「知識人について:長沼伸一郎vs第三支部管理人Y」

長沼 貴君の「知識人」に関する発言ですが、まぁ言っていること自体はおおよそ正しく、その内容に関しては特に異論もありません。ただ、「知識人と大衆」という言葉が大上段に前面に出て来ると、何だか途端に妙な雰囲気に包まれてしまうようですね。

Y 一言で言ってしまえば、「インテリ?お前ごときが何様のつもりだ。」という反応ですね。

長沼 それは、この単語がたちの悪い言霊にとりつかれているかのような現状にあります。貴君の書き込みにもあった、知識人たちがそう呼ばれることの拒絶反応というのも、多分そこに起因するのでしょう。知識人という言葉にまとわりついた歴史的背景をきちんと把握しないと、正確な意図が相手に伝わりにくいようです。

Y なるほど。そのあたりについてお話していただけませんか?

長沼 私見ではギリシャ以来の政治学が社会の階層を捉える際、いわゆる、君主・貴族・民衆という三段階階級論で思考するのが伝統であった、それが近世からその伝統が崩れ、マルクスをピークとする単純な二階級把握論が主流となり、現在にまで後を引いていることが原因じゃないかな?
つまり、「知識人」という言葉はこの頃から、「無蒙な大衆を啓蒙すべきだとの」意識が完成して来た、と。

Y 確かに日本に限っても共産党なんかは極めてエリート主義なのは、そんな所に淵源を求められるのかな?朝日も反権力ポーズの割りには東大卒が多い。

長沼 さぁ…、朝日新聞はどうかなぁ(苦笑)。ともかくこうした三階級構造と二階級構造では、組織の力学が大きく変わってしまう。

Y というと?

長沼 三階級の「サンドイッチ構造」が常識だった場合、つまり君主・貴族・民衆の三階級の場合、大抵は一番上と一番下が手を結んで、真中を挟む構造になっており、現実にほとんどの組織の力関係は何らかの形でそれに基づいてせめぎ合うようになります。
実際、そういった視点で歴史を眺めると事実そのとおりで、中間層にいる知識人は、前者(三階級)の構図だと上位の仮想的専制権力をもっぱら敵として戦う挑戦者というイメージで捉えられたのです。これは様々な問題を内包しつつも、社会に対し一定の規律と精神的緊張を与えてきた功績があった。
しかし近代に入り後者、すなわちマルクスあたりをピークとし、単純な二階級把握論になってしまい、この頃から知識人という単語にマイナスのイメージがしみついてしまったことがあるようです。ましてや日本ではその傾向が強かった。

Y なるほど。しかし、現世界では、少なくとも大衆の憎悪の対象となるような、明らかな貴族階級はいませんが・・・。

長沼 確かに名目上は君主の部分は存在していませんが、その位置に代わって鎮座することになったのは、まさに短期的願望によって肥大する、例の仮想的専制権力=われわれのいうところの「オーバーロード」だというわけです。マルクスの思想は、典型的なハーモニックコスモス信仰の所産ですから、彼等の世界観ではオーバーロードは生まれえず、短絡した二階級階層論でもある程度の妥当性は得られるわけですね。
となると我々も少し「知識人」という言葉を用いるときには細心の注意を払うべきでしょうね。感情に任せて皮肉を言ったり、ひんしゅくを買うようなマネは、戦略上あまり賢くない。そもそも「知識人」らしくない。

Y 恐縮です。

長沼 まとめると、マルクス史観による後者のイメージが「知識人」の単語にとりついてしまっているため、誰もがそう呼ばれることを恐れているというわけです。
そのため長期的な対策としては、何とかして三階級サンドイッチ論が世の中の常識になるようにもっていくこと、そのためには「オーバーロード」の可視化によってそれをイメージ化することも、いずれ不可欠となっていくでしょう。
ただこれは時間がかかるのですぐにできることではなく、当面の対策も必要かと思われます。

Y 具体的にはどのような方法が考えられますか?

長沼 それには、三階級論においても、しばしば中間の貴族階級が、実はさらに二つに分かれているという点が強調され、常識とされる事も必要であるべきと思います。つまり貴族的エリートの中が上級貴族と下級貴族に分かれていて、現実にはその性格がしばしば正反対だということです。例えば日本の場合は前者に相当するものが公家・旗本で、後者に相当するものが下級武士でした。

Y 中国の場合でも卿太夫と士太夫という違いがあります。孔子も士大夫が一番力をもっているとき社会は最も活力があるが、前者はろくに頼りにならないというようなことを言っていたと思いますね。英国のような身分社会でも低下層から首相がでる回路がある。サッチャーだって、まぁ貧乏人じゃないけど下町の出身ですよね。フランスにも軍を通じてできる人間を引き上げる枠がありますしね。さしずめイギリスの後者に相当するものがジェントルマン階級ですか。

長沼 まぁ、そういうことになりますね。結論としていうと、学者が―ここでは科学者集団ですが−今後、栄光ある仕事をなすにはその行動原理を、武士的なメンタリティにシフトすることが必要なんじゃないでしょうか?
今の「科学者」は、悪い意味で公家化に過剰対応している気がしてならない。

Y 確かに、わが国の政治史は弥生時代から戦士的貴族が全国を支配する→戦士勢力が天皇家に倣って公家化戦士のメンタリティを失う→新興の武士勢力に政権を奪われる、という流れがある。なぜそうなるのかは、専門知識がなくあまり的確な予想ができませんが…。まさしくパターン再現仮説を踏襲していますね。とにかく、そういう意味では将来の見通しは暗いのかな。知的制海権の奪取など、遠い夢のような。
まぁ、いわゆる文科系の学問に関しては、爛熟と退廃から生まれるなどとも言われますから一概には言えませんでしょうが。

長沼 文科系は、まぁおいておきましょう。しかし、理系にとっては、いや我々にとっては反面それはチャンスでもありますよ。そもそもパスファインダーの結成目的もその趣旨に合ったものなんだから。武士的メンタリティを持つ、向こう傷を恐れない冒険的なオールマイティの部隊を設立することが。それは、何度も私が述べてきた通りです。そして、歴史の教えるところ、武士ある所は強いのです。
話を戻しましょうか。より大きい問題は現在一般のイメージでは、二階級構図が頭にあると、それは下にいる大衆を制圧しようとする支配者というイメージで捉えられてしまうようです。中間にいる知識人は、三階級構図だと、上にいる仮想的専制権力をもっぱら敵として戦う挑戦者というイメージで捉えられるのですが。全く逆に捉えられてしまう。

Y 確かにそうした傾向はありますね。

長沼 要するに現在「知識人の力を強める」というと、公家の権限を増すという文脈で捉えられがちなのですね。そして、それこそが多くの方に嫌悪感をもようす原因である。しかし、実にわれわれが考えているのは、武士・ジェントルマンの力を強化するということです。大体同じ知的エリートでも、評論家的知識人は前者の指向が強く、技術者は後者の指向が強いものです。
ところがひとたび「知識人」という言葉を使うや、われわれの真意の部分が完全にイメージの中から消滅してしまい、むしろ反対のイメージで染め上げられてしまう。

Y う〜ん…。大変ですね。

長沼 ま、確かに厳しい。しかしそうはいっても放ってよい問題ではないですから。
そこで、その対策なりについて、ちょっと思いついたことをお伝えしておこうかと思います。
もちろん劇的な効果を期待できる妙案は、なかなかありません。先ほども述べたように長期的には三層構造になっていることを知らしめるため「オーバーロード」の可視化によって、イメージ化=敵の明示化をすることも、いずれ不可欠となっていくでしょう。

Y 確かにそれは必要かもしれませんね。敵の明確化。ただ、それは少し「知識人」の素養がある人には受け入れられると思うのですが…。一般的にはどうでしょう?そして短期的には?

長沼 まぁ、短期的な対処は・・・。より良い言葉があればいいのでしょうが、当面は現在われわれがお固い議論で使っている言葉というものは、気をつけて使用しなければならない。これらの言葉はマルクス以来の二階級論や知識人=上級貴族のイメージに汚染されていることが多いのだという意識をもつことですね。発言者が細心の注意を払っても、相手に誤解される虞が極めて高いと思っておいたほうがいい。このあたり、今後は言葉の使い方にも注意していく必要がありそうです。
少なくとも現実社会で、「知識人」に世の中を啓蒙・指導してもらおう等と考えている市民は、既に皆無ですから。なんといっても、戦略的に思考・行動することは必須ですよ。

Y なるほど、人をみて言葉を選べと。。

長沼 それも戦略ですね。