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  現代経済学の直観的方法

2001/05/27 長沼伸一郎
ここに掲載するのは、経済学テキスト「現代経済学の直観的方法」の原稿の一部です。
テキストの全文は、2010年2月に電子出版の予定です。

経済学は2つのポイントを突破すれば、通常なら理解に4年かかるものを完全な素人が1週間で突破できる!
今回の電子出版では、いわば「物理数学の直観的方法」の経済学版のような形での画期的な試みが為されています。 今まで技術系の職場にいたが将来が不安になり、その時に備えて経済学を一種の護身術として学んでおきたい方などには絶対のお勧めです。

 これは、特に理系寄りのセンスをもつ読者向けに最も楽に読めるよう書かれているという点で、ちょっと他に類を見ないユニークな経済学のテキストです。(もっとも、この原稿は経済学部の人などにも評判が良く、何も理系という言葉に限定はされません。むしろここでは読者層を、何となく自分を経済のアウトサイダーだと感じている「非経済人」全般と想定しています。)
 しかしこのHPになぜ唐突に経済学のテキストなどを掲載する必要があるのかについては、少々説明が必要のようです。
 その理由の一端は以下の序文の中でも述べられていますが、より詳しく言えば、実はそれは「物理数学の直観的方法・第二版」の内容それ自体の必然的な帰結です。
 同書第11章の重要な結論の一つとして、「単分野しか知らない専門家ばかりを集めても物事を理解することはできない」というものがありました。そしてその場合、全体を総覧できるゼネラリストが各専門家の上に立って指揮統合せねばならないというのが一つの結論でしたが、しかしそれを定式化して示せるようになったことの意味は重大です。
 つまりそれは、従来敬意を払われてきた「単分野のみに精通した専門家」というものが、もはや知的世界の頂点にいるべき存在ではないことが、数字の裏付けと共に論証されてしまうということを意味するからです。
 そして恐らく十年ないし二十年のうちにそれは常識として社会にゆっくり浸透し、科学者、数学者といえども単分野の専門家にとどまる限り、ちょうど現在の専門学校に似たブルーカラー的な社会的扱いを受けるようになることを覚悟せねばなりません。
 この場合、それへの対応策は結局たった一つしかありません。それはこの世界の優秀な人材を、単分野の専門家ではなく、文系の学問を含む複数分野に通じた「オールマイティ部隊」へと再訓練して育て上げ、この状況に対処できる力を(世の中の先手を打つ形で)つけてしまうことです。
 従来、とかく理系の人というのは文系の学問知識をもつことを「不純」として嫌悪する傾向がありました。しかし賢明な読者なら、もはやそのような昔風の「純粋」な専門家意識に拘泥する人々が、ある日を境にその有効性の低さを数学的に指摘され、次々に背中を突かれる事態が到来することを予見できることでしょう。事実それはもはや時間の問題に過ぎなくなっているのです。
 なるほどそんな知的再訓練は一見うんざりするような大変なことに思えますが、しかしそれはむしろ今まで理系の人々が、誤った通念によってそういうことに関心を持たないように育てられてきてしまったことが最大の原因なのであり、この層の知的能力自体が本来高いことを思えば、出来ない理由は何もありません。
 ところがその再訓練の際に一つのネックになると予想されるのは経済学で、どうしてもそのために考案された特殊なテキストが必要になってきます。しかしこのような特殊事情を踏まえてその障害除去の役目を買って出る人間など、学内のどこにも存在しないのが実情です。
 つまりここでいささか強引にそういうテキストを準備して掲載するというのは、それに備えての緊急的な措置としての意味が強いのです。以上でこの原稿の掲載理由はご理解いただけたでしょうか。
 ともあれそんなわけで以下、序文および目次に続いて、本文の最初の最も重要な20ページほどを掲載してあり、これを読むだけでも経済学の最初の山場は超えられるようになっています。(実のところ、そこは経済学全体の中でも最大のツボなのです。)



      現代経済学の直観的方法
        −−「知的レベルの高い非経済人」のための現代経済解剖−−

     

 どうしたものか、理系のセンスをもった人の中にはほとんどアレルギーに近いというほどに経済学が嫌いという人が実に多い。難しくて理解できない、というのではない。とにかく「嫌い」だというのである。
 また理系に限らず一般の読書人の中にも、歴史や国際政治などに関してはかなりの読書量を誇っているのに、なぜか経済に関しては見るのもうんざりで、結果的に頭の中でそこだけが暗黒のゾーンとして残ってしまっているという人が意外に少なくないように思われるのである。
 もっとも実を言えば、それらの人々はなぜそうなってしまうのかの理由を知っている(というより以下の話は、何を隠そう私自身が以前そうだったのだから、まず間違いない)。そうした人々にとっては読書や学問とは要するに遠い世界へ遊ぶことであり、何億光年も彼方の宇宙や何千年も昔の古代帝国へ思いを馳せ、そこに近づくための手段として読書という行為があるのである。
 ところがそうやって遠い世界のロマンに浸っている人々の前に経済の本を置いたらどうなるか。これはもう興醒めもはなはだしいであろう。たった今まで天の神秘の鍵を開くつもりで本を開いていたというのに、たかが今日明日の金勘定の話が学問だって?
 そこまでぼろくそに言っては経済学に対してあんまりというものだが、とにかくそういう思いがあるものだから、ほんのちょっとした理解の困難に遭遇してもそれを乗り越えようという気力が生まれない。そしてその程度の障害でつまづいたことを「難しい」と認めるというのも少々しゃくなので、自分はこれが「嫌い」なのだと言い聞かせ、それを続けるうちにしまいに頭の中で一種の匂いまで帯びるに至り、それが条件反射と化してしまうという寸法である。

 ところがこうした高踏的な世界に遊ぶ人々は、どうやらそのプライドがたたったとみえて、最近あまり神様の覚えがめでたくないらしい。実際一昔前なら哲学的で深遠な本を小脇に抱えていれば文明社会について熱く語ることができたのだが、最近では文明や国際政治の問題のかなりの部分が経済の問題に化けてしまい、それ抜きでは何も論じられなくなってきている。
 またそれとは無縁な問題を論じているつもりでも、ちょっと階段を上って話が大きくなると、すぐに頭が経済の天井にぶつかってしまうという現象があちこちで見られている。実際環境問題などに取り組む研究者などはさしずめそれに悩まされている代表で、ちょっと話を進めるとすぐに問題が背後の経済構造にどうしようもなく支配されているという現実に遭遇し、思考がそこでストップしてしまうのである。
 またあるいはより一般に、現在技術系の職場や学科にいる人の中にも、最近(自身のサバイバルのためにも)経済について理解する必要性が日に日に高まっていることを感じている人は多いものと思われる。
 しかしたとえそれを学ぶことが必要だということになっても、よほどせっぱつまった状況でもない限り、まずは途中で投げ出して終わることになる。大体こうした人々はその際に、これ一冊読めばとにかく経済なるものに関して大まかな粗筋だけはわかる手頃な本というものを探し回るのだが、ところが一見それが容易にありそうでいてなかなかぴったりしたものが見つからない。
 本来この種の人々は、自分の好みのジャンルのものならば相当高度なものでも結構読みこなす高い教養をもっており、そんな贅沢な要求ではないはずなのだが、経済の入門書のコーナーを覗くと「株で儲ける法」だの「為替取引入門」だの、およそ要求とはかけ離れた本ばかりが並んでおり、何かとんでもない場所へ迷い込んだような気がして、思わず早足でそそくさと立ち去ってしまうのである。
 やむを得ず、正面から行くしかないということで本格的な教科書に取り組むことにして読み始めると、今度は金利がどうのこうのという話がいきなり始まってしまい、途端に呼吸困難を覚え始める。それでもなおがんばろうという場合、まず一旦深呼吸をしてから息を止め、遮二無二水底へもぐっていこうと必死で水をかきわけていくが、すぐ息が続かなくなって水面に飛び出してしまう。そしてそんなことを続けているうち、だんだん自分の姿が何やら潜ってアワビでも採ってくる海女さんか何かのように見えてきて、情けなくなってくるのである。
 そんなこんなで結局2〜3ページで本を投げ出してしまうというわけだが、こういう傾向はなまじ教養が高かったり理系のセンスが鋭敏だったりするほどしばしば強く現われがちである。しかしそうだとすれば事は重大で、下手をすればこうした層全体がまとめて巨大な落ちこぼれ集団になりかねない。どうにかならないものであろうか。

 こうしてみると、その種の読者が必要とする本はどうも単に「わかりやすい」というだけでは駄目らしい。むしろ真の問題は、活字の向こうに垣間見える著者の姿が、どうも自分とは異質な空気を呼吸する異質な人種のように感じられた場合、それだけでうまく内容を吸収できなくなるという点にあるように思えてならないのである。
 もしそうだとすれば、著者が経済の世界を長いこと生きてきた筋金入りの経済人ならそういう読者のためのベストな本を提供できると思うのが、そもそも間違いの元である。大体この段階では、読者はあまり精密な情報を提供されても猫に小判で、頭の右から左へ抜けてしまうし、どうせ初歩的な情報による大まかなイメージ以外は役に立たない。
 こういう場合、著者に必要な知識のレベル自体はせいぜい読者の数歩先を歩んでいる程度で十分であるし、むしろそれを読者と同じ空気に変換する特殊なテクニックの方こそが鍵だとなると、むしろ経済のアウトサイダーとして読者側に近い空気を吸って育ってきた人間の方が、あるいは書き手として適しているかもしれない。
 いずれにせよ、世の中には「知的レベルの高い非経済人」という層が厳然として存在し、そのための本なり何なりが必要であることだけは確かのようである。
 本書はまさしくそういう層のために書かれた極めて特殊な本であり、昨日まで経済新聞の中身がほとんどわからなかった読書人や理系人間(場合によってはどういうわけか経済学部の学生なども)が、数日間でとにかく明確なイメージを頭の中に作り上げられるようにすることで、その層の一挙救済を狙ったものである。

 そしてそういうマジックを行うために、本書では独特のアプローチをとっている。まず、本書は全体が解剖編、理論編、実戦編の三部に分かれて、三方向から経済というものに迫っているが、その際に文明への「金融」の登場というものを、世界史への「鉄道」の登場のアナロジーとして捉え、一貫してそのイメージで記述を行なうことで、うっとおしい経済用語の使用を極力避けたことが大きな特色である。
 そして各部についてもそれぞれ説明しておくと、まず第1部「解剖編」では、資本主義は一体どこがまずくて止まれない体になったのかという疑問を中心に据えて、そもそも資本主義の基本的な仕掛けがどうなっていてその中枢部に何があるのかという問題に最短のルートで直接切り込んでいく。
 また次の第2部「理論編」では、それでは人間がそれをどう解釈してきたかという「経済学」の世界を一望のもとに収めることを狙っており、それは要するにケインズという存在一点を理解すれば全体が自然に浮かび上がるはずだという見込みのもと、イメージを多用して要点を絞り込んでいる。(読者はこの部分を読むことで、最短距離でケインズ経済学とは何かを理解できることだろう。)
 そして第3部「実戦編」はいわば現実への応用問題であり、ここでは現代世界の金融が単なる鉄道よりもう一段進んだ「金融スーパーハイウェイ」に進化を遂げているという観点のもと、現在の経済がどうなっているかを最短距離で見通すことを試みている。
 一応最低限、これだけを頭の中に入れておくことで、今までおよそ焦点の定まらなかった経済というものをとにかく何とか「捕捉できる」ようになるはずだというのが本書の狙いである。

 本書には別に高度な情報が盛り込まれているわけでも何でもないが、ただ一般に言えることとして、およそ参考書や解説書の世界では、時間の経過とともに一種の奇妙な「ドーナツ現象」が生じることがある。つまり解説書が競って最新情報を盛り込もうとして外へ外へ守備範囲を拡張していくうち、一番中心にある一番肝心なことが、だんだん自明のことと見做されて記述が減っていきがちになるのである。そして読者が代替わりする頃に、まさにそういう新参の読者が一番知りたいと思う領域だけが、しばしばドーナツ状にぽっかりと穴が空いてしまうことがあり、本書が集中的に狙ったのはまさにこのドーナツの中央部分なのである。

 なお本書は、当初われわれの間で一種の内輪のテキストとして使用されていたものが原形となっており(そのあたりの経緯については後記で述べたい)、そのため本書は理系(主として物理系)や環境問題研究者など、およそ筋金入りの経済アレルギーの人間を相手にさんざん格闘して、有効性をテストしてきたという、いささか珍しい「経歴」をもっている。
 そしてその使用実績から言うと、第一部「解剖編」の僅か数十ページを読むだけでも、「わかった気分になれる」という点で劇的な効果があるとのことで、結局のところ本書の価値も最初のその数十ページに集約されるのかもしれない。
 ともあれこれで「知的レベルの高い非経済人」の頭の中に腫瘍のようにとりついた経済問題への苦手意識がきれいに除去されるとすれば、本書の目的はとりあえず達せられたことになろう。


 上巻目次


第1部 解剖編
     資本主義経済はなぜ止まれない

   ・第1章 資本主義経済の中枢部を解剖する
止まれない資本主義  資本主義の成長スピード  軍事史と鉄道  経済社会の「鉄道網」  中世世界と貯蓄  

   ・第2章 何と足元の危うい「経済世界の鉄道網」
貯蓄のもつ二つの意味  金貨の循環がもし目で見えたら・・・  貯蓄で社会が貧しくなる  パン屋の事業拡大  いかに貯金は還流されるか  気違いじみたサイクル  意外な一致  経済政策当局の目から見ると・・・  マクロ経済学理解の最初の急所

   ・第3章 文明社会は如何にしてその選択をしたか
金利が容認されるに至った文化的背景  ウェーバーの伝えるカルビニズムの真実  切断された相互扶助の糸  資本主義の必要性の「三要素」  資本主義の命運  資本主義の「利己的遺伝子」  要約


第2部 理論編
     経済学の興亡とケインズ理論・「経済学」の世界の散策ガイド

   ・第1章 経済学の分布図
基本的に二つだけしかない現代経済学の体系  経済学の系譜

   ・第2章 ケインズ経済学の概要を把握する
   2・2・1 その革命性のイメージ化
   2・2・2 乗数理論の魔力
   2・2・3 大恐慌下で得た救世主の座

   ・第3章 知られざるエピソード−−ケインズの真の狙い
中級を過ぎると途端にわからなくなるケインズ理論  英国はなぜ資本主義の最初の帝王となり得たか  意外に未発達だった英国の金融  そんな英国の資金循環方法  ケインズの危機意識とその姿勢  三つの階層  ケインズの策略

   ・第4章 経済学の興亡の舞台裏・そして現在
現在の潮流  投資家層の大反撃  三つの層の同盟と対立  現在の状況  経済学の興亡を背後から支配するもの  マルクス経済学の「同盟ゲーム」の失敗  要約


第3部 実戦編
     金融スーパーハイウェイの出現・その傾向と対策

   ・第1章 ついに逆立ちしてしまった現代文明
驚くべき立場の逆転  「補給革命」のもたらす経済戦略の変化  補給戦の劣等生?  金融スーパーハイウェイの起源−−英国のビッグバン

   ・第2章 そのメカニズムの要諦
金融スーパーハイウェイが優位に立つからくり  隠された同盟関係  現代の経済戦争−−金融スーパーハイウェイvs国民経済  新体制の光景  新しい経済人の常識

   ・第3章 大恐慌への加担疑惑
第一次金融スーパーハイウェイ?−−悲劇の金本位復帰  その破綻による破滅的事態  金融スーパーハイウェイの欠陥  破綻のその後−−ブロック経済への移行  大恐慌の概略  大恐慌の要因はどう解消されたか  大恐慌の再現はあり得るか

   ・第4章 将来に待ち受けるもの
現代の世界に横たわる難題  ナポレオンの悪夢  立場が逆になるとき  第二幕は訪れるか  要約


下巻内容

・農業経済はなぜ敗退するか

・インフレのメカニズム

・貿易はなぜ拡大するか

・貨幣はなぜ増殖するか

・ドルはなぜ世界経済に君臨するか

・経済を遅くする力をどこから調達するか


  1章 資本主義経済はなぜ止まれない


    1.1 資本主義経済の中枢部を解剖する

止まれない資本主義
 さてここでは、資本主義経済というものの最大の中枢部にはそもそも何があるのかということについて見てみるわけだが、それ以前の問題として、どうも現代の日本や米国のように経済的繁栄を遂げた国に住んでいて、経済官僚などが新聞で言うことを聞いていると、何かこの人たちは頭がおかしいのではないかと思えることが多いのではないだろうか。
 大不況の時などはともかく、好景気のただ中にある場合でさえ「来年度に何%の経済成長を行うには・・・」などという言葉を平然として発するのを聞いていると、これだけ繁栄したというのに人間はまだ経済を拡大させねば気がすまないのか、という感想を抱くのも無理のないところである。
 しかしこれは別に経済学者の頭がおかしいわけでもなければ、日本や米国の国民が飽くことを知らない貪欲な国民性をもっているわけでもない。成長を続けなければならないというのは、資本主義というシステムが必然的に持たざるを得ない一つの宿命だからである。(そしてそれゆえにこそ炭酸ガス排出問題なども抜本的な解決がなされないのである。)
 ではどうしてそんなことになってしまうのだろうか。その最も直接的な理由をずばりと言えば、それは金利というものがあるからである。現在の大多数の日本企業(別に日本企業には限らないが)は、大量の資金を銀行から借りている。実際、巨大な工場だの高価な製造機械だのを導入する際には、そのための資金は大抵はそういった借金で調達したのである。
 ところが銀行から借りた金には利子という鉄の鎖がついていて、企業は毎年その利子を払わなければならない。言い換えれば、借りた資金を前より肥らさない限り利払いはできないわけであり、そのためにはひたすら売上げ拡大に邁進しなければならないことになる。
 米国のある実業家がしみじみと述懐して「資本主義というものはモーターサイクルのようなものだ。それは止まれば倒れてしまう」と言っていたというが、全くその通りなのであって、資本主義社会に生きている以上、巨大企業といえどもこういう自転車操業が当たり前なのである。
 一般常識から見れば、こんな借金で成り立っている組織はひどく不健全に見える。普通ならば、何かを売って得た利益の中からその一部を工場増設などの資金に充て、さらにそこから上がった利益を次の年にまた増設資金に回し、などといった具合に自分の持ち金だけで徐々に事業拡大を行っていくのが健全なのではないかと思えるだろう。
 実際昔の英国の企業などはこういう健全なやり方をとっていた。だがこの方法には明らかに一つの限界が存在している。それは一言で言えば速度がのろいのである。例えばある事業を行うのに必要な資金を貯めるのに10年かかるとしたならば、当然のこととして10年後まではその事業には着手できない。
 ところが別の企業家が銀行へ出かけていって、1日でそれだけのまとまった資金を借りてきてしまったとしたならばどういうことになるだろう。経済社会とは早いもの勝ちの世界である。そのため最初の企業家が10年後にやっと資金を貯めて工場を建てた頃には、作るつもりだった製品は、この1日にして忽然として出現したライバルの手によってすでに世の中じゅうに満ち溢れ、もはや参入の余地は失われていることだろう。
 昔の英国においてそうした「健全経営」が可能だったというのは、つまるところ競争がまだ緩やかであったということに尽きる。要するに金持ちであってもこうした自転車操業に移行せざるを得ないというのが、弱肉強食の資本主義社会に生きる者の宿命なのである。


資本主義の成長スピード
 ではその結果宿命づけられた成長スピードというのは、具体的にどの程度のものなのだろうか。それには第二次大戦後の米国経済を一つの標準とするのが良いだろう。米国人にとっては、恐らく戦後の50年代から60年代にかけてが米国経済の最も健全だった時期であり、それがいわば「健全な資本主義社会」の標準と考えられるからである。
 大体この時期の経済成長速度は年間3%前後といったところだったが、年間3%成長というのがどの程度の数字かと言えば、実はこれはとんでもない代物である。ちょっと計算してみればすぐわかるが、要するにたかだか20数年で経済が2倍にならなければならないというのである。
 その後も二十数年ごとに2倍の幾何級数的増大を示さねばならないというのだから、単純に言って100年で16倍。空いた口が塞がらないとはこのことだが、しかし過去百年の人類社会そのものの爆発的成長は、実際こういった成長の宿命と二人三脚をするだけの規模を持ったものだったのである。
 例えばそれを裏付けるデータとして、石油の消費量が歴史的にどのように増大していったかということを挙げてみよう。石油というものが資源としての認知を受けて採掘が始まったのは比較的新しいことで、大体1850年代から60年代にかけてのことであり、これは米国で南北戦争が始まりかけた時期のことである。同時期のヨーロッパでは、ビスマルクがそろそろドイツで宰相の地位につくころであり、また日本ではこの時期は幕末動乱の真っ最中であった。
 次のグラフは、1865年から1980年代までの石油消費量を表わしたものである。



 対数目盛で描いた方が良いぐらいのものだが、実際これを見ると、20数年で2倍どころか、大体20年で4倍ぐらいの驚異的増加率を示している。大体石油の消費量というものは産業の規模を反映したものであり、実際資本主義経済というものが年に3%の成長を要求されていたとしても、それを吸収してお釣りがくるだけの拡大を、社会そのものが現実に行っていたことが見てとれる。
 しかしこの速度を今後も恒久的に維持できるなどと考えるのは、非現実的としか言いようがない。現に早くも環境問題という難題を突き付けられてしまっているのであり、逆に言えば経済の速度を遅くするメカニズムを開発しなければ、環境問題の解決などはあり得ないことになるわけである。
 環境問題の研究者は、しばしば純粋に技術的な観点で、物理的な資源を浪費しないような経済を実現すればそれで問題を解決できると考えがちである。例えば売買されるものが物質的な製品ではなく、情報というものが売買品目の主流になっていけば、石油などの物理的なエネルギーの浪費を一定レベルに留めたまま、現在の資本主義の経済システムを維持できるとの考えである。
 しかし私としてはそれに対して懐疑的であり、それは要するに使い捨て体質が物質レベルから精神のレベルに侵入してくることに他ならない。身の周りを商売人にかき回されるぐらいならまだしも、頭の中までかき回されたのではたまったものではない。精神面の環境破壊というものは、物質面での環境破壊とは比較にならないほど深刻なものになる恐れは高いのである。
 要するにもはや経済システムに抜本的に手を入れ、それを遅くするような社会学的技術体系を編み出す以外に手はないものと考えられる。ではそういう暴走的体質の中枢部には一体何があるのかということについて、もう少し突っ込んで見てみることにしよう。

軍事史と鉄道
 ところで問題を少々別の視点から眺めるため、ここで少し軍事の歴史をひもといてみよう。一般に陸の上の戦争において、近代戦への移行ということは何が世界に登場したことによってもたらされたのだろうか。
 「それは銃の登場によってである」という答案に対しては、正直言ってあまり良い点はつけられない。近代戦の定義にもよるかもしれないが、むしろ陸戦に本当に決定的な革命をもらたしたのは、鉄道の登場である。
 鉄道の登場以前の時代においては、物量戦というものは事実上不可能に近いことであったと言える。例えば陣地戦においてそれこそ山の形が変わってしまうほどに連日朝から晩まで砲撃を加えるなどということは、それ以前においては砲弾の補給が到底追いつかず、せいぜい軍馬が背中に背負って運んできた分を撃ち尽くせばそれで当分砲撃は中止、ということにでもならざるを得なかったのである。
 この有様ではほとんどの近代兵器−−それはほとんど例外なく大量の弾薬を消費する−−の運用は不可能であり、機関銃ですら戦場での使用は不可能な兵器と見なされて試験場の倉庫にしまい込まれたかもしれない。
 実際鉄道の登場以前には、戦場に展開できる軍隊の大きさには厳しい制限があると信じられており、それは補給に関してこうした限界があったからである。しかし鉄道の出現はこの限界を取り払ってしまった。そのため理論上いくらでも大きな軍隊を戦場で活動させることができるようになったのである。さらにまた鉄道は、軍隊を戦場から戦場へ迅速に移動させることを可能にした。その結果起こったこととは一体どんなことだったろうか。
 鉄道による「補給革命」以前の時代においては、軍隊の補給(主として食糧)は基本的に現地調達に頼っていた。つまり軍隊が行軍の途中で食糧その他を徴発しながら前進するのである。それができないような場所の場合、馬車で物資を輸送したり戦争前からあらかじめ前線近くに準備しておいた食糧倉庫を利用したりといった方法がとられたが、これはあくまでも補助手段に過ぎない。要するに現地徴発で自活できる限度を越えたサイズの軍隊は活動できないわけで、これが戦場に展開できる軍隊の上限を決めていたと言ってよい。
 このため、例えば8万が軍隊のサイズの上限だとした場合、敵も味方もその限度の枠内で軍隊を編成し、指揮官の能力や兵の練度・士気などといった、兵力の数以外の要素で優劣を競い合ったのである。さらにまた、たとえ本国に大きな兵力があったとしても、それをこの限度を越えて戦場に投入することはできない。つまりそういう余剰兵員はどうせ無駄になるのだから、兵舎に置いておくより当面は農作業でもさせておいたほうがよほど国のためになる。
 ところが鉄道の輸送・補給能力がこの限界を突き破ってしまったとなると、これらは全部ひっくり返ってしまうことになる。まず第一に、同じ兵力で相手側と対峙するという条件が当面取り払われ、戦場では数の競い合いが始まる。そのため指揮官の能力や兵士の練度が少しぐらい劣っていたとしても、こちらが2倍3倍の兵力を鉄道で持ってきてぶつければ、その程度の質の優劣は数の力で圧倒して押し流すことができることになり、数量が勝敗を決める決定的要素となっていくのである。
 こうして前線がいくらでも兵力・物資を要求するようになると、それに対する限界を作り出すのは国家の全体的な体力、つまり動員可能な兵力や生産可能な物資の数量である。つまり前線で数が競われるようになったため、国家は持てるすべてを片っ端から前線に注ぎ込まねばならない羽目に陥ってしまったわけである。
 このようにして、鉄道のもつ能力は戦争を以前よりも一層苛烈なものとしていった。もっとも、戦争を苛烈なものにするという点では鉄道の登場以前に、ナポレオンとフランス革命精神の熱狂の組合せが一時的にそういった戦争を作り出してはいた。しかし鉄道はそれをいつでも、どこでも普遍的に苛烈なものに変えていったのである。砲弾の消費量だけに注目しても、鉄道は明らかに戦争そのもののスケールアップをもたらした。
 そして鉄道の登場とともに、戦史の中からはロマンの匂いが消えていく。ビスマルク時代のドイツ陸軍には鉄道の影響が最も強く見られるが、この時期のドイツ(プロイセン)は参謀本部なるものを発明して軍事史の中に送り出した。
 そこにはナポレオンのような天才の居場所はない。新参者たる彼ら参謀将校たちは本質的に事務屋であり、前の時代にはせいぜい帳面を片手に荷馬車の間を歩きまわるような連中として軽蔑されるような存在に過ぎなかった。
 しかし輸送計画表を持って鉄道網を掌握するに及んで、彼らは突然戦争の主役の地位に踊り出る。そして英雄たちを過去の遺物として脇役へと押しやり、戦争全体を数量に基づく一個の非ロマン的な管理技術体系に仕上げていく。
 そして戦争と軍隊を変質させたもう一つの要因である徴兵制度(これを近代で最初に採用したのはフランス大革命におけるフランス軍だったが)と相俟って、鉄道の登場以前と以後ではその雰囲気はがらりと変わる。
 それ以前には伝統社会の中の名誉の衣をまとった戦士階級や貴族的将校団が戦争の主役であったが、これ以後は大衆から徴集された兵士にその座を譲ることになった。同時にそれは国民皆兵という制度をもたらすこととなり、戦士階級に指揮される一握りの人間だけが戦争に直接参加するシステムではなくなった。
 また、鉄道によって苛烈化した前線の要求を満たすため、銃後の人間も軍需品生産に残らず動員し、国家がそれを組織する軍国主義社会へ移行することとなった。そしてその移行のためには伝統社会の残滓ほど邪魔なものはなく、国家は文字通り伝統社会というものをブルドーザーで破壊していかなければならなかったのである。


経済社会の「鉄道網」
 大変面白いのは、経済の世界でもほとんど同時期に並行してこれと極めて良く似た変化が起こっていたということである。農民と貴族・戦士階級の二つに分かれていた伝統社会においては、経済活動もどちらかといえば牧歌的なものだった。
 しかしこの時期、そうした社会は急速に破壊され、牧歌的雰囲気もまた消えてゆく。そして経済の規模は突然急角度で上昇を始め、一方それを支えるため、国民のすべてが好むと好まざるとにかかわらず、その苛烈化した経済活動に直接的に参加することになった。
 たとえ前の時代の牧歌的な経済にどれほど郷愁を抱いていようとも、隣国がそういう苛烈な経済に移行してしまったならばもはや選択の余地はない。それに対抗できる力を身に着けねば、経済的に征服されて植民地となってしまうのである。
 悪い言葉で言えば、近代資本主義というのは、経済的軍国主義、経済的国民皆兵主義であったと言うことができる。そして、その中枢にあったのが経済世界の鉄道網というべき、銀行を中心とする資金輸送網−−金融機関−−なのである。
 これら銀行(もしくは投資銀行)は、資本主義経済が必要とする大量の資金を、まさに必要とされる場所に迅速に移動させることを可能とし、またすでに興された事業に対して連続的に補給を続けていくことを可能とした。
 ビスマルク時代のドイツというのは、これらの並行的は変化が最も劇的に進行した、その典型的な例と言っていいだろう。軍事の側では国家が明白な軍事目的からいわゆる「ライヒス・バーン」すなわち国有鉄道の整備に全力を上げてその軍事能力を向上させ、一方経済の側では「ライヒス・バンク」すなわち中央銀行が設立されて、その管制のもとに投資のための銀行網が整備されていった。そして両者は二人三脚の格好でドイツ帝国を近代的強国に押し上げていったのである。
 この時代の戦争においては、戦争の問題を理解するということは、国家の兵力動員能力データと鉄道網の二つについて理解することとほぼイコールであると信じられていた。要するに鉄道が軍隊のサイズの上限を取り払ってしまったため、戦争の問題はすべて数量の問題に還元されてしまったわけである。
 そして資本主義経済に関してはこれは一層の真実であって、国民総生産だの何だのといったマクロ的な国家経済データと「資金の鉄道網」の二つについて理解することが、経済問題を理解することとかなりの程度までイコールなのである。
 実際もし資本主義社会というものが本当に金の力で何でも可能になる世界であるならば、資本の投入量の多さで勝負をつけてしまうというのは本質的に理にかなった戦法であり、それ以外の細かい問題にこだわっても仕方がないということになる。
 つまり近代資本主義社会においては、銀行家や財務マンというのは、本質的に鉄道網を掌握する参謀将校に相当する存在である。英雄的ロマンティシズムと無縁であるという点においても両者はよく共通しているが、実際資本・資金の輸送任務に従事する彼らこそ、ある意味で資本主義経済という一大戦争の主役なのである。
 伝統社会においては、経済の問題はせいぜい農地からどれだけの農産物が収穫でき、それを荷車に積んでいけばいくらで売れるか、といった程度のものと大差なく、要するにそれは農産物だの製品だのといった、ずっしりとした物質と結びついていた。
 しかし資金の鉄道網が戦場を支配する資本主義経済の世界はそういうわけにはいかない。そこで以下に、この鉄道網の問題を中心に据えて社会がそれ以前と以後でどういう相転移を起こしたのかを見てみよう。


中世世界と貯蓄
 どうも思うに、中世の世界においては人々は金・マネーというものを、一種の核燃料のようなものだと感じていたようである。確かにそれは社会を動かす燃料として大きなパワーをもっている。しかしそれはむき出しで放置しておくと社会の中の精神面を拝金主義という放射能で致命的に汚染する。
 庶民が質素に生きていくのに使われる金ぐらいなら、それはせいぜい天然ウラン程度の害しかもたらさない。しかしある程度それが一か所に集中してしまうと、それは濃縮ウランになってしまって放置は危険だというわけである。
 そのため中世においては、カトリックにせよイスラムにせよ、原則として利息というものを禁止していた。というより、貯蓄という行為そのものをあまり望ましいことだとは考えていなかったのである。
 そのためカトリック教会は基本的に次のような方針をとった。それは余剰の核廃棄物を生み出してしまった人間(要するに金持ち)に対して、そんな大量の金を手元に置いておくと魂が汚染されて地獄に堕ちると脅しつけ、それを教会に寄進させた。集められた金は教会の地下にしまい込まれて世の中に出てこなくなったのである。
 いわば教会は核廃棄物の貯蔵庫でもあり、そうやって片っ端から富を社会から吸い上げて地下に封じ込める、いわゆる退蔵ということを行っていた。近代人の目からは一種の搾取にも見えるかもしれないが、そうやって天国への切符の引換え証を発行していたのだと思えば、これはこれで一本筋の通った方法である。
 そうやって富が教会に集まってきたため、一説によると当時のドイツやフランスでは国全体の富の実に半分以上を教会が持っていたと言われる。とにかく余分な富を集めて教会の床下に埋めてしまうというこの方法は、安定した農村社会を維持するという点では一定の成果を上げることができた。
 しかし結局この方法は矛盾を来してしまう。それは集中した核物質によって他でもない、聖職者自身の精神に汚染を来してしまったことである。金というのはどにかくじっと眠らせておくことが難しい。これだけの資金が集まってしまうと、どうしてもそれを融資に使おうという誘惑の手が内外から伸びて来るのである。
 そのため中世末期のローマ法王の中には、聖職者だか銀行家だかよくわからない人物が多く見受けられるようになってしまった。そしてそこを突かれて宗教改革が台頭してしまったわけだから、結局はこの方法がカトリック世界の墓穴を掘ってしまったことになる。
 一方イスラム文明について見てみると、彼らはこれとは少々異なるアプローチをとっていた。カトリック教会が意識的に社会を貧しくしようとしたのとは対照的に、イスラムは富というものが社会に行き渡ることを容認した。
 もっとも富というものがもたらす汚染を理解するという点ではカトリック教会と同様だったのだが、ただ違うのは彼らが富の集中を阻止することに主眼を置いたことであり、要するに濃縮されない限り、ウランは社会に出回っていてもさほど害はないというわけである。
 そして彼らがこの目的のために採用したのが「喜捨(きしゃ)」という手段だった。要するに金持ちが貧しい者に施しをすることを信との基本的義務に据えたわけである。現代西欧的な人間の目からすると、これはいかにも偽善めいて、実質的には到底うまく機能しないもののように見えるかもしれない。しかし意外にもこれは相当長期間にわたってちゃんと機能していたらしい。
 というより、現在でも中東ではこのシステムは結構機能しているらしく、例えばエジプトなどでは今でも年末になると、紳士がお札をたくさん持って街に出て、貧しい人々にそれをばらまく光景が見られるとのことである。むしろ問題は、こういう習慣に悪乗りして巨額の施しを稼ぎ出す「プロの乞食」がいることで、最近スーダンで見つかった凄腕の乞食に至っては、現代スーダン大卒男子の平均初任給の約800年分に相当する資産を乞食稼業で稼ぎ出してしまったというから仰天する。(保坂修司「乞食とイスラーム」筑摩書房)
 この種の「喜捨」に関しては、受け取った側もそれを当然のこととして、あまりお礼を言わない。このため、表向きの経済統計がかなり悪くても、社会そのものは西欧よりも遥かにそれに耐えられるもののようである。
 このような社会においては、せっせと貯蓄に励む人間というものは周囲から一体どんな風に見られるだろうか。ごく控えめに言ってもその人物は信徒としての義務の一つを全然果たしていないわけで、家庭用遠心分離機でウラン濃縮に熱中するこの人は、何か他の場所でよほど良いことでもしていない限り、近所から白眼視されることは避けられまい。
 さてカトリックとイスラムは、両者のアプローチは異なるものの、目的とすることにそう違いがあるわけではない。そして両者とも「利息の禁止」ということがもう一方の基本にないとうまくいかないことは明らかだろう。
 要するにまとまった金が誰かの手元にあったとき、まず利息を禁じておくことで、労せずしてそれをどんどん増やせるという希望を遮断しておく。こうして金を集中して温存する意義を失わせた上で、一方は天国行きの切符と引換えに教会の地下に吸収させる、もう一方は貧困層に分散するという手段で、その過度に集中した富に撤退路を与えるのである。
 このようにして、中世の文明は大変な労力を払って資本主義の成長をむしろ意識的に抑制しており、またその際に用いられた手段は極めて巧妙なものであった。近代はそうしたやり方を搾取というレッテルを貼って非難したが、別に彼らはそうすることで富を独占して贅沢を極めようとしていたわけでもないし、逆に近代資本主義の理屈を極限まで剥き出しにした80年代自由主義がバブルの温床となったばかりでなく、特に米国では明らかに貧富の差の増大を招く仕掛けになっていたことを思い出すと、少なくとも搾取という言葉だけは適合しないようである。
 さて以上、近代において経済社会に一種の鉄道網が誕生したことで、人類社会がこのような「相転移」を体験したことを大まかに見てきた。では次に、その「経済社会の鉄道網」のメカニズムについてもう少し掘り下げて見てみることにしよう。   1.2 経済社会の「鉄道網」と資本主義の恐ろしく不安定なメカニズム


貯蓄のもつ二つの意味
 さて大部分の読者は現在、何がしかの貯金は持っていることだろう。ところで読者はどういう目的で、しばしば買いたいものを諦めてまでわざわざ貯金などというものをしているのだろうか。一般に貯金の動機とは何なのだろう。
 それについてはある人は、将来病気になったり失業したりした時に食いつなぐための金をこうして貯えているのだと答えるだろう。別のある人は、百万ほど貯めた時にそれで新しい事業を始めるつもりだから、その時のためにこうして資金を貯めているのだと答えるだろう。
 他にもいくつか答えはあるかもしれないが、それらは大体においてこの二つの答えに結局は収斂すると見てよい。読者自身に照らしてみても、少なくとも将来のことを考える限りにおいては、大体この二つの答えのうちの一方、ないしは両方を答えとして選ぶことと思う。
 ところが実はこの二つの動機は、本質的に全く意味の異なるものなのである。前者すなわち失業などに備えるという動機においては、貯金というものはいわば一種の非常用備蓄食糧のようなものと捉えられている。一方後者すなわち新事業の軍資金という立場においては、貯金というものは離陸のときに一挙に噴かすリフトエンジン用の燃料ストックと考えられている。
 言い換えれば前者は本質的に守りを目的としているのに対し、後者は攻めを目的としている。そして近代社会が貯蓄という行為を、中世とは逆に望ましいものと考えるようになったというのも、それがもっぱら後者に役に立つと見なされたからである。
 実際前者だけを目的とした場合には、貯蓄という行為は全くとんでもない結末を招いてしまうのである。一見すると分かりにくいことではあるが、次にそれをちょっと見てみよう。


金貨の循環がもし目で見えたら・・・
 社会においてはおよそ大部分の人間が、何らかの形で生産者であると同時に消費者でもある。言葉の意味を広くとれば、すべての人間が生産者と消費者を兼ねており、片方だけの人というのを現代社会の中で考えることは難しい。実際現代人は家でポテトチップでも食べながらニュース番組を見ているときにはまぎれもない消費者だが、翌日ネクタイを締めて電車で会社に行けば生産者に早変わりしてしまう。よく弁護士などは「消費者の権利」というが、もしそれを極限まで追求すれば大部分の人は自分の首を締めてしまうことになるのである。
 とにかく経済学のやっかいな点の一つというのが、すべての人間が一枚のカードの裏表のように生産者と消費者の二つの顔を持っていて、それがくるくる回って立場を変えながら日々を送っているという点である。
 ここで次のような状態を考えてみよう。いま、ある都市を考えて、そこでは経済活動というものがすべて都心部に集中している一方、住宅と名のつくものは全部郊外にあり、両者が極度に分離している。つまり物資や商品が全部都心のデパートに集まっていて、住民は毎日電車でそのデパートに買い出しにくるわけである。
 また経済活動が全部都心に集中しているため、およそ職場と名のつくものは全部そういうデパートのようなもので占められているわけであり、皆が毎日そこへ通勤してくるのである。要するに典型的な郊外型サラリーマンの生活パターンなのだが、ただ一つユニークなのは給料を毎日その都度日給の形で、しかも金貨で支払っていることであり、ちょっと古いのか新しいのかわからない奇妙な経済生活が営まれているとする。
 さてもしここで金貨全部に発信器が仕込まれていて、金貨の位置や分布を上空から衛星でトレースできるようになっていたなら、スクリーン上にはどんな映像が写るだろうか。
 恐らく毎日夕方になると、金貨の位置を示す輝点は都市部から外へ拡散を始め、線路沿いに郊外へと下って周辺に散っていくだろう。これは多分、一日の稼ぎをポケットに入れた旦那さんたち(ということにしておこう)が電車で家に向かっているのである。その夜の間、輝点は散らばった状態のまま動かない。
 そして次の日の昼ごろになると、輝点は再び都心部に向けて集まってくる。この時の金貨は、食料雑貨の買い出しのためにデパートへ向かう奥さんたち(多分)の財布とともに移動しているのである。
 一つの世帯の中で、ここでは旦那さんは生産者を代表しており、一方奥さんは消費者を代表している。つまり前者の輝点の動きは生産者たる旦那さんが稼ぎを家庭に持ち帰る流れであり、後者の動きは消費者である奥さんが金を買い物に使いに行く流れである。つまり金貨はこうやって毎日循環を繰り返しているのである。
 ここで話を簡単にするためもう少しモデルに手を加えることにする。つまり都心部に恒常的に留まって活動を続ける金貨があると、話の上で邪魔なのでそういうものは消してしまい、すべての金貨が夕方には都心を後にするとしよう。つまりここでは、会社の資金的なやりくりがその日ぎりぎりのタイトな状況になっており、会社はその日の売上げで得た金貨をそのまま従業員の給料支払いに使わねばならないとするのである。
 これと同様に、家庭の方では旦那が夕方持って帰ってきた金貨を翌日に奥さんが買い出しでみんな使い果たしてしまう状況にあったとする。すべての部門がそういう状況にあったとするならば、スクリーンの映像はどうなるだろうか。
 恐らく夕方になると、輝点は郊外に分散する一方、都心からはほとんど消えて夜の間は都心部分の映像は真っ暗になっていることだろう。そして翌日の昼ごろになると、今度は都心部分が再び集まってきた輝点によってまばゆいほどになる一方、郊外からは輝点が消えて真っ暗になる。そしてその状態は、それらの金貨が従業員に配られる夕方までの数時間続くことになるわけである。


貯蓄で社会が貧しくなる
 さて今の話が貯金の話と一体どう関係があるのか。それは、こういうその日暮らしの金銭受渡しの真ん中に立っている人間に注目するとよくわかる。デパートの店長は、その日の売上げで得た金貨を夕方に従業員に配ってしまうのだが、もし昼にデパートにやってきた奥さんたちが揃いも揃って締まり屋ばかりだったらどうなるだろうか。
 要するにあまり物を買って帰らず、したがって普通に比べると半分ぐらいしか金貨を落していってくれなかったというわけである。この場合、店長は夕方にひどくばつの悪い思いをすることになる。従業員を集めて、今店にある金貨を残らずかき集めても普段の半分ぐらいしかない。したがって全部を皆に分配しても昨日の半分しか払えない、と宣言しなければならないのである。
 従業員は、日当が半分になってしまったことに文句を言うかも知れないが、ないものはないのだから仕方ないだろう。しかしもし彼らの奥さんたちが実は昼にその店に来た例の締まり屋の一人だったとすれば、それはいささか皮肉な結末であり、奥さんの節約が、夕方に旦那の日当の半減という形になってかえってきてしまったわけである。
 このように、一枚のカードの裏表に消費者と生産者の二つの顔を持つため、それがくるくる回転しながら雪ダルマ式に経済活動は小さくなったり逆に大きくなったりするのである。そしてうっかり節約を始めてしまったため、それが縮小への雪ダルマをスタートさせてしまうということもそう珍しいことではない。節約ということは貯蓄と表裏一体の関係にあるため、ここで話は貯蓄というものの責任論に進んでいってしまうというわけである。そこで、これをもう少し詳しく見てみよう。
 今ここで、電車を毎日上ったり下ったりする金貨が全部で100万(単位は円でもドルでも何でもよい)だったとしよう。これは同時に、この社会に出回っている金貨の総量でもある。要するに毎日夕方に合計100万の金貨が下り電車に乗り、都心に残る量はほぼゼロとなる。逆に昼ごろになるとやはり合計100万の金貨が上り電車に乗って、郊外に残る量はほぼゼロである。
 さてここで、市民全部に突然貯蓄の意識が芽生えたならば一体どういうことになるのだろうか。つまり彼らは、毎日稼ぎの1割を我慢して使わず、その金貨を裏庭に穴を掘って埋めておこうと決意したのである。
 最初の日は、夕方にまず100万の金貨が下り電車で郊外に向かう。



 さて各家庭に分散した金貨100万は、彼らの決意にしたがってそのうちの1割すなわち10万がその夜、それぞれの裏庭に埋められる。
 そして翌日の昼ごろ、奥さんたちの財布とともに上り電車に乗る金貨は90万でしかない。



 そうなると、この日のデパートでの売行きは悪い。しかし最初から上り電車に乗ってきた金貨が90万しかないのだから、それ以上の枚数がデパートの売り場に落されるはずもない。かくて夕方には店長たちは従業員をなだめたりしなければならない羽目に陥るわけだが、騒いだところでないものは致し方なく、その日は90万の金貨が不満顔の旦那たちと一緒に下り電車に乗る。



 さて家へ帰ると給料が減ってしまったという暗い知らせが家族に伝えられる。経済状態に暗雲の兆しが見えると、将来が心配になってますます貯蓄に走るというのが人情ゆえ、彼らは(よせばよいのに)またその90万の中から1割を無理やり貯蓄に回してしまう。
 つまり9万が新たに裏庭に埋められて、翌日の昼に奥さんたちの財布と一緒に上り電車に乗る金貨は合計81万である。



 放っておけば、このサイクルは恐らく次の日も再び繰り返され、次の日の給料は74万弱に減ってしまうだろう。かくて下手に金を貯めようなどという根性を出したばかりに、給料はどんどん減っていってしまうのである。
 単純化して考えると、これが行き着くところまで行って100万全部が裏庭に埋まってしまった時点で、皆がこれはいかんと気づいてそれを一斉に掘り起こし、消費に投入すれば元の姿に戻ることにはなる。
 しかし現実には話はそう簡単ではなく、業績が落ち始めた時点で会社は首切りを始め、工場は閉鎖されて機械は錆び付いて壊れ、失業者の暴動で社会は荒れ始める。それを元通り戻すのは、ただ金貨を裏庭から掘り出したぐらいでは到底足りまい。とにかく経済社会というものは一旦後退を始めると逃げ足がついてしまうものである。
 自由放任の「神の手」の教義からすれば、およそ経済社会というものは本質的に負のフィードバックが働いており、それゆえ安定だということになってはいる。しかし今の話を見ると、少なくともこの局面に関する限りフィードバックは本質的に正であって極めて不安定なものであると言わざるを得ない。
 せめて、給料が減り始めて将来が心細くなった時に、貯蓄なぞやめてしまって裏庭の金貨を掘り出し、景気づけにそれを派手に使ってしまえというような豪快な人々ばかりで構成される社会であれば、ちゃんと負のフィードバック構造を作り出すこともできようが、現実には人々は遥かに小心翼々としているので、そんなことは望むべくもなかろう。
 このように、非常用食料の備蓄よろしくその目的でせっせと行われる貯蓄や節約というものは、それをあまり熱心に行うと社会をどんどん貧乏にしてしまう恐れをはらんだ代物である。
 なお参考までにつけ加えておくと、経済社会というものがこのようにフィードバックが正で本質的に不安定だと考えるのが、ケインズ学派に多く見られる傾向であり、一方フィードバックが負で本質的に安定だと考えるのが、アダム・スミスの亜流たる「古典派(および新古典派)」の特徴である。
 またつけ加えておくと、節約のこうした逆効果については、古代中国の諸氏百家の時代にも似たような議論が行われていたらしく、絶対平和主義を唱えていたことで知られる墨子(彼の思考方法というのは西欧の大陸側のキリスト教徒にやや似たところがある)が倹約主義を唱えていたのに対し、「中国のアリストテレス」と呼ばれた荀子(一般には性悪説で知られているが、実際にはバランスのとれた冷徹さがそう呼ばせるに過ぎない)は、「墨子の倹約主義はかえって社会を貧しくする」とその論理の不備を突いている。
 これは別に今までの議論のように貨幣の循環ということを論拠としたわけではないが、緩めるところを緩めて経済のパワーを伸び伸び発揮させて生産力そのものを強くすれば物資の不足など起こらないという発想は、それを延長すれば近代経済学のそれに近い。少なくとも現代的観点からすれば、馬鹿正直な倹約論を説いた墨子よりも荀子の側に分があったというべきだろう。
 さてそうは言っても、われわれは現に貯蓄ということを行っているし、にもかかわらず社会は経済的に繁栄している。ここのところは一体どうなっているのだろうか。


パン屋の事業拡大
 ここで伝統社会の中の小さな町で、百年も前から同じ窯を使って代々パンを焼いているパン屋の一家について考えてみよう。このパン屋は小さいながらも一つの企業であるが、町の中の限られた人口にパンを供給しているのだから、町の人口が増加しない限り、パンの生産量は増やせないし、また増やす必要もない。まあ要するに古き良き時代の家族的企業である。
 この一家が必要とするお金はと言えば、家族の生活費の分を除くと、小麦など原材料を買う金、あとはせいぜい窯が傷んだ時にそれを修復するなどの維持費ぐらいなものである。そしてそれらはパンを売った代金ですべて過不足なくまかなわれる。要するに突発的な災害でも発生しない限り、拡大も縮小もなく安定的にこの経済状態を維持することができる。
 ところが「資本主義的人間」の目からすると、こういう経済状態というのは到底容認できない前近代的体質なのである。彼らにとっては、この平和な町の住人は現状に満足して安逸をむさぼり、現状を打破しようという努力を怠る怠惰な連中である。
 しかしパン屋の立場からすれば、現状を打破せよと言われても少々面食らうことだろう。まず売上げを伸ばそうといっても、パン屋にできることといったらせいぜい値段の高い高級な菓子パンを売り出すとか、あるいは隣町に進出してそこのパン屋の縄張りを侵略するとかいった行動に出ることぐらいしかない。
 そしてまた、隣町のパンの市場を本気で制覇しようとするなら当然パンの生産量を倍にしなければならず、したがって窯も増設せねばならないだろう。今まで商売にかかる費用といえばせいぜい原料費と維持費ぐらいだったのに、窯の建設費用−−当然ながら金額は前者の比ではない−−が必要になってしまう。
 確かにそういう事業拡大が本当にできれば生活レベルを一段上に引き上げることはできるが、それだけの「リフトエンジン用燃料」を備蓄しようと思ったならば、それこそ狂気のような貯蓄マニアにでもならなければどうにもならない。だがここでくだんの「資本主義的人間」は待ってましたとばかりに入れ知恵するのである。要するに、あなた一人でその全部を貯める必要などない。皆から借りれば良いではないか。


いかに貯金は還流されるか
 ここでようやく前の疑問との接点が出てくることになる。つまり「金貨を手元に貯め込むことが社会を経済的に貧血状態に追い込むのだとするなら、現実にわれわれが貯金したお金は一体経済社会のどこに行ってしまっているのだろうか」ということである。
 さて読者が貯金をしているとしても、それは別に裏庭に埋めてあるわけではあるまい。それは大抵は銀行に預けてあるはずである。実は「経済社会の鉄道網」は長距離輸送を行う大規模な幹線鉄道ばかりでなく、ローカル線もちゃんと整備している。
 つまり読者が預金の出し入れのために出かけていく町中の銀行支店というのが、ちょうどそのローカル線の駅に相当するのである。読者の預金は、この駅に集められて目に見えない貨車に積まれて、ある場合には近くの駅で下ろされて使われ、またある場合にはいくつかの駅からの貨車と連結されて遠い経済戦争の前線に弾薬として送られるかもしれない。
 要するに裏庭に埋められるはずだった金貨は、こういう「経済社会のローカル線」が集めて再び経済社会の流通の血管に注ぎ込んでいるのである。それではこれを前の金貨の流れの話にはめ込んでみよう。
 つまり前の話で夕方に各家庭に持ち帰られた金貨100万のうち10万を貯金に回すというところからもう一度やり直すことになるわけだが、今回はその10万は裏庭に埋められるかわりに、銀行に持っていかれるわけである。
 そして翌日の昼ごろ90万の金貨が奥さんたちの財布とともに電車に乗るわけだが、これと時を同じくして10万の金貨も目に見えない「経済社会のローカル線」に乗ってやはり都心部に送り届けられる。
 ここでもし銀行というものが完全な慈善事業であって、会社を回ってその金貨をただでばらまいていけば話は極めて単純である。会社はその日、売上げからは90万しか金貨を得ることができなかったが、慈善銀行がただで恵んでくれた10万をそれに足して、夕方には従業員にちゃんと100万の金貨を渡して家に帰してやることができる。



 しかしもちろん現実の銀行とは金儲けのための組織そのものであり、こんな結構な寄付をしてもらえるほど甘くはなく、実際にはここでワンクッション置かれることになる。そしてここで出てくるのが「事業拡張のための設備投資」というものであり、要するにパン屋の窯の増設の話である。
 このためここで都心の会社を二つのカテゴリーに分けて考えねばならない。一つは、前と同様のデパートとその周辺の会社であり、もう一つは「新兵器製造業者」すなわち事業拡張や新製品量産のために必要な生産機械やら設備やらを売る会社である。
 後者の会社の取り扱う商品とは、例えばパン屋を顧客とする場合には新しい窯だの菓子パン製造機だのといったものである。つまりこの会社は奥さんたちを相手に物を売るのではなく、相手にするのはもっぱら会社の経営者であるが、物を売って金貨を稼ぐという点では前者と同じような会社である。
 さて「経済社会のローカル線」つまり銀行が都心に運んできた10万の金貨は、まず一旦デパート系の会社(前者のカテゴリーの会社)に貸し付けられる。もちろん借りた側は事業拡張のための資金が欲しくてそれを借りたのである。
 そしてこれらの会社はその足で「新兵器製造業者」(後者のカテゴリーの会社)のところへ装備を買いに行く。この段階で10万の金貨は「新兵器製造業者」の手に渡る。



 そして新兵器製造業者も、取り扱う品目には少々特色があるものの、従業員を抱えた普通の会社であることに変わりはなく、そしてその従業員にも家庭と妻子がある。そのため10万の金貨はやはり彼らに分配されて郊外に下る。



 少々話がごたごたしてしまったが、次の点に注目すれば問題は単純にできるだろう。要するにわれわれにとって重要なのは、電車に乗って上ったり下ったりした金貨の量がいくらだったかということなのである。
 この場合、昼までに都心に上った金貨の量も100万なら、夕方郊外に下った金貨の量も100万である。もちろん昼に上る際には、90万は奥さんたちの財布と一緒に、10万は形のない「経済社会のローカル線」に乗って、という具合に2本の別々の「線路」で行ったのだが、100万が移動したことには変わりはない。
 また夕方下る際には、デパート従業員だろうが新兵器製造会社の従業員だろうが従業員には変わりはないわけで、前者が90万、後者が10万の計100万を家に持ち帰る。つまりこれがちゃんと繰り返されている限り、貯金をしても社会は決して貧血状態にはならない。しかし貧血になることは免れたものの、むしろ逆に経済社会は高血圧体質になってしまったと言わざるを得ないようである。


気違いじみたサイクル
 実際このサイクルを恒常的に繰り返すということは、ちょっと気違いじみたことに見えなくもない。事業拡大の新兵器を購入したデパート系企業の側は、それによって翌日から日用品の大増産に乗り出すわけだが、もし翌日もまた各家庭において給料の一部が貯金されたならば、同じサイクルが次の日にもう一度繰り返されなければならない。つまり増産が開始されるかされないかのうちに、もう次の新兵器を買い込まねばならないのである。(もっともこの言い方はやや誇張なのであって、実際には何年かごとに装備のまとめ買いをするということを皆が交代でやっているから、平均するとそう見えるに過ぎないのだが、それにしても凄まじいことに変わりはない。)
 昔から寓話に、うっかり妙な魔法や機械を手に入れたばっかりにとても消費しきれないほどの物資を後から後からそれが生み出してしまい、止める方法がわからなくてとうとう倉庫が壊れてしまうという話があるが、現実はそれ以上である。
 つまりこれでさえ、単に生産速度がプラスのまま止めることができないという話に過ぎないのだが、われわれの話ではプラスのまま止めることができずにいるのは生産の「加速度」なのであって、ただでさえ暴走を続ける速度計の針は際限なくじりじり上昇を続けてしまう。つまり今の例だと、暴走を続ける生産機械そのものが自己増殖するようにどんどん巨大化してしまうわけである。



 次々に生み出されるそんな物資を、飽食していようがいまいが消費し続けねばならない消費者の側も大変だが、それより前に経営者の側も、よほど事業拡張の意欲に燃えている人物でなければ勤まらない。実際前の時代ののんびりした経済社会に愛着を持っている人にとってはこれではたまったものではなかろう。際限なく事業は拡張せねばならないわ、銀行から借りた分の金利を払わねばならないわ、おまけに誰もが侵略的体質を身につけてしまうわ、本当にいいことが起こらない。
 実際この状態は、それを戦争だと思って眺めるならばそれなりに理性的であるが、「平和状態」として眺めるならば狂気のレッテルを張られても仕方なく、速度がプラスだというならまだしも、加速度がプラスというのではこれは正気の沙汰ではない。
 われわれの現在生きている社会が現実にそうなっているというのは、いささか信じ難い気もするが、しかしこれは本当のことなのである。現在の日本経済の場合、消費と設備投資の比率は極めて大雑把に言って4:1程度である。つまりまるで拡大が自己目的化でもしているように、経済全体の20%近くの部分が、もっぱら生産設備の更新のためだけに充てられている驚くべき現実がここにあるのである。(先ほどの金貨の話だとこれは9:1という値に設定してあったのだが、現実は実にその2倍である。)
 これは別に日本だけの突出した特異な現象ではない。多少の幅はあるものの、現代のうまく行っている資本主義経済なら、大体これは標準的な数字と言ってよい。そしてまた、現代の半導体産業などに携わっている人間にとってはこれはちっとも驚くべきことではない。
 例えばLSIのメモリーなどというものは、3、4年ごとにビット数の大きなものが製品化される。そしてビット数の大きなものを作る製造技術というものは、それまでの技術の延長でできるというわけでは必ずしもなく、しばしば質的に新しい技術を導入しなければならない。
 当然ながら、製造用機械にしても今までのものは全然使うことができず、その都度今までの機械をまとめてお払い箱にして、全く新しいものを導入しなければならない。そしてそれらの超精密加工装置というものは、どれもこれもとんでもなく値の張る代物である。
 そのため半導体産業というものは毎年毎年驚くべき巨額の設備投資を連続的に続けている。先を見越してそういう設備投資をしなければ、苛烈な競争にすぐ負けてしまうのである。少なくとも現在の半導体産業を見ている限り、毎年経済全体の2割近い部分が製品それ自体ではなく「製品を製造するための製品」に充てられているという事実は全然驚くほどのこともない。
 そしてこの種の設備投資というものは、本質的に経済が前よりも拡大するとの前提のもとに行われるものなのであって、来年は経済は停滞するらしいから物を作っても売れないだろうという予測が出てきたならば途端にカットされる運命にある。
 換言すれば、現代資本主義経済が現状の高度を保つ際の浮力は、このうち5分の4は飛行船のように船体自身が発生する浮力であるが、残りの5分の1はいわば翼の揚力によるものであり、速度ゼロでは全く発生しない性格のものである。つまり現在の状況では、経済が現状の位置で静止しようとして前進を止めたならば、即座に浮力の5分の1が消失してしまうことになる。
 昔の経済は船体自身の浮力だけで浮いていられたのだが、現代の資本主義は飛行機と同じく「空気より重い」乗り物である。それにしても浮力の5分の1が突然失われるとは恐るべき事態であり、積み荷や人を窓から投げ捨てて重量を20%ほど軽くしないことは墜落は免れないだろう。


意外な一致
 経済全体の5分の1もがそういうもので占められているというのは、常識的な感覚からは信じ難いことのようにも思えるが、この5分の1という数字自体に関しては、われわれの日常生活からも思い当たる部分がある。それは貯蓄率の問題である。
 浪費癖のある人を一応除外して考えた場合、給料の20%ほどを消費に回すことなく貯金に回すというのは、比較的常識的な話である。ここで前の金貨の流れを思い出してみよう。
 あの時、貯金に回された金貨は「経済世界のローカル線」に乗って結局設備投資=新兵器購入に回されていた。それによって結果的に夕方に合計100万の金貨が電車を下っていくことが可能となり、定常的な流れが維持されていた。
 つまり貯蓄の総額と「新兵器購入額」は一致していなけばならない道理なのだが、ここでもし国民の一人一人が大体、稼ぎの5分の4程度を消費に回し、5分の1程度を貯蓄に回しているとすれば、ちゃんと辻褄が合うのである。
 この現実は、よく考えれば明らかなことではあるのだが、それにしても両者の感覚的なギャップの大きさはどうだろう。給料の5分の1を貯金として銀行に預金するというのは、割合に普通で常識にかなったことのように思われる。それに対して経済の5分の1が、経済を加速度的に超高血圧にしてしまうような設備投資に振り向けられているというのは、全く気違いじみて現実離れしたことのように思える。しかし両者は分かち難く結びついているのである。
 そもそも貯蓄を行なうことを当たり前だと思っていることが、最初から間違っているのかもしれない。少なくとも経済メカニズムの理屈からすれば、人々が貯蓄に励むようになれば、経済社会は超高血圧かの二者択一を迫られる宿命を背負うことになるのである。
 そして銀行という組織は、裏庭にもぐり込もうとした金貨を再び誘い出して経済社会の中に戻す作用をするという点で、確かに貧血症状に対する救世主ではあったが、その代償として経済は超高血圧症状を強いられる羽目になってしまったというわけである。


経済政策当局の目から見ると・・・
 エコノミストたちが「設備投資」というものに多大の関心を寄せるのはこういった点によるわけだが、さらにその敏感さという特性がこれに対する期待も警戒も大きくしている。つまりこの、浮力の5分の1を担う設備投資というものは、将来の期待などに左右されてちょっとしたことで非常に大きく変動するからである。
 これに対して残りの5分の4を担う消費の側は、そう急激に大きく変動するものではない。ブームでも来れば確かに人々はどっとデパートに押し寄せて物を買っていきはするが、せいぜいそれは今までの1.1倍とか1.2倍とか、そういった程度のものでしかない。
 大体先立つものがなければ、物を買いたくても買いようがないわけで、給料の倍額を借金してまで消費に注ぎ込むという人はあまりいない。要するに消費が1か月かそこらの間に2倍3倍にはね上がるということはなく、それは長い時間をかけなければ伸ばしていくことができない。
 ところが設備投資の方は違う。ある製品を作れば大儲けができるという噂が流れると、しばしば話を聞いた人はタクシーに飛び乗って製造機器メーカーに突撃していく。この場合はもう金があろうがなかろうが問題ではない。そんなものは足りなければ銀行から借りてくれば良いのだし、また見込みがあれば銀行はそういう巨額の金を本当に貸すのである。
 そういう具合だから、設備投資の方はたかだか1か月の間に2倍3倍になるなどというのはさほど珍しいことではない。つまり不安定さの代償として、非常に立ち上がりが良いのである。そして経済政策を運営する立場から見ると、そういうダッシュ力というものは極めて価値がある。ちょうど飛行中に翼の迎え角を変えるようにして、自在に高度を上げ下げできるというわけである。
 一方設備投資というものが銀行から金を借りて行なわれている以上、銀行も無利子でお金を貸してくれるわけではない。どうしても金利という重荷を背負わされてしまうため、特に経営者が設備投資をやろうかどうしようか悩んでいる場合、金利が安いか高いかは意志決定に大きな影響を及ぼすことになる。
 金利がただ同然に安ければ、派手に借りまくって盛大に設備投資を行なうこともやり易いというものだし、逆に高利貸も驚くような高い金利では、事業がいったん蹉づくとたちまち首でもくくらねばならない羽目に陥るから、誰も怖がって設備投資をしなくなる。
 これは政策当局にとっては極めて利用価値の高いことである。つまりそういう貸し出し金利というものは、その元栓を握っていることで政策当局がかなりの程度コントロールできるのである。いわゆる「公定歩合」というのがそれで、これこそ経済政策のスロットル・レバーである。
 このスロットル・レバーは政府が直接握っており、しかもそれは設備投資という極めて立ち上がりの良いエンジンにつながっている。実際これはコントロール機構としては極めて効率が良い。
 テレビのニュースで、公定歩合が上がりました、などというのを聞いていると、それがどうした、とつい言いたくもなるのだが、実際なぜそれが経済社会にとってそんなに重要なのかということは、企業がそれだけの巨額の資金を現実に借りているのだという基本認識がないとなかなか理解できない。
 19世紀的な戦争においては、とにかく鉄道がすべてを支配していた。決定的な場所に大量の兵力・物資を際限なく注ぎ込むことができさえすれば、他の不利な条件など押し流してしまえるからである。
 現代のビジネス社会に生きる人間たちの大部分も、大量の資金投入によってできないことは何もないと信じているだろう。そうだとすれば、やはり彼らにとっても鉄道網=金融は何にも増して重要な問題である。彼らにとっては、現場の人間たちの地道な努力で物事を解決しようなどという考え(要するにわれわれ部外者が「健全な経済活動」と考えているようなもの)は、物量作戦を否定して一定の兵力で勝利を得ようとする、前近代的な用兵思想に見えるに違いない。
 またそういう用兵思想のもとでは、鉄道網の輸送効率が向上するということは、ある地域での交戦でどの程度の存在を相手に与えたかなどということより、作戦上遥かに重要な意味を持つ。つまり彼らは「公定歩合が下がった」といニュースを、鉄道網上の障害が減って輸送・補給効率が向上したと捉えているのである。


経済学を学んでいる人へのコメント
 なおここで経済学を学んでいる人のために一言つけ加えておくと、今までの話というのはマクロ経済学の基本であるとともに最もわかりにくい部分に相当する。それは「投資と貯蓄は一致する」ということ、あるいは

  Y(国民所得)=C(消費)+I(投資)

という式に関する部分である。
 大体、投資と貯蓄が一致するなどと言われても、はじめのうちはどうもぴんと来ないものであり、ここでつまづいて挫折してしまう人が意外に多い。しかし何のことはない、そのメカニズムは実は電車に乗る金貨の流れの話そのものなのである。
 具体的にこのY=C+Iということを、前の図の中にはめ込んでみると、それは次のようになる。



 この場合、線路を下る100万の金貨が国民所得Yに相当し、またそのうちの90万の部分が消費C、10万の部分が投資Iだということになる。
 このメカニズムそのものは、このように金貨の流れをたどっていけば容易に理解できるだろうが、もう一つ理解の障害になるのは、貯蓄という日常的な行為と投資という途方もない行為との感覚的なギャップである。
 そしてそれは、もともと資本主義というものが本質的にカンフル剤の連続的な投与によってのみ維持されるようなとんでもないメカニズムであるということ、そして貯蓄という行為が経済社会に貧血か超高血圧かの二者択一を強いる、これまたとんでもない代物であるという、かなり驚くべき事実を認識することによって円滑に理解されていくのである。
 マクロ経済学の場合、とにかく最初にここでつまづくケースが非常に多いが、逆に言えばそれは、ある意味でこれこそが資本主義のメカニズムの最大の中枢部分だということでもある。それゆえ読者はここまでのことが理解できたならば、もうそれだけですでに経済のメカニズムを理解するという点で、昨日に比べて長足の進歩を遂げていると思って差し支えないであろう。

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