海軍の使用法・その2
 巨大陸軍国への対抗戦略

※チーム専用ページに掲載中ですが、ここではそのサワリの部分を紹介します。
希望が多ければ、一般公開に移すことも検討します。

 海軍の使い方としては、次のようなものがむしろ決定的効果を持つ。例えば英
国史においてそれが見られる。地図の上から見るとドーバー海峡などというもの
はほんの僅かの幅しかなく、実際人間が泳いで渡れるほどである。ところがその
海峡の制海権を持っていたがゆえに、たとえ対岸に百万の敵陸軍があってもその
僅かの距離を渡らせなかった。つまり貧弱な陸軍しか持たない国が強大な陸軍国
に対抗し得たのである。ここではギリシャ史を最初の例としてそれを見てみよう。

PART1 ペレポネソス戦争史
PART2 フェニキアの都市国家テュロス


PART1 ペレポネソス戦争史

 ペルシャ戦争が栄光に満ちた戦争であるのとは対照的に、続いて起こったベレ
ポネソス戦争はギリシャ世界のもつ不徳の一切を集めた陰惨で絶望的な戦争であっ
た。これは実に27年間にわたった戦争であり、一応はアテネの敗北で終わるが、
事実上勝者はなかったと言った方がより実情に近い。
 ペルシャ戦争終結からペレポネソス戦争勃発に至るまでの過程は、第二次大戦
後の東西対立の模様とよく似ている。つまりアテネがアメリカ、スパルタがソビ
エト、そしてペルシャが(親模の違いはあるものの)ドイツをはじめとする三国
同盟に相当する。
 ペルシャ戦争の敗北によって、ペルシャは滅びはしなかったものの国内は支配
がゆるんでがたがたになり、またエーゲ海の制海権も失ってギリシャを脅かすこ
とが事実上不可能となった。このため、戦争中は結束して戦ったアテネとスパル
タは共通の敵を失い、次第に角突き合うようになった。
それに伴い、これら両雄は他のギリシャ都市国家を自分の陣営に組み入れ、二
つの大きな同盟勢力が形成されていった。アテネ側のものがデロス同盟、スパル
タ側のものがペレポネソス同盟である。要するに前者がNATO、後者がワルシャ
ワ集約機構なのだが、ちなみにこの場合デロス同盟には冷戦時代のNATOより
も悪玉くさいところがあった。
 デロス同盟はもともと、サラミスの海戦で勝利をおさめたアテネ艦隊がエーゲ
海からペルシャ海軍を閉め出すために、エーゲ港諸島の都市国家を集めて海上同
盟勢力としたことに端を発している。デロス同盟の不幸は、敵であったペルシャ
帝国の力が急速に減退したため、本来の目的が失われて次第にアテネの海上支配

の道具に堕してしまったことである。
 他の都市国家は自前の艦隊を整備するよりアテネ海軍増強のための責納金を出
す方が安くつくため、同盟の中でアテネだけが巨人となってしまい、怖いものが
なくなったアテネは専横の限りをつくす。同盟のために集めた金を勝手にパルテ
ノン神殿の建造費用に当てたりアテネの財政赤字の補填に流用したり、あげくの
果てにその軍事力で脅しをかけ貢納金の増額を迫ったりと、国自体がやくざの
ような真似を始めてしまった。
 当然他の都市国家はこの専横に腹を立て、アテネの支配を脱するため、スパル
タを中心にペレポネソス同盟が対抗勢力として形成されていく。

ペルシャという脅威が消え去った以上、ギリシャ世界が二分されていがみ合い、
やがて火を吹くのは力学的必然である。なおわれわれは、特に十分な知識を持た
ずにギリシャ史を見る場合にはとかくアテネにひいきした見方をしてしまう。し
かし大義名分という面からこの戦争を見ると、多分に支配者アテネに対する解放
戦争という色彩を帯びていたことは事実である。実際もしスパルタ側が筆力のあ
る史家をもっていたならば、そういう主題のもとにこの戦争を記述しただろう。

ペリクレスの戦略

 開戦直前の雰囲気は以上のようなものであったが、ともあれ力学的には二大勢
力の必然的な対決であるとともに、貧弱な陸軍しか持たない海軍国アテネと十分
な海軍力をもたない陸軍国スパルタという、全く異なる文明同士の対決としての
性格ももっていた。(ただしこのときギリシャ世界が海洋国と陸軍国にきれいに
色分けされて二分されたわけではない。例えば海軍国としてのメンタリティをも
つ国がアテネの横暴ゆえに一人前の独立した海軍国として生きることを許されな
い場合、彼らがスパルタを敵よりも味方として見たとしても不思議はない。)

 それゆえアテネ側の戦略は、陸軍を十分にもたない海軍国が強大な陸軍力に対
していかなる方法で対抗するかという主題を浮き彫りにする格好となっている。
結果から見る限りこの戦争はアテネの敗北で終わったのだから、戦略が間違って
いたと考えられがちであるが、実際にはそうではない。実はこれは最良の戦略を
最悪の政府と市民が運用した結果であるというのが最も正しい。
 この27年におよんだ長い戦争は大体三期に分けられる。しかしアテネ側の基
本戦略はペリクレスが戦争前に長い時間をかけて準備しておいたものが事実上全
期間にわたって用いられた。それは実際にそれほど優れたものだったのである。
 ここでペリクレスのポートレートを描いておこう。胸像が伝えられていて、そ
れは兜をかぶった姿だが、これは長すぎて格好の悪い頭を隠すためであったと言
われている。名門の生まれで若くして頭角を現し、貴族的で冷たく近寄りがたい
雰囲気を漂わせていたが、演説を行なわせると神々しいまでに堂々としていたと
伝えられる。開戦二年目に戦没者追悼のため行なった演説の内容をトゥキデディデ
スが伝えているが、格調が高く、戦争中の演説であるにもかかわらず敵国スパル
タを罵倒する台詞がないのは驚くべきことである。
 実際彼はいわゆる「大衆政治家」の水準からは余りにも突出した存在だったた
め、そういう下品な手段に頼る必要がなかった。トゥキデイデスいわく、この時
期のアテネは名目上は民主政だったが実質上はペリクレスによる独裁であった。
それをアテネ市民が認めざるを得なかったというのも、結局そこまで畏敬される
べき人物であったためであろう。逆に言えばそれはペリクレスがいかに当時の他
のアテネ市民に似ていなかったかということでもあるわけだが。
 ではそのペリクレスが採用した戦略とはどんなものだったのだろう。それは次
のようなものであった。まず強力なスパルタ陸軍との決戦になったらアテネ陸軍
には勝ち目がない。それでどうやってアテネを防衛するか。
 このためペリクレスはアテネ市街と海岸線および軍港をつなぐ二本の長い城壁
を築き、郊外の農地に住む市民を全部城壁の内側に収容するという大胆な方針を
考えたのである。スパルタ軍は野戦には強いが攻城戦では必ずしも名手というわ
けではなく、アテネ軍の実力でもこの城壁に依れば十分に防ぐことができる。郊
外の農地は放棄してしまうから今までのようにそこから食糧を得ることはできな
いが、港と海岸線は市街とつながっているから、船で外から食糧を搬入すること
は自由にできるし、城壁の内側では平時と同様に商業を営むこともできる。つま
り食糧の補給を黒海方面からの輪入に頼っての長期の大親摸な篭城戦なのである。

 こうして陸上では完全な持久体勢を整え、海上では海軍力の絶対的優勢を活か
してスパルタ側のギリシャ沿岸を荒らしていく。これをスパルタが参るまで何年
でも続けるのである。
 これは軍事的に見て最高の戦略であり、ペリクレスが生きていれば実際に勝つ
ことができたろう。しかし意外にも現実の歴史はその予期されるコースを裏切っ
ていくのである。なぜそんなことになったのだろうか。

(以下略)



PART2 フェニキアの都市国家テュロス

歴史上このような戦略を採用したのは実はアテネが最初ではない。あまり知ら
れてはいないが大先輩がいるのである。それはフェニキアの都市国家テュロスで、
ベレポネソス戦争の実に五百年以上も前のことであり、またフェニキア海軍は、
せいぜい五十年程度の歴史しかもたないアテネ海軍の十倍以上の歴史をもっ
ていた。
 しかし彼らはギリシャ人たちとは違い、歴史を書き残すということにあまり関
心をもたなかったため、その模様は旧約聖書をはじめ他の民族の史書によって伝
えられる。彼らは当時の世界から見ればよほどの変わり者で、領土的野心をほと
んど持たず、商業を手中におさめることでその代替とするという姿勢を一賞して
とっていた。現代の商業人の感覚からはおよそ正反対であるが、このような状況
下では日立たないことが商業発展と生き残りの鍵である。目立つ存在になればた
ちまち君主の大軍団に収奪されてしまう。広告という概念は彼らの忌むところで、

歴史を書き残さなかったのもこんなところに原因があるのかもしれない。
 彼らが自分の文明について語らなかったため、彼らが精神的に何を求めて生き
ていたのかを外から知ることは難しい。表面的には彼らは商業を求めて生きてい
た。しかし個人個人がひたすら金儲けを愛する拝金主義者であったかといえばそ
れは違うように思われる。彼らは偉大な航海者でもあった。例によって記録が十
分にないが、地中海を出てアメリカ大陸にまで達していたのではないかとの説も
あるほどである。
 実際彼らの探検範囲は驚くべきものであり、例えばシャイロックならそんな冒
険に手を出すとは到底考えられない。しかし一方そんな冒険野郎なら陸上でも覇
権を目指したがるのが普通である。結局のところ彼らにとって商業が目的で海が
手段だったのか、海が目的で商業が手段だったのか、そこのところは結論が出し
にくい。ともあれ一つ言えることは、彼らは陸上の人間が持つような夢や政治的
理想に熱くなることはなかったということである。それだけに彼らはギリシャ人
より現実的であり、政策や戦略も老練であったといえる。
 前述のようにフェニキア人たちは大きな領土をもたず、都市を作って住んでい
た。ビュブロス、シドンなどがそれで、テュロスはそれらのうちの一つである。
テュロスにとってペリクレスに相当する人物はヒラム王であった。
 これらのフェニキア都市が海岸に作られていたことは勿論であるし、市の外周
に城壁があったことも言うまでもない。しかしヒラムは今の状態では防衛能力は
十分でないと判断し、ある時市全体を沖合にある島に移す決定を下したのである。
この島の大きさは周囲約4.5kmの小さなもので、海岸からの距離は600mほ
どだった。ペリクレスの城壁が囲んでいた面積は外周の長さで大体25kmぐらい
だから、アテネの場合よりもずいぶん小さい。しかしヒラムはここに住民を移住
させ、さらに島の上の都市を堅固な城壁で囲んだのである。
 食糧を船で外から輸入して運んでいたことは当然だし、それを護衛する艦隊も
以前から整備されていた。しかしこうして根拠地に堅固な防備を施したことによ
り、テュロスは他のビュブロスやシドンなどの都市にはない政治性を備えること
になる。
 ヒラムが城壁を築いたころ、内陸部ではソロモン王などが活躍していたが、ま
だそれらの国のサイズはそう大きなものではなく、中程度の国家が互いにしのぎ
を削っている段階だった。そのためこれらフェニキア都市のあるレバノン沿岸は
ある種力の真空状態のようなもので、彼らは過度に軍事に巻き込まれることなく航

海や商業に専念することができた。
 しかしアッシリア帝国の勃興が、この状態に終止符を打つ。オリエントにも世
界帝国の時代が訪れたのである。
 フェニキア都市は大体前870年ごろにアッシリアと接触し、独立や商業の自
由を保証してもらうかわりに帝国に対して便宜をはかるという形で、しばらくは
平和的に共存していた。しかしそんな政治的独立の保証などというものはそうは
長くは続かない。前700年ごろには両者は軍事的に衝突をはじめる。

 テュロス以外のフェニキア都市は、城壁があるとはいってもしょせん陸続きで
あり、アッシリアの大軍には抗するべくもなく、その支配を受け入れる。しかし
テュロスは違った。たとえ幅わずか600mとはいえ、海によって陸から隔てら
れていたことがテュロスに独立を守ることを決意させたのである。
 これが無謀な企てでは必ずしもなかったことは結果が示すことになる。アッシ
リアの陸軍がいかに大軍であっても、それらはとにかく海を渡ってから城壁にと
りつかねばならない。テュロスの城壁はかなり堅固なものだったから、たとえそ
れが陸地にあった場合でも相当本願を入れてかからねばならなかったろう。まし
てこの場合攻城用機材を陸揚げする作業が余計に加わり、おまけに兵力が上陸す
る最中は本来極めて弱いものである。さらに別の問題として、大軍であればある
ほど、それを一度に上陸させるだけの船を調達することは難しくなる.一方海上
補給路さえ確保しておけば、テュロスの側は事実上何年間でも篭城は可能である。
 したがってこの場合も艦隊を失えばテュロスは生命線を断たれる。そのためも
ちろんアッシリア側は軍艦をかき集めてテュロスの海軍力をつぶしにかかり、そ
れを迎え撃つテュロス艦隊との間に海戦が展開された。ラーデ海戦やサラミス海
戦に先立つこと200年以上も前のことである。
 この海戦でテュロスは勝利をおさめ、市も陥落しなかった。つまりアッシリア

の大軍に対して一応勝利をおさめたのである。もっともテュロスが対岸の陸側に
もっていた市の一部やその後背地はアッシリアに奪われたであろうし、またアッ
シリアが体面を致命的に傷つけられることなく軍を引くためには、内実がどうあ
れ名目上はテュロスを降したということにしておかねばならない。そして現実的
なテュロス人がためらいなくその条件を整えてやったろうということも、また想
像に難くない。
 いずれにせよ、シドン等がアッシリアの属領化したのとは対照的に、テュロス
は独立を守った。そうこうするうちに、アッシリア帝国は滅亡してしまった。前
612年のことである。
 アッシリアがテュロスを降せなかったこと自体は、別に帝国に大きい手傷を負
わせたわけではなかった。アッシリアにとってテュロスはそんなに重要な存在で
はなかったし、テュロスはアッシリアに大打撃を与えるには小さすぎたのである。
しかしこの最終的結末を見るならば、このちっぽけな都市は独立を保ってアッシ
リア滅亡後も生き延びたということで勝者であったと言える。
 一方アッシリアが滅亡した後、内陸では新バビロニア帝国が勃興しつつあった。
そしてそのネブカドネザル大王の治世に、テュロスは正面からバビロニアの軍事
力にさらされることになる。

 今回の状況はアッシリアの時より遥かに厳しかった。ネブカドネザルの軍隊は
前585年から前572年までの、実に13年間にわたってこのちっぽけな都市
に総攻撃をかけたのである。しかしテュロス側は全く英雄的な粘りを発揮し、攻
略の全ての試みを退けてバビロニア軍を撃退した。それにしてもネブカドネザル
の側は13年も攻略に費やすくらいなら、テュロスの命綱である艦隊を撃滅して
補給を断つことに最初から全力を集中すれば良かったのにとも思うのだが、なぜ
ネブカドネザルがそうしなかったのかは明らかではない。

 国土や兵力の差を考えるとこの結末はほとんど信じがたいほどである.もっと
も今回も軍隊を引き上げさせるために形式的には降伏という形をとったであろう
し、テュロス側のダメージも相当なものではあったはずである。しかしとにもか
くにも独立は守って生き延び、そして一方新バビロニアは前539年に滅亡して
しまう。そのことを考えれば、やはり一応は今回もテュロス側が勝者だったとい
う見方は可能ではあろう。
 さて新バビロニアに替わって勃興したのがあのアケメネス朝ペルシャである。
地図を見てもわかる通り、この帝国の規模は前の二つよりも遥かに大きい。

 そこでテュロスの首長たちも、さすがにこれは楯突くのは無理と判断したよう
である。これは一つにはペルシャの支配がかなり緩やかで、たとえその支配下に
入っても無理をして独立を守った場合に比べてそれほど自由を拘束されるわけで
はないということも手伝っているだろう。
 むしろフェニキア都市はその海軍力をペルシャ帝国に提供することで、ペルシャ
の同盟国、とまでは行かないにしても属領の中のエリートとしての地位を確保す
る道を選んだ。ペルシャはバビロニアに比べて海軍力の整備に割合カを入れてい
た。それは領土自体がかなり地中海の方に張り出していたことも影響しているだ
ろう。逆に言えばテュロスー人が抵抗したところで、ペルシャがその地中海沿岸
の都市から船をかき集めた場合、テュロスの海軍力がそれに確実に対抗できるか
どうかには疑問符がついていたということにもなる。
 ともあれテュロスはその後ペルシャ海軍の筆頭として行動することになる。し
かしそのテュロス艦隊の敵として現われてきたのは、新興海洋勢力ギリシャであっ
た。そして前480年にサラミスでギリシャに大敗してしまうのである。
 サラミスでの敗北の後はフェニキア艦隊はペルシャ艦隊主力から外されてしまっ
て本国へ帰されたが、これはむしろフェニキア都市にとっては幸運なことであっ

たと言えるだろう。これによってギリシャ艦隊の追撃による損害を被らずにすん
だからである。しかし勢いに乗るギリシャ海軍がエーゲ海の外へ出てキプロス島
にまで手を伸ばそうとした時には、フェニキア海軍は断固としてこれを退けた。
ギリシャ沿岸とは異なり、そこは彼らの領海という意識が強かったからだろう。
 この後しばらくの間テュロスは歴史の表舞台には登場しないが、敗戦後のペル
シャ帝国内部のごたごたの中で、その海軍力は自身のためにそれなりのはたらき
はしたと見られる。少なくとも伝統の浅いアテネ海軍が思慮のない拡張主義に巻
き込まれてたった半世紀ほどで破綻していくのに比べると、テュロスの海軍はそ
の後も長く生きた。生き残りのマラソンレースという観点だけから見るならば、
ギリシャ海軍との勝負も必ずしも負けとは言えなかったことになる。
 しかしさしものテュロスにもついに終焉の時がやってくる。それをもたらした
のはアレクサンドロス大王であった。今回はもともとペルシャの時とは状況が違っ
ていたことを、テュロス人たちも感づいていたに違いない。なぜならばペルシャ
の場合は単に彼らを版図の中に加えるという意図しかもっていなかったから、か
なりの自由を都市側に与えることが可能だった。しかしアレクサンドロスの場合、
フェニキア都市の制圧という行動にはペルシャ海軍の根拠地を徹底的につぶして
おくという軍事的な目的が濃厚に含まれており、必然的にそんな自由は認められ
なかったからである。
 アレクサンドロスはまず攻撃の意図を秘して、市内の神殿で儀式を行ないたい
とテュロス側に申し入れる。しかしテュロス側は、それが市内に入るための口実
であることを見抜き、儀式は本土側の古い神殿で行なうことを勧め、島側に入城
することは拒絶した。こうしてアレクサンドロスは直接攻撃を決意する。アレク
サンドロスが採った戦法は、大規模な土木工事によって堤を築き、島と陸を結ん
でしまうことであった。

(以下略)