大陸合理論とイギリス経験論の違いが何かというとき、定義からすれば、それは演繹法をとるか帰納法をとるかの違いだということになろう。しかしこの場合に限って言えば、むしろ「一大理論体系」を作りたがるのが大陸合理論で、それにあまりこだわらないのがイギリス経験論だと理解した方が、説明がやりやすいかもしれない。
そういった意味からすれば、サンタフェ研の目指すアプローチは、ある意味で「大陸合理論的」である。つまり彼らはカオス理論その他を用いてかつての微積分の発見に匹敵するような大理論を作りたいと願っている。つまりそれ一つを使用すれば複雑系のほとんどを切っていくことのできる革命的な「スーパーウエポン」を作り上げようというわけである。
これに対してわれわれの場合は、指導原理としてカオス理論ではなく「思考経済」の概念を用いる。つまりそういう「スーパーウエポン」は恐らく完成しないという予想のもと、むしろ「在来型ウエポン」の劇的なコストダウンを図り、それを複数個組み合わせて同様の効果を狙っていくというアプローチをとる。
一般に、2倍の性能をもつ武器を開発することと、性能が変わらなくてもコストが半分の武器を開発することは、効果の点で同じであると言われている。後者の場合、一つ一つの性能が前と同じでも、同じ予算で2倍の数を装備できるからである。
われわれの場合も基本的にこれと同じことをやればよい。つまり今までは、理論の知的コスト−−学ぶ手間−−が高価すぎて、一つの頭脳に一つの理論を搭載するのがやっとであったが、もしそれらの知的コストを数分の一に引き下げることができたなら、一つの頭脳に数個同時に搭載することが可能となり、それらを適宜組み合わせていくことが可能となるわけである。
後者の場合、その組合せ方の判断に人間の頭脳が大幅に介在せねばならい。かつてケインズが「経済学にはモデルに即して考えるサイエンスの部分と、今の状況にはどのモデルが適合するのかを判断するアート(術)の部分がある。そして前者を扱う人間は比較的容易に量産が効くが、後者を扱える人物は少ない」と述べたことがあるが、この例で言えば、サンタフェ研が前者を重視するのに対してわれわれの場合は後者を重視する立場をとっていると言えるだろうか。
サンタフェ研型の「スーパーウエポン」の場合には、その新理論さえ一旦完成させてしまえば、誰がどんな問題に対して適用してもいわばボタン一つ押せばちゃんと解答を出してくれる、完全オートマチックの道具であることが期待されている。
これに対してわれわれの場合には、その組合せ運用は各自の頭脳によるマニュアル操作であり、扱う人間の側にもかなりの素質と訓練が要求されるようになる。そしてその訓練には、結局イギリス経験論的な手法が要求されてしまうわけである。
もし今までの科学的方法論を舗装道路でしか使えないローラースケートに例えるとするなら、サンタフェ研のアプローチは、さしずめキャタピラを備えて舗装道路だろうが不整地だろうが走破できる万能ローラースケートを開発するようなものだろう。
これに対してわれわれのアプローチは、要するに不整地にさしかかったらローラースケートは脱いで背中のリュックサックに放り込み、普通に歩いてそこを踏破し、再び舗装道路に出たらまたローラースケートを履くということであり、その判断を人間が行なっていくわけである。
このように両者は対照的なアプローチをとっているわけだが、最終的にどちらが成功するかは、そういう「スーパーウエポン」ができるかできないかにかかっていることになる。
ただわれわれの立場から批判させてもらうなら、複雑系の最大の特徴とされる「初期値依存性の高さ」をもつ系では、基本的にマクロ理論しか役に立たないはずである。なぜなら細部から積み上げるミクロ理論は、大量に積み上げねば現実の社会などを記述できないため、それら一つ一つが極度に精密なデータを要求するというのでは、現実にそんな精度ですべてのデータ収集を行なうことは不可能だからである。
ところがサンタフェ研が扱っている研究テーマを見てみると、どうもマクロ理論のつぼを押さえたテーマが少なく、むしろミクロ理論のにおいのするテーマが圧倒的に多い。(この矛盾を彼らが一体どう考えているのかは、実のところ良くわからない。)
それにカオス理論にしたところで、それはまだ真の意味での「科学」であるとはやや言い難い面がある。なぜならある学問が、押しも押されもしない一人前の「科学」になるための最終試験とは「予言に成功する」ことであり、それにパスしない限りはいくら数学のめっきを施しても所詮半人前か偽物なのである。これに対し、カオス理論はまるで通俗的なノストラダムスの大予言よろしく、出来事に後から解説を与えるばかりで、真の意味での「予言」にほとんど成功していない。(この状態では、現在はもてはやされているものの、まずはスーパーストリング理論の二の舞になるであろうことは疑いない。)それゆえこの程度のものを指導原理とするのは明らかに危ういと言わざるを得ないのである。
もう一つ、組織上の問題においても、われわれと彼らでは対照的な方法論をとることになる。サンタフェ研の場合、各専門分野ですでにかなりの地位を得た、粒揃いの研究者を集めることを基本としているように思われる。これに対してわれわれの場合、むしろ現在まだ無名だが素質と将来性の点では十分将来のエースたりうる若手を集めて、ここである程度の訓練をして育てることで戦力化することを基本とする。
前者の場合、その絢爛たる顔ぶれは大いに期待感を高めるには違いないが、とにかくそれには金がかかる。スター教授を大勢集めるとなれば、彼らのサラリーだけでも大変な額になり、基金として大体50〜100億円ぐらいを準備せねばならず、われわれのポケットマネーでは少々足が出ることが懸念される。
それに対し、現在の日本の大学の困った現状−−優秀な若手ほどスポイルされやすい−−を逆手にとって、行き場所を失った人材を集めて一つの哲学に沿って訓練し、自力で生きていく強い力を身に着けさせるか、あるいは予備役としてストックしておいて、後は分散して自由に行動させるという方式をとれば、金銭的には格安で一応の組織を作り上げることが可能となり、大きな視点で見れば前者に負けないだけの力を持ちえるだろう。
現代の日本の青年たちでは頼りないのではないかとの懸念もあるかもしれないが相手側といえども「名演奏家を集めた、指揮者のいないオーケストラ」としての弱点を抱えており、「一匹の狼に指揮された百匹の羊は、一匹の羊に指揮された百匹の狼に勝つ(ナポレオン)」という言葉もあるぐらいだから、一概にどちらが優れているとも言い難いのである。
いずれにせよ、バスに乗り遅れるなとばかり複雑系の後追い論文生産を始めることは、戦略的に見る限りではまたも対米従属の道を歩む結末となるだけであり、日本の学会や科学ジャーナリズムにもそろそろその面での疑問をもつぐらいの洞察力は欲しいものである。
長沼伸一郎 Pathfinder Physics Team