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思考経済と知的シーレーン  19970405 長沼伸一郎 

 まず「思考経済」の概念の定義とは何かと言えば、それは「最小の情報量で最大の現象理解を行う」ことである。これは一見するといかにもドライで現代的な概念であるが、実は意外にもその歴史は古い。実際それは西欧科学史において、何らかの大きな学問的飛躍が行われるとき、しばしばそれに先立って何度も登場してきた。
 その最初の登場は、恐らく「オッカムの剃刀」で知られる中世14世紀のスコラ哲学者ウイリアム・オブ・オッカムによってこれが示された時であり、これは続いて起こる科学の爆発的飛躍に大きな影響を与えた。次の登場はさしずめ19世紀末のエルンスト・マッハの時であり、恐らくそれはアインシュタインにある程度の影響を与えている。そして今回があるいはその三度目の登場になるのかもしれない。

 さてそもそも「理論の発見」なるものにしたところで、実は良く考えてみるとそれはしばしば思考経済の所産に過ぎない。例えば「掛け算」という理論体系について考えてみよう。人類の頭脳が作りだした乗算のためのこの体系は、「九々」として81組の数値を記憶し、それと筆算技術を組み合わせるという形態のものになっている。
 ところがこの理論体系は実は必ずしも「普遍的な真理」ではないのである。ここで仮に宇宙のどこかに、数値に関する無限の記憶能力をもつが、計算作業は全くできない知性体がいたとしよう。こういう種族にとっての「掛け算」が存在するとすれば、それは恐らく筆算の作業を最初から考えず、ありとあらゆる数値の組合せについてその値を一つ残らず記憶するという形態になっていることだろう。なぜなら彼らにとってはその方が知的コスト−−頭脳にかかる負担−−が小さいからである。
 また一方、これとは逆に計算能力が異常に高い知性体であれば、最初から二進法ですべての計算を行なうことで、九々を記憶する手間を完全に省いてしまうはずである。実際にコンピューターの「頭の中」では、掛け算はこのような形で行なわれている。
 要するにわれわれの知っている掛け算の体系は、単にわれわれの頭脳の特性に対して最も効率が良くなるように定められたものに過ぎない。これこそ「思考経済」であり、こういったことは他の理論や学問などについても大なり小なり言えることである。つまり、「真理の発見」は、その実態はしばしば「思考経済の極大化」に過ぎないのである。

 このように一般に理論なるものは、それが登場する時には一見脈絡のない現象や情報を、最も効率よく一言で述べるためのものとして登場する。そしてそれが価値を認められるようになると、さらにそれを発展させるための新理論がそれにつけ加えられ、前より多くの現象を把握できるようになる。
 ところがそれを続けていくうちに、だんだん「思考経済」の面での効率が落ちてくる。つまり新理論が一つ登場したときに、それによって新たに把握できる現象の量と、その理論を学ぶ手間−−知的コスト−−を比較したときに、後者の増大が次第に前者を上回ってきてしまうのである。
 こういう状況下では、従来の理論からはみ出していた情報を扱う際に、下手にそんな新理論を作って無理矢理一個の体系の中に統合することを試みるよりは、むしろ最初から統合理論など作らずに、それら未統合の情報を「重要な例外的現象」として一つずつ別個に記憶していった方が現実問題としててっとり早いことになる。言葉を換えて言えば、こういう状況でやたらに難しい新理論を無理に作ることは、思考経済の効率を低下させてそれ自体が人類の頭脳に余計な負担をかけ、学問を進歩させるどころか逆に退歩させてしまうのである。
 実際、今まで別個のものだった二つの理論を統一的に記述する「統一理論」が登場したとしても、それが途方もない難解な数学のアクロバットを大量に使わなければ全く記述のできないものであったとしたならば、現場でそれが使われることはまずないし、本当にこんなものに意義があるのかという不満の声が絶えることもないのである。

 しかしながら、現代の研究体制や業績の評価制度というものは、19世紀に大きな突破口が開かれた時期に確立されたものであり、その当時には確かに新理論を次々に作って積み重ねていくことが実際に思考経済の面で最高の効率を発揮していた。それゆえ「something new」つまり新しい理論を作って今までの体系につけ加えることが、学問を進歩させる最高の手段であると信じられ、それを最大限に評価する体制が今もそのまま生き残っているのである。
 ところが現代ではそれはどうやら限界に達しつつあり、生産される論文のかなり多くが思考経済効率の点でむしろマイナス、つまり論文を生産すればするほど学問を重量過大にして結果的に退歩させる結果を招いている。
 要するに、研究体制全体を根本的に変革せよ、とまでは言わないまでも、ある程度の思い切った補完を行なわなければもはやどうしようもない時期に来ていることは動かし難い事実なのであり、そして新しい体制においては「思考経済」の概念が最大の基礎となって、そこから体制全体の再設計がなされるべきだというのが、われわれの基本哲学である。  しかし考えてみると、思考経済という概念に基づく世界というのは、学者にとって本来厳しい、生きにくい世界である。なぜならそれは、一つの理論を永遠の真理として残すというよりは、現在の状況において思考経済を最高にするには、どの考え方とどの考え方を組み合わせるのが一番適切なのかという、いわばその選択と組合せに最も独創性が要求されるからである。
 極端なことを言えば、そこでの「学問」というものはその研究者一代限りのものなのである。そして理論はしばしば単なる道具の一つに過ぎず、それを残すことは、単にそのとき用いた道具を参考史料として博物館に陳列しておく程度の意味しか持ち得ないことになる。
 では学問が所詮一代限りのものとなって、理論を残すことが必ずしも永遠の価値をもたなくなるとすれば、われわれにとって将来に伝えるべきものは何だろうか。そう問われたならば、われわれとしては次のように答えたい。すなわちそれは「伝統」であると。  「伝統」といっても、それは仕来たりや制度を残すことを意味するのではない。むしろそれは人間が前も後もわからない困難な状況に投げ込まれた時に、何をどう悩んでどう判断し、そしてどう行動したのかということの営みの記録を残して、その精神的な態度そのものを一つの伝統として代から代へと伝えていくことなのである。
 考えて見ると19世紀以来の科学においては、燦然と輝く理論の圧倒的な威容が、人間そのものを小人に見せるほどの存在感を示してきた。しかしそれに翳りが見え始めた現在、むしろそれへのノスタルジーを断ち切って、理論の側を思い切ってコンパクトにすることで、逆に人間の大きさが理論を上回ってそれを使いこなせるようにし、それをつなぐ伝統が受け継がれていくというのが、健全なあり方であるように思われる。


知的シーレーンの重要性

 思考経済の概念が導入されたとなると、必然的にこの概念もまた重要になってこざるを得ない。それは本の中でも述べたが、「学問の最先端に新理論を1単位つけ加えることと、後方を1単位簡略化することでは、どちらが思考経済の観点からして大きな効果を期待できるか」ということである。これは、情報の「重量増大」が、限界に達してしまったことによる必然的な結果であり、情報全体が厳しい重量制限の時代に入ったのである。

 従来はこうした「後方の簡略化」は、どちらかと言えば一般大衆への啓蒙活動に類するものだったが、今やそれとは異なる次元の部分が出てきてしまっている。なぜなら現在それを最も必要としているのはアマチュアの大衆ではなく、むしろプロの研究者だからである。
 一方プロの研究者の世界内部から見ると、そうした最先端以外の後方の活動は従来は「教育」という言葉でくくられてきたが、この言葉も新しい次元に入りつつあるそうした問題を表現するには不適切なものとなっている。つまり概念の簡略化には根本的に新しいアイデアが要求される場合が多く、しばしば最先端での活動よりも遥かに才能や閃きを要求されるためである。
 そこでこれらすべての固定観念を一掃するため、このレベルに入ってしまった部分に関してはわれわれは「教育・啓蒙」という言葉を使用することをやめ、「知的シーレーン問題」という言葉によって従来のレベルと区別することにしている。

 学問の最先端が遠くまで行き過ぎて閉塞状態に陥った場合、その伸び切った知的シーレーンを簡略化して「太く」することが極めて重要になってくることは、本の中(上巻220ページ)でも述べた。つまりこういう場合、学問全体の第一優先目標はむしろ最先端よりもむしろ後方の知的シーレーンに切り換えられるべきだというわけである。  しかしこの問題は学内においてさえしばしば極めて安直に錯覚されており、理論を易しく説明するためには、要するに難しい漢字をひらがなに直す程度のことを行なえばよいのであり、その作業は二流の落ちこぼれか引退間際の窓際族の先生がやれば良いのだと考えられている場合が少なくない。
 しかしこれはむしろ航空機の設計において総重量を軽減する作業に似ているのである。一般に、航空機に新しい装置を増設して性能向上を図ることと、機体の総重量を軽くして性能向上を図ることとでは、どちらがより設計者としての力量を問われるかといえば、それは明らかに後者であろう。この場合、最先端の論文生産は前者に、知的シーレーンでの活動は後者に相当することになる。
 そのため、これまで最先端で活躍していたような若いエース級をここに投入することがどうしても必要となってしまうのである。(これに関しては「パリティ」92年7月号にも筆者による関連記事あり。)しかし現在の研究体制の評価基準「something new」では、前者だけが評価の対象とされるため、後者は完全に無視されている。それゆえこの知的シーレーン問題をどう評価していくかということが、一つの重要な課題となってきている。  実際少なくともわれわれの間では、論文の本数の多さ(目方で計ったもの)は必ずしも研究者としての能力を示す指標として扱われない。例えば現在、本数を稼ぐために本来1本で書けるはずの論文を最初から5倍に薄めて5本として出すことなどが学内でしばしばまかり通っているが、これは思考経済の点からすれば明らかにマイナスであり、その人物が存在することでかえって読まねばならない紙屑が世の中に増え、学問を退歩させている。それよりはむしろ、知的シーレーン上で成果を上げたほうが、明らかに全体への貢献は大きいであろう。
 では在来型の基準からすれば別に最先端に新しいものをつけ加えているわけではないが、後方を簡略化することによって思考経済全体には効果があるという場合、どのようにしてその効果を算定すれば良いのだろうか。経験を踏まえて大まかに算定すると次のようになる。それは
・専門書1万部(つまりその本が1万人の専門課程の読者に読まれること)がもたらす効果は、平均的な教授1人の影響力および教育的貢献をやや上回る。(ただし一般書は一応除外。)
と見られることである。大体専門課程の読者が、卒業するまでに平均してその種の専門書50冊を読んで育つとすれば、1冊のもたらす効果は1/50人の育成に等しい。  つまり1万部で研究者200人の育成に相当する効果が期待されるわけであり、それは毎年5〜10人を送り出すことを20〜40年続けることに相当する。これは大体平均的な教授が教育者として一生のうちに行なうここと、ほぼ同一のオーダーになるのである。これは他のいろいろな面から見てもかなり適切な数字(というより実態に比べても極度に厳しい基準)であると思われ、実際周囲を見て検討した限り、それを一つの基準としても採用してもほぼ不都合は生じないものと見られる。

 そして実はこの基準は、レフェリード・ペーパーによる業績評価に限界が来てしまったときに、一つの逃げ道を提供することになる。一般に業績評価には、確実性、公平性、そしてコストの安さが必要であり、それを満たす方法がなかなか存在しないものであるが、この場合、何しろ1万人のチェックが入るため、これほどいんちきをやるのが難しい方法はない。おまけに大学側にかかるコストはほぼゼロである。
 それゆえ一つの分野が情報量および制度上の限界ゆえ閉塞状態に陥ったとき、少なくとも一時的な手段として知的シーレーン優先の方針に切り換えることで、二重の意味で突破口を開くことが現実に可能であるというのが、われわれの(現場での実体験も含めた)見解である。

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