知識人のための海軍戦略

はじめに

 これは10年ほど前に、パスファインダ−物理学チームのために書かれた海軍戦略の内部専用テキストです。
 今回その最初の部分を公表するわけですが、その前に、そもそもなぜわれわれが「海軍戦略」などというものを重視するのかということ自体、一般には多少唐突の感があると思われるため、そこを少し説明しておきましょう。

 それは、現在の日本では国の力を支えているはずの理系層が、研究室の外の社会ではどうしてこうも戦略的に弱く、不器用な使われ人になっているのかという疑問から出たものでした。(これは、自身の問題として切実に感じられている方も少なくないでしょう。)

 そこで注意深く見てみると、どうやら理系層は決して戦略的行動そのものに弱いわけではなく、実は単に体質的に陸戦のパターンに向かないからそう見えるだけなのです。
 そして理系層の資質は海軍戦略にはむしろ向いており(それは近代以前から海軍では、提督たちの多くが理数系を得意とする人々であったという事実と関係があるのかもしれません)、にもかかわらず日本では社会の隅々まで無意識のうちに陸軍戦略の鋳型が戦略思考の原形として行き渡っているため、その思考パターンが十分身に着いていない場合が多いのです。

 つまりそれが弱さの原因だというわけですが、それは同時に恐らく、「日本という国がなぜ国際社会で弱いのか」ということに対する答えでもあります。それというのも、どうも思うに、過去に日本の文化は「古典力学」と「海軍戦略」の二つの概念を自力で生み出すことができず、それが一種の「ミッシング・リンク」となって、西欧に対する弱点となってきたように思われるからです。

 考えてみると、日本には一方には関孝和の和算のような高い数学があり、もう一方にはからくり人形に代表される高い機械技術がありましたが、それをつなぐ「古典力学=物理学」の概念がなかったため、近代科学を生み出すことがありませんでした。
 それと同様に、日本は軍事力に関しては精兵で知られ、また御座敷での謀略などに関しては結構知恵も回るのに、なぜか外交下手で国際社会で力を発揮できないというのは、それをつなぐ「海軍戦略的センス」が無かったせいではないかと考えられるわけです。

 だとすれば、すでに古典力学を知っている理系層に海軍戦略を叩き込めば、それらの問題を一挙に最短距離で解決できる理屈になります。
 しかしそこで問題になったのが、その層にぴったりの手頃なテキストがないことでした。つまりこのテキストはそのために書かれた、いわば海軍戦略版「直観的方法」なのであり、その要求に答えるものとしては、決定版と言えるものとなっています。
 そして10年を経て、理系層が抱えていた問題は、すでに文系理系の別なく知識層全体の問題となっており、これがそのような意義をもっていることを頭の隅に留めた上で、お読みいただければ幸いです。

(20040202 長沼伸一郎)

目次
第一部
マハンの理論
集中の原則とランチェスターN自乗法則
集中の原則と各国の海軍戦略
 英仏
 ドイツ
 ロシア
 アメリカ
縦隊戦列をめぐる海戦史概観
 戦列艦の基本戦術
 四日海戦(1666年)
 ラ・オーグの海戦(1692年)
 マルティニック海戦(1780年)
 アブキール(ナイル)海戦(1798年)
 トラファルガー海戦(1805年)
 日本海海戦(1805年)
 ユトランド沖海戦(1916年)
 スリガオ海峡海戦(1944年)
第二部
ペルシアとギリシアの戦い
アメリカ独立戦争



海軍戦略 第一部

1 マハンの理論

一般に海軍戦略というものは陸軍のそれに比べてわかりにくいと言われる。この世界のバイブルとなるのはマハン提督の「海上権力史論」をはじめとする著書であるが、これらの本の文章からして難文である。マハンという人は気質的にどうも軍人ではなく学者、それもかなり重箱のすみをつつくタイプの学者であったらしく過敏なくらい論証を行う傾向があり、それが文章を読みにくくしているのである。内容に対して異論をはさむつもりは毛頭ないのだが、難解な本というのは学生が誤読をして、せっかくの名著が結果において悪書となってしまうことがしばしばある。
 それゆえこういった本が悪書とならないためには、優れたサブリーダーの補佐が必要となってくる。われわれの組織自体が海軍戦略に準拠した行動をとるということは読者はすでにしっているだろう。しかしそのために最初からマハンを読めというのは、それだけで余りにも時間を食い過ぎる。そのため(特に理系の人間を意識して)最も速やかに概略を把握できる冊子を準備しようというわけである。(もっとも海軍士官というのはもともと理系に分類されるのだが。)

 しかし海軍戦略というものが理解しにくいことにはもう一つ大きな理由がある。「戦争は本質的に政治の継続である」とはクラウゼヴィッツの有名な言葉で、実際陸軍だろうが海軍だろうがその軍事戦略と政治は切っても切れないものがある。だが陸軍戦略と海軍戦略を比べると、海軍の方がはるかに政治外交と密接である。
 最も素朴な素人くさい戦争観に従えば政治と軍事の関係は次のようになるだろうか。例えば政治家がある外交政策を進めていって開戦を決定する。その時点で政治家はバトンを軍人に渡して、以後国の進路は参謀本部の作戦計画にしたがって決められる。そして戦争が終結に近づくと、再びバトンが政治家の手に渡される、といったもので、要するに戦争中は政治というものは裏工作以外出番がないというものである。
 だがこれは誤解の産物以外の何者でもなく、戦争期間中にも政治というものは濃厚に混じってくる。ただ、戦争を一つのブロック構築物とみた場合に、陸軍戦略においては政治のブロックと軍事のブロックはそれでも比較的分離して存在しているのだが、海軍戦略においてはそれらは互いに混じり合って積み重なり、一種のまだら模様のようになつている。要するに海軍戦略は陸軍戦略に比べて政治性が強く、軍事のみの職人的な作業ではそれを把握しにくいのである。
 さらに海軍の活動には陸軍の活動の状態に対応する形で自らの役割を決めるという部分も存在しており、海軍だけを論じるというのはこの点でも困難がつきまとう。読者は以上の点に留意されたい。

 振り返ってみると、海軍の性質そのものが時代によってかなり違いがある。最も原点にたちかえって見ると、海軍国と陸軍国の本質的な違いというのは、(海に面しているかそうでないかというのは当たり前すぎるから論じないことにすると)海軍国の側は相対的に人口が少ないということが決定的要因をなしていた。
 つまりその人口の少なさゆえに、大陸の巨大な陸軍国と対等に渡り合うだけの陸軍を編成することができず、その弱点を補うため海軍という別種の武器に自国の国防を委ねたわけである。
 またそれゆえに、その武器を維持するための財政的基盤を農民による租税に依存するということは通常出来ない。なぜならばこの手の租税はしょせん頭数に比例するものであり、それを徴収することを考えると巨大な人口を持つ大陸国家が常に優位に立つことになる。つまり農業に対する租税に依存する限り、大陸国家の財政と軍事予算は常に海軍国の軍事予算を圧倒することになってしまう。
 それゆえ海軍の財源はほとんどの場合、商業の利益に対する課税から成り立っている。つまり商業が盛んでない限り海軍国というものは成り立ち得ない。一方大陸の巨大な帝国の君主からすれば、自国において商業が栄えることはあまり望ましいことではない。確かに国は物質的に富むものの、商業というものは軍規を弱め、国の道徳を退廃させ、君主の権威を掘り崩すものである。そのためしばしば君主にとって海軍の増強は一種のパンドラの箱である。
 大陸国がこうした理由でそのマンパワーを海軍に投入することを自制する一方、海軍国では常に隣の大陸軍に脅かされていることが、逆に商業の毒を中和する結果となる。一般に商業国には自由があるが、海軍あっての自由であり、規律あっての海軍だということを市民が膚で感じて一時も忘れることが許されない状況にあるため、商業的自由が文明を退廃させるほど強力なものに育たないためである。このように海軍国と陸軍国は奇妙にバランスをとって共生していたのである。
 ところが19世紀に入ると産業革命の到来によって状況はかなり変化してしまった。海軍、陸軍を問わず軍事力全体が重工業というものによって本質的に担われるようになると、軍事力と社会の枠組みが変化し、大きな人口をかかえる陸軍国が海軍の大増強に乗り出してきたのである。これによって海軍国と人口の関係はぼやけ始め、
同時に海軍力は小型海軍国の占有物ではなくなっていった。
 帆走から蒸気機関へ変化したこの時代の海軍は、むしろその国家の重工業の粋として列強が競って整えた、いわば国力の象徴としての性格を帯びるようになった。マハンはこの時代を生きた人間であり、このことは明らかに彼の著作に影を落としている。彼の思想がしばしば露骨な帝国主義の発露と悪口をたたかれるのも、多分にこれが影響している。
 しかし20世紀も半ばに至ると、これらはまとめて飽和状態に達してしまう。新たに進出できる土地、重工業、そして軍事力それ自体が飽和して外部環境が変化していくのと同時に、航空機と潜水艦のとうじょうにって海軍は内部からも変質を遂げる。
 かつては海軍というものは一個の文明のシステムに近いものをなしていた。しかし現在ではばらばらなものを、ただ海水に浸かっているという名目で一つにまとめている状態に近い。例えば現代海軍力の中心的存在である
弾道ミサイル潜水艦は、その片足を核戦略にかけており、その一部として機能している。また、空母兵力は移動航空基地として空軍力全体の一部として機能している。
 そもそもアメリカという国は海軍国ではなく、本来それは空軍国なのである。実際戦後間もない時期に海軍を廃止して空軍の下に編入しようという動きすらあったという有様で、これが現代における海軍の位置を象徴しているとも言える。
 そういった一種モザイク的存在になりながら、帝国主義的時代に結びついてしまった海軍力とマンパワーの関係は元に戻ることはなかった。逆に言えば、それ以前に海軍の特性の一つをなしていた、少ない人口の国家が大陸の巨大な生活圏のマンパワーに対して用いる武器という性格は取り戻されなかったのである。
 現代においては物質は金に結び付き、経済力は結局は大資本あるいはマンパワーに結び付く。われわれは、現代の海軍からは失われてしまった、巨大なマンパワーに対する武器というこの性格に注目しながら海軍戦略というものを学んでいこうと思う。それは言ってみればマネー文明という無形の巨大な陸軍力に対抗するにはどうすればよいかと言う問題にアプローチするための武器の一つである。読者はその点に留意して以下を読まれたい。
 マハンの理論によれば、海軍戦略には三つの重要な原則がある。それらは
@「集中の原則」
A「根拠地の原則」
B「国際政治と不可分の原則」
の三つである。
 しかしながらこれらの原則は例えばニュートンの力学の三法則のように、それさえ知っていれば全てが導かれるといった万能性を持つという訳ではない。むしろ極めて複雑な海軍戦略の体系の中からぼんやり浮かび上がってくるといった感じのものであり、読者は最初からこれに余り固執しないほうが理解はしやすいと思われる。
 このうちBについては特に論じなくても史例を調べるうちに自然に理解がいくことと思う。またAについては後に論じる。それゆえここでは最初に@の「集中の原則」について述べることにしよう。この原則は三つの中でも最も末端まで海軍戦略を強く律しているとみられるからである。

ランチェスターN自乗法則

 このことについて論じるとなると、ランチェスターN自乗法則について論じるのが最も近道である。以下に簡単に論じてみよう。今、全く同一の性能の戦艦からなる青軍・赤軍の艦隊が並んで撃ち合うことを考える。最初青軍が10隻、赤軍が6隻と言う隻数で射撃をはじめ、赤軍6隻が全部沈むまで戦闘が続いたとするならば、青軍の側は何隻残るだろうか。
 最も単純に考えるならば、赤軍の6隻は沈むまでに自分が受けたのと同じだけの損害を相手側に与えるだろうから、青軍の6隻を道連れにすることになって生き残りは4隻だということになるだろう。
 ところが実際にはこうはならない。この場合青軍の側は8隻が生き残るのである。どういう算術でそうなるのかと言えば、102−62=82で8という数字が出てきているのである。これをもう少し詳しく見てみよう。
 青軍、赤軍の各カンが、一隻あたり30発の砲弾を発射したとして、その全弾が相手側に等分に命中したとする。この場合、青軍10隻が発射した砲弾の総数は300発、赤軍6隻が発射した砲弾の総数は180発である。
 次に各艦がそれぞれ何発の弾丸を食らったか見てみると、青軍10隻が赤軍の発射した総数180発を引き受けるから、青軍の側は一隻あたり18発の命中弾を受けることになる。一方赤軍の側は6隻が300発を受けることになるのだから、一隻あたり50発の命中弾を受けることになる。


(図1)

この損害の比率、即ち18:50は、実は62 :102 の比率に等しい。戦力が数の二乗に比例するという「ランチェスターN自乗法則」は、このように戦略というものが攻撃力と防御力の積であり、両方が数に比例するということから成り立つものである。
 先程の8隻が残るという結果も、例えば100発食らうと沈没するといったような仮定を行うと、紙の上でのシュミレーションでそれを再現することが可能である。


(図2)

 この、戦力が数の二乗に比例するという法則は、直ちに次のような重要な法則を導くことになる。それは各個撃破のメカニズムである。
 青軍、赤軍の双方がともに10隻だったとする。ただし青軍の側が10隻全部が集中して行動しているのに対し、赤軍の側が二つに分割され、5隻が西に、残り5隻が東にいるとする。この場合、青軍10隻がまず西の赤軍5隻に戦闘を挑み、それらを全部沈めた後に東の赤軍5隻に向かったとするならば、どちらが何隻残るだろうか。


(図3)

 この場合はもちろん青軍の残存兵力は102 −52 −52 という計算で求めることができ、√50で約7隻が残ることになる。
 実にこれが各個撃破の威力である。最初に同じ10隻同士だったのに、赤軍が全滅するまで戦って青軍の損害がわずか3隻に過ぎないというのだから、集中がいかに効果的で分散がいかに致命的かが理解できるだろう。
 これは経験的には古くから知られていたことで、例えばネルソン提督はある場所に二隻のフリゲート艦を派遣するに当たって、部下の艦長に対して、
 「敵艦二隻に遭遇した場合には各自がそれぞれ一隻を攻撃することなく、必ず敵一艦に対して攻撃を集中せよ。このようにすればその一隻は確実に捕獲することができ、次いでもう一隻もあるいは捕獲できる。たとえその第二艦が遁走しようと、わが国は勝利を得、敵艦一隻を捕獲する。」
 との訓戒を行っている。
 また、戦力を二分することで各個撃破に合ってしまう場合、その分割の方法でもっとも不利(つまり相手側が最も効率良く各個撃破可能)なのは、先程のように半分づつに等分割した場合である。これは簡単な極値の問題なので、各自試みられたい。
 以上のことから、艦隊というものは集中していなければ敗北するという原則が導かれる。集中の原則というものは本来陸軍においても言えることではあるが、実は陸軍の場合には海軍に比べて現実に適用しにくい。
 その最大の理由は、陸軍における軍事作戦が道路というものにひどく制約されてしまうためである。(実際、これが陸軍と海軍の作戦における最大の違いである。)まず途方もない大軍となると、それが道路を通過するだけでも大仕事となってしまい、運動性が鈍くなって鋭い作戦の遂行が困難になる。第二にその大軍を支える大量の補給物資を、やはりその道路を使って輸送しなければならない。
 限度を超えた大軍にはこういう弱点が生じてしまうため、そこを巧みに突くことで小型の軍隊にも十分勝ち目が生まれるという訳である。ただし陸戦でも、砂漠やステップなどの大平原などではこういうことは起こりづらく、しばしば海戦に似た状況が生じて、集中の原則が生きてくる。


 この集中の原則は、もっと大きな政治的局面においても生きている。例えばA、B、Cの三つの国があり、国力のサイズがそれぞれ1:1:2だったとして、三番目のC国が他国を制覇、併呑しようとの意図を持っているとする。


(図4)

A、B二つの国を合わせればその力はC国と同じであるが、連合しておらずにばらばらであれば、各個撃破に合ってあっさり征服されてしまう。そのため、C国にそういう意図が見えたならば、A、B両国はすみやかに連合しなければならない。
 ここでこれら三つの国の周辺に他にも同程度のサイズの国がいくつかあったとするならば、これらの国々もこの動きと無縁ではいられない。結局二つのブロックに、まるで磁石が吸い寄せられるように集まってきてしまい、世界全体が大きく二つに分かれるという現象が起こるのである。(この稿の中だけだが、この現象、原理を「最大分裂の原理」と呼んでおこう。) 
 ここで、ランチェスター法則がはたらかずに、戦力が二乗ではなくただ数にそのまま比例すると仮定した場合には、こういうことはかなり起こりづらくなることに注意しよう。つまり同じサイズの10個の国がある世界で、そのうち3個が結合して一個の国となった(つまり三倍のサイズの国が突然生まれた)場合、もし一次の場合ならせいぜい周囲の3つの国に損害を与える程度で力を使い果たしてしまうため、離れた国は同盟など急がずとも力の消耗を待てば良い。しかしランチェスター法則があるとなると、枢軸国が軍事活動に出る前に急いで同盟軍を編成しなければ手遅れになってしまう。こうした理由で、全ての国が二つの中心に向かって集まってくるという現象が起こりやすくなるのである。
 もう一つ、これは純理論的な話でしかないのだが、国の力についてもう一つ面白い適用例がある。それは国の内部の力学に関する問題である。
 (現実にはありえないことではあるが)もしランチェスター法則が厳密に適用できるという仮定が成り立っていた場合、国の警察力(というか、国を束ねるための内向きの軍事力)に要する人数をはじき出すことが可能になる。すなわち国民の人数をN人とした場合、その各人がばらばらであるとすると、一人当たりの戦力を1とすれば全体で1 ×NだからNである。一方警察力は、それがm人だとすれば、全部集中していると考えて戦力はuである。
 結局これがつり合えば良いのだから、m=√Nであり、例えば人口一億の国であればそれを束ねるのに要する兵力は一万人だということになる。


(図5)

 まあこれを精緻化しようなどと考えるのは馬鹿げた試みであるが、しかし基本的な力学としてそういうものがあるのだということは覚えておいても損はないだろう。

英仏の海軍戦略

 このように、艦隊を可能な限り集中して運用するということは極めて重要な原則である。しかしながら、これはしばしばその国の地形などによって制約を受けることになる。以下、さまざまな国について例を見てみよう。

・まず英仏両国の場合である。英国は自国周辺では艦隊を一まとめにして運用することが容易であったが、フランスはそうではなかった。なぜならばフランスは北側の大西洋に面した海岸線と、南側の地中海に面した海岸線の二つを持っており、両方とも無防備としておくわけにはいかない。
 それゆえフランス海軍はブレストを根拠地とする大西洋艦隊と、ツーロンを根拠地とする地中海艦隊の二つを持たなければならなかった。


(図6)

 そのため英艦隊と対決するためにはこの両艦隊が合同しなければならず、そのためにはスペインを回らなければならない。これはフランス海軍にとっては大きなハンディキャップとなり、実際その弱点をしばしば英側に突かれることとなった。
 これに対して、英側は英仏海峡のあたりに主力艦隊をまとめておいても最低限の国防が十分可能なのである。北端のスコットランドを回らねばならないような状況は滅多に生じなかったし、地図を見てもわかるようにフランス、スペイン、ロシア、オランダその他どこの国から艦隊が出てきたとしても英仏海峡に置かれた艦隊はかなり短い距離(ほとんど最短距離と言っていい)を移動するだけで相手側と接触することができる。
 もちろん英海軍も地中海に一つ艦隊をおいていたが、これはいってみれば最低限の国防の余力で行ったようなもので、そのこと自体がすでにフランス海軍を戦略的に制圧していたことを示すものであるとも言える。要するに海軍戦略の観点からする限り、英国は地理的に恵まれていたのである。

ドイツの海軍戦略

・ドイツは19世紀まで語るに足るような海軍を持っていなかったが、ウィルヘルム2世が即位した19世紀末から海軍の建設をはじめ、20世紀に入ると英国にとっても無視し得ないほどの大海軍に成長した。
 ドイツは二つの海岸線を持っていた。一つは北海に面するもの、そしてもう一つはバルト海に面するものである。そのため根拠地も二つあり、北海側がウィルヘルムスハーフェン、バルト海側がキールである。しかし北海の艦隊とバルト艦隊が合同するにはユトランド半島を回らなければならなかった。


(図7)

 そこでドイツ(正確にはプロイセン)はユトランド半島の付け根にキール運河を開削する(1895年開通)これによってドイツは北海、バルト海の両方に迅速に艦隊を集結させることが可能になった。

ロシアの海軍戦略

・ロシアはこの点では恐らく地理的に最も恵まれない国である。まず地理的には東と西に分かれて海岸線が存在し、北側は冬は氷に閉ざされてしまう。有効利用できる海岸線の長さが国の面積に対して非常に小さいわけである。
 これは逆に言えば、海が他国が制することがあっても国家にとって致命的なことではないことになり、純然たる陸軍国としては恵まれているとも言える。とにかくそんなわけで、ロシアが本格的に海軍を整備しはじめたのは(ドイツと同様)比較的近年になってからである。
 当時ロシアは三つの艦隊を持っていた。一つ目はバルト海艦隊(バルチック艦隊)で、基地はペテルブルグ(レニングラード)である。二つ目は黒海艦隊で、基地はセヴァストポリである。そして三つ目は太平洋艦隊で、基地はウラジオストック(及び旅順)である。地図を見れば一目でわかるように、この三つの艦隊は互いにどれと合同するのにもひどく長い距離を航海しなければならなかった。


(図8)

 日露戦争においては、相手側たる日本海軍はこの弱点を理想的な形で突くことになる。これは各個撃破の史例として恐らく海戦史上最高の教材の一つと思われるため、少し詳しく述べてみよう。
 ロシア太平洋艦隊は当初ウラジオストックと旅順に分散配置がなされており、さらにバルチック艦隊が合流のため太平洋への回航準備に入っていた。もし三つが合同すればその巨大な艦隊に立ち向かうことは日本側には完全に不可能となる。
 しかし三つのそれぞれを日本全艦隊と比較するならば日本側の戦力がやや上回っていた。そのため日本海軍はこれら三つ、すなわち旅順艦隊、ウラジオストック艦隊、バルチック艦隊の合同を妨げて各個撃破する基本戦略をとったのである。
 具体的には、まず日本側は対馬海峡に艦隊全部を集中させて睨みをきかせる。こうすれば、もし旅順艦隊とウラジオストック艦隊が合同しようとして行動を起こした場合でも、両者の中間の位置を占めているため、集中状態で素早くこちらの全力をもってどちらかにぶつかっていくことが可能になる。


(図9)

そしてバルチック艦隊がやってくる前(何しろユーラシア大陸をぐるりと回って回航するから時間がかかるのである)に何らかの形で旅順艦隊を潰し、その後で全力をあげてバルチック艦隊と決戦すると言うのが戦略の概要である。
 このバルチック艦隊との決戦計画が、後に日本海海戦として実現することになるのだが、これはまさしく各個撃破戦略の見本とも言うべきプランであったことがわかる。三つに分割されたロシア艦隊とは対照的に、日本艦隊は絶対に集中を解かずに三者の中央位置に居座り続けたのである。
 ところでもし日本艦隊がバルチック艦隊に敗れたり、または旅順・バルチック両艦隊の合同を許したとしたならば、具体的にはどういう破局が日本を見舞うことになったのだろうか?
 まず第一に、それは大陸と日本本土との間の海上交通路が断たれ、奉天にいた大山巌元帥以下の日本陸軍が補給を受けることも日本へ帰ることも事実上不可能になってしまうということを意味する。早い話がほぼ全滅ということである。
 そのことを考えるならば、日本側がバルチック艦隊来航以前に旅順艦隊を撃破することにどれほど必死であったかがよく理解できる。旅順攻略戦で出した膨大な損害も、結局はこの目的のためだったのである。
 さてロシア海軍の方dさが、単独では劣勢な旅順艦隊は、基地に閉じこもってバルチック艦隊をひたすら待つ方針を採った(こういう戦法を「要塞艦隊主義」という)。港外におびき出して撃沈するのが無理と悟った日本側は、むしろ逆に旅順艦隊を外側から港内に閉じ込めて無力化しようと企てる。


(図10)

まず第一に試みられたのは、いわゆる閉塞作戦である。つまり艦隊を撃破できなくとも、それが港外に出てくることを不可能にすれば、一応目的は達成できるというわけである。このため廃船となった商船を旅順港の出口に沈めて、中にいる軍艦が外へ出られないようにする作戦が三回にわたって実施されたが、十分な効果を上げることができなかった。 
 やむを得ず、旅順要塞そのものを陸軍が陸側から攻めるという方針に転換されたわけだが、この場合要塞全部を陥落させて占領する必要は必ずしもない。むしろ海軍側の要求としては、旅順港を見下ろせるような高台を一つ占領することが優先事項だった。 
 もしそういう場所を確保できれば、そこに観測員を置くことで内陸に置かれた陸軍の野砲による山越えの間接射撃が可能になる。つまりこの場合、野砲の側からは港内の様子は山に視界を遮られて直接見ることは出来ないが、弾着を観測している観測員が、軍艦の位置からどのくらい離れた場所に砲弾が落下したのかを逐一報告すれば、次の射撃で命中するよう照準を修正することができるというわけである。
 そういう場所として選ばれたのが二〇三高地であったが、ここを攻める乃木軍の作戦は拙劣を極め、膨大な損害を出してしまった。このままでは下手をすればバルチック艦隊到着前に間に合わないと言う恐れすら出てきたが、しかしようやくここを占領するや、陸軍の重砲の砲弾は次々と港内の軍艦に命中し、旅順艦隊を壊滅させる事に成功した。
 一方バルチック艦隊ははるか以前にバルト海を出ていたが、回航には八ヶ月を要し、日本近海に達したのは旅順艦隊撃滅後のことだった。しかし今さら本国に帰るというわけにもいかず、また必ずしも日本艦隊に比べて圧倒的劣勢というわけでもなかったため、決戦覚悟でバルチック艦隊はウラジオストック突入を図る。しかし十分に休養をとって待ち構える日本艦隊の優位に対抗すべくもなく、対馬沖で捕捉・迎撃されてバルチック艦隊は壊滅させられた。
 日本側の戦略は極めて正確であったが、もしこれらの艦隊が最初から合同していた場合にはほとんど勝ち目はなかったろう。およそ海軍戦略においてここまで明確に艦隊集中による各個撃破や中央位置の利点(対馬・朝鮮沖の位置が旅順とウラジオストック双方に睨みをきかせた)の例が実現したことは珍しいのだが、それを歴史の浅い日本海軍が完璧に生かしきったというのは、やはり驚くべきことであり、マハンがその著書で絶賛しているのも無理のない話である。しかし彼は同時に「この時の日本軍のような行動を分析する際には『超人的』との一言で総てをくくってしまう危険がつきまとう」とも述べている。その後の日本海軍の慢心を暗示するような言葉である。
 なお、もはや過去の話になってしまったが、旧ソ連海軍の編成も似たようなものであり、太平洋艦隊、黒海艦隊、バルト艦隊に加えて北に、バレンツ海及び北極海に活動する北洋艦隊があり、四つの離れた艦隊を保有していた。

アメリカの海軍戦略

・アメリカ海軍の場合、艦隊が太平洋と大西洋に二分されてしまうということが大きな欠点をなしていた。両艦隊が合同するには南米ホーン岬の沖を回らねばならず、おまけにここは暴風雨の吹き荒れる難所であった。
 そこでパナマに運河を作ることは米国の軍事的観点から非常に重要なことであった。
 
 
(図11)
 
 これによって米海軍の能力そのものが向上したわけであるが、このためしばしば軍艦の設計者達は運河のことを考慮に入れねばならなかった。
 例えば米海軍の戦艦は、運河を通過できるように船体の幅に上限があり、そのため安定性の問題から搭載する主砲の口径に上限があった。実は日本海軍の「大和」級はこの弱点に目をつけて、口径で米戦艦を圧倒しようという発想の下に誕生したのである。なお、米海軍も戦後完成した「ミッドウェー」級以降の空母はパナマ運河通過を諦めている。


2 縦隊戦列をめぐる海戦史概観

 では最初ということもあり、ここで近代におけるいくつかの海戦について戦術的な面からアラカルト的に紹介してみよう。

戦列艦の基本戦術

 近代の西欧において海戦の主力となった艦は戦列艦(ships of the line)である。その名の通り、艦隊が縦一列に並んで舷側の砲を相手側に斉射する。これは帆走軍艦が一般的になって確立された形態であり、それ以前のガレー船の場合、相手に向かって体当たりし、艦首につけた衝角で船体に穴を開けて沈める戦法をとったため、横に並んだほうが効率が良いためである。


(図12)

 西欧では、ガレー船による最後の大海戦はレパントの海戦(1571年)で、その少し後英国がスペイン無敵艦隊(アルマダ)を迎え撃った無敵艦隊の海戦(1588年)の時には帆走軍艦が主体となっていた。しかし戦法自体はまだガレー船の横陣形から縦陣形への過渡期にあり、縦一列の戦法が確立されたのは半世紀ほど後の英蘭戦争(1652年)の頃である。
 
 ここで帆走軍艦の戦列の戦術的特徴について述べておくことにする。一般にこれらの戦列は艦隊が停止している時は戦列は戦闘が弱く、動いている時には後尾が弱い。なぜこのようになるのだろうか。後者の場合から見ていこう。
 当時の戦列艦は,構造上戦備が一つの弱点だった。船尾には艦長室をはじめとする船室が設けられていたが、その分船材が薄い。そのためもし敵艦の後尾を横切ることができれば、船尾から船首までを縦射することが可能だった。


 
(図13)

 これができれば相手側の砲員ほとんどをその際の一度の片舷斉射で殺傷でき、これは当時の全ての艦長たちにとって一つの夢であった。逆にそれゆえ一対一の交戦ではどちらも相手に後ろを横切られないように努めるのは当然である。つまりもし敵艦が交戦を求めて戦列の中に突っ込んできた場合、目標とされた艦はそのまままっすぐ進み続けるというわけにはいかず、どうしても迎え撃って巴戦の格好になってしまう。
 しかし艦隊全体は一定の速度で動いているのだから、そういう格闘戦に入った艦は相対的に艦隊の移動速度より遅れることになる。ここで、二隻の艦で相手側戦列の先頭の艦を襲う場合と、最後尾の艦を襲う場合を比較してみよう。
 まず戦列の先頭に攻撃をかける場合、二隻で先頭の一隻を襲ったとしても、その場にとどまって格闘戦を続けていれば、相手側の戦列の後続艦がその場所に次々と突っ込んでくる格好になってしまい、攻撃側が逆に粉砕されてしまう
 一方戦列の後尾に攻撃をかける場合には、二隻で相手の最後尾の一隻を襲えば、格闘戦に引き込まれたその艦は戦列からはぐれてしまって孤立し、ますます料理しやすくなる。


 (図14)
 
 つまり戦列の先頭は槍の穂先のような力を持っているのに対し、後尾はかじり取られることに対して無防備である。大体海戦で両軍が対峙する場合には戦力は拮抗しているため、一〜二隻をかじり取られただけでバランスは大きくかしぐ場合が多い。
 やや簡略化しすぎたきらいはあるが、以上から理論的には、こちらの戦列の戦闘を相手の戦列の後尾に突っ込ませるのが最も決定的な効果を生むことがわかる。しかし逆にどちらも自分がそんな目に会わないように懸命の艦隊運動を行なうため、実戦で容易にそんなことが起こらないことも事実なのである。

・四日海戦(1666年)
 無敵艦隊の海戦の時には確立されていなかった戦法は、英蘭戦争の頃に縦一列の陣形が確立されていった。この時期、英側の提督にはブレーク、モンク等といった人物がいたが、オランダ側にはトロンプ、ロイテル等といった提督たちがおり、個人的実力では彼らが英側より一枚上手であった。特にロイテルはネルソンに勝るとも劣らない名提督で、圧倒的に不利なオランダ側をよく支えた。
 四日海戦は第二回英蘭戦争のときに行われた海戦で、ロイテルの実力がいかんなく発揮された(なお、トロンプは第一回英蘭戦争の末期に戦死している)。その名の通り四日に及んだ大海戦で、三回の英蘭戦争中最大の海戦であったといえる。英側の司令官はモンク(アルベマール公)である。
 戦いは最初英側の分散状態をついてオランダ側が攻撃のため出撃してきたことから始まったが、しばらくは天候悪化で睨み合いの状態にあった。海戦第一日目、錨泊中のオランダ艦隊に英側が急襲をかけ、オランダ側は危機に陥るが、直ちに抜錨して巧みな運動により撃滅を逃れ、この日は決着がつかなかった。
 続く二日目、三日目は、英側が分散していた艦隊を合同させるため決戦を避け、その合同以前に撃滅しようとするオランダ側との間に小競り合いが続いたが、三日の夕刻に英側は合同に成功、両軍戦力は拮抗する。
 四日目には決戦となった。この戦いで、ロイテルは英側の前衛と中軍のすき間に自分の前衛を突入させ、相手側の前衛を牽制して艦隊から切り離してしまう。同時に後衛が英側の後衛に襲いかかってまずこれを撃滅し、その先頭で優位に立ったのを見計らって主力が相手側本体に襲い掛かった。


(図15)

 この戦いで英側の損害は撃沈20隻、捕獲6隻。オランダ側は沈没4隻の大勝利であった。この戦闘を見てみると、前述した「動いている艦隊は先頭が強く、後尾が弱い」という性質をうまく利用していることがわかる。つまりロイテルは、相手側の強い前衛を戦いから遠ざけ、弱い後衛を最初に粉砕することで相手側のバランスを崩したのである。この戦法は後にしばしば踏襲されることになる。
 海戦ではしばしばこのような大戦果を上げたオランダであるが、国全体の相対的なマンパワーの小ささと言う点で英国に太刀打ちできる存在ではなく、終始英側に押され続けた。この時期それでも何とか互角の勝負ができた理由は、ロイテルら現場の名将の存在のほか、当時オランダの外交を指導していた数学者出身の宰相ヨハン・デ・ウィットの存在があげられる。彼はホイヘンスと机を並べて勉強した仲で確率論の研究などを行なったことがあり、後にそれを応用して近代的生命保険の枠組みを編み出し、それを国家財政の補填に役立てた。世界史上かなりユニークな存在であると言える。彼は第三回英蘭戦争のさなかに暗殺され、ロイテルもその後地中海で戦死した。

・ラ・オーグの海戦(1692年)
 これは、ルイ14世のフランスとウイリアム3世(彼は第三回英蘭戦争でデ・ウィット死後を率いたオランダの指導者で、その後英王女メアリーとの結婚で英国王となった人物である)のイギリスとの間の戦争での海戦である。
 これは戦局の帰趨を決めた戦いであるというよりは、むしろ象徴的な意味のほうが強い海戦だった。戦争初期においてはフランス艦隊のほうが良く整備され、英側は押され気味であったが、その後ルイの脅威に目覚めて艦隊を増強したため、この時期にはすでにフランス艦隊は全体的に劣勢にあった。
 しかしルイにはその認識が薄く、劣勢な部下の艦隊に英艦隊との交戦を命じた。フランス艦隊指揮官のトゥールヴィルは、この命令によって2倍の隻数の敵艦隊との交戦を余儀なくされた。部下たちは皆ルイの命令書に反して交戦を回避するよう進言したが、トゥールヴィルは麾下の艦隊の練度にかけ、「負けない」戦いを形だけでも挑むことに決した。
 二倍の敵と交戦するため、彼は変わった陣形を採用する。まず彼が恐れなければならないのは、艦隊が動きを拘束されることであり、もし行動の自由を奪われたなれば数で勝る相手に対して勝ち目はない。この観点から彼が関心を払うべきことは、自分の戦列の先頭の処理である。
 戦列の先頭は槍の穂先に似ていると前述したが、逆に槍が狙いを外して妙なところに刺さって抜けなくなれば、艦隊全体の動きが止まってしまう道理である。つまり英側としては、損害覚悟でフランス側の先頭を抑えてしまえば残りは簡単に料理できることになる。
 そこでトゥールヴィルは前衛の各艦同士の間隔を大きく取って戦列の長さを相手側と同じにし、同時に前に行くにしたがって相手側戦列からの距離が開くようにした。


(図16)

 このようにして先頭を押えられることを避けつつ、互角の戦列後半部分だけが相手と交戦したのである。この日の戦闘では、これだけの劣勢にもかかわらずフランス側には一隻の損害もなく、逆に英側には二隻の損害が出た。
 しかし翌日の退却ではフランス側は戦運に恵まれず、悪天候で座礁する船が多く、旗艦ソレイユ・ロイヤル含め十数隻が、英側の放った火船、あるいは自らの手で焼き払われた。結局のところ英側の勝利となったわけであるが、もしルイが状況を正しく把握していたならば、フランス艦隊は港内にこもって出てこずに英側の不戦勝となるべきはずであった。戦われるべきでない戦いが行なわれたからこんな奇妙な結果となったのである。

・マルティニック海戦(1780年)
 米独立戦争の勃発とともに、フランスはアメリカと同盟してそれを支援するが、フランスはさらにそれに乗じて西インド諸島におけるイギリスの海上支配を崩壊させることを狙ってきた。イギリスとしては、北米本土の植民地を手放すのはやむを得ないとしても、西インド諸島の制海権は譲れない。そのため何度か激しい海戦が繰り広げられた。 
 戦争初期には英海軍では人事上の問題から有能な提督があまりいなかったが、中期になると能力のある提督が出てくる。ロドネーがその最大の一人で、彼がアメリカ・西インドに到着してから最初の大海戦がマルティニック海戦である。
 英仏両艦隊は西インド諸島マルティニック島付近で互いに視認して接近し、良い攻撃位置をとるため艦隊運動に入った。相手側より優位な位置につくため両軍とも丸一日にわたって艦隊運動を繰り返したが、ついにロドネー艦隊は相手側の後半部に鋭角的に接近する位置につくことに成功、ロドネーは全艦に対して相手側戦列の後部に殺到するよう指示する。しかし部下の艦長たちはこの信号を誤解し、自分と同じ艦番号の敵艦に向かってしまい、絶好の優位はみすみす失われることとなった。


(図17)

 この戦いで英側は勝つには勝ったが、陣形の点でこれだけ絶好の位置につけることは珍しく、後にロドネーが「もし部下の艦長たちが私の命令を正しく理解していたならば、この海戦は自分の生涯で最大の勝利となったろう」と悔しがったのもうなずける話である。
 また、英海軍ではどういう行動をとるかについて交戦規定を定めており、これにしたがって行動すれば失敗してもあまり責任は問われなかった。これによって整然とした艦隊行動が可能であった半面、しばしば戦術の硬直化を招いてみすみす勝利の機会を逸することがあった。この海戦などはその好例と言えるだろう。(しかしだからとって交戦規定の価値を即座に否定するのは早計であるが。)
 ロドネーはその後ドミニカ海戦においてド・グラース提督指揮のフランス艦隊との戦いに大勝利をおさめ、英側の西インド制海権の防衛に成功する。

・アブキール(ナイル)海戦(1798年)
 フランス大革命の勃発から九年、ナポレオンはすでに二年前のイタリア制服で英雄となっていた。一方革命政府は彼の力が強大になりすぎたことを恐れて、国内から遠ざけたがっており、エジプト征服を提案、あわよくば彼の自滅を願う。ナポレオンの側はそれを知ってはいたが、自信のある彼はむしろこれを面白いと考え、あえて実行に移した。
 ツーロンで乗船した遠征軍は、地中海を横切ってアレキサンドリア付近に上陸、ナポレオンはそのまま内陸部へ侵攻を開始するが、ブリューイ提督の留守艦隊は付近のアブキールに停泊する。
 一方英側は、ナポレオンがフランスを出港したとの情報を得てネルソン艦隊が追跡を始める。ネルソンはナポレオンの目的地がアレキサンドリアであると正しく判断したが、皮肉にも知らないうちにフランス艦隊を追い抜いてしまい、彼がアレキサンドリアに達してみるとそこにはまだ何もいなかった。
 ネルソンが悩んで地中海をあちこち探し回っている間にナポレオンは上陸を行なってしまったのだが、ネルソンがもう一度エジプトに戻ってみた時、アブキールで留守番をしているフランス艦隊を発見、直ちに攻撃に移る。
 浅瀬のそばであったので座礁の危険はあったが、ネルソンは追い風を受けて果敢に相手側戦列の頭を包み込むように左右両側から攻撃をかけた。


(図18)
 
 停泊している艦隊は先頭が弱いと言う原則を生かして集中攻撃をかけたわけだが、何故先頭が弱いのかをここでちょっと見てみよう。大体において、帆船というものは次のメカニズムによって向かい風で進む。風を粒子と考え、帆を板と考えて弾性衝突が起こるとしよう。この場合帆には図のように反作用がはたらく。


(図19)

 ところが帆の下の船体は、船体の形状や波きり板などによって、縦方向にはスムーズに動くが横方向には水の抵抗で動かない。したがって帆の受けた反作用のうちの横方向成分は運動にほとんど寄与せずに縦方向成分だけが帆を前へ動かす力としてはたらくのである。まっすぐ風上へは進めないが、ジグザグに運動すればこうして風上へ切れ上がっていくことが可能となる。 
 これが(やや簡略化したが)船が向かい風でも進める理由だが、ここで重要になるのは停泊して静止した状態からいきなりこういう運動に入ることは現実問題としてできないということである。まず反転して追い風で少し進んで船に行き足をつけてからようやくこういう動きができるようになる。
 停泊している艦隊が向かい風で先頭を敵に襲われた場合、無傷の後尾はこの問題に遭遇する。つまり船に行き足をつけるために一旦、戦っている最中の先頭を置きざりにしてUターンしなければならないのである。
 

 (図20)
 
 十分に行き足がつけば再び救援に向かうことも可能だが、それまでの間は決定的に弱くなる。なお、停泊している相手を攻撃する場合、攻撃側は(襲撃方向を選べるのだから)わざわざ向かい風で襲う馬鹿はいない。必ず風上から追い風で襲う。
 では風向きが逆で、停泊している艦隊の後ろから風が吹いている場合はどうか?この場合は艦隊は追い風で比較的楽に出港できるので、向かい風の場合ほどには混乱しない。運動中に後尾をかじり取られるのと似たようなことになる。
 さてネルソン艦隊であるが、一時はフランス艦隊は激しく砲撃を行ない、ネルソン自身も負傷する事態となったが、英側の猛攻の前にブリューイの旗艦「ル・オリアン」は爆発し、フランス側の敗北は決定的となった。
 この場合、襲われた側が反撃に成功するかどうかは、抜錨して一旦戦列を離れた後衛が再びどう参加するかにかかっているが、この時ヴィルヌーブ提督率いる後衛は先頭に参加せずに闘争してしまった。
 なお、エジプト遠征計画というものはフランスではナポレオン以前にもルイ14世の時に提案されたことがあるが、提案者はあのライプニッツであった。(無論実現はしなかった。)またこのナポレオンのエジプト遠征軍にはフーリエが参加していたことも書き加えておこう。

・トラファルガー海戦(1805年)
 前年に皇帝の位についたナポレオンは英本土上陸作戦を計画し、実際にその準備を進めてドーバー海峡沿岸に大軍を集めていた。そして一時的に英海軍を欺瞞して牽制し、そのすきに陸軍に海峡を渡らせて上陸させようと企図していたのだが、結局計画には蹉跌が生じて上陸作戦は断念される。しかしこの上陸を支援するために集結させられたフランス・スペイン連合艦隊はそのまま撃破することなくスペイン南部のカディス港に入港していた。この撃破を行なったのがトラファルガー海戦である。
 もう少し詳しく言うと、ナポレオンの当初の計画では、まず一旦フランス艦隊が大西洋を横切って西インド諸島方面に出撃し、英艦隊に追跡させてこの方面に誘い出す。そこでうまく追跡を振り切って、英艦隊が西インドでうろうろしているうちにフランス艦隊は再び大西洋を横切り、一斉に合同して本国近海で一時的に隻数の優位を達成する。そして英艦隊が戻ってくるまでの間に上陸軍にドーバー海峡を渡らせようというものであった。(次の図参照)
 しかし英側はこの陽動を早期に見破り、またフランス側の指揮官であったヴィルヌーブ(アブキールの海戦のときの人物である)の不決断も手伝って、合同も海峡の一時的制海権確保も成功しなかった。ナポレオンはチャンスに賭けていたのだろうが、駄目とわかって彼はさっさと英本土上陸を断念し、矛先をヨーロッパ内陸に向けて進軍を開始した。
 その後カディス港に退避した仏・西連合艦隊を、港外でネルソン艦隊が待ち受けて監視していたが、ナポレオンがヴィルヌーブに対して出港して地中海で地上軍の支援を行なうように命じたため、隻数では勝るが練度や整備において格段に劣る連合艦隊はカディスを出港、それは直ちにネルソンに通報され、トラファルガー岬付近で両艦隊は接触する。
 このときネルソンがとった戦法が名高いT字戦法である。しかし実際の陣形はTの縦棒が二本になっていたため、むしろΠ字戦法と呼ぶべきだったろうか。それはともかく、ネルソンは自分の艦隊を二分し、相手側の戦列に真横から突っ込む大胆な行動に出る。通常の戦列では旗艦は戦列の中央に位置するが、この場合ネルソンの旗艦ビクトリーと次席指揮官の艦がそれぞれ二列の戦列の先頭に立って突撃を行なった。ネルソン自身の戦列は相手側戦列の中央に、次席指揮官コリングウッドの戦列は後部に突入する。


(図21)

 この陣形の意味については多くの議論がなされているが、まず全体的に言って、相手側の前衛とは接触を避けて後半部分に攻撃を集中する形になっている。また、槍の穂先たる戦列の先頭の衝撃力を最大限に活かす格好であることもわかる。
 第二に、ネルソン自身の戦列は相手側の旗艦に直接突入することを狙っている。旗艦をまず撃滅してしまうことによって指揮を混乱させ、乱戦状態に持ち込むことも恐らくネルソンの狙いの一つであった。こちらの旗艦も真っ先に乱戦の中に入ってしまうから自分の艦隊の指揮も混乱することになるが、実はここがネルソン艦隊の強みである。ネルソンは日頃から部下の艦長たちが全員あたかもネルソンの分身のように行動するよう訓練しており、ネルソン艦隊は強烈な同胞意識で支えられたちょっと類のない艦隊だったのである。
 つまり両軍ともに乱戦状態に陥ってしまえば、相手側は旗艦からの信号が届かなければ神経を切断された手足と同じだが、ネルソン艦隊は神経が切れても手足は各個に統一行動をとれることになる。実際、ネルソンがこの戦闘中に敵に狙撃されて重傷を負い、間もなく死亡したにもかかわらず戦闘が全く支障なく続いたことを見てもそれがわかる。
 この陣形の弱点は、力の全てがあまりにも二本の戦列の先頭部分に集中されているため、その鋭すぎる切っ先を粉砕されるか押えられるかした場合、もはや戦列の戦闘力は体をなさないことである。実際、先頭の艦は相手側の集中砲火を浴びて粉砕される危険はあったのだが、ネルソンは相手側の練度を考え、砲の命中率が低いと判断してこのリスクの大きい戦法に踏み切ったのである。現実は彼の判断どおりであったが、もしマストを打ち倒されでもしたら危ないところであった。
 この海戦の勝利により、英側の海上支配は決定的なものとなり、結局はナポレオンの破局を引き出すのにかなり根本的な役割を果すこととなった。この海戦は、文字どおり帆走軍艦時代の頂点に立つもので、小競り合いを除けば英国はその後100年にわたってこのような大海戦を経験することがなかった。

・日本海海戦(1805年)
 トラファルガー海戦から奇しくも百年目、日本の国の存亡がかかった大海戦であり、概況は以前に述べた。ロシア側のバルチック艦隊と旅順艦隊を合同させようという企図は、すでに旅順艦隊の壊滅によって潰えていたが、日本の国力はもはやぎりぎりのところまで来ており、バルチック艦隊をウラジオストックに入れてしまえば早期講和は望み薄であった。
 東郷提督がとった戦法(これは参謀の秋山中佐の発案であるが)はT字型のあったがこれはネルソンの場合とはちょうど逆で、今度は自分がTの横棒になるのである。(区別のため、ここでは逆T字戦法と呼ぶことにする。)
 トラファルガーにおいても、先頭が集中砲火を浴びて粉砕されるのは一つの危険として存在していたが、むしろ逆にそれを積極的に活かし、集中砲火の威力を最大限に引き出すことを狙ったわけである。砲撃戦ということだと、T字の縦棒の相手側後尾は有効射程外にいて戦闘に参加できず、集中の原則を最も有効に活かして先頭を撃破できる。


(図22)

 この戦法は日本側の射撃の命中率の高さによってはじめて有効なものであり得たと言える。ちょうどトラファルガーでのフランス艦隊の状況とは逆だったわけである。
 この戦法の弱点は、こちらが一つの「待ち」の体勢になるという点にある。ネルソンのT字戦法の場合、とにかく相手の横腹目指して突っ込んでいけば良かった。いわば艦隊運動の主導権がこちらにあったわけだが、逆T字戦法の場合、相手が突っ込んできてくれるのを待つという形にならざるを得ない。常に相手側の頭を押え続けるのはこの戦法では容易なことではないのである。
 例えば極端な話、二つの艦隊が遠くから直角に接近していくとしよう。この場合、直進コースでも両方の速度のちょっとした誤差によって、どちらがT字の横棒になるかは全く逆転してしまう。


(図23)

 結局公海上で開戦する場合、うまくT字の横棒になるためには大抵の場合どこかで、かなり接近した状態で鋭いターンを行なえばそのターンの位置そのものは海上の一点となって動かないため、相手側の好目標となりやすい。いわゆる「敵前大回頭の危険」である。
 特に先頭の旗艦が粉砕されてしまえば大混乱に陥りかねず、東郷がこのリスクの高い戦法をとり得た理由はネルソンの場合とかなり似ていて、東郷艦隊はかなり戦術思想の統一が取れていたため、ひとたびこういう戦法をとると決した以上、たとえ旗艦三笠が粉砕されても艦隊はそのまま行動をとり続けたと見られる。また相手側のロシア艦隊の射撃能力があまり高くないことも判断理由の一つだったろう。逆にロシア側のロフェストヴェンスキー提督は専制君主的な統率を行なっていたため、旗艦スワロフが撃破されると同時にロシア艦隊は艦隊としての能力を失ってしまった。なお、帆走時代のロシア海軍に対して、「ロシア艦隊に限って言えば、走行中でも後尾でなく戦列の先頭を攻撃した方がよい。それによってロシア艦隊はひどく混乱する」とネルソンが言ったことがあるのだが、日本軍首脳の頭にこの言葉があったかどうかは明らかではない。
 この戦いでロシア艦隊はほとんど壊滅したが、日露戦争それ自体が近来にないいわば巨大な近代戦の実験場であったため、各国が多数の観戦武官を派遣し、特にこの日本海海戦の戦訓は各国が競って採り入れた。

・ユトランド沖海戦(1916年)
 英国では日露戦争の戦訓等を生かし、英海軍のフィッシャー軍令部長の指導のもとに新戦艦ドレッドノートが建造され、各国は本格的な大艦巨砲主義の時代に突入する。この時期英国にとっては特にドイツ海軍の追い上げは脅威であった。とは言っても英国はかろうじて海の女王としての地位は保っていた。 
 第一次世界大戦はこういう状況のもとで勃発した。新興ドイツ海軍にとってはやはり英海軍の力をはねのけることはできず、活動を制約されて艦隊は基地にこもりがちだった。ユトランド沖海戦は、ドイツ側が港内で朽ち果てるよりは一か八かで主力艦隊を出撃させ、あわよくば分散状態の英艦隊に遭遇し、相手側に損害を与えてスコアを上げようとしたものである。
 この海戦においては巡洋戦艦部隊が互いに重要な役割を果たした。これが快速を生かして偵察を行ない、主力艦隊の目になると同時に、相手側主力をこちらが待ち構える位置に誘い込む役割も果たした。 
 砲の射程距離も日露戦争時代より伸びていたため、主力同士は巡戦部隊の情報をもとに相手を視認しないで動き、視認・発見と同時に砲戦が始まるという形態になった。
 先頭は両軍の巡戦艦隊同士の交戦で始まり、ビーティ提督の英巡戦部隊がドイツの巡戦部隊と主力部隊を、英主力が待ち受ける中に誘っていった。ジェリコー提督の指揮する英主力艦隊は逆T字の陣形でこれを迎撃し、ドイツ艦隊に集中砲火を浴びせる。


(図24)

 ドイツ主力を率いるシェ−ア提督は罠にはまったことを知り、全艦一斉に回頭して英艦隊から遠ざかる。その後シェーアは英側に大きな損害が出ていたのかもしれないと思い、もう一度引き返して英艦隊に接近したが、再びジェリコーの(逆?)T字戦法に会って戦闘を断念。決着がつかないまま両軍は基地に戻った。
 ジェリコーは非常に有能な提督であり、また日露戦争と同じ逆T字戦法をとったのになぜ決定的な戦果が上がらなかったのだろうか。実は状況の違いが一つある。日露戦争においてはロシア艦隊にはウラジオストックという目的地があり、日本艦隊はその道筋の途中に立ちふさがった格好になっていた。しかしユトランド海戦は公海上の遭遇戦であり、ドイツ側には切実な目的地や道筋というものがなかった。つまりUターンしようと思えば何の制約もなかったわけであり、一方が決戦を避けようとした場合には決定的な戦いにはならないのである。 
 この海戦がドイツ大艦隊の事実上の最後の出撃となり、結局英海軍の海上封鎖が最終的にドイツを崩壊に導いたのである。一方イギリスではドイツ艦隊を撃滅しないで本国に帰してしまったという理由でジェリコーは非難された。しかし当時の英海軍としては、ドイツ艦隊を構内に封鎖し続けることができれば十分だったのであり、また英国の海軍力自体がトラファルガーのときほど絶対的優位になかった。これらの状況を考慮すれば、限界をよく認識して英艦隊を無用の危険にさらさなかったジェリコーの判断は正しかったと言えるだろう。

・スリガオ海峡海戦(1944年)
 太平洋戦争における最も決定的な海戦はミッドウェー海戦であり、言うまでもなくこれは空母主体の海戦であった。縦一列の戦列で戦う戦法ももはや主力ではありえなかったが、一方において(航空関係者を除く)米海軍士官の間では日本海海戦を超える戦闘をやってみたいということが一つの夢として残っていた。実際ニミッツ長官以下、彼らのほうがむしろこの時期の日本海軍士官より東郷提督の後継者という感じがある。
 スリガオ海峡海戦はレイテ海戦の名で総称される一連の海戦の一つで、海戦史上、戦艦同士の最後の戦いであった。レイテ島に上陸した米上陸軍を叩くべく、日本の戦艦部隊はレイテ湾に突入をはかり、このうちスリガオ海峡を通って入ろうとした西村提督の艦隊を米戦艦部隊が迎撃したのがこの海戦である。
 このとき米戦艦部隊は行く手を遮断する形で逆T字戦法に出て西村艦隊を撃破した。この場合、狭い海峡をめぐる戦いで日本艦隊はそこを通るしかなく、米側は待ち構えていればそれでよかったわけであり、逆T字戦法の欠点は出てこなかったのである。なお、逆T字戦法はこれより前にもガダルカナル近海で、ガダルカナル島突入をはかろうとする日本艦隊に対して何度か米側が用いたことがある。これに対して日本海軍の側が一度もこれを用いることがなかったというのは皮肉というべきだろう。
 以上で縦隊戦列をめぐる海戦史概観は終わる。


(図25)


海軍戦略 第二部

この章では海軍というものは具体的にどう使われるのかを、基本的なところから述べてみることにする。

ペルシア帝国とギリシアの戦い

海軍というものが歴史に登場するのは恐らくフェニキア人の手によってではあるが、彼らは歴史を書き残すことに熱心ではなく、歴史書の中に明確にその活動が記されるのはギリシャ人たちの本土防衛戦たるペルシャ戦争の時である。
 ペルシャ戦争は前後3回にわたって行われた。第一回目の遠征は不発に終わり、第二回目はマラトンの戦い(前490年)でギリシャ側が防衛に成功、そして第三回目はこのうち最大規模の遠征となり、サラミスの海戦(前480年)でペルシャ軍とギリシャ軍の激突となったのである。以下、世界史的に見ても重要なこの海戦について述べてみよう。

 当時のペルシャ(アケメネス朝)はまさしく超大国であり、軍事力という点に関してはギリシャは数の面で到底太刀打ちできるような存在ではなかった。しかしこのアケメネス朝ペルシャという帝国は意外に若い国である。初代キュロス大王によって建国され、カンビュセス、ダリウスといった英主によって急速に膨張して大帝国となり、サラミス海戦の時の王クセスクセスはまだ四代目の君主だった。当時のペルシャ帝国の版図は次のようなものである。


 (図26)
 
 
 これを見てもわかる通り、ギリシャというものは西のほんの辺境に過ぎないし、ペルシャにとってもギリシャはどうしても欲しい領土というわけでは必ずしもなかった。しかしペルシャにとっての問題は小アジア沿岸、すなわちギリシャから見ればエーゲ海をはさんだ向かい側にあるミレトスをはじめとするギリシャ(イオニア)植民都市にあった。
 ペルシャはこれらの都市を版図におさめ(それは大陸国にとって沿岸である以上当然のことである)比較的ゆるやかにそれを統治していたが、植民都市側にはギリシャ人としての民族意識がくすぶり続け、ちょっとした政治的なもつれが発端となって、ミレトスを筆頭にこれら沿岸植民都市は一斉に反乱に立ち上がる。
 ギリシャというところは周知のように都市国家の集合体であり、それまでのギリシャの歴史というものは都市国家同士の戦争に明け暮れていた。しかし対岸の植民都市がペルシャという強敵と戦っているのを見て、彼らの中にギリシャ人としての民族意識が燃え上がり、一致してこの反乱の支援に乗り出すのである。
 こうなってはペルシャとしても捨ててはおけず、ギリシャ・イオニア世界との全面戦争に突入する。ギリシャ側は、アテネ等が軍艦をイオニアに派遣して連合艦隊を編成し、ミレトス付近のラーデでペルシャ艦隊と激突(前497年、このラーデの海戦が史上最初の大海戦と言われる)、ギリシャ側の大敗となり、ミレトスも占領されてひとまず小アジア沿岸の反乱は制圧された。


 続いてペルシャ側は対岸のギリシャ本土討伐に乗り出す。前述のように、第1回遠征は途中で艦隊が暴風雨に会って失敗し、第二回において有名なマラトンの戦いとなる。この時ダリウス大王は、比較的少ない兵力で目的を達成することを考えた。すなわちギリシャ側同盟勢力の中心であるアテネを政治的に無力化してしまえばそれで良いのであり、それにはアテネ内部での党派争いを利用して、親ペルシャ勢力にクーデターを起こさせることが一番の早道である。
 この目的のために、ダリウスは比較的小規模の軍団を海路を通ってアテネ付近のマラトンに上陸させる。これによってアテネ側は一つのジレンマを突き付けられる。相手側上陸軍を撃退するためには、主力がアテネを出てマラトンまで出向いていかなければならない。しかし主力が出かけてしまえばアテネ市内が手薄になり、クーデターを鎮圧するための十分な兵力が残らない。
 つまりペルシャ側としては、マラトンに出てきたアテネの軍事力を覆滅することは必ずしも絶対的に必要ではなかった。アテネの軍事力を市外に釘付けにする一方、無言の威圧で市内を精神的に動揺させてクーデターを起こさせればそれで十分なのである。アテネ側はこれを知りつつもマラトンへ向かう。
 ペルシャ軍というものは、帝国自体が併呑した領土の兵を次々に軍に加えていった関係上かなり雑多な兵士の寄せ集めである。それをうまく戦わせるために中央に「不滅隊」(アタナトイ。不死隊とも訳される)と呼ばれる王直属の精鋭部隊があり、それが中核となって突撃することで敵を粉砕する戦法をとっていた。
 ギリシャ軍は将軍ミルティアデスの指揮のもと、これを逆手にとることを考える。すなわち陣形の両翼を厚くするとともに高台に配置し、これに対して中央は薄くして谷に置く。こうすると、ペルシャ軍中央の「不死隊」はこちらの弱い中央をどんどん押してくる一方、強い両翼はもちこたえて、結果的に相手を両側から包み込む形態になる。
 
 
(図27)
 
 実際の戦闘でもこの目論見は見事に当たり、ギリシャ側は大勝利をおさめる。一方ペルシャ軍は敗れはしたものの、手薄なアテネ市を襲えばまだチャンスはあると考え、生き残っている軍は直ちに乗船し、海路アテネに向かう。
 これを阻止するために、勝利をおさめたギリシャ軍は直ちにアテネに急行し、辛うじて事なきを得た。(こういった状況を見ると、なぜ例の有名な伝令が死ぬほど急いで走らなければならなかったかも納得がいこうというものである。)

 このように第二回遠征も失敗に終わり、第三回に着手しようと考えているときにダリウス大王は死去し、子のクセルクセスがその後を継ぐ。
 第二回遠征は大体2万5千程度の兵力で行なわれたが、クセルクセスは今回は数の力で軍事的にもみつぶすことを考え、20万の大軍でギリシャに迫ろうとする。一方ギリシャではミルティアデスに替わってテミストクレスが軍事面の指導に当たって迎え撃つ準備を進めた。 
 テミストクレスという人物について言えば、政治的、戦略的な智謀では全ギリシャ史を通じて多分トップに位置する人物であろう。しかしその知恵が悍馬のように猛々しく、指導者としての人望という点では少々問題があったようである。
 さてマラトンの勝利によって、多くのギリシャ人はこれで国難は去ったと思っていたが、テミストクレスは再度のもっと大きな遠征が行われることをいち早く予測し、それをさかんに市民に説いた。
 テミストクレスの登場はアテネの軍事的性格に一つの変化をもたらすこととなる。すなわちそれまでは、アテネの国防は重装歩兵――市民中流階級が自弁した武器を持ち、盾をびっしり重ねた密集体形の四角いファランクスという陣形を作って戦う――による徒歩の陸上戦によっていたのだが、テミストクレスは陸戦に重きを置かず、海軍にアテネの国防を委ねようとしたのである。
 そのためには従来のアテネ海軍の規模では十分ではなかったが、幸運にもこのときアテネの国有銀山で豊富な銀がみつかり、テミストクレスの説得により、それが建艦費用に回された。またこの時の建艦方針も彼の献策に基づき、衝角戦法に適した設計となっていた。しかしここで彼が対ペルシャ戦に海軍主体の軍備が決定的と判断した理由は、具体的にどんなことだったのだろうか。それを正しく知るためには、クセルクセスの遠征がかかえていた問題点を知る必要がある。  
 クセルクセスの第三回遠征は陸路をとった。何しろ推定20万という大軍ゆえ、ペルシャ帝国といえどもその全部を乗船させるだけの船舶を都合することはできなかったのである。ところがその大軍団が通る道がまた問題であった。現実問題として、使える道はエーゲ海の海岸沿いの一本しかなかったのである。


(図28)

 この大軍団の行軍がいかに大事業であったかを示すものとして、途中のヘレスポント海峡に舟橋を建造したことや、またアトス岬の基部を通過するために、わざわざ土木工事を行なって基部を貫く運河の開削を行なったことなどがあり、その計画の規模は驚くべきものである。
 たった一本の道をこれだけの大兵力が進むとなると、食糧を途中の村から徴発しながら進むということは不可能であり、現実的な唯一の方法はその大量の補給物資を船に積んで進軍に随伴させることだった。そのためますますペルシャ陸軍は海岸から離れられず、艦隊がそれに並行して進むという格好になった。リデル・ハートの言葉を借りれば「ペルシャ陸軍は沿岸に縛りつけられ、その艦隊は陸軍に縛りつけられ、両者は足を縛りつけられた格好になった」
 逆にギリシャ側から見れば、もしペルシャ艦隊を壊滅させることができれば、まずその巨大な陸軍の補給を危機にさらし、さらに一軍を背後に上陸させて退路を断てば、ペルシャ軍を細いパイプの中に閉じ込めた格好にすることも可能である。このようにギリシャとペルシャは一応陸続きではあるものの、ペルシャ側から見たギリシャは、事実上一本の細いパイプでつながった島に過ぎなかったのである。

 では戦争の経過を見てみよう。ギリシャ側は、相手側進軍路の途中で隘路を防衛することにより、ギリシャ本土の手前でペルシャ軍を食い止める方針をとった。この条件に最も適する場所として選ばれたのがテルモビレーの関門であり、ここは迂回路がないうえ道が狭く切り立っているため、小兵力でも大軍をストップすることが可能であった。
 そのためスパルタ国王レオニダスが率いる精兵がここを守り、一方海側のペルシャ軍の前進・援護をストップするため、アテネを中心とするギリシャ艦隊はアルテミシオン岬付近に陣取って海峡を閉鎖した。


(図29)

ペルシャ陸軍はテルモビレーの前面に達するや早速総攻撃を開始し、後に「テルモビレーの戦い」として語り継がれる激戦が展開された。時を同じくして海上でも戦闘が開始され、アルテミシオンの海戦となった。
 テルモビレーではペルシャ軍は二日にわたって総攻撃をかけたが、スパルタ軍の守りは堅く、失敗して大損害を受ける。一方海上では、あまりぐずぐずしているとペルシャ艦隊がエウボエア島の南端を回ってギリシャ艦隊の退路を遮断し、ギリシャ艦隊を狭い水道に閉じ込めて殲滅する恐れがあり、そのためテミストクレスは先手を打って攻撃に出ることを主張する。
 余談ではあるが、当時のペルシャ艦隊というものは、ペルシャが陸軍国であったにもかかわらす、海戦には極めて熟達していた。しかしこの理由は、ペルシャ海軍の中核が実は正確にはフェニキア海軍であったからである。当時のペルシャ帝国は現在のレバノン沿岸も版図におさめていたが、この沿岸にあるテュロス、シドン等のフェニキア人都市国家が帝国に帰順し、海軍として遠征に参加していたのである。
 そのため操船にも熟達し、当時彼らが好んだ戦法は、まず広い正面にわたって攻撃をかけて敵をその位置に固定し、その一方で精鋭の別働隊が相手側戦列を突破して背後に回り込む方法である。テミストクレスはこれを逆手にとって、この別働隊を撃滅することを図る。
 この日彼は海峡の最狭部に軍艦を二列に布陣した。予想どおりペルシャ側の別働隊は一列目を突破してきたが、ギリシャ側の二列目がそれを待ち構えて攻撃に出たため、ペルシャ側別働隊はかえって前後から包囲、撃滅されてしまった。こうして小規模ではあったが初日にギリシャ側は一つスコアを上げた。


(図30)

しかしこの勝利はどちらかといえば時間稼ぎに役立った程度で、次の二日目も小競り合いが続き、勝敗は決しなかった。
 だがテルモビレーでは三日目に大変なことが起こる。それは陣地の背後に出る間道の存在を、ペルシャ側が現地人の手引きで知ってしまったことである。これにより前後に敵を受けてレオニダス王以下のスパルタ軍は玉砕してしまうのである。(なお、スパルタという国は国王が常に二人いるという変わった国制をとっていたため、王が一人戦場で死んでも国許で指導者不在という事態にはならない)
 陣地が突破されてしまえば、もう海軍はそんなところにいる意味がなく、その夜直ちに艦隊は撤退してサラミスに帰投した。

 テルモビレーを突破されたとあると、もうアテネまでは大軍を支えるような隘路はなく、防衛線の敷きようがない。スパルタにとってはまだコリント地峡という隘路が残っていたが、アテネ防衛はもはや不可能となり、市民は皆対岸のサラミス島に避難を始めた。このためペルシャ軍がアテネ市内に入ったときは、アクロポリス神殿にごく僅かの守備隊がいただけで、市内はもぬけの空であった。
 こうしてペルシャ軍は事実上アテネ市街を占領したのだが、この点で両軍とも次の手をどうするかについて軍議を開く。ペルシャ側からみた場合、ギリシャの軍事的重心は二つある。一つは現在サラミス付近に集結しているギリシャ艦隊、もう一つがスパルタ市である。
 この観点に立った場合、次のような作戦が一つの選択として存在する。すなわちペルシャ艦隊のほうが二倍以上の圧倒的優勢なのだから、まずその半数以上の優勢をもってサラミス付近の外洋に居座り、ギリシャ艦隊を封鎖してしまう。そうやって海軍の動きを封じておいて、ペルシャ陸軍がコリント地峡へ向かい、残りのペルシャ艦隊の支援のもと、そこを突破してスパルタ群を撃破、市を占領する。


(図31)

 スパルタ市が占領されてしまえば、生き残りのギリシャ軍はいわば流浪の存在と化し、ゲリラとしてならともかく、まともな政治的結束は不可能となる。そうなればペルシャ側は一応懲罰という政治目的は達したことになる。
 しかしこれを現実に行なうには、ペルシャ海軍は優勢とは言ってもそれは決して十分ではなかった。どれだけの数をサラミス前面に置けば封鎖が可能なのかが問題だが、それはギリシャ側の精神的萎縮の度合いに大きく左右される。しかしアルテミシオンの海戦で互角の勝負を行なったことにより、ギリシャ側の意気は高まっていた。
 そうなると、封鎖と地上軍支援の両方に力の不足を生じるという最悪の結果になりかねない。結局ペルシャ側としては第二の選択として、まず艦隊の全力をあげてサラミスのギリシャ艦隊を撃滅し、その後スパルタをゆっくり料理するという作戦を採るのが最も良いということに決した。
 一方ギリシャ側にとっては、広い水域で戦うことは数と練度の点から極めて不利であったから、主導権を相手側にとられてそういう戦闘を強要されると弱く、サラミスのような狭い水道で奇襲をかける以外に勝ち目はなかった。  
 ギリシャ陣営内部がかかえる最大の問題は、スパルタにとっては撤退してコリント地峡で防衛線を行なう策がいまだに魅力的に見え、それを主張する将が少なくなかったことである。だがこれは事実上のアテネ切り捨てであり、そんなことをすればギリシャ艦隊はもはや内部から分裂してしまうだろう。当時の陣営内部の雰囲気では、ちょっとした恐慌でたちまちこの近視眼的方針に走りかねない状態にあり、テミストクレスは必死になって説得を行なった。
 しかし軍議ではなかなか意見がまとまらず、さらにその途中で、アテネで象徴的存在としてアクロポリスに立てこもっていた守備隊が降伏したという報告が入り、また一つ衝撃を陣営内部に与える。
 軍議の席上、意見を述べるテミストクレスに向かって一人が、貴方はアテネの代表と言われるが、もはや貴方には国はないではないか、と食ってかかるが、そのときテミストクレスは立ち上がって目の前に停泊している艦隊を指差し、「アテネこれにあり」と堂々と宣言した、とヘロドトスは伝える。


 しかしテミストクレスは、この陣営内の内紛を逆手にとって謀略に使ったのである。海戦の前日、一人のギリシャ人がペルシャ軍陣営に現われた。この男は名をシキンノスと言い、テミストクレスの子供たちの養育係を勤めていた人物である。
 彼はペルシャ軍首脳に向かって、今夜半にギリシャ艦隊はサラミスを撤退するが、アテネ艦隊自身はペルシャへの寝返りを狙っていると告げる。ペルシャ軍首脳は、他ならぬテミストクレスの意志による密告なので一度は不信をいだくが、テミストクレス自身が寝返ってペルシャ支配下のアテネの新政権の主になろうとしていることは十分考えられることであるし、何よりもこの密告内容が軍事的情勢から見て余りにも整合性があった。
 しかしこれは実はペルシャ艦隊を狭い水道に誘いこむためのテミストクレスの謀略、いわゆる「シキンノスの計」であった。軍事的整合性があるように見えたのも道理で、彼は自分が心配していることをことさらに誇張して謀略に仕立て上げたのである。ペルシャ側はそうとは知らず、ついにこの密告を信頼する。「シキンノスの計」にかかったペルシャ艦隊は夜半から動きが始まった。
 彼らの計画は水道内部に侵入し、そこで合図とともにアテネ艦隊が一斉に寝返って他のギリシャ艦隊の進路をふさぎ、ペルシャ艦隊と共同でその場で殲滅するか、あるいは水路から追い出して広い外洋で優勢なペルシャ艦隊がこれを一挙に殲滅するのである。ギリシャ艦隊は全部で推定380隻(310隻説もある)、うち180隻がアテネ艦隊であった。つまり戦闘に先だって相手側が突如半分に分裂するわけで、本当ならペルシャ側にとっては願ってもない好機であった。
 ペルシャ艦隊750隻(推定)は静かに夜のサラミス水道を進み、ギリシャ側も既に夜のうちにそれを察知して出撃を準備した。そして夜明けまでにペルシャ艦隊は配置についき、水道の中に全長5キロにおよぶ横隊を作った。ギリシャ側は夜明けとともに陣形を作りはじめ、二つの横隊が狭いサラミス水道で向かい合った。


(図32)

 ペルシャ側はこの展開行動を、寝返りのための予定行動と信じ、合図を待った。しかし合図のかわりに響き渡ったのは戦闘ラッパであり、罠にかかったことを悟ったペルシャ艦隊に恐怖が走った。
 具体的な戦闘の模様は現在でも判明していない。ただ言えることは、このまま狭い水道に閉じ込められたままでは大軍のペルシャ艦隊は不利であるから、とにかく一旦ギリシャ艦隊の北側へ回り込んで圧迫し、南の外洋に追い出すことをしなければならない。ただこの状況ではそういう行動に出ることはただでさえ生じている混乱をさらに増す危険があった。事実、混乱したペルシャ艦隊は味方の衝角で突かれて沈んだり衝突で櫓座を破壊されたりするものが数知れなかった。
 これに対してギリシャ側は、混乱したペルシャ側を包囲し、次々に衝角で突いていった。衝角戦法はテミストクレスの頭の中では相当以前からプランとして存在していたらしく、例の銀山で銀が見つかって海軍大拡張を行なう際、彼は軍船の甲板を部分的にしか張らせなかったと伝えられる。どういうことかというと、これは漕ぎ手の視界を良くして操船を容易にする一方、甲板のうえで矢を射たり接舷して斬り合いをしたりする甲板戦闘員の活動には、最初から期待しなかったということである。
 一般的にガレー船の海戦では、操船技術に長けた側は衝角戦法に重きを置きたがり、そうでない側は甲板戦闘員による接舷戦闘に持ち込みたがる。ギリシャ側は操船技術に劣っていたのだから、これは本来方針としては一見逆であろう。しかしもっと大きな問題、すなわち数の問題があったのである。
 銀鉱の発見によって確かに船の数は揃えられた。ところがそれに乗り込むべき乗員が大量に必要となり、アテネでは従来戦争に動員しなかった下層階級までを漕ぎ手として総動員しなければならなくなった。つまり人員を削減できるところでは可能な限り削減した方が良いことになる。一方奇襲攻撃に適する戦法ということから言うと、衝角戦法の側に一分の利がある。接舷戦闘はやはり体力の勝負で、図体の大きい側が有利だからである。
 そういう事情でテミストクレスは建艦計画の段階から、衝角戦法のみに適する単能型の軍艦を作ることで人員と資材の節減をはかり、多くの隻数を確保する方針でいたのである。実際これらの軍艦は当時の常識からすればアンバランスなほど甲板戦闘員の数が少なかった。いわばこの戦争だけのために作られた軍艦であり、どういう戦略・戦術で戦うかを前もって正確に予測しておかない限りこういうことはできない。恐るべき知謀というほかないだろう。
 戦闘は日が落ちるまで続いたが、勝負は最初の段階ですでに決まっており、ペルシャ側は体勢を立て直すことがついにできなかった。戦闘終了までに約200隻が撃沈され、一方ギリシャ側の損害は数十隻にとどまった。 ペルシャ艦隊の生き残りを全部合わせればまだギリシャ側と互角に戦えるだけの兵力はあったが、もはや戦う気力は失われていた。クセルクセス王はこの日、高台の上からこれを観戦していたが、惨憺たる敗戦の有様を見て色を失った。艦隊を失ったとなると、ギリシャ艦隊にヘレスポント海峡の舟橋を破壊され、王以下の全軍が退路を断たれてペルシャへ帰れなくなるかもしれない。また、この敗戦の報が本国に伝われば、それまで力で抑えていた属領が反乱を起こすかも知れない。全軍の即時撤退は不可能であるため、とにかくクセルクセスは一人で本国へ帰った。
 一方ギリシャ側にとっても事態はまだ手放しで喜べるようなものではなかった。何よりも、圧倒的兵力のペルシャ陸軍がまだギリシャ本土に無傷で生き残っているのである。当然ながらそれに正面攻撃をかけるだけの力はギリシャ側にはなく、とにかく海軍を用いて補給線の遮断と後方攪乱を行ない、時間をかけて弱らせていくしかない。ギリシャ側の防衛ラインは依然コリント地峡であり、アテネは占領は説かれたもののまだ残存ペルシャ軍の勢力圏にあった。
 一方ペルシャ艦隊は翌日からギリシャを撤退し、ギリシャ海軍はこれを追跡するが、見失ってしまう。ヘレスポントの舟橋の破壊も計画はされたが結局採用されず、かわってエーゲ海諸島を制圧することで後方攪乱を行なうことが実施された。そしてこの戦争の発端となったミレトス付近でペルシャ海軍を追い詰める。このころのペルシャ艦隊はフェニキア艦隊が編成から外されているなど、著しく弱体化しており、ペルシャ軍は船を陸上に引き上げ、ミカレにおいて上陸してきたギリシャ軍との陸上戦で壊滅させられた。


(図33)

 一方退路を断たれた残存ペルシャ陸軍は、結局ブラテーエでギリシャ軍との最後の決戦を行なって敗北し、退却した兵士のほとんどが途中で死亡し、この大軍のうちペルシャに帰りついたものはほとんどなかった。
 こうして制海権をペルシャの手から奪ったことにより、ペルシャはその後70年にわたってギリシャに手を出すことを控えた。ギリシャにとってはまさに輝かしい大勝利だったが、その国内に及ぼした影響という点で若干の暗い面を指摘する向きがあったことは付け加えておかねばならない。
 それ以前のギリシャの戦争は、前述のように重装歩兵によって戦われていた。これは武具を自弁しなければならないこともあって、中産階級からなる一種の階級をなしていた。いわば戦時だけの戦士階級である。彼らは貴族ではなかったが、そのやや下のいわばジェントルマン階級であったと言える。彼らは国防を担うことにより、国政に対する責任と発言権も握っていた。つまりそれまではアテネといえども大衆民主主義というものは存在していなかったのである。
 ところがサラミスでは、下層階級も漕ぎ手として戦闘員に駆り出さなければならず、このためアリストテレスなどが主張するように、決定的な戦闘の一翼を担ったことで彼らの発言権が飛躍的に増大することになる。つまり大衆民主政への道が大きく開かれたことになるのである。
 同時にこのとき、「自由」という言葉が一種の熱を帯びた肯定的なイデオロギーとしてはじめて世界史の中に登場することになった。しかしギリシャにとって不幸なことであるが、近代ヨーロッパにおいて海軍というものが「自由」の本来持つ毒を中和する作用を持っていたのとは対照的に、ギリシャ海軍はそれを野放しにする作用を持っていたように思われる。この後すぐに発生するペレポネソス戦争とそこにおけるアテネ衆愚政の救いがたさを見るにつけ、その思いが強い。
 一般的に言えることであるが、「伝統」というものと切り離された強力なパワーが出現するとき、それは必ずその文明社会に害をなす。英海軍というものは、そこから「伝統」の文字を剥ぎとってしまえばほとんど何も残らないほど、それと分かちがたく結びついていた。しかしアテネの場合、それに相当するものは実は重装歩兵だったのである。
 このことはヘロドトス自身がすでに強く感じていたらしく、彼は「マラトンの重装歩兵」に対する郷愁を抱き、その地位を結果的に奪うことになった海軍に対しては、やや反感を持ったような記述をしている。結果から見る限り、彼の懸念は正しかった。サラミス以後、アテネの根幹であったポリス共同体の精神は急速に解体してしまったのである。その後に来るペリクレスの黄金時代というものは、悪く言えばその内面の空疎化をカバーする外面的な装飾化と言えなくもない。
 とにかくアテネ海軍はテミストクレスというあまりに巨大な才能によって急速に余りにも大きな勝利を手にしてしまった。このため伝統というものと結びつくべき機会を失ってしまったのである。さらにまたエーゲ海の解放的雰囲気が、艦隊をして重々しい「規律と結束の象徴」となることを許さなかった。風景の解放的なところではとかく自由主義は暴走しやすく、「自由という概念は灰色の海のそばでしか健全ではあり得ない」というのは一面の真理であるとは言える。
 ペルシャ艦隊をあまりにも完全に撃滅してしまったため、ギリシャ世界は外交内政両面で力学的に大変貌を遂げる。考えてみるとマラトンのとき、ダリウスが軍団を兵器で船に乗せてギリシャに上陸させてしまったというのも、実はギリシャ側が制海権を持っていなかったという事情が裏に存在するのであり、あの時でもギリシャ海軍が強力であればダリウスの侵攻を海上で阻止することが可能だったはずである。
 しかしこれだけ急速にエーゲ海での力関係が逆転してしまったのは発端は銀山での銀を使ったテミストクレスによるアテネ海軍の急速な増強であったが、続いてサラミスの大勝利でギリシャ人が海軍と言うものの価値を知ってしまったことが決定的となった。その意味でこの海戦は文明全体に影響を与えた一大デモンストレーションであったとも言える。いずれにせよ、サラミスの海戦というものは世界市場に極めて重大な意義を持った戦いであり、その余波がいまだに世界を揺るがせているといってもある意味では過言でない。

 世界史の中での最初の大海戦は、このように陸上部隊の後方遮断という問題をめぐってのものだった。一般に陸軍主体の勢力が海軍というものを持ちたがる場合、第一にこういう使い方が目的となる場合が多い。実際強大な陸軍を持っている武将や君主について「彼は海軍を保有することに興味を抱いていた」と記されている場合、その動機は大体においてこういう用途を想定したものである。
 陸戦の場合、相手側陣地の背後に一部隊を回り込ませるというのは、どんな指揮官でも最初に一度は考えてみる手である。あらためて言うまでもないことではあるが、戦いというものは大事な場所に最大の力を集中したものが勝つ。そのため陣地を作る場合には正面が最大の力を発揮できるようにするのが当然で、敵が絶対に来ないような背後に兵力を割くことは、それだけ正面が弱くなることを意味する。つまり逆に言えば背後がどこも弱くない陣地というのは、よほど兵力に最初から余裕がある場合を除けば、大変に不効率な配置をしているということになる。

 海岸付近で対峙する場合、一方が海軍兵力を持っているをすれば、兵力の一部を相手側陣地の背後に上陸させることにより、一方だけが常に背後に回り込む能力を持っていることになる。相手側はそれではかなわないので、やはり海軍兵力を持って相手側の上陸軍を海上で迎撃することを試みる。ここにおいて海戦というものが発生するのである。


(図34)

現代では空挺部隊というものがこれに似た使い方をされる。だが言うまでもなく、こういった使い方は海岸線の相対的な長さによって有効性に違いが出る。地形が入りくんでいて海岸線の長さが国土の面積に比べて相対的に長い場合、様々な場所で海軍兵力を使う機会があるが、逆に自分の領土が非常に短い海岸線しか持っていない場合、その戦場だけの局地戦のためにわざわざ海軍を建設することは余りにも不経済なのである。
 ギリシャのような地形では、恐らくこの目的だけのために海軍を作ったとしても、それは経済的に十分引き合うものだったろう。しかしながら面白いことに、島国であるイギリスと日本では、その国内戦において海軍がこういう目的で決定的な役割を果したことはほとんど無いのである。つまり当時の段階ではこの程度の海岸線の長さでは、海軍はまだまだ不効率だったわけである。
 同時に言えることはこういう使い方は海軍の使用法としては本来補助的なものであり、その真価を百%発揮するようなものでは決してないということである。しかしながら世界史というものはあくまでも陸上が中心となって展開してきたものであり、陸戦にはたらきかける力があってこそ、海軍力は力としての認知を受けることを得てきたのである。それゆえたとえ表面に出てくることが少なかったとしても、海軍がこういう能力を持っているということ自体が、潜在的脅威としてて陸軍側に受け取られてきたことを決して忘れてはならない。

アレクサンドロスの遠征

 まとまった兵力を相手側陣地の背後に上陸させるという大規模な上陸作戦はむしろ20世紀に入ってから多く行われたが、古代においてはむしろ各地の反乱に火をつけて回ったり補給路や策源地を荒らしまわったりといった、いわゆる後方攪乱のほうが有効と考えられたようで、実際こちらが多用された。
 ペルシャ戦争は東方からのギリシャ侵攻であったが、150年ほど後に行われたアレクサンドロスの遠征は、逆にギリシャ世界から東方への遠征であった。
 このときアレクサンドロスは、小アジア半島沿岸を進軍し、半島の付け根のイッソスでペルシャ軍と決戦を行ってこれを撃破する。しかしその後アレクサンドロスはすぐにペルシャ内陸部へ侵攻せず、地中海沿岸沿いにエジプトまで南下するコースを選んだ。そしてエジプトでUターンして、再び来た道をたどって元の場所まで戻り、それから改めてペルシャ内陸へ進撃していったのである。


(図35)

アレクサンドロスがこんなコースをたどったのは、ペルシャ海軍の根拠地となる沿岸の都市をしらみつぶしに制圧することが目的であった。実際、そのフェニキア都市のひとつであるテュロス攻囲戦は、実に7ヶ月にわたって当時の最新の軍事技術が双方でぶつかり合う大攻防戦となり、アレクサンドロスの一生のうちで恐らく最も苦しい戦いであった。
 しかし逆に言えばこれは彼にとっては、そこまでしてもやるべきことだった。これらの行動によって、小アジア沿岸と東地中海のペルシャ海軍根拠地はほぼすべて制圧されたからである。そのためアレクサンドロスは後顧の憂いなく内陸部に軍を進めることができた。 
 実のところこのことに関する潜在的な危険は相当なものが存在していたのである。当時のペルシャで第一の名将と言われたメムノン提督は、アレクサンドロスの軍と直接当たることを避け、ペルシャ艦隊を使って後方攪乱を行ない、戦場をギリシャに移す戦略を準備していた。実際これを強力に実行された場合、アレクサンドロスの遠征計画は破綻の恐れは十分にあったとみられる。
 しかしアレクサンドロスはやはり幸運児であった。この最も恐ろしい相手であるメムノンは遠征開始後まもなく病死し、柱を失ったペルシャ海軍の抵抗は腰砕けになってしまったのである。しかし根拠地制圧により、ペルシャ海軍力は完全に動きを封じられる。

アメリカ独立戦争

後方攪乱や補給線の遮断ということに関して言えば、その機能を持つのは外洋ばかりではなく、時に湖も同様の機能を持ちうることがある。
 この一例が米独立戦争のときに起こった。このとき、英側はカナダからバーゴインの率いる一軍をハドソン川沿いに南下させ、同時に海側からニューヨークを占領して十三州植民地を二つに分断させる戦略をとった。
 このとき、ハドソン川ルートの途中にあるシャンプレーン湖に、米側は小規模ではあるが湖上艦隊を建造していた。シャンプレーン湖は南北の長さ80kmほどの細長い湖であるが、英側から見た場合この湖の「制湖権」を相手に握られていたとなる、ルートは迂回路がないため湖の脇を安心して進むことができず、英軍の南下はストップしてしまったのである。


(図36)

 結局英側は、この湖の「制湖権」を握るため、対抗してやはり湖上艦隊を建造し、米側湖上艦隊を撃滅することでようやく前進を再開することが可能となった。米側湖上艦隊は全滅はさせられたものの、極めて貴重な4ヶ月を稼ぎ出すことには成功する。このためバーゴイン軍は湖から百数十km南下したサラトガ付近で前進がストップし、サラトガの決戦で破れて降伏してしまう。結局英側の植民地分断作戦そのものが破綻したわけで、シャンプレーン湖上艦隊の貢献は相当に大きなものがあったと言える。

湖ということから言えば、日本の地図を見てみると一つ興味深い地形がある。それは琵琶湖の存在である。
  実は良く見るとこの湖の南北で国土全体の幅がかなり狭くなっている。南側には伊勢湾が入り込んで湖との間の陸地の幅は最狭部で約50km、北側には若狭湾が入り込んで最狭部で18kmしかない。しかも南側の地狭部は50kmあるとは言っても中央に鈴鹿山脈が走り、中央部を大軍が突っ切るには適さない。すまりこの三つの水面に艦隊を浮かべることを考えるというわけである。

 
(図37)
 
 例えば東日本の軍事勢力が西日本に侵攻する場合、この三つの水面を相手側に制圧されたままでは、後方は極めて危険であり、西へ深くまで侵攻することには困難がつきまとう。
 確かにこれらは地狭部とは言っても幅が結構広いので、数倍の敵軍を阻止するというには不十分である。しかし兵力的に互角からせいぜい1.5倍の相手を阻止するには相当に強力な手段となり得る。大体において近代以前には西日本は貨幣経済の世界で軍事力(陸軍力)そのものは相対的に弱く、東日本は農業主体の世界で軍事的に優位にあった。特に豊臣秀吉死後の1600年の東西対立においては、この地形はかなり有効に生かされる潜在的可能性は持っていたとみられる。無論現実の歴史では全くそのようなことはなかった。また、一部隊を外洋艦隊に乗せて東日本に上陸させ、後方攪乱を行なうということも、当時の未熟な航海技術では少々無理なことだった。 
 湖上艦隊というものは、河川や運河によって海とつながっていない限り外洋艦隊との直接的合同ができず、その意味では不経済な装備である。逆に言えば外洋で圧倒的劣勢にあったとしても、湖上での優劣はそれとは無関係であるとも言える。
 米独立戦争においては、外洋では英海軍には全く太刀打ちできず、したがって英陸軍の海上機動には打つ手がなく、終始ワシントン将軍の頭を悩ませた。大体において十三州植民地は地形的に細長く、海岸線も相対的にかなり長かった。これがため、米独立戦争においては戦線というものが形成されにくかったと言える。なぜならば、東西に伸びる幅の狭い戦線を形成しても、海上機動によってすぐに背後に回られてしまうからである。かと言って、南北に伸びる戦線というものは長すぎて独立軍側の兵力では全く非現実的なものである。


(図38)

当時ワシントン将軍は海軍力というものがいかに重要かという事を書き残しているが、実際米国において海軍力というものがこれほど死活的に重要なものとなったことは、その後の米国史にもなかったのではないかと思われる。
 しかし当然ながら当時のアメリカがイギリスに対抗しうる艦隊を整備するなど全く非現実的なことであり、この決定的部分を補ったのはフランスの参戦であった。フランス海軍は確かに英海軍より劣勢ではあったが、米本土沿岸において英海軍が思いのままに振舞うことを阻止するには十分な力を持っていた。
 米独立軍の勝利が決まったのは、ヨークタウンにおいて英陸軍部隊が降伏したことが最終的なきっかけとなって、英側が戦争の継続を断念したことによる。しかし実はこのときも英海軍は海上からヨークタウン救援を実施しようとしており、救援が成功していれば少なくともこの時点では英側は負けはしなかった。その救援が失敗したのは、ド・グラース提督指揮のフランス艦隊が英艦隊の救援を阻止することに成功したからで、フランスのシーパワーの援助がいかに大きなものだったかがわかる。


(図39)

このときヨークタウンの目と鼻の先で戦われた海戦が第二次チェサピーク湾の海戦で、英側の不手際が主たる原因となって、非決定的な戦闘を交えただけで英側は成算なしとみて退却してしまった。結局ヨークタウン救援は断念されたのである。
 海戦史全体を通観してみると、このように一方が地上軍に対する支援を狙い、もう一方がそれを阻止しようとすることが直接的原因になって起こった海戦はそれほど多くはない。(ただし太平洋戦争中のガダルカナル周辺の海戦は大体これで、一人で数を増やしている感があるが。)
 また、この第二次チェサピーク湾の海戦にしても、英艦隊は陸上部隊を直接乗せて救援に赴いたわけではない。たとえ陸上部隊に対する直接的支援が目的であっても、それら上陸船団は二番手として待機し、それに先立って純然たる戦闘艦同士の戦いが行われ、邪魔な相手側艦隊を撃滅して海上を安全にしてから上陸部隊が海に乗り出すのが普通である。
 さもないと、もし負けた場合強力な陸上部隊が海上で無力なまま全滅する恐れがある。結局たとえ陸上部隊に対する支援という戦略的目的があったとしても、戦術的には相手側艦隊を撃滅して制海権を握ると言うことが優先する。
 つまり個々の海戦の目的は制海権の確保という事になりがちで、陸上部隊への支援という動機は直接的には表に出てこないことが多い。しかし間接的にはこれは多くの海戦の原因としてしばしば隠れて存在しているのである。

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