知的シーレーンの重要性

 思考経済の概念が導入されたとなると、必然的にこの概念もまた重要になってこざるを得ない。それは本の中でも述べたが、「学問の最先端に新理論を1単位つけ加えることと、後方を1単位簡略化することでは、どちらが思考経済の観点からして大きな効果を期待できるか」ということである。これは、情報の「重量増大」が、限界に達してしまったことによる必然的な結果であり、情報全体が厳しい重量制限の時代に入ったのである。

 従来はこうした「後方の簡略化」は、どちらかと言えば一般大衆への啓蒙活動に類するものだったが、今やそれとは異なる次元の部分が出てきてしまっている。なぜなら現在それを最も必要としているのはアマチュアの大衆ではなく、むしろプロの研究者だからである。
 一方プロの研究者の世界内部から見ると、そうした最先端以外の後方の活動は従来は「教育」という言葉でくくられてきたが、この言葉も新しい次元に入りつつあるそうした問題を表現するには不適切なものとなっている。つまり概念の簡略化には根本的に新しいアイデアが要求される場合が多く、しばしば最先端での活動よりも遥かに才能や閃きを要求されるためである。
 そこでこれらすべての固定観念を一掃するため、このレベルに入ってしまった部分に関してはわれわれは「教育・啓蒙」という言葉を使用することをやめ、「知的シーレーン問題」という言葉によって従来のレベルと区別することにしている。

 学問の最先端が遠くまで行き過ぎて閉塞状態に陥った場合、その伸び切った知的シーレーンを簡略化して「太く」することが極めて重要になってくることは、本の中(上巻220ページ)でも述べた。つまりこういう場合、学問全体の第一優先目標はむしろ最先端よりもむしろ後方の知的シーレーンに切り換えられるべきだというわけである。  しかしこの問題は学内においてさえしばしば極めて安直に錯覚されており、理論を易しく説明するためには、要するに難しい漢字をひらがなに直す程度のことを行なえばよいのであり、その作業は二流の落ちこぼれか引退間際の窓際族の先生がやれば良いのだと考えられている場合が少なくない。
 しかしこれはむしろ航空機の設計において総重量を軽減する作業に似ているのである。一般に、航空機に新しい装置を増設して性能向上を図ることと、機体の総重量を軽くして性能向上を図ることとでは、どちらがより設計者としての力量を問われるかといえば、それは明らかに後者であろう。この場合、最先端の論文生産は前者に、知的シーレーンでの活動は後者に相当することになる。
 そのため、これまで最先端で活躍していたような若いエース級をここに投入することがどうしても必要となってしまうのである。(これに関しては「パリティ」92年7月号にも筆者による関連記事あり。)しかし現在の研究体制の評価基準「something new」では、前者だけが評価の対象とされるため、後者は完全に無視されている。それゆえこの知的シーレーン問題をどう評価していくかということが、一つの重要な課題となってきている。  実際少なくともわれわれの間では、論文の本数の多さ(目方で計ったもの)は必ずしも研究者としての能力を示す指標として扱われない。例えば現在、本数を稼ぐために本来1本で書けるはずの論文を最初から5倍に薄めて5本として出すことなどが学内でしばしばまかり通っているが、これは思考経済の点からすれば明らかにマイナスであり、その人物が存在することでかえって読まねばならない紙屑が世の中に増え、学問を退歩させている。それよりはむしろ、知的シーレーン上で成果を上げたほうが、明らかに全体への貢献は大きいであろう。
 では在来型の基準からすれば別に最先端に新しいものをつけ加えているわけではないが、後方を簡略化することによって思考経済全体には効果があるという場合、どのようにしてその効果を算定すれば良いのだろうか。経験を踏まえて大まかに算定すると次のようになる。それは
・専門書1万部(つまりその本が1万人の専門課程の読者に読まれること)がもたらす効果は、平均的な教授1人の影響力および教育的貢献をやや上回る。(ただし一般書は一応除外。)
と見られることである。大体専門課程の読者が、卒業するまでに平均してその種の専門書50冊を読んで育つとすれば、1冊のもたらす効果は1/50人の育成に等しい。  つまり1万部で研究者200人の育成に相当する効果が期待されるわけであり、それは毎年5〜10人を送り出すことを20〜40年続けることに相当する。これは大体平均的な教授が教育者として一生のうちに行なうここと、ほぼ同一のオーダーになるのである。これは他のいろいろな面から見てもかなり適切な数字(というより実態に比べても極度に厳しい基準)であると思われ、実際周囲を見て検討した限り、それを一つの基準としても採用してもほぼ不都合は生じないものと見られる。

 そして実はこの基準は、レフェリード・ペーパーによる業績評価に限界が来てしまったときに、一つの逃げ道を提供することになる。一般に業績評価には、確実性、公平性、そしてコストの安さが必要であり、それを満たす方法がなかなか存在しないものであるが、この場合、何しろ1万人のチェックが入るため、これほどいんちきをやるのが難しい方法はない。おまけに大学側にかかるコストはほぼゼロである。
 それゆえ一つの分野が情報量および制度上の限界ゆえ閉塞状態に陥ったとき、少なくとも一時的な手段として知的シーレーン優先の方針に切り換えることで、二重の意味で突破口を開くことが現実に可能であるというのが、われわれの(現場での実体験も含めた)見解である。