トックビル名言集抜粋
 ここに掲載するのは、アレクシス・ド・トックビルの名著「アメリカの民主政治」からの名言の抜粋です。
 ここにそれを掲載した理由は、まず私が「物理数学・・・」第二版や「無形化世界・・・」の中でコラプサーという概念を考えるに際して、この本が最大のヒントになっていたということです。つまりある意味で本書なくしてはその概念は存在し得なかったと言えますが、その意味はそれにとどまりません。

 何と言っても、本書はアメリカという国の真の姿を知るための最高の古典的バイブルであると共に、この中には社会学において人類が今までに到達した最高のものが集約されており、読者が社会学というものを把握するための最短のルートが提供されているからです。
 それゆえ読者は、以下をプリントアウトして本と突き合わせ、書かれている場所を照合して抜粋部分の前後の文脈に目を通す作業を行ないさえすれば、もうそれだけで他のたくさんの本を読んだり大学へ行ったりせずとも、社会学の最高到達点のエッセンスを吸収できるのだと、私は敢えて断言してはばかりません。

 そこまで確信をもって推す理由はまず第一に、ただでさえ本書の内容それ自体が驚異的に高いレベルにあり、現代の大衆社会の病理の構造を示した本として本書以上のものが現代でも他にほとんど見当らないことです。

 そして第二のもっと大きな理由は、本書が書かれたのが驚くべきことに実に160年以上も昔だったということです。そしてそれにもかかわらずここまで正確に現代を洞察できたということは、要するに本書の基本的な分析が如何に正しかったかの何よりも動かしがたい証拠なのです。
 一般に科学においては、ある理論が信用できるかどうかは「予言に成功したか」ということが大きな判断基準の一つとなります。その点からすると、現在大学などの中にあるどんな「最先端の社会学の論文」といえども、せいぜい10年程度の予言によってしか信頼性を実証しておらず、本書が160年前に正しく現代を予測し、1世紀半を生き延びてきたというその驚嘆すべき実績の重みの前では、本当ならそれらはまだ対等の立場で本書に向かうことを許されていないはずなのです。
 ともあれそれらを合わせて考えると、本書と肩を並べうる社会学の著作はこの地上にまずほとんど1冊も存在しないと言えるでしょう。

 その割には本書は、一般の知名度という点では必ずしもトップではありませんが、しかしむしろその理由は、むしろどうもこの本の洞察が余りにも突出して凄すぎたため、最近になって現代的な大衆社会の病が現実となってくるまで、その真価がどれほどのものかが十分理解されなかったことにあるようです。(何しろマルクスの「資本論」が出版されたのが本書の32年後であり、その後百年間、世の中はそれにうつつを抜かしていたのですから。)

 そして知名度でトップでないところへもってきて、かなり分厚い本であるため、とかく敬遠されがちで真価がなかなか世の中に浸透しないというのが実情です。そのためここでは、現代的観点からみて最も重要と思われる部分を厳選して抜粋し、とにかくこれだけを読めばその最高のエッセンスを修得できるよう、工夫されています。(ただし細部の文章表現は、抜粋しても意味が通るよう多少原文から変更したり順序を入れ替えたりしてある場合があり、必ずしもテキストと同一の文章にはなっていないことにご注意ください。)

 なおテキストは講談社学術文庫「アメリカの民主政治(上・中・下)」で、ページの指定もこの文庫版のページを指します。(もっとも以下の抜粋はもっぱら中および下巻に集中していますが。)

 そして作用マトリックスとハーモニック・コスモス信仰についてご存じならば、トックビルが指摘する多くの現象の背後にそれが横たわっていたことをどこかでお感じになることでしょう。実際その多くは、その気になればそれを用いた数学的再解釈も十分可能であり、われわれが本書にあらためて現代的な数学的基礎を与えていくことも、あるいは可能かと思われます。

 ただ、やはり何と言っても抜粋の文章だけでは内容の深さが表現しきれないため、できれば文庫版と突き合わせて前後との関係を眺めると、さらにその恐るべき洞察の深さがわかることでしょう。
 とにかく以下のほんの10ページほどの内容についてそれを実行することは、下手な本十余冊をだらだら読むことを優に上回る効果がありますので、是非試みてください。
                                  

(2002年1月17日 長沼伸一郎)
INDEX
・導入としての印象的な語句
・「多数者の専制」に関連して
・人類の絶対的停滞とコラプサーのイメージ
・民主的民族の習性について
・縮退していく世界のスケッチ
・「仮想的な専制権力」のスケッチ
・アメリカのジャーナリズムについて
・アメリカでの宗教の状態とその効果
・民主的制度にまつわる問題について
・アメリカの人種問題について
・アメリカ的貴族団はどこにいるか

・アメリカに存在する諸団体について

・豊かさの中の不安について
・その他の点についてのいくつかの指摘
・知的大革命の難しさについて
・編者あとがき

導入としての印象的な語句

・アメリカは世界中で最も少ししかデカルトが読まれていない国であるが、しかしデカルトの教訓が世界中で最もよく遵法されている国である。(下巻・22頁。これは、アメリカ文明の根幹にハーモニック・コスモス信仰が侵入しているということを、すでにトックビルが認識していたことをはっきりと示した語句として重要である。)

・今日、地上には異なる地点から出発して同一目的に向かって進んでいるように見える、二大民族がいる。それは、ロシア人とアメリカ人とである。・・・これら量民族は共に誰にも気づかれずに大きく成長した・・・・両民族の出発点は異なっているし、道程もまちまちである。それにもかかわらずこれら両民族は、神の秘められた意志によって、いつか世界の半分ずつの運命を自らの手に掌握するように定められているように思われる。(中巻・498頁)

(しかしこれが何と1835年に行われた予言であったことには、誰しも驚嘆のほかないであろう。それが実現するのは110年後であるが、逆にそのことからわれわれは、例えばソ連の超大国化に関しては共産主義革命は最大の原因ではなく、背後にさらに大きな構造的要因があったことなどをはっきり知ることができる。予言の力とはそこまで大きいのである。
 なお、これは中巻の最後の文章であり、米国が唯一の超大国化した後のことはむしろ5年後に出版された下巻の方に多く記されている。)

「多数者の専制」に関連して

・多数者の道徳的支配は、ただ一人の卓越した個人においてよりも多数の人々において、より大なる知識経験と英知があるという観念に一部基づいている(中巻・164頁)

(なお「多数者の専制」とは、われわれの言葉で言えば「多数者の短期的願望が多数者自身の長期的願望を駆逐している状態」のことである。また、文庫版では下巻37頁の訳註にルソーの「一般意志」の説明があるので、こちらも参照されたい。「一般意志」と「すべての者の意志(全般意志)」のどこがどう違うのかは、政治学の中で最も難解な概念とされているが、要するに前者が多数者の長期的願望、後者が短期的願望のことを意味しており、これは作用マトリックスと縮退の概念を知る者にとっては一目瞭然のことである。)

・一般に、アメリカにおけるほどに精神の独立と真の言論の自由の少ない国は他にはないのである。(中巻・179頁「アメリカで多数者が思想に対して行使する権力について」)

・民主的民族では、大衆の恩顧は、人々が呼吸している空気と同じように必要なもののように思われる。そしてそこでは、大衆と不一致であることは、いわば生きていかないということである。大衆は、大衆と同じように考えない人々を屈服させるために法律を用いる必要はない。大衆にとっては、そのような人々を否認するだけで十分である。その人々の孤立感と無力感は、彼らを押し潰し絶望させる。(下巻・463頁)

・民主国では、圧制は肉体を放任したままにしておいて、魂に直進する。・・・そしてアメリカには精神の自由というものはないのである。(中巻・181頁)

・アメリカで政界に進出しようとして殺到している多数の群衆のうちで、大胆な率直さと思想の勇敢な独立性をあらわしている人々は、極めて少ないのである。・・・時にはそうでない人もいるが、アメリカでは誰も彼らの言っていることを聞かないのであり、彼らが想いを打ち明けられるのは外国人に対してだけである。
・・・・ここに述べたことがもしアメリカに伝わると、必ず次の二つのことが起こるだろう。第一には、読者たちがすべて声を上げて私を非難するであろう。第二に、読者たちの多くは自分たちの良心の奥底では私を許すであろう。(中・186頁「多数者の専制がアメリカ人の国民性に与える諸効果」)


人類の絶対的停滞とコラプサーのイメージ

・民主的社会という場所は、理念や事物など様々なものが常に変化し続ける、不断の変動の時代であると、一般には信じられている。しかしそれは本当なのだろうか。(下巻・446頁「大革命はなぜ稀になるのか」。以下いくつかは、この問いの結論)

・商業は、人々の自由を促進するが、人々を革命から遠ざける。・・・不動産は革命によっては一時的に危機にさらされるのみだが、動産は完全に消滅してしまう恐れがある。・・・それゆえある民族で動産が多くなっており、動産所有者の数が多くなっているほど、その民族は革命に反対する気分を多くもっている。(下巻・451頁)

・民主的民族の欲望と自然的本能とを、よく注意して吟味すればするほど、この世界に平等が一般的に恒久的に確立されるならば、知的並びに政治的大革命は、想像されているよりも遥かに難しく、そして稀になっていくことがわかるだろう。
・・・・・・そのときには人々はあらゆる革新を、煩わしい厄介な革命の第一歩として見なすようになり、それに引き入られることを恐れて、身動きすることを拒むようになるかもしれない。そのようになることを、私は恐れずにはいられない。
・・・・・そして人々は、ついには現在の享楽に臆病にも耽るだけのものが持てれば良いと思うようになり、自分たちの将来の利益と自分たちの子孫の利益は、無視され消滅することになるかもしれない。
・・・・・そしてまた人々は、自分たちの境遇を改善するため精力的に努力するよりも、自分たちの運命の流れに無気力に屈従することを好むようになるかもしれない。そのことを思うと、私はぞっと身震いがする。(下巻・466頁)

・新社会は、日に日に変貌していると信じられているが、私は新社会はついには同一制度、同一偏見、同一風習にあまりに不変に固着してしまって、動かなくなってしまいはしないかを恐れている。
 その場合には人類は停止し、ゆきづまり、精神は新しい理念を生み出すことなく、永続的に自らの限界にとじこもり、その屈従を続けるのである。
 またその場合には、人間は孤独な不毛な小さな運動に力を消耗してしまうし、そして人類は、絶えず動いていながらも、少しも前進しないのである。(下巻・468頁)

(これらは、コラプサーとは如何なる状態かについてその本質を述べていると考えられる部分である。病に例えれば、これは絶対回復不能な痴呆状態に陥ったまま死ぬこともかなわず永久に生き続けるようなものであり、それに比べれば一時的な騒乱や戦争などは、いわば活力や回復力が残っていることの裏返しであって、さして戦慄すべきものではないというのが、トックビルの認識のようである。また、それが不可逆過程である可能性が高いということが早くも示唆されているのも注目すべき点であろう。いずれにせよ、これは本全体の中で人類の未来にとっての最大の脅威として位置付けられており、その予言能力からみてこの優先順位は信頼すべきものと考えられる。)


民主的民族の習性について

・民主的時代の著しい特徴の一つは、すべての人々が容易な成功と、目前の享楽に憧れていることである。・・・彼らは直ちに大成功をかちえたがってはいるが、大きな努力を払わないですましたいと思っている。(下巻・45頁)

・民主的民族は、自由に対してよりも平等に対して、より一層熱烈な、そして一層執拗な愛情を示しているようである。(下巻・179頁「民主的民族は何故に自由に対してよりも平等に対して、より一層熱烈なそしてより一層持続的な愛情をあらわすのであろうか」)

・貴族的民族は、人間は努力しさえすれば最高善にも絶対的真理にも到達できるなどとは信じておらず、人生の到達点を最初から制限されたものと考えている。・・・彼らは時として人間の可能性や完全性の限界をあまりに縮小させすぎるのだが、逆に民主的民族は時としてこの限界を、むやみやたらに広げ過ぎ、人間が努力によっていくらでも高いところに行けると考えるのである。(下巻・74頁「平等はどうしてアメリカ人に、人間が限りなく完全なものになりうるという理念を暗示するのであろうか」)

・社会内部で平等化が進んで各階級間で人々が似通ってくるにしたがって、風習は穏和化してくる。・・・また、諸民族が互いに似てくるにしたがって、互いに他民族の災禍に対して憐れみ深くなり、国際法は穏和化してくる。(下巻・294頁「地位が平等化するにしたがって、どうして風習は穏和化するのであろうか」)

・今のところアメリカ人たちは実用的な労働にしか関心を示しておらず、それゆえみるべき学問や知的資産をもっていないが、民主社会に生じているややあせり気味の野心は、たちまちのうちに精神労働の方面にも向かって来るだろう。(下巻・84頁「アメリカ人の例によっては、民主的民族が科学、文学、芸術への素質と趣味をもつことができないとは証明されないが、その理由は何か」)

・民主的民族にとっては、ある人間が突然気まぐれに高い地位に引上げられてしまうのを見せつけられるほど有害なことはない。・・・そこでは、あまりに容易に達成される偉大さというものは存在しないように見えるよう、注意深く工夫されている必要がある。そして偉大な成功は、長い間の永続的な努力によってのみ達成されるということが、市民たちの目に直接教えられていなければならない(下巻・276頁「平等と疑惑の時代に人間的行動の対象を後退させることが、どうして重要なのであろうか」。しかしこの教訓はどこかできれいに忘れ去られてしまったようである。)


縮退していく世界のスケッチ

・多様性は、人類のうちでは消滅するであろう。同一の行動様式、同一の思考様式、同一の感情様式は世界のどこの隅にも同じように見出され、すべての民族が同一のことをますます実行するようになっていく。・・・・すべての民族は、特に互いに模倣しあったわけではなくても、自然に似通ったものになっていく。・・・彼らは知らず知らずのうちに互いに接近しあうのであり、そして彼らはついにはいつの間にか同一の場所に集結しているのを見出して、びっくりすることであろう。(下巻・405頁)

・私が平等社会について非難しているのは、平等が人々を禁止的享楽に誘い込むことになっている点ではない。そうではなく、それは平等が人々を許容的享楽の追求ばかりに、全く耽溺させる点である。(下巻・242頁「民主主義時代に物質的享楽欲が作り出している特殊な諸効果について」)

・そういうわけで、やがてこの世には、魂を腐敗堕落させることはないであろうが、これを軟弱にして、魂のすべての原動力を弛緩させてしまう、一種の誠実な唯物論が確立されるだろう。(下巻・242頁。現実を見ても、彼が言うこの「誠実な唯物論」は世界を覆いつつあり、そしてそれは短期的には無害だが長期的には文明にとって麻薬よりもさらに危険で致命的なものになりかねないということになる。なおわれわれの場合その危険性を示すため、仮想地球儀の上で何らかの形で可視化される必要性が出て来るかもしれない。)

・民主的社会にとっては、大胆さよりもつまらない小願望の方を、われわれは恐れねばならない。・・・それゆえに、民主的な新しい社会の首長者たちが、まとまりのありすぎる、そして平穏すぎる幸福の中に市民を眠り込ませようとすることは誤りであろう。(下巻・441頁「アメリカ連邦には何故に多くの野心家たちと、ほんの僅かな大野心とが見出されるのだろうか」)

・「個人主義」は民主主義時代の特徴であるが、これは次の点で利己主義と異なる。利己主義は人間の本能に根ざすもので極めて古くから存在する悪徳だが、個人主義は新しい民主主主義的起源のもので、地位の平等化に伴って発展してきた。
・・・・利己主義は過度に偏重された盲目的な自己愛から来る積極的な感情である。一方個人主義は消極的で平和的な感情であり、各自を大衆の中から自発的に孤立させて周囲の小さな社会に引きこもらせようとするものである。
・・・・利己主義は即座にすべての美徳を枯らしてしまうが、個人主義は初めに公徳の源泉だけを枯らす。けれどもしまいには、個人主義は他のすべてのものを攻撃し、破壊し、そして最後に利己主義の中に呑み込まれることになる。(下巻・187頁「民主国における個人主義について)

「仮想的な専制権力」のスケッチ

・民主的民族が将来襲われるかもしれない種類の圧政とは何かを想像するとき、それは過去の圧政とは全く似ていないと私は考えている。・・・・そもそも独裁制と圧政という古い言葉も、今やそれを表現する適切な用語ではない。
・・・・まずそこでは、無数の類似した平等な人々の群れが、小さな卑俗な快楽を手に入れようとしてあくせくめいめいに活動している。・・・そして彼らにとってはほんの身近な周囲が世界のすべてであり、その外の世界には無関心である。そういった意味では、彼らはもはや祖国をもっていないと言える。
・・・・そしてこのような人々から成る世界の上に、これらの人々の享楽を保証し、そしてこれらの人々の運命を監視する、巨大な後見的な唯一の権力がそびえ立っている。
・・・・この権力は、人々を決定的に幼時期に釘づけすることだけを求めている。そして日に日に市民たちの自由意志を無用なものにし、成立し難いものとしている。・・・そしてそれが推進する平等化によって、どんな独創的な精神も、どんな強力な魂も、群衆を超えて真に頭角をあらわすことはできなくされてしまう。
・・・そしてこの「主権者」は、市民たちに何かを強制する圧政は行わないが、それを無気力にし、麻痺させる。またそれは、積極的に何かを破壊することは行わないが、ただ何か真に新しいものが生まれてくることを困難にし、不可能とさせる。
・・・そして「主権者」はついに各国民を臆病なよく働く動物の一群のようなものにしてしまって、それぞれの政府にこれを指導させるのである。(下巻・558頁「民主的民族が恐れなければならない独裁制は、どのような種類のものであろうか」)

(これは、未来において生まれるであろう一種の仮想的専制権力についてのトックビルのスケッチである。われわれの仮想地球儀上では、社会を縮退させてコラプサー化させる、非人格化された仮想的・抽象的権力の存在を想定しており、それがいわば最大の脅威と規定されているが、実はその具体的イメージは以上のスケッチに準拠している。
 なおここで彼が「主権者」と呼んでいるものは明らかに政府や人格をもつ独裁者のことではなく、むしろその仮想的な抽象的権力に近いものだと思われる。なお現代ではマスメディアがその「主権者」の少なくとも一部を構成していることは疑いない。)


アメリカのジャーナリズムについて

・地位が平等になればなるほど、人々は個人的に一層弱くなり、そして新聞は、人々が個人的に一層弱くなればなるほど、たやすく人々を誘いこむようになる。・・・それゆえに新聞の天下は、人々が平等化するにしたがって、拡大するに違いない。(下巻・213頁。なお、「ニューヨーク・タイムズ」紙の創刊はこの予言の11年後、「ワシントン・ポスト」紙の創刊が37年後であり、本書が書かれた時点では両紙ともまだこの世に存在していない。)

・アメリカではジャーナリストの精神は、人々にぶしつけに無謀に拙劣に襲いかかり、人々をとらえるのに諸原則だけをぶちまけ、人々の私生活に入り込み、人々の弱点と悪徳を丸裸にすることである。このような思想の濫用は慨嘆すべきことである。(中巻・38頁)


アメリカでの宗教の状態とその効果

・一見意外なことだが、アメリカではカトリックの割合が年々増えている。しかしそれは意外なことではなく、それは形式の希薄なプロテスタントが人々を引き留める力をもたず、そこから人々が一方的に離脱しているからである。・・・そのため、結局将来的にもこの国の人々は、宗教そのものから離脱してしまう人と、プロテスタントを捨ててカトリックに入ってくる人々に二分されることになるのである。(下巻・65頁「アメリカ連邦におけるカトリック教の進歩について」)

・アメリカでは、ヨーロッパではほとんど見られないほど激しい過激な精神主義を特徴とする宗教の熱狂的な信者が、少数ながらむしろ一部に見られる。・・・それはアメリカでは大多数の人々の精神が物質的福利の追求に向かっているため、若干の人々の心の中では大きな反動が起こって、その物質主義の外へ出ようとするためである。ところが彼らが一旦その線を越えると、もう彼らを押し留めるものがないため、常識の限界を超えてどこまでも行こうとするのである。・・・逆に社会全体がこれほど物質主義的でないとすれば、人々は宗教や信仰においてももっと節度的・社会常識的に振る舞うだろう。(下巻・243頁「若干のアメリカ人は何故に非常に熱狂的な精神主義をあらわしているのだろうか」)

・(平等がもたらす)不信仰の時代に恐れるべきことは、人々があまりにも日常的で短期的な願望を求めるため、永続的で偉大なものを全く作り出そうとしなくなることである。・・・・一方常にあの世のことを考えている宗教的民族は、将来を目指して永続的に行動する習性をもつため、結果的にしばしばこの世でも偉大な物事を完成させている。・・・これは宗教の偉大な政治的側面である。(下巻・274頁。)

(なお宗教の政治的効用に関してはナポレオンが「社会は財産の不平等なくして可能ではあり得ず、財産の不平等は道徳規範なくしては耐えがたく、そして道徳規範は宗教なくしては人民の受け入れるところとはなりえない。」・・・「宗教のうちに、私はキリスト降誕の奇跡はみとめないが、社会秩序という奇跡をみとめる」という言葉を残しているが、これはトックビルの認識とかなり共通する。)

・唯物論者たちは、自分たちが動物でしかないことを証明することで、自分が神になったと信じ込んでいる。・・・・唯物論は本来どんな社会にとっても人間精神の危険な病だが、ことに民主社会にとってそれは最も危険である。なぜならそれは民主社会特有の病と非常によく結びついてそれを強化するからである。
・・・・民主主義はそこに生きる人々を物質的享楽に誘い込みがちであるが、唯物論はさらにそれを思想的にも促進させる効果があり、相乗効果の悪循環を作り出しがちである。(下巻・266頁)

・ソクラテスとその学派がはっきりともっていた唯一の信仰は、霊魂が肉体と共通なものを全くもっていないということ、そして霊魂が肉体の死滅後にも不滅なものとして生き残るということである。この信仰は、プラトン的哲学に崇高な飛躍を与えることになった。・・・霊魂不滅の信条は、むしろ民主主義の時代においてこそ何より重要となっている。・・・・・宗教の多くは、霊魂不滅を人々に教えるための最も標準的な手段に過ぎない。(下巻・268頁)

・人間は、もし肉体の死と共に自分のすべてが消滅すると考えるようになると、次第に将来のことを考えようとする習慣そのものを失っていき、そしてその習慣を失うや否や、自分たちの小さな願望を、忍耐なしに直ちに実現しようとする。
・・・・つまり彼らは永遠に生きることを断念した途端に、今度はわずか一日しか生きられないかのように行動するようである。(下巻・274頁)

(実のところ未来を構想するに際して、これらほど頭の痛い問題はないと言える。人類は19世紀の諸革命以来、それまで人間精神が住んでいた来世的世界の部分を引きはらって、そこの全部を現世の物質的世界に移住させ、霊魂不滅の教義は滅亡するに任せた。しかしその代償を提供するため、文明世界は人々に不断に拡大していく物質的繁栄と人間の無限の進歩を約束せねばならず、そしてそれでも埋められない精神部分の空白はしばしば国家主義という擬似宗教で補われた。
 だが今やそれは限界に達し、世界はそれらの大半を捨てることを余儀なくされている。そうなるとわれわれは、宗教や身分制度の力によらずに「社会的秩序という奇跡」を実現する、これまで全く知られていなかった新しい社会運営技術を発明するか、それとも唯物論が科学的に誤りだったことを証明して何らかの形で健全な宗教を復活させるかという、いずれも前代未聞という点では甲乙つけがたい二つの手段の、少なくとも一方を実行せねばならない事態に結局は追い込まれる可能性が高い。どちらをとるにせよ、全く大変なことになったものである。)

民主的制度にまつわる問題について

・私の意見を言えば、連邦主義者(フェデラリスト党。ジョージ・ワシントンをその代表とする)が最初政権をとったことは、アメリカ合衆国の出生にともなった最も幸運な出来事の一つだった。
・・・・そのフェデラリスト党は、民衆的権力を制限しようと欲した政党であったが、自由一点張りの熱愛者たることを自認したほかの政党は「共和党(リパブリカン。ジェファーソンをその筆頭とする)」と呼ばれた。
・・・・前者は、独立戦争で活躍した偉人たちのほぼすべてをもっており、彼らの人格的な指導力のみがその政党を成立させていた。
・・・・しかし間もなく前者は洪水のように後者に呑まれてしまった。それは避けがたいことであった。(中巻・20頁「アメリカ連邦における政党概説」)

(あまり知られていないことであるが、ワシントン大統領ら「建国の父」たちは、「共和制」や「民主制」という言葉に露骨な嫌悪感を示し、実際当時これらはアナキズムとかテロリズムとかの言葉に似た響きをもって捉えられていたとのことである。そんな彼らにとってはジェファーソンは獅子身中の虫であり、合衆国憲法の制定も実は彼がアメリカにいない留守を狙って行われた。ところがその合衆国憲法も、後にジェファーソンらが「修正条項」をつけ加えたことで、彼らが意図したものとはかなり逆の精神をもつものになってしまったのである。)

・風習や慣習に支えられていない限り、最善の法律も最良の環境も社会に良好な状態をもたらすことはできないが、逆に風習の側がしっかりしていれば、それは最も不都合な環境や最悪の法律をもうまく利用するのである。私はこのことを確信しており、物理的原因は風習よりも少ししかアメリカ的民主政治に貢献していない。(中巻・287頁。まあ安っぽい分析ほど、ある社会の特徴の原因を気候などの物理的原因に求めやすいものであり、これはトックビルの分析態度がそうでないことの表明である。)

・民主国の人々は、「形式」というものを不要で非合理的な邪魔物とみているが、実は形式は自由のためにとても必要なものである。それは、強者が弱者に自らの意志を強要しようとする際にそれを遅らせる力をもっている。・・・・そして平等化が進むほど個々人が弱くなるとすれば、民主的民族はむしろ旧世界の貴族的民族に比べてさえ、形式というものを自分たちに重要なものとして、たくさん必要とすることになる。
・・・・にもかかわらず、民主的民族は形式というものを時代遅れのものとして軽視する傾向がある。この傲慢な軽蔑ほどに愚かで惨めなものはない。今や(社会の中にいまだに残っている)形式は、それゆえどれも途方もなく重要な価値をもつものとなっており、人類の最も多くの利益が形式に依存している。(下巻・572頁。実は私自身、この文章を読むまではその傾向や習性に捉われていたことを告白しておこう。)

・・・・私が、良く理解される必要があると感じていることは、何よりもこの、女性と男性の平等化という点である。なぜなら現代の粗雑な混乱した想像力が、これほど自由に跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)しているところは、この主題をおいて他にはどこにも見られないからである。
・・・・(今の世の中には)両性の自然的に異なる特性を無視して、男女を完全に同一の存在にしようとしている人々がいる。すなわち彼らは両性に完全に同一の職業、同一の義務、同一の権利を与えようと試みており、労働、歓楽、事務、事業などすべての点において完全に同一化しようとしている。
・・・・このように両性を平等化しようと務めることによって、彼らは両性を共に堕落させている。すなわちこのような無茶な混同からは、弱い男性と恥知らずの女性以外の何物も生み出されることはないだろう。(下巻・376頁「アメリカ人は男女の平等をどのように理解しているか」)

・(社会における)名誉をつくっているものは、人々の非類似と不平等とである。名誉は、これらの相違が薄まるにつれて弱くなり、そしてこれらの相違がついになくなった時に消滅するであろう。(下巻・429頁「アメリカ連邦と民主的社会とにおける名誉について」)


アメリカの人種問題について

・スペイン人たちは(南米で)、類例を見ないほどの残虐非道のことを行なったが、それでもインディアン種族を絶滅させることはできなかった。・・しかし北米ではアメリカ人たちはそれを成し遂げてしまっている。そしてそれは驚くばかり合法的に、博愛的に行なわれている。人道の原則をこれほどよく尊重しながら、一民族をこれほどうまく絶滅させることは、他に類例を見ないであろう。(中巻・336頁「連邦所有領土内に住んでいるインディアン諸部族の現状と予想されうる将来」)

・人種的偏見は、奴隷制が存在している諸州においてよりも、奴隷制を廃止している諸州で一層強いようである。(中巻・357頁「アメリカ連邦で黒人が占めている地位、黒人の存在によって白人が蒙っている危険」。なお、これは1960年代においてさえそうだったらしく、当時の公民権運動の中で、ある黒人が「南部での人種差別よりも北部の人種差別の方が遥かに陰険で根深くて始末が悪い」と言っていたことがある。)


アメリカ的貴族団はどこにいるか

・(かつてローマ人からイギリス人に至るまで)強力に世界にはたらきかけたほとんどの民族は、貴族団によって統導された。それは当然のことで、人民大衆はその無知や激情によって惑わされやすく、王は自身の気紛れやその死によって計画は不安定である。・・・・しかし貴族団にはそういうことはなく、それは決して死滅することのない、確乎として啓蒙された一個の人物である。(中巻・129頁。下の主題に続く。)

・もしアメリカ的貴族団がどこにいるのか、と尋ねられるならば、それは富者たちの集団の中にはいない。彼らは単に金儲けに成功した者の集まりに過ぎず、共通する永続的な相互の結び付きを何ももたない。・・・むしろそれは法律家たちの中に見出され、法学者たちは、人民が軽蔑したり挑戦したりしない唯一の啓蒙された階級を作り上げている。・・・・けれども法学者たちは彼らを引き入れる世論の流れには譲歩せざるを得ないのである。
・・・・アメリカでは法学者の力は、正当な限界を遥かに超えて社会の中に浸透して広がっており、法学者たちは一つの権力を作り上げて、社会全体を自家薬籠中のものとしている。(中巻・205頁。「アメリカ連邦における法学者精神について、そしてどうしてこの精神が民主政治の平衡力として役立っているか」。しかし彼らの拠って立つ基盤の中に実はハーモニック・コスモス信仰が混じっていたということが今や世界的大問題なのである。)

アメリカに存在する諸団体について

・アメリカではどこへ行っても「団体」というもの(政治団体のみならず宗教、思想、その他こまごましたことを目的とするものに至るまで)が見られる。・・・一般に平等が進むと各市民が個人的に弱くなり、相互の糸が失われて皆が孤立するため、団体はそれを補うために不可欠なものである。・・・イギリスのような貴族社会では大領主が担っていた役割を、アメリカでは団体が担っている。(下巻・200頁「アメリカ人が市民生活で行っている団体の使用について」)

・イギリスで貴族たちが団体を作ろうとするとき、構成員一人一人の力が強いため、その団員数は少なくて良い。だが民主的国民の場合、一人一人の力が弱いため、団体の人数は極めて多いことが常に必要である。(下巻・203頁)

・もし政府があらゆる場合(つまり道徳的・知的・商工業の活動などのいろいろな面で)について、これらの多数の自発的団体の役割にとってかわろうとすると、民主社会は大変な危機に遭遇するだろう。・・・・なぜならそれは市民の自発的団結力を衰弱させ、その結果無力化した市民は次第に政府に助けてもらおうとする欲望をもつようになり、政府はさらに多くの団体にとってかわらねばならない悪循環を生むからである。(下巻・204頁。なおこの部分は、現代の社会状態では「政府」という単語をむしろ「マスメディア」と読み換えて解釈することが必要のように思われる。)

・次の法則は、人間社会を管理する諸法則の一つとして極めて明瞭かつ重要なものである。すなわちそれは、人間が文明人であり続けるためには、社会内部で平等化が増大するのに正比例して、人々の団結の術が発展し、そして完成することが必要だということである。(下巻・208頁。なおこの部分も、その「団結の術」という部分に「マスメディアの支配力に依らない形での」という但し書きがついていないと、現代ではあまり意味がない。)

豊かさの中の不安について

・私はアメリカで、世界中で最も自由で豊かな境遇に恵まれている人々に会ったが、ところがおしなべて彼らの表情は常に暗雲のような不安に包まれており、中にはほとんど悲痛なおももちを見せていることさえあった。・・・一方私は旧世界で、極めて貧困で無知で不自由な境遇に置かれた民族に会ったが、ところが多くの場合、むしろ彼らの容貌の方が晴れ晴れとしており、陽気な気分に満ちていた。
・・・・アメリカ人たちは、この世の幸福の中にあるにもかかわらず、それを味わうことができずになお新しい幸福を求め、それを生きているうちに捉え損ねるのではないかとの不安に苛まれている。
・・・・彼らは、老後のために立派な家を建てようとするが、棟上げが行われている最中に彼はそれを人に売るのである。また彼は庭に果樹を植えるが、果実が味わえそうになった時にはこの果樹園を他人に貸してしまうのである。・・・彼はこのようにして、その不安な幸福をまぎらわすために次から次へと場所を変え、何百マイルもの旅に出かけていく。(下巻・246頁「何故アメリカ人はその福祉のさなかで、非常な不安をあらわしているのであろうか」。この現象を指摘したのは、恐らく近代西欧においてはトックビルが最初ではあるまいかと思われる。なおわれわれの場合、これに関しては碁石理論による再解釈や説明が可能であろう。)


その他の点についてのいくつかの指摘

・アメリカ人は、外国との比較となると少しでもけなされることには我慢できないようであるし、いくらほめられても気がすまないように見える。・・・・これほどにうるさく口やかましい愛国心は、とても他には想像できないであろう。これでは、アメリカ人に尊敬を払っている人々でもあきあきさせられるのである。(下巻・398頁「アメリカ人の国民的虚栄は、イギリス人の国民的虚栄よりも何ゆえに一層不安定であり、そして一層口やかましいのであろうか」)

・アメリカでは、人々は献身的であることは稀であるが、すべての人々は奉仕的である。(下巻・317頁)

・産業的恐慌の周期的な再現は、今日の民主的国民における流行病である。(下巻・286頁「殆どすべてのアメリカ人を産業的職業に向かわしめるもの」。ちなみに米国経済史では「周期的恐慌の一番最初のもの」とされるのは1837年にスタートしたと考えられており、本書の出版の3年前である。)

・分業の原理が一層完全に適用されるにしたがって、労働者は一層弱くなり、一層制限され、一層隷属的になる。・・・今日の製造業的貴族は、自らの使用人たちを貧乏にし愚かにしたのちに、恐慌の時に彼らを養ってもらうために、公共的慈善に引き渡すのである。(下巻・289頁)

・18世紀のフランスの貴族は非常に頽廃し堕落していた。それに対して他の階級は昔からの伝統や信仰の中にあって健全だった。
 ところが現在は逆に、風習の紊乱は社会の中層と下層に現われており、むしろ貴族の子孫の側で規律が守られるようになっている。・・・こうしてみると、フランスでは民主主義革命は貴族階級だけを道徳的に高めたように思われる。(下巻・373頁「地位の平等はアメリカにおいて、どのように良俗を維持することに貢献しているか」)

・平等が生み出す問題点やその暴走は、戦争のみがそれを防止する場合がある。そういう場合、戦争は民主的社会が罹る根治しがたい病を治すために必要なものとさえ考えられる。(下巻・476頁「民主的民族は何故に自然的に平和を願望し、そして民主的軍隊は何ゆえに自然的に戦争を願望するのであろうか」)

・長い平和が続いた後に突然戦争に入った場合、民主的国家は最初は弱いが、戦争が長期化するにしたがって強くなる。(下巻・493頁。奇しくもこの予言から数えてちょうどほぼ百年後の1941年、日本はこれを理解しないまま太平洋戦争に突入していった。多分当時のほとんどの日本人はトックビルの存在さえ知らなかったと思われ、対米戦で本書が米国研究のテキストとして使われたという話も聞かない。)


知的大革命の難しさについて

・民主的国民の間では、人々が互いに一層類似したものになっていくにしたがって、誰か特定の一人の人が、他のすべての人々よりも知的な優越をもつことができるという通念も、まもなく消滅していくのである。・・・・その場合には革新者がどのような者であろうと、民衆の精神に対して偉大な影響力を及ぼすことはますます難しくなっていく。それゆえにそのような社会では、突然な知的革命は稀である。(下巻・460頁)

・貴族的社会では、何か説得を行うに際しては数人の精神に働きかけるだけで十分であって、あとの人々はこれらの数人についていく。ところが民主的社会では、人々は互いにどんな紐帯によっても結び付けられていないので、説得するとなると一人一人を全部説得しなければならないことになる。・・・かつてルターは領主たちを説得することで宗教改革を実現したが、彼が平等の時代に生まれていたなら、ヨーロッパを変貌させるのに遥かに大きな困難を感じたことだろう。(下巻・461頁)

・知性の大革命に適した社会状態がどのようなものかを考えると、それは絶対的平等社会と絶対的階級社会の間のどこかの状態のうちに存在する。・・・絶対的平等社会と絶対的階級社会は、完全に両極端な社会状態であるが、ただそこでは人間精神の大革命は起こりにくいという一点においては共通する。
・・・・けれども民族史上のこれらの両極端の間には、中間的な時代、光輝ある苦悩の時代が見出される。・・・強力な改革者たちが出現し、新しい理念が世界の表面を一挙に変えるのは、そのときである。(下巻・468頁の註。)


編者あとがき

 なお、この468頁の註の抜粋でこの名言集を締めくくった理由を、「編者あとがき」というわけではありませんが、私見を交えて述べておきましょう。もっともこれは、以上の「名言集」を単なる社会学勉強の最短のツールとしてのみ受け取られる方(まあそれでも一向に構わないのですが)にとっては、少々うっとうしく邪魔な部分もあるかと思いますが、ひょっとするとお読みになって思いもかけない光景に気づかれる場合もあるかもしれません。

 トックビルはその全般的な論調において、社会と大衆の均質化が進み過ぎると、社会が「多数者の短期的願望の極大化」によってコラプサー化するのみならず、そこから脱出するための変革や知的革命さえも不可能になってしまうことを懸念しています。
 そして現在の社会(ただしイスラム世界を除く)を見ると、トックビルが言うように確かに人々や大衆が完全に均質化して液状化してしまっており、彼のいう如く、回復のための大きな知的革命は不可能であることがほとんど明白という、憂うべき状況となっています。

 そうだとすれば、逆に言えばどこかにその均質化を免れた小集団が存在しない限り、脱出のための如何なる戦略も最初から立てようがないことになり、まずそれを何とかして探し出すことが死活的な鍵だということになります。

 ところがその中にあって理系専門家の集団というものを見るとき、それはいささか盲目的なギルドと化しつつも、それでも大衆とは異質な知的小集団を維持しており、なおかつ名目的にはまだ敬意を払われているという点で、今やこの大衆社会の中に僅かに残された最後の独立集団となりつつあるように私には思われます。

 ただしトックビルのこの註の内容に照らして見る限り、今のままではそれは全く力にはならないことがわかります。
 それというのも現在の知的状況というものは、まず大衆同士の相互関係について見てみると、そこでは平均化が進んで、先ほど引用した部分の「絶対的平等社会」に近い状況が見られます。
 しかし一方、大衆と専門家(特に理系の)の関係についてみると、そこには大衆が越えられないとされる知的な壁が存在して、専門家たちはその中に守られて安住しており、その点に関する限りでは一種の「絶対的階級社会」に近い状態が見られます。つまり双方が別個に安定状態を作っていて、その外には出ようとしないからです。

 ところがこれまでこの理系小集団は、ハーモニック・コスモス信仰というものをその共通信仰としてもっており、それが少なからずこの安定状態に寄与していました。(そしてそれにいまだにしがみついていることが、もはや社会の中で真の尊敬を得られなくなっていることの最大の理由です。)
 しかしもしそれが単なる信仰に過ぎなかったことが数学的に証明された場合、恐らくその信仰が揺らぐことで一時的にせよ、その内部と周囲に何かが起こる可能性が高いと言えます。つまり、ごく短い間ではありますが、トックビルの言うその「光輝ある苦悩の時代」がこの世界に生じる可能性があるわけです。

 一般に歴史的に見ても、社会の中に存在していたある階級や集団が壊れたり揺らいだりするとき、その集団の中と外の双方に力が生まれて、しばしばそれが壊れる瞬間に(原子核が壊れる場合に似て)大きな光とエネルギーを放つものです。(さしずめ明治維新などは、武士階級そのものが壊れて消滅する際のエネルギーが最大限に輝かしく燃焼させられた例でしょう。)

 しかしそのエネルギーはただ無駄に燃やされてしまう場合もあります。われわれの場合も、それが無自覚にただ専門家の権威を失墜させることのみを目的に、大衆社会に雑文を売るぐらいのことに終始した場合、ただハーモニック・コスモス信仰を自然消滅させて、この社会に残っていた最後の独立集団を抜け殻のようなギルドに変えるだけのつまらない結果に終わるでしょう。

 そしてそれが魂を失って単なる職人として大衆社会の中に最終的に埋没した後は、例えば日本のような国で何か一つでもトックビルの言う特殊な小集団が残るかははなはだ疑問と言わざるを得ません。かと言って、ハーモニック・コスモス信仰の滅亡それ自体はもはや予定された避けがたい運命で、遅かれ早かれ必ずやってくることです。

 そうなると、この人類社会に最後に残った貴重な閉鎖的小集団の存在を最大限に利用し、その精神的コアの一部が壊れる瞬間を捉えて如何に大きなエネルギーに変換させるかは、今や余りにも重要なこととなってしまっています。
 そして同時に、われわれが文明社会のどれほど死活的で重要な最後の一線付近に立たされているのか、そしてもしそれを逸すれば、後に広がる不気味な底なし沼が如何ほどのものかを、トックビルを読むたびに自覚させられていささか目眩いを覚えるのです。

 ところがそうは言うもののいざ現実に周囲を眺めてみると、大衆社会も専門家社会の中もこの光景自体を見ようともしない大勢の人々で満ちており、そのため行く手に何があるかを見てしまった一握りの人間は、必ずその面でも苦悩を強いられることになるでしょう。
 しかしそんな時、実は自分たちが今見ているものこそが、まさしくトックビルの言う「光輝ある苦悩の時代」の光景そのものなのであり、これは皮肉にもその真っ只中にいるが故の苦悩なのではあるまいかと気づかされて、かえってある種の確信をもつこともしばしばあるのです。