逃れるために取り憑かれたように必死で活路を求めて走り続けなければならない。確かに資本主義経済が停止できない理由の半分は、生産システムや金融など純然たる供給側のメカニズムにある。しかし恐らく残りの半分は消費を行なう側の心理状態の暴走体質に負っているのではあるまいか。つまりそこを生きる人間の精神自体が、変化と刺激の連続的な供給がなければまいってしまう悪循環体質になっているため、いわば精神面からの需要がこの暴走経済の駆動力となっているのである。
 これは一種の「自由経済の中の奴隷状態」であり、人間の精神は十分な数の呼吸口を与えられているときにだけ真に「自由」を感じることができると考えられる。つまりあり余る娯楽を選択できる状態は本来自由などとは無関係のことであり、あるいはこの観点から「自由」の概念は根本的に定義され直すべきなのかもしれない。
 ではこうした呼吸口や、石の塊同士をつなぐジョイントなどは、どうすれば作ることができるのだろうか。無論それはこんな短い文章では到底論じきれないが、容易にわかるように、人間同士の相互依存が強い場合にはその間のジョイントは強固なものとなる。また呼吸口が空いたままにしておくための有効な手段の一つは「自制」であり、(ややストア派的だが)その気になれば容易に入手できるものをわざと手を出さないままにして故意に空白領域を作っておくことである。そういったことを全部列挙するのは不可能だが、ここで一つジョイントに関する興味深い性質を挙げてみよう。
 それは社会的立場や力関係の中で考えた場合、上下方向にはジョイントが生じやすいが横方向には斥力が作用して発生しにくいということである。例えば大衆社会における偶像・アイドルの存在などというものはその一例である。大衆社会の中にいる「孤独な群衆」がアイドルの周囲に集まると、そこには一種巨大な連帯感が出現する。その様子はちょうどアイドルの存在が群衆の上側に発生した巨大なターミナル・ジョイントのようになっている。(6−A)

              図6A

 この場合、アイドルが群衆の立場からかけ離れた雲の上の人であればあるほど上へのジョイントは強固となり、逆に自分たちに近くなるほどそれは弱くなって完全に自分と同じ地位になった時点でジョイントは消滅する。
 この場合、群衆がアイドルに熱狂するのはアイドル自体への崇拝というよりも、むしろそれがジョイントとなって巨大な数の呼吸口を共有できるためではあるまいか。(伝統社会での「神」の役割も同様である。)またこれとはちょうど逆に、幼児や動物が何か危機に陥って保護がなければ死んでしまうなどという場合、それを救おうと人々が団結してそこに連帯感が生じることがある。これは下側にジョイントが発生した例である(6−B)。この場合、幼児の年齢が上がって大人たちに似てくるほどその結束は生じにくくなる。一般的に、横同士にジョイントが発生するには、共通の脅威によって脅かされていることなどが必要であり、自然状態では直接横方向にジョイントが発生することは難しい。

              図6B

呼吸口の数え方

 さてもし社会状態の善し悪しを呼吸口の総数を基準に判定するというならば、こうした場面で呼吸口の総数はいくらと数えられるのだろうか。近代西欧社会思想の判断基準は基本的に「最大多数の最大幸福」すなわち一人当たりの幸福度を人数全体で合計した値だという考えをとっていた。そこでここでもこの考えにならって計算してみよう。
 例えばここに100人の人間がいて、一人一人が完全に孤立してジョイントが全く存在せず、各人がそれぞれ1個だけ外か内に呼吸口をもつとする。この場合社会全体の呼吸口は各人1個が100人分つまり1×100で100個である。(7−A)

              図7A

 一方先ほどのアイドルの図のような場合はどうなるだろうか。つまり100人それぞれが内側に1個の呼吸口をもってそれがジョイントでつながっている場合である。この場合、各人がそれぞれジョイントを通じて100個の呼吸口で呼吸でき、それが100人いるわけだから、社会全体には総計で100×100=1万個の呼吸口がある状態であると考えることができる(7−B)。無論この仮定はやや極端ではあるが、それでも両者の効率に大きな差があることはわかるだろう。

              図7B

 昔のそれなりに均整のとれた伝統社会は、社会的な階層ができるという欠陥にあえて目をつぶり、また外側に拡大するための活路を減らすという犠牲を払っても、後者のように内側の呼吸口を増やしてそれをジョイントでつなげるということを行なっていたとみることができる。しかし近代西欧は青石の個数を極大化しようという表看板を掲げながら、実際には「外側の呼吸口」を増やすことに必死になっていた。そして活路や可能性の分配に公正を期するため、あえて伝統社会の構造を解体し、人々の間の社会的な絆を断ち切って各人を横一列に並べた。そのためジョイントは完全に切断されていった。(トックビルなどが警告していたのは、あるいはそういうことだったかもしれない。)

        図7C

 先ほど見たように、外側の活路によって呼吸口を得る方法は、内側の呼吸口に依存する場合に比べて非常に効率が悪い。このため近代西欧は、外側に圧倒的な個数の呼吸口を確保すべき宿命を負うことになった。暴走する大量消費社会や荒廃する地球環境はその一つの結果にすぎない。

経済を遅くする力学

 ではこの考え方を応用して、資本主義経済の速度を遅らせることはできないであろうか。もはやそれは原理的に不可能ではなくなった。なぜならこれによって従来の経済学における金額の1次元宇宙に匹敵する規模をもつもう一つの別個の次元が開かれたわけであり、このもう一つの座標軸の中で力学を作ってその力を対抗させればよいのである。
 そもそもウェーバーなどを読むと、伝統社会から資本主義経済への移行というものは、一般に想像されるほどすんなりいったわけではなかったようである。もともと純粋にシステムの面から言っても資本主義へのいわゆる「離陸」には一時的に大変な努力が必要とされるが、意外にも精神面でも大きな障壁があり、ヨーロッパにおいてすら、今より豊かになれるという話を聞かされても当時の多くの民衆は伝統社会にとどまることを望んだという。
 つまり社会の移行は単に金銭の極大化を求めて平坦な坂道を下るようにスムーズに行なわれたわけではないのであり、資本主義社会への移行には、その精神上・システム上の障壁を乗り越えるだけのいわば「脱出速度」が必要だったのである。それがない場合には社会は伝統社会の引力圏のまわりを回り続けたかもしれない。ではその障壁を越えさせるための「脱出速度」やエネルギーを供給しているものは何だろうか。実はその大部分は、ここで論じてきた呼吸口を求める人々の精神の動きと力学だと考えられる。
 呼吸口の力学に関しては次のことを原理として要請しても良いだろう。すなわち 人間の精神は呼吸口の数を極大化する方向に社会を動かそうとする ということである。それは一種の仮想的な力と考えることができ、それを基礎として力学を作って速度の問題を論じることが可能となるはずである。
 まず速度制御の問題の最大の鍵は、外側と内側の呼吸口数の比率ということにある。一般的に言って、社会の速度が速いとそれはより多くのチャンスを生むため外側の呼吸口数が増える一方、それは同時に伝統社会の脆弱でデリケートなジョイントを破壊して内側の呼吸口数を減少させる。遅い社会の場合には逆のことが言える。要するに外側と内側での呼吸口の増減の比率によって社会の加速と減速が決定されるわけである
 その力学については残念ながら詳述する余裕がないので、さわりだけをざっと眺めていただくことにしよう。今の話をもう少し物理学らしく言うと、系を微小に変化させたときに外側にできる呼吸口数U0の数が増える場合には(活動の可能性が増すことで)社会は加速される傾向にあり、逆に内側にできる呼吸口数U1が減少する場合にも(図5のメカニズムで)加速される傾向にある。
 そしてかつて起こったように資本主義社会への「離陸」の際の障壁を乗り越えることは、このような加速度が積もり積もって脱出速度を超えたことで可能になったのである。もしそれが事実ならば、これを逆手にとることもできる。要するに一般に内側の呼吸口の数を多くすれば減速が可能になるわけだが、ここでさらにこうしたシステム面の障壁の抵抗力の助けを借りるのである。つまりこうした障壁に近づく前に精神面から減速が始まって障壁付近で脱出速度以下になるようU0とU1の比率を設定できれば、社会は相転移を起こさずに元へ戻る理屈である。

      図8

 これは物理学で言う「ポテンシャル問題」に似ているが、そう思って眺めると、呼吸口数の概念自体、物理学におけるポテンシャル・エネルギーの概念にどこか似ている(ただし符号の±が逆になるが)。一般の力学においては、物体や物事はポテンシャル・エネルギーを最小にする方向に力が働いて動こうとするが、われわれの場合には呼吸口数を極大化する方向に力が働いて動くからである。
 さらにジョイントの問題についてもエネルギーの概念による解釈が可能である。一般に何個かの粒子や分子が結合状態を作っているとき、結合しているときのエネルギーは結合を解いている時に比べて小さい極小値をとっており、その「結合エネルギー」を上回るエネルギーを外部から供給せねば結合を解くことができない。つまりエネルギーが極小化されていること自体が強固な結合力を作り出しているのである。社会の場合はちょうど逆に、一つの共同体はそのジョイントを通じての呼吸口総数が極大化されているとき、その共同体を維持しようとする力が働く。もし結合を解くことで呼吸口数が減ってしまう場合には、各人は決して共同体から離れようとはしないし、外部からそれを上回る数の可能性・呼吸口が供給されない限り結合は解かれないだろう。
 この体系全体は物理学の「解析力学」に似ており、解析力学では「ハミルトニアン」という量を定めればそれで力学が決定されるが、われわれの場合それに似て、社会が変動する際の呼吸口総数の変化を示すグラフがここでの力学を支配する。つまりそこを適切にコントロールすれば(完全に伝統社会に復帰せずとも)原理的に経済速度のコントロールは不可能ではないのである

おわりに

 なお最後に指摘しておきたいが、この概念の価値が単に環境問題にからむ経済の速度制御に留まるものでないことはお分かりであろう。つまりまず第一に、文明の物理的な拡大が限界に達して人類が有限の世界を生きねばならなくなったとき、それは内側の呼吸口の極大化という手段で乗り切る以外にない。それゆえテクノロジーの目的自体も「呼吸口の極大化」の実現ということに移行していくべきではあるまいか。(都市建築へのステルス技術の応用理論も、ある意味ではその試みの一つだったと言える。
 第二に、この体系は近代西欧と他のアジアやイスラムなどの文明圏の価値観の断絶を埋める概念としての役割が期待できるということである。前にも述べたように、近代西欧は表向きは青石の数を極大化することを理想として掲げているが、現実にそこを生きる市民たちは外側により多くの呼吸口を求めて社会を動かしている。そこで一旦西欧社会の価値観そのものを「外側の呼吸口数の極大化」であると言い替えてしまえば、呼吸口を内側に求めようとする他の文明との間でも、その個数を基準にする一種の共通語が生まれ、妥協や共存が可能になってくるのである。これは将来予想される「文明の衝突」の時代にあっては、決定的な価値をもってくることになるかもしれない
 さらに将来の展望として付言するならば、一つの大きな可能性としてわれわれが考えているのは次のことである。それは、この理論体系は、ひょっとしたら経済学そのものに将来とってかわるべき存在なのかもしれないということである
 現在われわれは「無形化戦略解析」の導入によって、経済現象の大半を陸軍戦略の体系に移し換えるということを試みている。そして古典的な体系では、軍事と経済の地位の間に次のような関係があるとされていた。すなわち国家の真の目的は国民の経済活動を維持することにあり、軍事力はそれを保護するための手段に過ぎないということである。
 ところが現代世界では、経済そのものが「目的」たり得るかどうかには、すでに大きな疑問符がつけられつつある。つまり国家の経済力は、かつての陸軍力がそうであったように、国防の手段としては欠くべからざるものではあるが、経済的繁栄それ自体が人間社会にとって追求すべき「目的」たり得るかどうかは、はなはだ怪しいということである。
 もしそうだとすれば、経済活動はすでにある種の単なる手段の立場に落ちることとなり、国家および社会の目的は何かという点に一種の真空状態が生じることになる。そしてその真空状態を埋める存在こそがこれなのではあるまいかというわけである。
 つまり金銭的豊かさの極大化という命題にかわって、呼吸口数の極大化という命題が社会の目的となり、それは結局はかつての経済学が占めていた位置にこの「碁石理論」がとってかわるということである。
 逆の立場からすればこうも言える。つまりかつての陸軍力は、たとえ軍事面において武器が十分揃っていたとしても、背後の国家経済が崩壊してしまえば、長期的には必ず負ける。それと同様、現代世界ではたとえ経済および産業自体の制度や体力が表面的には十分だったとしても、背後で呼吸口が不足して社会が「豊かさの中の窒息状態」に陥ってしまえば、精神的な士気低下によってそれを維持できなくなるということである。
 この面でも、現在一種の限界に達しつつある経済学そのものにとってかわるという可能性は十分であるが、さらに言えば、物質が意味を失いつつある世界で人間社会が何を目的とすべきかについても、ひょっとしたらこれが最後の拠り所となるのかもしれない。つまり社会がどんな変化を遂げたとしても、呼吸口の数さえ十分に確保されている限り、そこを人間の住める場所にしておくことは可能ではあるまいかということであり、情報産業の暴走によって、人間存在そのものが揺らぎ始めている未来における最後の拠り所になるのではあるまいかということである。
Pathfinder Physics Team