・少しでも数学のできる方、必読。「対角化解法」の構想について
これから述べることは、およそ数学というものを一度でも面白いと思ったことのある理系(およびその周辺)の人々にとって、極めて耳寄りな話なので、是非一度目をお通しになることをお勧めします。
それは、今回新設する第二支部と、そこで行なわれる「対角化解法」に関する計画に関することです。 この計画は、「物理数学の直観的方法」の中で述べた「微分方程式の対角化解法」という技法が、今後の数学の世界において恐らく極めて重要なものとなる予想されるため、それをわれわれが共同作業で体系化・完成させてしまおうという壮大な構想です。
そしてその際には広く皆さんからの仕事を募集して、論文と同じような扱いでここに掲載していきます。つまりこのHP自体が、それを扱う学術誌の機能を変則的な形で代行してしまおうというわけです。
これは比較的誰でも参加することができ、しかも最終的な意義が極めて大きいという点で、極めて注目すべき試みであると思われます。では以下にその具体的な構想を述べていきましょう。
対角化解法そのものについて
まずその「対角化解法」とは何かということですが、これは「物理数学・・・」第2版の第11章で紹介されたもので、微分方程式を作用マトリックス形式で表現し、それを対角化することで実際に微分方程式を解いてしまう手法のことです。
実のところ微分方程式を解く方法というものは、18世紀をピークとして19世紀までにあらかた出尽くしていたと思われていたのですが、ところがここにそれとは別にもう一つ、「対角化解法」という解き方があったという話になるわけで、意外な掘り出し物が眠っていたと言えるわけです。
そして「物理数学・・・」では216頁で実際にそれを使って、簡単な連立微分方程式を解いてみせましたが、実を言えばおよそ解ける微分方程式というものは、作用マトリックスで書いた時に必ず対角化が可能でなければなりません。逆に言えばわれわれの知っているほとんどの微分方程式は、対角化解法によっても解く方法があるはずだということになります。
そこでわれわれがこれからやろうとしているのは、これを拡張し、大学の教科書に載っているリッカチ型やベルヌーイ型の微分方程式などのそれぞれについて、残らずその対角化解法を編み出してしまおうということです。
対角化解法の秘める巨大な意義 もっとも一見すると、そのようにすでに解が知られている方程式にあらためて別の解法が見つかっても、それは単なる書替え以上の意義はないようにも思えます。しかしその感想は、ちょうど例えば鶴亀算だけに一生取り組んできた和算家が、一次方程式という手法でもそれを解けると聞かされた時の感想にどこか似ているかもしれません。実際そこに秘められている意義は、それより遥かに大きなものがあると思われるからです。
それではこのようにすでに解が知られている方程式について、あらためて対角化解法が判明することにはどんな意義があるのでしょうか。以下にその隠された大きな意義を見てみましょう。
(1)数学思想という点での意義
その意義は思想面と実用面に分かれることは無論ですが、まず先に思想面の方を簡単に述べておきましょう。 これについては以前にも何度か述べたので一部重複しますが、とにかく作用マトリックスの体系というものは、それを時間的に静的にすれば普通の代数になり、二行二列化すれば普通の関数になります。つまり二つの別種の特殊化によって、それぞれ代数と解析に帰着するという、大きな数学思想的意味があることになります。
そして特に後者、つまり関数や微分方程式というものが、実は作用マトリックスという、より一般的な概念を特殊化したものに過ぎないという考えの、いわば最大の論拠となるのが対角化解法だというわけです。
ところで数学の世界の現状について言えば、どうも数学思想という面で現在それは混迷の極にあり、将来何らかの形で再整理されることは間違いありません。 例えば微分方程式とかかわりの深い分野だと、非線形解析という分野では現在、基本的に「可積分」という概念で議論が行われており、外から眺めると一見凄そうですが、実はよく見ると要するに上三角行列にできる特殊な系を探しているに過ぎません。そのため将来はこれら全体が作用マトリックス形式で書き直されていく公算は五分五分以上でしょう。
また同様のことはカオス理論や複雑系についても言えて、それら全体が結局は作用マトリックスを使って根本的に書き直され、現行のものはいわば余計な寄り道という形で、いずれここに吸収合併されていく公算は大きいものと思われます。
そしてこの場合いずれにせよ、微分方程式というものが作用マトリックスの特殊な一形態であるという思想が鍵になるわけですが、その際に普通に解ける方程式すべてについてその具体的な対角化解法が知られていることは、背後からそれらに大きな説得力を与えることになり、哲学的にも大きな意味をもっていると言えるでしょう。
(2)判別法の決定版としての意義
次に応用面から見た意義です。まあ簡単な方程式を紙の上で解くだけならば、わざわざ対角化解法を用いるとかえって手間が面倒になる場合もあり、その面では必ずしも従来の方法にとってかわるほどの意義はないかもしれません。
むしろ対角化解法の意義は(その考え方がもともと三体問題から発しているのを見てもわかるように)、それを使えば微分方程式が解けるか解けないかを一瞬で完全に知ることができ、いわばその判別法の決定版となりうることです。
特に、「物理数学・・」でも述べた「スイッチ演算子」という概念を導入すれば、それは非線形方程式にも拡張でき、その演算子が上三角型の配置になっているかどうかを調べるだけで、あっという間にそれを判別することが可能となります。
そしてこれは単なる判別法というより、むしろそれによって微分方程式という世界全体を俯瞰できるようになるということの意味の方が強いと言えるでしょう。 そしてこの観点から過去の数学史を振り返ってみると、例えば二次方程式の歴史などにおいては、「解の公式」の登場がいわば決定的なエポックでした。それが発見されたことで、いわば二次方程式という世界全体が俯瞰できるようになったからです。
そう考えると、対角化解法に基づくこの判別法は、微分方程式の世界の中でそれに近い決定的ツールとしての地位を得ることは十分あり得ると言ってよいでしょう。 そしてここでもやはり、普通の微分方程式が全部対角化解法で具体的に解けることが示されていることは、説得力の点で欠かせません。
(3)解ける局所系を最短距離で発見する法
またもっと現場に近い実用面においても、対角化解法の体系が完成することは極めて有用です。例えば一般にかなり複雑な系の場合、全部を数学的に解くなどということはまずできないものですが、そういう場合でも一部だけをピックアップすれば、そこだけは局所的に普通の微分方程式で解けるようになっている場合があります。
ところがそういう場合、従来はいちいち人間が、この要素とこの要素だけをピックアップして局所系として扱えばこういう微分方程式が立てられて・・・などとその都度別々に理論化していかねばならず、無闇に分厚い代物になってしまっていました。
ところが対角化解法が整備され、そうした方程式それぞれについて作用マトリックス表現が知られていた場合、系全体を表現する大きな作用マトリックスを書いてしまえば、その中にそれらと同じパターンがあるかどうかを探すだけで、系の中のどことどこにそういう微分方程式で表現される局所系があるかが、一目瞭然ですべて把握できることになります。
大体においてほとんどの系はもともと数学的には解けないものですが、それでもそこから何らかの情報を得たいと思ったならば、いくつかの補助的な手法を総合的に組み合わせて状況を大まかに判断していく以外にありません。そしてその際にそのような局所系の存在を最短距離で迅速に洗い出す方法が存在することは、大きな助けになることでしょう。
意義(4)・ソフト化の場合
そしてまたこの手法は将来当然何らかの形でソフト化されるはずで、例えば系全体の作用マトリックスを入力すると、解ける部分系を迅速に洗い出して、それをリストの形で人間に注意してくれるようなソフトウェアはいずれ作られるものと思われます。
ただしこのソフトは、あくまで人間の注意力を補佐するためのものに過ぎず、そういった意味ではその機能は限定されていますが、そのことは人間と機械の共存関係という点ではむしろ望ましいと言えるかもしれません。
考えてみると、ただ数値を求めるだけならコンピューターを力まかせにぶん回せば良いはずなのですが、ところがもし人間の側がその過程を追い切れなくなって、ただスーパーマーケットのレジのようにはじき出される数字を眺めるだけになってしまうと、その作業は結局何の成果ももたらさない場合が多いものです。
それに対してこちらは、あくまで人間側が主役であり続けるため、良くも悪くもそういう問題は生じにくいと思われます。 ただし無論この場合、人間側がどのパターンがどの微分方程式に相当するのかを知っていなければ話にならないわけで、そのためいずれにせよその表現法を人間が紙の上で扱えるようにしておくことは、実用上、極めて重要なこととなります。
作業の最も重要なポイント こう見てみると、対角化解法の体系を完成することは、単なる数学的な言い換えどころの話ではなく、思想面でも実用面でも極めて大きなものをはらんでいると言って良いと思います。
そしてこの体系を整備していく作業において最も重要なのは、実は必ずしも、今まで解かれていない難しい非線形方程式を対角化解法で解くことではありません。むしろすでに解けることがわかっている微分方程式について、それを対角化解法で表現し直すことの方が重要なのです。
実際それらの見慣れた微分方程式がどれも対角化で解けることが示されていれば、思想的観点からは、実は微分方程式なるものが作用マトリックスの特殊な形態に過ぎないということの、何より強い説得力になりますし、実用的観点からもそれらのパターンがすべて知られていることがとにかく必要です。
つまりそのため最初に述べたように、リッカチ型やベルヌーイ型など、よく知られている微分方程式についてそれぞれの対角化解法を編み出し、その作業に大勢の人々の力を結集していこうというわけです。
この作業の秘める抗し難い魅力 ところで、仮にそれが秘める巨大な意義を別にしても、およそ数学の面白さというものを少しでも知っている人なら、この作業自体がどれほど魅力的なことであるかはご理解いただけるでしょう。
まずこの作業の場合、実はそれほど高度な予備知識は必要ではありません。大体学部2年レベルの解析と線形代数の知識があれば十分と思われ、あとはパズルを解く要領でじっくり取り組めば良いのであり、そういった意味では、これは割合に誰でも参加できるゲームであると言えます。
そして先ほど述べた意義を考えると、何十年かして数学の演習書が書かれたとき、それらの成果の多くはそこに収録されて、長く伝えられると期待してよいでしょう。 大体において学問の歴史においては、大きな突破口が出来た直後にそういうおいしい獲物がまとめて生じることがあり、例えば量子力学の場合で言うと1920年代に、量子力学の数学的表現が解析力学の体系を一定のルールで書き換えていくだけで作れてしまうということが判明して、皆が一斉にその作業に取りかかっていた時期が、ちょうどそれでした。
ディラックはその時のことを「それは誰もが参加できる興味深いゲームでした。当時はどんな二流の物理学者でも、一流の研究を大変容易に行うことができたのです。それ以後そんな素晴らしい時代は二度とありませんでした」としみじみ述懐しています。
一方解析学の場合、皆がその醍醐味を味わうことができたのは、18世紀のオイラーなどが活躍していた時代のことだったでしょう。実際皆さんがご自分の記憶を振り返っても、数学を学んでいた時に一番面白かったのは、恐らくその18世紀あたりの微分方程式を解くことではなかったと思われます。
ところが今まさに、それに似た作業に自分自身が参加できるかもしれないという話が、ここに降ってわいたようにもち上がってきているわけです。 おまけにそれは実は確実に解けることが保証されているパズルなのであり、迷宮に迷い込んだあげく結局徒労に終わるということはまずないでしょう。
つまりそれらの魅力的な獲物はすでに背後から囲い込みが終わっていて、ほとんどが射程の中に入っており、あとはもうこの絶好のポジションから射的よろしく片端から狙い撃ちにしていくだけで良いのです。
レフェリード・ペーパーの問題点 ところがそんなに魅力的な試みであるにもかかわらず、現時点で最大の問題は何かといえば、実はそれを受け入れる専門誌がないことです。大体現時点ではそもそもそれらのレフェリーがまだ作用マトリックス理論の存在を知らないのですから、本格的な専門誌がこれらを受け入れられるようになるには、今しばらく時間がかかると思われます。
というよりそれ以前の問題として、現在の大部分の学術雑誌(レフェリード・ペーパー)のたこつぼ化は、ほとんど救いがたいレベルに落ちこんでしまっており、どの分野もいたずらに末端を高度に複雑難解化させていった結果、すでに袋小路に陥った在来型手法の末端をさらに延長した仕事以外はほとんど受け入れることが不可能になってしまっている有様です。
そこでこの際いっそのこと、このHPでそれらを受け入れてしまい、このHP自体に一時的に専門誌の代行をさせようというのが、われわれの構想です。 もっともあまり複雑なものについては無理なので、受け入れる問題は最初から比較的簡単なもの(簡単な検算で検証できるもの)だけに限定し、こちらで簡単なチェックを行った後に、受信日の日付と供にそれらをここに掲載していこうというわけです。
今のところはそれは制度上、何の正規の認可にもつながるものではありませんが、もし将来この対角化解法の意義全体が広く認められるようになった場合、個々の仕事があらためて論文と同等の価値をもつものとして評価の対象になるというのは、十分考えられることです。
そしてとにかく現在、この対角化解法の成果を発表できる適当な媒体はほかに世界中どこを探してもありません。 大体考えてみると、現在の一般のレフェリード・ペーパーに投稿される論文の平均読者数が1.5人と言われる中で、曲がりなりにもこのサイトのアクセス数が現時点で2万数千を超えていることを考えると、実質的効力の点で事実上そう遜色はない理屈なのです。
ただし無論これらの措置はあくまでも一時的なものであり、作用マトリックスというものが一般に受け入れられるようになった時点で、その役割は本格的な雑誌に引き継がれることになります。
日付の記録 ところで一般のレフェリード・ペーパーがもっている大事な機能の一つが、誰が先にそれを論文として書いたかをはっきりさせる役割であり、普通、学術雑誌では論文受理の日付がその証拠となります。
そこでこのHPでは、受信日の日付をその代用とし、それを明記して掲載することでとにかく証拠としてそれを残し、将来本格的な雑誌に引き継がれた際に何らかの形でその日付が生きるよう取り計らいたいと考えています。
まあこのHPの場合、とにかくこれだけ多くの人が見ているサイトですから、まず日付のごまかしは不可能で、少なくとも「常識的に考える限りは」それを証拠として主張することには十分な正当性があるはずです。
もっともこれまでありがちだったことから考えて、欧米側がちゃんとフェアプレー精神にのっとってそれを認めるかどうかに疑問符をつける方もあるかもしれません。確かにそういう場合、さすがに直接的にはちょっと打つ手はないのですが、もしそういうことであるにせよ、とにかく日本国内で素晴らしいものを先に完成させてしまうことに専念することが唯一の対抗策でしょう。
ともあれ発表媒体がなければ学問の育てようがないわけで、現在の硬直した状況下では、学問の揺籃期にこうした変則的な手段で少なくともそれを一時的に代行することは、もはや客観的にみて不可欠とさえ言えるわけです。そして以上を見る限りでは、このHPには十分その機能が備わっているとみて良いと思います。
そしてその受入れは、この本部のHPではなく、今回新設した第二支部で、それを専門に受け付けることになっています。
最後に、ちょっとした指摘
ここでちょっと、一つ注目すべきことをお話しましょう。それは、「作用マトリックス」というものについて知っている人間の人数が、すでに少なくともこの国に3000人を超えているという事実です。
大体において、ある事柄なり理論なりの存在を知っている人間の人数がせいぜい数十人程度に過ぎず、それがこの喧騒に満ちた世の中で注目を浴びないままでいると、多くの場合それがその当時存在していたという事実さえ、やがて時の流れの中に消滅していくことになります。
ところがそれが数百人のレベルを超えてやがて1000人程度に達すると、それはまだ世の中を動かすほどの十分な力はないので一時埋もれてしまうことはありますが、本当に価値のあるものである限り、それが存在したこと自体はその1000人のどこかから必ず伝えられ、最終的にその事実が埋もれてしまうことはまずなくなるものです。
そしてそれを知る人数が3000人を超えると、たとえ最初はゆっくりでも、どこかで何らかの動きが始まるものだと言えるでしょう。 だとすると、作用マトリックスの場合、その3000人のラインは超えているため、もはやこの世界からその刻印が消え去ることはなくなったことになりますが、ところがそれなら一安心というわけにはいかないのが、この話の厄介なところです。
それは、その先に横たわるもう一つの壁、すなわち「日本で独自の学問を育てることの困難」に関しては、まだそのラインを超えてはおらず、いわば中途半端な位置にあるということです。
これまで何度も日本で起こったことですが、今までにせっかく日本で独創的なものが生まれていたのに、宣伝力や支援体制の不備で結局、後発組の欧米側が全部の手柄をもっていってしまい、日本側が何十年もたってから負け惜しみを言うが一顧だにされない、ということがしばしば起こっていました。
恐らくそれに属する話は何か一つはお読みになったことはおありだと思いますが、そういう場合、どうしてこの時もっと皆が一丸となって組織的に盛り上げていかなかったのかという苛立たしい思いにかられるものです。
そしてしばしばその思いは、むしろその中心にいた人々に対してよりも、意外と周囲にいて何もしなかった傍観者の方に向けられるものであり(事実、斬新な構想を屑かごへ捨てた役人は常に歴史の悪役です)、当時その動きの中心よりも少し外側にいる、誰か一人の人間がキーパーソンになっていて、その人がどう動くかで結果が分かれていたという例が結構あるものです。
しかし当時それを傍観していた人たちは、まさか後世に自身がそういう非難の対象になるとは想像もしていなかったでしょう。 そしてその人の立場からすると、いっそ当時それが日本で生まれていたという事実全体が、まるごと埋もれて未来の誰にも知られなければ、傍観者として無傷で逃げ切れたはずなのですが、中途半端にその事実が残ったために、思いもかけず自身が登場人物の一人(しかも悪役)として未来の誰かに見られる破目になったわけです。
まあそれはともかく、こうしてみると作用マトリックスの場合、前方の大きな壁はまだ超えていませんが、その存在を知る人数が3000人を超えている以上、どうやらすでに「未来から誰かが見ている」中途半端な段階には入ってしまったと見ねばならず、ある意味でもう引っ込みはつかなくなっていると思った方が正解でしょう。
つまりもう誰もが傍観者でいられるというわけではなくなっており(やれやれ、とは思わないでください)、前方の壁を皆で突破していく以外に選択の余地がないことになります。
では果たして今回はその前方の壁を越えられるものかどうか?いずれにせよそれは、この国の知的能力の真の実力がどの程度だったのかを示す一つの試金石とも言えるのであり、それをどうやら歴史が遠くから見ているらしいということは、心のどこかに留めておくことにしましょう。
何はともあれ、この試みの行く手にあるものは、いずれにせよ良くも悪くもかなり大きなものだということだけは言えそうです。それを踏まえて、是非積極的な対応を期待したいと思っています。
ではこの後のことは第二支部の方に引き継ぐことになりますので、そちらをご覧ください。
20020525 長沼伸一郎