海軍戦略からみた関が原の戦い
 

関が原の話の前に、なぜそもそも海軍戦略に注目しているか、という話から始めたい
と思います。
 日本人が生み出せなかった思想が2つある。それは、古典力学と海軍戦略であると
いうのが私の認識です。日本では純粋数学の分野では関孝和の数学など、かなりレベ
ルの高い数学があって、一方工業技術においてはからくり人形などに見られるような
非常に高い技術があった。にもかかわらずサイエンスとしての科学技術が生まれな
かった理由は何かというと、それはやはり古典力学がなかったからです。数学と科学
技術をつなぐ古典力学、物理学というものがなかったから、ついに日本ではサイエン
スとしての科学技術が生まれなかった。
 
 一方において政治の世界を見てみると、軍事力そのものは突撃精神もあって非常に
強い。また謀略が下手かというと、たとえばお座敷の料亭政治みたいなことでは、す
ごい精密な謀略でやってるわけですよ。にもかかわらずなぜ外交で他の国に比べて全
然弱いのは何故か。それはやはり海軍戦略というものがなかったからだろうと思い
ます。海軍戦略というものが実は軍事力と外交、あるいは謀略能力とを繋げる最大の
キーポイントになっている訳です。
 ということは日本人がこの古典力学と海軍戦略という二つの概念を知らなかったか
らこそ、不足している力というのは非常に大きいというのが私の見方で、たまたまそ
の2つを持ってる人がある時期に育つことがあります。まさに幕末の時代、長崎の海
軍伝習所に居た人は古典力学と海軍戦略を両方知ってる人たちだったわけですよね。
勝海舟しかり榎本武揚しかり。彼らはあれだけ少ない戦力を持ちながら幕末の世界を
大きく動かす、世界史的な影響を持つほどの働きを充分なしえた。それはやはりこ
の2つを持っていたからであるというのが私の、あの時期に対しての見方です。
 この関が原の戦いの話をやるのは、これまで日本人が如何に、歴史を陸側からしか
見てこなかったか、それを見るための最大の教材であると私は考えるからです。

 関が原の戦いにおいて、海軍力を使って西軍がどう東軍に対抗しえたか、その戦略
は今まで日本人にとって思いついたこともないような重要な部分をもっているわけ
で、それをこれから話してゆこうと思います。

 関が原の戦いの本質とは、どういうところにあったか。
 まず東日本は徳川家康に代表されるように、米の経済によって成り立つ勢力でし
た。基本的に米で、兵隊を雇って、それを兵力として使うと言うことを、根本として
持っていた。一方西日本っていうのは貨幣経済で成り立つ社会であって、お金で軍事
力をどうやってととのえるかということを主体としていた。また西日本は比較的海軍
力の強いところであった。東日本は兵力と頭数の多さは強いけれども、海軍作る
のに結局金が要りますから、そういった意味では西日本のほうが非常に、海軍が使い
やすい環境にあった。
 関が原で戦ったときに、東軍の最大の有利な点は何か、というと結局その兵力全体
が徳川家康一人の指揮に従って西に東に迅速に非常にスムーズに動くことが出来たと
いうことで、これが東軍の最大の強みです。一方西軍は数においては劣っているわけ
ではないが統一的な指揮というものがないから、東軍ほどに非常に迅速に動くことは
できない。ひとつ兵力を集めるにしても、大勢の間を折衝しながら、組み上げて行か
なければならないので、非常に時間が掛かる。関が原の戦いは、まさにそういう両軍
の体質がそのまま出てしまったところだといえるでしょう。
 関が原の戦いでは、西軍の方はとにかくまとめるのが大変ですから、石田三成は一
生懸命折衝をやりながら、西日本へ入る入り口の近くの街道が交差している関が原
で、何とか迎え撃とうとしました。
 フォーメーションなんかにしても事前にちゃんと組んでおかないといけない非常に
硬直した態勢にあったわけですが、ここを家康の指揮する部隊がものすごい迅速な指
揮でドドッと来たから結局、まとまった力の指揮能力にはほとんど全く立ち向かうこ
とが出来なくて結局負けてしまった。これが西軍の敗因です。
 ということは西側から見た場合、東側のまとまった陸軍力の存在そのものが最大の
脅威です。つまりこの兵力の西の方への侵入を許してしまったら、もう勝ち目はな
い。したがって西側から見た場合、戦略の最大の眼目は、東側の陸軍を西日本に入れ
ないで済ますことである、いえるのではないか。
 
 それを陸軍力を使わずに海軍力を使ってやるという発想で見たらどうなるか。その
観点から地図を広げて日本という存在を見ると、非常に面白いことに気がつきます。
本州は一塊になっているように見えますけれども、実はこの東と西と言うのは非常に
短い地峡部でつながっているに過ぎないんですよね。陸上でみると、こんなに短い幅
の狭いところで、かろうじて繋がっているに過ぎない(日本地図参照)。したがって西軍
が、敦賀湾と、琵琶湖と、南の伊勢湾と、この3箇所に艦隊を浮かべてお
いて、この力をもって東軍の西日本への侵入を防いだらどうなのか。
 具体的には海軍力を使っている場合、相手側の陸軍がこの街道を南下してポイント
に指しかかったときに、背後の道路を遮断してしまう。そうすると背後を遮断すると
ほとんどの場合全滅しちゃう可能性が高いですから、海軍が脇に居座ってる道路を通
過するのは非常に難しいわけです。
 よく見ると、ここ(南側の地峡部)は鈴鹿山脈と養老山地があって、大軍が通れる
道路は海岸沿いの両方しかないんですよ。ということは海軍がここにいると山沿いの
道路をふさがれちゃう危険が非常に大きいわけですよね。一方敦賀沿いの道もこの一
本しかないわけで、この敦賀湾に艦隊が浮かんでいるとなると、
やはり背後を遮断されてしまう危険が大きい。したがってもしそういう戦略を取った場合に
は、とにかくこの3つの艦隊を何とかして制圧して置かない限り、東軍としては西日
本に入るということができないわけです。ということは戦いがこの間口で長期化して
しまいますから、東軍が如何に迅速な行動力を持っていたとしても、時間を稼いでい
る間に西軍はゆっくり手持ちの兵力を集結させればいいわけですからね。家康の持っ
ていた最大の長所、統一指揮が出来るから迅速に行動が出来るという最大の利点が失
われるわけです。そこで結局、この状況で一種の手詰まり状態に、ステルメートの状
態に落とし込んでおくことが出来るだろう。そうなれば家康というのは法的権限を充
分に持ってませんから、西軍はその政治力を半分以下に減らすことが出来る。だから
この防御を続けている間に必ず勝てるだろうという予測が成り立ちます。
 西軍の敗因と言うのは今までにもいろいろ言われて来ましたが、敗因の本質は、基
本的に海洋勢力である西側が、陸で戦ってしまったことに西軍の最大のミスがあると
いえます。彼らは、ここで艦隊の力で阻止するんじゃなくてこの2つの地峡部よりも
先のところに陸軍を出して、それで相手の陸軍をぶつけて粉砕しようとしたわけで
す。本来の目的は、西日本への侵入を防ぐということであれば良かったのに、敢えて
陸にこだわって、そこで相手の軍隊を粉砕しようとしたものだから、結局返り討ちに
あって負けて、全部を失ってしまった訳ですよね。だからそれに比べれば、とにかく
相手を西日本に入れなければそれで十分戦略目的を達成できるわけだから、この3個
所に艦隊を浮かべれば、それで対策としてはOKだろうと言えます。

 これをやるのに十分な条件が実はそろっていて、他ならぬ石田三成自身が琵琶湖の
ほとりの佐和山城を領地として持ってたわけですから、琵琶湖海軍の管理はもうその
まま彼がやるべき状況にあったわけです。もう一方北の敦賀に関しては、この付近は
もう一人の西軍の宿将である大谷義継の領土でしたから、やはりここの艦隊の指揮
権は彼が取ることになったでしょう。残った南側だけは手付かずなので、ここに小西
行長あたりを持ってきて、3人でこの艦隊を運用させたとするならば、まず家康が西
日本に侵入することはほとんど不可能だったでしょう。そうなれば家康の天下取りは
おそらくありえなかったでしょう。
今までこういう話は実は一度もされたことはないんですよ。それは何故かというとそ
もそも日本という国がこういう狭い2つの地峡によってつながれているという存在
であるという、そのこと自身がまず盲点になっているわけですよね。実は海軍を徹底
的に使おうと思えば、この発想はどうしても生まれてくるものなのであって、それが
今まで一度も論議されたことがないというのは、日本史を見るときに、如何に海軍
力っていうものに対する注目が欠けているか、その裏書とも言えるわけです。

 ここでもう一つ注目すべきことは、琵琶湖を押さえておくことは、この(戦略の)
際の非常に重要な鍵になっている、っていうことは、お分かりでしょう。琵琶湖のほ
とりにある城のもう一つが、実は安土城なんですよ。信長はどうも、琵琶湖というも
のが日本の戦略の真の中心になると言うことを見抜いていたからこそ、安土という場
所にあの城を築いたのではないかという見方もできる訳です。

 まして当時は運河は出来ていませんが、琵琶湖から南へは既に川がありますから、
後は北に抜けるルートを開拓すれば、瀬戸内海から直接船で、こっちへ(琵琶湖、日
本海側)いけるわけですよね。そうなれば、ここを押さえていることで、船でどこへ
でも行ける訳わけじゃないですか。だからまさに琵琶湖を押さえているって言うこと
が、日本全体のまさに中心を押さえることになる。そう言う発想を多分、信長は持っ
ていたと思うんです。

 ところが秀吉は折角持っている海軍力を、ただ軍隊の補給の面、輸送する手段とし
てしか使おうとしなくて、奇襲上陸させるとかそういう発想が根本的に欠けていたん
ですね。そのために彼は琵琶湖が日本の軍事力そのものの中心であることを見抜けず
に、結局、自分の死後こういう3艦隊を置いておけば、当面安定に家康の力を押さえ
ることが出来ることにも気が付かないまま死んでしまった。

 以上が海軍戦略からみた関が原の闘いの本質、であると言えるでしょう。

 西側の本質はシーパワーであるという観点に立つならば、まず第1に陸で戦うこと
は不利である。それから第2に、シーパワーである以上どこかで勢力均衡というとこ
ろに持ち込まないといけないということも分かるわけですよね。この2つの原理を
取ってみると、実はこの2つの地峡部に注目して、ここで東側を押さえて、勢力均衡
状態を長く続けて、相手側をだんだんだんだん弱めていく。それが最良の戦略であ
るって言うことははっきりしているわけですよね。

 少なくとも防衛大あたりで一回はこういうことを言い出す人がいてもよかったはず
なんですが、防衛大の先生とかが本に書いてあるのを見ると、いつも陸で戦う話に
なってしまう。だから防衛大そのものもやはり基本的には海って言う発想が、血の
中には溶けていないんだな、と感じますね。

補足

 もしもこの後、勢力均衡状態が続いていたとすると、その後歴史はどう変化していたか。
基本的に東側の産業は、農産物とか海産物とか鉱産物とか、いわゆる第一次産業が
メインな訳ですよね。そして当時の貿易相手は主に中国・朝鮮、東南アジア諸国で、
儲かるところは西側が全部押さえている。また、技術レベル文化レベルは圧倒的に西側が高い。
そうすると、やがては米の値段はどうしようもなく値下がりする(江戸末期がまさにそう)ので、
もう米で十分な給料を払うということができなくなってしまう。関が原の戦い当時は
たとえば金100gと米一俵だったのが、いずれは金一粒で米100俵買えるということに
なってしまうと、僅かの金で兵力が全部買える訳ですからね。50年以内には米の値
下がりで、東側の米価経済というのは全て、破壊されていたでしょう。


※本論文は、2002年12月22日例会における長沼氏の講義をテープ起こししたものです。


Pathfinder Physics Team