海軍戦略 Part1

一般に海軍戦略というものは陸軍のそれに比べてわかりにくいと言われる。この世界のバイブルとなるのはマハン提督の「海上権力史論」をはじめとする著書であるが、これらの本の文章からして難文である。マハンという人は気質的にどうも軍人ではなく学者、それもかなり重箱のすみをつつくタイプの学者であったらしく過敏なくらい論証を行う傾向があり、それが文章を読みにくくしているのである。内容に対して異論をはさむつもりは毛頭ないのだが、難解な本というのは学生が誤読をして、せっかくの名著が結果において悪書となってしまうことがしばしばある。
 それゆえこういった本が悪書とならないためには、優れたサブリーダーの補佐が必要となってくる。われわれの組織自体が海軍戦略に準拠した行動をとるということは読者はすでにしっているだろう。しかしそのために最初からマハンを読めというのは、それだけで余りにも時間を食い過ぎる。そのため(特に理系の人間を意識して)最も速やかに概略を把握できる冊子を準備しようというわけである。(もっとも海軍士官というのはもともと理系に分類されるのだが。)

 しかし海軍戦略というものが理解しにくいことにはもう一つ大きな理由がある。「戦争は本質的に政治の継続である」とはクラウゼヴィッツの有名な言葉で、実際陸軍だろうが海軍だろうがその軍事戦略と政治は切っても切れないものがある。だが陸軍戦略と海軍戦略を比べると、海軍の方がはるかに政治外交と密接である。
 最も素朴な素人くさい戦争観に従えば政治と軍事の関係は次のようになるだろうか。例えば政治家がある外交政策を進めていって開戦を決定する。その時点で政治家はバトンを軍人に渡して、以後国の進路は参謀本部の作戦計画にしたがって決められる。そして戦争が終結に近づくと、再びバトンが政治家の手に渡される、といったもので、要するに戦争中は政治というものは裏工作以外出番がないというものである。
 だがこれは誤解の産物以外の何者でもなく、戦争期間中にも政治というものは濃厚に混じってくる。ただ、戦争を一つのブロック構築物とみた場合ね陸軍戦略においては政治のブロックと軍事のブロックはそれでも比較的分離して存在しているのだが、海軍戦略においてはそれらは互いに混じり合って積み重なり、一種のまだら模様のようになつている。要するに海軍戦略は陸軍戦略に比べて政治性が強く、軍事のみの職人的な作業ではそれを把握しにくいのである。
 さらに海軍の活動には陸軍の活動の状態に対応する形で自らの役割を決めるという部分も存在しており、海軍だけを論じるというのはこの点でも困難がつきまとう。読者は以上の点に留意されたい。

 振り返ってみると、海軍の性質そのものが時代によってかなり違いがある。最も原点にたちかえって見ると、海軍国と陸軍国の本質的な違いというのは、(海に面しているかそうでないかというのは当たり前すぎるから論じないことにすると)海軍国の側は相対的に人口が少ないということが決定的要因をなしていた。
 つまりその人口の少なさゆえに、大陸の巨大な陸軍国と対等に渡り合うだけの陸軍を編成することができず、その弱点を補うため海軍という別種の武器に自国の国防を委ねたわけである。
 またそれゆえに、その武器を維持するための財政的基盤を農民による租税に依存するということは通常出来ない。なぜならばこの手の租税はしょせん頭数に比例するものであり、それを徴収することを考えると巨大な人口を持つ大陸国家が常に優位に立つことになる。つまり農業に対する租税に依存する限り、大陸国家の財政と軍事予算は常に海軍国の軍事予算を圧倒することになってしまう。
 それゆえ海軍の財源はほとんどの場合、商業の利益に対する課税から成り立っている。つまり商業が盛んでない限り海軍国というものは成り立ち得ない。一方大陸の巨大な帝国の君主からすれば、自国において商業が栄えることはあまり望ましいことではない。確かに国は物質的に富むものの、商業というものは軍規を弱め、国の道徳を退廃させ、君主の権威を掘り崩すものである。そのためしばしば君主にとって海軍の増強は一種のパンドラの箱である。
 大陸国がこうした理由でそのマンパワーを海軍に投入することを自制する一方、海軍国では常に隣の大陸軍に脅かされていることが、逆に商業の毒を中和する結果となる。一般に商業国には自由があるが、海軍あっての自由であり、規律あっての海軍だということを市民が膚で感じて一時も忘れることが許されない状況にあるため、商業的自由が文明を退廃させるほど強力なものに育たないためである。このように海軍国と陸軍国は奇妙にバランスをとって共生していたのである。
 ところが19世紀に入ると産業革命の到来によって状況はかなり変化してしまった。海軍、陸軍を問わず軍事力全体が重工業というものによって本質的に担われるようになると、軍事力と社会の枠組みが変化し、大きな人口をかかえる陸軍国が海軍の大増強に乗り出してきたのである。これによって海軍国と人口の関係はぼやけ始め、
同時に海軍力は小型海軍国の占有物ではなくなっていった。
 帆走から蒸気機関へ変化したこの時代の海軍は、むしろその国家の重工業の粋として列強が競って整えた、いわば国力の象徴としての性格を帯びるようになった。マハンはこの時代を生きた人間であり、このことは明らかに彼の著作に影を落としている。彼の思想がしばしば露骨な帝国主義の発露と悪口をたたかれるのも、多分にこれが影響している。
 しかし20世紀も半ばに至ると、これらはまとめて飽和状態に達してしまう。新たに進出できる土地、重工業、そして軍事力それ自体が飽和して外部環境が変化していくのと同時に、航空機と潜水艦のとうじょうにって海軍は内部からも変質を遂げる。
 かつては海軍というものは一個の文明のシステムに近いものをなしていた。しかし現在ではばらばらなものを、ただ海水に浸かっているという名目で一つにまとめている状態に近い。例えば現代海軍力の中心的存在である
弾道ミサイル潜水艦は、その片足を核戦略にかけており、その一部として機能している。また、空母兵力は移動航空基地として空軍力全体の一部として機能している。
 そもそもアメリカという国は海軍国ではなく、本来それは空軍国なのである。実際戦後間もない時期に海軍を廃止して空軍の下に編入しようという動きすらあったという有様で、これが現代における海軍の位置を象徴しているとも言える。
 そういった一種モザイク的存在になりながら、帝国主義的時代に結びついてしまった海軍力とマンパワーの関係は元に戻ることはなかった。逆に言えば、それ以前に海軍の特性の一つをなしていた、少ない人口の国家が大陸の巨大な生活圏のマンパワーに対して用いる武器という性格は取り戻されなかったのである。
 現代においては物質は金に結び付き、経済力は結局は大資本あるいはマンパワーに結び付く。われわれは、現代の海軍からは失われてしまった、巨大なマンパワーに対する武器というこの性格に注目しながら海軍戦略というものを学んでいこうと思う。それは言ってみればマネー文明という無形の巨大な陸軍力に対抗するにはどうすればよいかと言う問題にアプローチするための武器の一つである。読者はその点に留意して以下を読まれたい。
 マハンの理論によれば、海軍戦略には三つの重要な原則がある。それらは
@「集中の原則」
A「根拠地の原則」
B「国際政治と不可分の原則」
の三つである。
 しかしながらこれらの原則は例えばニュートンの力学の三法則のように、それさえ知っていれば全てが導かれるといった万能性を持つという訳ではない。むしろ極めて複雑な海軍戦略の体系の中からぼんやり浮かび上がってくるといった感じのものであり、読者は最初からこれに余り固執しないほうが理解はしやすいと思われる。
 このうちBについては特に論じなくても史例を調べるうちに自然に理解がいくことと思う。またAについては後に論じる。それゆえここでは最初に@の「集中の原則」について述べることにしよう。この原則は三つの中でも最も末端まで海軍戦略を強く律しているとみられるからである。


 このことについて論じるとなると、ランチェスターN自乗法則について論じるのが最も近道である。以下に簡単に論じてみよう。今、全く同一の性能の戦艦からなる青軍・赤軍の艦隊が並んで撃ち合うことを考える。最初青軍が10隻、赤軍が6隻と言う隻数で射撃をはじめ、赤軍6隻が全部沈むまで戦闘が続いたとするならば、青軍の側は何隻残るだろうか。
 最も単純に考えるならば、赤軍の6隻は沈むまでに自分が受けたのと同じだけの損害を相手側に与えるだろうから、青軍の6隻を道連れにすることになって生き残りは4隻だということになるだろう。
 ところが実際にはこうはならない。この場合青軍の側は8隻が生き残るのである。どういう算術でそうなるのかと言えば、102−62=82で8という数字が出てきているのである。これをもう少し詳しく見てみよう。
 青軍、赤軍の各カンが、一隻あたり30発の砲弾を発射したとして、その全弾が相手側に等分に命中したとする。この場合、青軍10隻が発射した砲弾の総数は300発、赤軍6隻が発射した砲弾の総数は180発である。
 次に各艦がそれぞれ何発の弾丸を食らったか見てみると、青軍10隻が赤軍の発射した総数180発を引き受けるから、青軍の側は一隻あたり18発の命中弾を受けることになる。一方赤軍の側は6隻が300発を受けることになるのだから、一隻あたり50発の命中弾を受けることになる。


(図1)

この損害の比率、即ち18:50は、実は62 :102 の比率に等しい。戦力が数の二乗に比例するという「ランチェスターN自乗法則」は、このように戦略というものが攻撃力と防御力の積であり、両方が数に比例するということから成り立つものである。
 先程の8隻が残るという結果も、例えば100発食らうと沈没するといったような仮定を行うと、紙の上でのシュミレーションでそれを再現することが可能である。


(図2)

 この、戦力が数の二乗に比例するという法則は、直ちに次のような重要な法則を導くことになる。それは各個撃破のメカニズムである。
 青軍、赤軍の双方がともに10隻だったとする。ただし青軍の側が10隻全部が集中して行動しているのに対し、赤軍の側が二つに分割され、5隻が西に、残り5隻が東にいるとする。この場合、青軍10隻がまず西の赤軍5隻に戦闘を挑み、それらを全部沈めた後に東の赤軍5隻に向かったとするならば、どちらが何隻残るだろうか。


(図3)

 この場合はもちろん青軍の残存兵力は102 −52 −52 という計算で求めることができ、√50で約7隻が残ることになる。
 実にこれが各個撃破の威力である。最初に同じ10隻同士だったのに、赤軍が全滅するまで戦って青軍の損害がわずか3隻に過ぎないというのだから、集中がいかに効果的で分散がいかに致命的かが理解できるだろう。
 これは経験的には古くから知られていたことで、例えばネルソン提督はある場所に二隻のフリゲート艦を派遣するに当たって、部下の艦長に対して、
 「敵艦二隻に遭遇した場合には各自がそれぞれ一隻を攻撃することなく、必ず敵一艦に対して攻撃を集中せよ。このようにすればその一隻は確実に捕獲することができ、次いでもう一隻もあるいは捕獲できる。たとえその第二艦が遁走しようと、わが国は勝利を得、敵艦一隻を捕獲する。」
 との訓戒を行っている。
 また、戦力を二分することで各個撃破に合ってしまう場合、その分割の方法でもっとも不利(つまり相手側が最も効率良く各個撃破可能)なのは、先程のように半分づつに等分割した場合である。これは簡単な極値の問題なので、各自試みられたい。
 以上のことから、艦隊というものは集中していなければ敗北するという原則が導かれる。集中の原則というものは本来陸軍においても言えることではあるが、実は陸軍の場合には海軍に比べて現実に適用しにくい。
 その最大の理由は、陸軍における軍事作戦が道路というものにひどく制約されてしまうためである。(実際、これが陸軍と海軍の作戦における最大の違いである。)まず途方もない大軍となると、それが道路を通過するだけでも大仕事となってしまい、運動性が鈍くなって鋭い作戦の遂行が困難になる。第二にその大軍を支える大量の補給物資を、やはりその道路を使って輸送しなければならない。
 限度を超えた大軍にはこういう弱点が生じてしまうため、そこを巧みに突くことで小型の軍隊にも十分勝ち目が生まれるという訳である。ただし陸戦でも、砂漠やステップなどの大平原などではこういうことは起こりづらく、しばしば海戦に似た状況が生じて、集中の原則が生きてくる。


 この集中の原則は、もっと大きな政治的局面においても生きている。例えばA、B、Cの三つの国があり、国力のサイズがそれぞれ1:1:2だったとして、三番目のC国が他国を制覇、併呑しようとの意図を持っているとする。


(図4)

A、B二つの国を合わせればその力はC国と同じであるが、連合しておらずにばらばらであれば、各個撃破に合ってあっさり征服されてしまう。そのため、C国にそういう意図が見えたならば、A、B両国はすみやかに連合しなければならない。
 ここでこれら三つの国の周辺に他にも同程度のサイズの国がいくつかあったとするならば、これらの国々もこの動きと無縁ではいられない。結局二つのブロックに、まるで磁石が吸い寄せられるように集まってきてしまい、世界全体が大きく二つに分かれるという現象が起こるのである。(この稿の中だけだが、この現象、原理を「最大分裂の原理」と呼んでおこう。) 
 ここで、ランチェスター法則がはたらかずに、戦力が二乗ではなくただ数にそのまま比例すると仮定した場合には、こういうことはかなり起こりづらくなることに注意しよう。つまり同じサイズの10個の国がある世界で、そのうち3個が結合して一個の国となった(つまり三倍のサイズの国が突然生まれた)場合、もし一次の場合ならせいぜい周囲の3つの国に損害を与える程度で力を使い果たしてしまうため、離れた国は同盟など急がずとも力の消耗を待てば良い。しかしランチェスター法則があるとなると、枢軸国が軍事活動に出る前に急いで同盟軍を編成しなければ手遅れになってしまう。こうした理由で、全ての国が二つの中心に向かって集まってくるという現象が起こりやすくなるのである。
 もう一つ、これは純理論的な話でしかないのだが、国の力についてもう一つ面白い適用例がある。それは国の内部の力学に関する問題である。
 (現実にはありえないことではあるが)もしランチェスター法則が厳密に適用できるという仮定が成り立っていた場合、国の警察力(というか、国を束ねるための内向きの軍事力)に要する人数をはじき出すことが可能になる。すなわち国民の人数をN人とした場合、その各人がばらばらであるとすると、一人当たりの戦力を1とすれば全体で1 ×NだからNである。一方警察力は、それがm人だとすれば、全部集中していると考えて戦力はuである。
 結局これがつり合えば良いのだから、m=√Nであり、例えば人口一億の国であればそれを束ねるのに要する兵力は一万人だということになる。


(図5)

 まあこれを精緻化しようなどと考えるのは馬鹿げた試みであるが、しかし基本的な力学としてそういうものがあるのだということは覚えておいても損はないだろう。

 このように、艦隊を可能な限り集中して運用するということは極めて重要な原則である。しかしながら、これはしばしばその国の地形などによって制約を受けることになる。以下、さまざまな国について例を見てみよう。

・まず英仏両国の場合である。英国は自国周辺では艦隊を一まとめにして運用することが容易であったが、フランスはそうではなかった。なぜならばフランスは北側の大西洋に面した海岸線と、南側の地中海に面した海岸線の二つを持っており、両方とも無防備としておくわけにはいかない。
 それゆえフランス海軍はブレストを根拠地とする大西洋艦隊と、ツーロンを根拠地とする地中海艦隊の二つを持たなければならなかった。


(図6)

 そのため英艦隊と対決するためにはこの両艦隊が合同しなければならず、そのためにはスペインを回らなければならない。これはフランス海軍にとっては大きなハンディキャップとなり、実際その弱点をしばしば英側に突かれることとなった。
 これに対して、英側は英仏海峡のあたりに主力艦隊をまとめておいても最低限の国防が十分可能なのである。北端のスコットランドを回らねばならないような状況は滅多に生じなかったし、地図を見てもわかるようにフランス、スペイン、ロシア、オランダその他どこの国から艦隊が出てきたとしても英仏海峡に置かれた艦隊はかなり短い距離(ほとんど最短距離と言っていい)を移動するだけで相手側と接触することができる。
 もちろん英海軍も地中海に一つ艦隊をおいていたが、これはいってみれば最低限の国防の余力で行ったようなもので、そのこと自体がすでにフランス海軍を戦略的に制圧していたことを示すものであるとも言える。要するに海軍戦略の観点からする限り、英国は地理的に恵まれていたのである。

・ドイツは19世紀まで語るに足るような海軍を持っていなかったが、ウィルヘルム2世が即位した19世紀末から海軍の建設をはじめ、20世紀に入ると英国にとっても無視し得ないほどの大海軍に成長した。
 ドイツは二つの海岸線を持っていた。一つは北海に面するもの、そしてもう一つはバルト海に面するものである。そのため根拠地も二つあり、北海側がウィルヘルムスハーフェン、バルト海側がキールである。しかし北海の艦隊とバルト艦隊が合同するにはユトランド半島を回らなければならなかった。


(図7)

 そこでドイツ(正確にはプロイセン)はユトランド半島の付け根にキール運河を開削する(1895年開通)これによってドイツは北海、バルト海の両方に迅速に艦隊を集結させることが可能になった。

・ロシアはこの点では恐らく地理的に最も恵まれない国である。まず地理的には東と西に分かれて海岸線が存在し、北側は冬は氷に閉ざされてしまう。有効利用できる海岸線の長さが国の面積に対して非常に小さいわけである。
 これは逆に言えば、海が他国が制することがあっても国家にとって致命的なことではないことになり、純然たる陸軍国としては恵まれているとも言える。とにかくそんなわけで、ロシアが本格的に海軍を整備しはじめたのは(ドイツと同様)比較的近年になってからである。
 当時ロシアは三つの艦隊を持っていた。一つ目はバルト海艦隊(バルチック艦隊)で、基地はペテルブルグ(レニングラード)である。二つ目は黒海艦隊で、基地はセヴァストポリである。そして三つ目は太平洋艦隊で、基地はウラジオストック(及び旅順)である。地図を見れば一目でわかるように、この三つの艦隊は互いにどれと合同するのにもひどく長い距離を航海しなければならなかった。


(図8)

 日露戦争においては、相手側たる日本海軍はこの弱点を理想的な形で突くことになる。これは各個撃破の史例として恐らく海戦史上最高の教材の一つと思われるため、少し詳しく述べてみよう。
 ロシア太平洋艦隊は当初ウラジオストックと旅順に分散配置がなされており、さらにバルチック艦隊が合流のため太平洋への回航準備に入っていた。もし三つが合同すればその巨大な艦隊に立ち向かうことは日本側には完全に不可能となる。
 しかし三つのそれぞれを日本全艦隊と比較するならば日本側の戦力がやや上回っていた。そのため日本海軍はこれら三つ、すなわち旅順艦隊、ウラジオストック艦隊、バルチック艦隊の合同を妨げて各個撃破する基本戦略をとったのである。
 具体的には、まず日本側は対馬海峡に艦隊全部を集中させて睨みをきかせる。こうすれば、もし旅順艦隊とウラジオストック艦隊が合同しようとして行動を起こした場合でも、両者の中間の位置を占めているため、集中状態で素早くこちらの全力をもってどちらかにぶつかっていくことが可能になる。


(図9)

そしてバルチック艦隊がやってくる前(何しろユーラシア大陸をぐるりと回って回航するから時間がかかるのである)に何らかの形で旅順艦隊を潰し、その後で全力をあげてバルチック艦隊と決戦すると言うのが戦略の概要である。
 このバルチック艦隊との決戦計画が、後に日本海海戦として実現することになるのだが、これはまさしく各個撃破戦略の見本とも言うべきプランであったことがわかる。三つに分割されたロシア艦隊とは対照的に、日本艦隊は絶対に集中を解かずに三者の中央位置に居座り続けたのである。
 ところでもし日本艦隊がバルチック艦隊に敗れたり、または旅順・バルチック両艦隊の合同を許したとしたならば、具体的にはどういう破局が日本を見舞うことになったのだろうか?
 まず第一に、それは大陸と日本本土との間の海上交通路が断たれ、奉天にいた大山巌元帥以下の日本陸軍が補給を受けることも日本へ帰ることも事実上不可能になってしまうということを意味する。早い話がほぼ全滅ということである。
 そのことを考えるならば、日本側がバルチック艦隊来航以前に旅順艦隊を撃破することにどれほど必死であったかがよく理解できる。旅順攻略戦で出した膨大な損害も、結局はこの目的のためだったのである。
 さてロシア海軍の方dさが、単独では劣勢な旅順艦隊は、基地に閉じこもってバルチック艦隊をひたすら待つ方針を採った(こういう戦法を「要塞艦隊主義」という)。港外におびき出して撃沈するのが無理と悟った日本側は、むしろ逆に旅順艦隊を外側から港内に閉じ込めて無力化しようと企てる。


(図10)

まず第一に試みられたのは、いわゆる閉塞作戦である。つまり艦隊を撃破できなくとも、それが港外に出てくることを不可能にすれば、一応目的は達成できるというわけである。このため廃船となった商船を旅順港の出口に沈めて、中にいる軍艦が外へ出られないようにする作戦が三回にわたって実施されたが、十分な効果を上げることができなかった。 
 やむを得ず、旅順要塞そのものを陸軍が陸側から攻めるという方針に転換されたわけだが、この場合要塞全部を陥落させて占領する必要は必ずしもない。むしろ海軍側の要求としては、旅順港を見下ろせるような高台を一つ占領することが優先事項だった。 
 もしそういう場所を確保できれば、そこに観測員を置くことで内陸に置かれた陸軍の野砲による山越えの間接射撃が可能になる。つまりこの場合、野砲の側からは港内の様子は山に視界を遮られて直接見ることは出来ないが、弾着を観測している観測員が、軍艦の位置からどのくらい離れた場所に砲弾が落下したのかを逐一報告すれば、次の射撃で命中するよう照準を修正することができるというわけである。
 そういう場所として選ばれたのが二〇三高地であったが、ここを攻める乃木軍の作戦は拙劣を極め、膨大な損害を出してしまった。このままでは下手をすればバルチック艦隊到着前に間に合わないと言う恐れすら出てきたが、しかしようやくここを占領するや、陸軍の重砲の砲弾は次々と港内の軍艦に命中し、旅順艦隊を壊滅させる事に成功した。
 一方バルチック艦隊ははるか以前にバルト海を出ていたが、回航には八ヶ月を要し、日本近海に達したのは旅順艦隊撃滅後のことだった。しかし今さら本国に帰るというわけにもいかず、また必ずしも日本艦隊に比べて圧倒的劣勢というわけでもなかったため、決戦覚悟でバルチック艦隊はウラジオストック突入を図る。しかし十分に休養をとって待ち構える日本艦隊の優位に対抗すべくもなく、対馬沖で捕捉・迎撃されてバルチック艦隊は壊滅させられた。
 日本側の戦略は極めて正確であったが、もしこれらの艦隊が最初から合同していた場合にはほとんど勝ち目はなかったろう。およそ海軍戦略においてここまで明確に艦隊集中による各個撃破や中央位置の利点(対馬・朝鮮沖の位置が旅順とウラジオストック双方に睨みをきかせた)の例が実現したことは珍しいのだが、それを歴史の浅い日本海軍が完璧に生かしきったというのは、やはり驚くべきことであり、マハンがその著書で絶賛しているのも無理のない話である。しかし彼は同時に「この時の日本軍のような行動を分析する際には『超人的』との一言で総てをくくってしまう危険がつきまとう」とも述べている。その後の日本海軍の慢心を暗示するような言葉である。
 なお、もはや過去の話になってしまったが、旧ソ連海軍の編成も似たようなものであり、太平洋艦隊、黒海艦隊、バルト艦隊に加えて北に、バレンツ海及び北極海に活動する北洋艦隊があり、四つの離れた艦隊を保有していた。

・アメリカ海軍の場合、艦隊が太平洋と大西洋に二分されてしまうということが大きな欠点をなしていた。両艦隊が合同するには南米ホーン岬の沖を回らねばならず、おまけにここは暴風雨の吹き荒れる難所であった。
 そこでパナマに運河を作ることは米国の軍事的観点から非常に重要なことであった。
 
 
(図11)
 
 これによって米海軍の能力そのものが向上したわけであるが、このためしばしば軍艦の設計者達は運河のことを考慮に入れねばならなかった。
 例えば米海軍の戦艦は、運河を通過できるように船体の幅に上限があり、そのため安定性の問題から搭載する主砲の口径に上限があった。実は日本海軍の「大和」級はこの弱点に目をつけて、口径で米戦艦を圧倒しようという発想の下に誕生したのである。なお、米海軍も戦後完成した「ミッドウェー」級以降の空母はパナマ運河通過を諦めている。
 では最初ということもあり、ここで近代におけるいくつかの海戦について戦術的な面からアラカルト的に紹介してみよう。
 近代の西欧において海戦の主力となった艦は戦列艦(ships of the line)である。その名の通り、艦隊が縦一列に並んで舷側の砲を相手側に斉射する。これは帆走軍艦が一般的になって確立された形態であり、それ以前のガレー船の場合、相手に向かって体当たりし、艦首につけた衝角で船体に穴を開けて沈める戦法をとったため、横に並んだほうが効率が良いためである。


(図12)

 西欧では、ガレー船による最後の大海戦はレパントの海戦(1571年)で、その少し後英国がスペイン無敵艦隊(アルマダ)を迎え撃った無敵艦隊の海戦(1588年)の時には帆走軍艦が主体となっていた。しかし戦法自体はまだガレー船の横陣形から縦陣形への過渡期にあり、縦一列の戦法が確立されたのは半世紀ほど後の英蘭戦争(1652年)の頃である。
 
 ここで帆走軍艦の戦列の戦術的特徴について述べておくことにする。一般にこれらの戦列は艦隊が停止している時は戦列は戦闘が弱く、動いている時には後尾が弱い。なぜこのようになるのだろうか。後者の場合から見ていこう。
 当時の戦列艦は,構造上戦備が一つの弱点だった。船尾には艦長室をはじめとする船室が設けられていたが、その分船材が薄い。そのためもし敵艦の後尾を横切ることができれば、船尾から船首までを縦射することが可能だった。


 
(図13)

 これができれば相手側の砲員ほとんどをその際の一度の片舷斉射で殺傷でき、これは当時の全ての艦長たちにとって一つの夢であった。逆にそれゆえ一対一の交戦ではどちらも相手に後ろを横切られないように努めるのは当然である。つまりもし敵艦が交戦を求めて戦列の中に突っ込んできた場合、目標とされた艦はそのまままっすぐ進み続けるというわけにはいかず、どうしても迎え撃って巴戦の格好になってしまう。
 しかし艦隊全体は一定の速度で動いているのだから、そういう格闘戦に入った艦は相対的に艦隊の移動速度より遅れることになる。ここで、二隻の艦で相手側戦列の先頭の艦を襲う場合と、最後尾の艦を襲う場合を比較してみよう。
 まず戦列の先頭に攻撃をかける場合、二隻で先頭の一隻を襲ったとしても、その場にとどまって格闘戦を続けていれば、相手側の戦列の後続艦がその場所に次々と突っ込んでくる格好になってしまい、攻撃側が逆に粉砕されてしまう
 一方戦列の後尾に攻撃をかける場合には、二隻で相手の最後尾の一隻を襲えば、格闘戦に引き込まれたその艦は戦列からはぐれてしまって孤立し、ますます料理しやすくなる。


 (図14)
 
 つまり戦列の先頭は槍の穂先のような力を持っているのに対し、後尾はかじり取られることに対して無防備である。大体海戦で両軍が対峙する場合には戦力は拮抗しているため、一〜二隻をかじり取られただけでバランスは大きくかしぐ場合が多い。
 やや簡略化しすぎたきらいはあるが、以上から理論的には、こちらの戦列の戦闘を相手の戦列の後尾に突っ込ませるのが最も決定的な効果を生むことがわかる。しかし逆にどちらも自分がそんな目に会わないように懸命の艦隊運動を行なうため、実戦で容易にそんなことが起こらないことも事実なのである。

・四日海戦(1666年)
 無敵艦隊の海戦の時には確立されていなかった戦法は、英蘭戦争の頃に縦一列の陣形が確立されていった。この時期、英側の提督にはブレーク、モンク等といった人物がいたが、オランダ側にはトロンプ、ロイテル等といった提督たちがおり、個人的実力では彼らが英側より一枚上手であった。特にロイテルはネルソンに勝るとも劣らない名提督で、圧倒的に不利なオランダ側をよく支えた。
 四日海戦は第二回英蘭戦争のときに行われた海戦で、ロイテルの実力がいかんなく発揮された(なお、トロンプは第一回英蘭戦争の末期に戦死している)。その名の通り四日に及んだ大海戦で、三回の英蘭戦争中最大の海戦であったといえる。英側の司令官はモンク(アルベマール公)である。
 戦いは最初英側の分散状態をついてオランダ側が攻撃のため出撃してきたことから始まったが、しばらくは天候悪化で睨み合いの状態にあった。海戦第一日目、錨泊中のオランダ艦隊に英側が急襲をかけ、オランダ側は危機に陥るが、直ちに抜錨して巧みな運動により撃滅を逃れ、この日は決着がつかなかった。
 続く二日目、三日目は、英側が分散していた艦隊を合同させるため決戦を避け、その合同以前に撃滅しようとするオランダ側との間に小競り合いが続いたが、三日の夕刻に英側は合同に成功、両軍戦力は拮抗する。
 四日目には決戦となった。この戦いで、ロイテルは英側の前衛と中軍のすき間に自分の前衛を突入させ、相手側の前衛を牽制して艦隊から切り離してしまう。同時に後衛が英側の後衛に襲いかかってまずこれを撃滅し、その先頭で優位に立ったのを見計らって主力が相手側本体に襲い掛かった。


(図15)

 この戦いで英側の損害は撃沈20隻、捕獲6隻。オランダ側は沈没4隻の大勝利であった。この戦闘を見てみると、前述した「動いている艦隊は先頭が強く、後尾が弱い」という性質をうまく利用していることがわかる。つまりロイテルは、相手側の強い前衛を戦いから遠ざけ、弱い後衛を最初に粉砕することで相手側のバランスを崩したのである。この戦法は後にしばしば踏襲されることになる。
 海戦ではしばしばこのような大戦果を上げたオランダであるが、国全体の相対的なマンパワーの小ささと言う点で英国に太刀打ちできる存在ではなく、終始英側に押され続けた。この時期それでも何とか互角の勝負ができた理由は、ロイテルら現場の名将の存在のほか、当時オランダの外交を指導していた数学者出身の宰相ヨハン・デ・ウィットの存在があげられる。彼はホイヘンスと机を並べて勉強した仲で確率論の研究などを行なったことがあり、後にそれを応用して近代的生命保険の枠組みを編み出し、それを国家財政の補填に役立てた。世界史上かなりユニークな存在であると言える。彼は第三回英蘭戦争のさなかに暗殺され、ロイテルもその後地中海で戦死した。

・ラ・オーグの海戦(1692年)
 これは、ルイ14世のフランスとウイリアム3世(彼は第三回英蘭戦争でデ・ウィット死後を率いたオランダの指導者で、その後英王女メアリーとの結婚で英国王となった人物である)のイギリスとの間の戦争での海戦である。
 これは戦局の帰趨を決めた戦いであるというよりは、むしろ象徴的な意味のほうが強い海戦だった。戦争初期においてはフランス艦隊のほうが良く整備され、英側は押され気味であったが、その後ルイの脅威に目覚めて艦隊を増強したため、この時期にはすでにフランス艦隊は全体的に劣勢にあった。
 しかしルイにはその認識が薄く、劣勢な部下の艦隊に英艦隊との交戦を命じた。フランス艦隊指揮官のトゥールヴィルは、この命令によって2倍の隻数の敵艦隊との交戦を余儀なくされた。部下たちは皆ルイの命令書に反して交戦を回避するよう進言したが、トゥールヴィルは麾下の艦隊の練度にかけ、「負けない」戦いを形だけでも挑むことに決した。
 二倍の敵と交戦するため、彼は変わった陣形を採用する。まず彼が恐れなければならないのは、艦隊が動きを拘束されることであり、もし行動の自由を奪われたなれば数で勝る相手に対して勝ち目はない。この観点から彼が関心を払うべきことは、自分の戦列の先頭の処理である。
 戦列の先頭は槍の穂先に似ていると前述したが、逆に槍が狙いを外して妙なところに刺さって抜けなくなれば、艦隊全体の動きが止まってしまう道理である。つまり英側としては、損害覚悟でフランス側の先頭を抑えてしまえば残りは簡単に料理できることになる。
 そこでトゥールヴィルは前衛の各艦同士の間隔を大きく取って戦列の長さを相手側と同じにし、同時に前に行くにしたがって相手側戦列からの距離が開くようにした。


(図16)

 このようにして先頭を押えられることを避けつつ、互角の戦列後半部分だけが相手と交戦したのである。この日の戦闘では、これだけの劣勢にもかかわらずフランス側には一隻の損害もなく、逆に英側には二隻の損害が出た。
 しかし翌日の退却ではフランス側は戦運に恵まれず、悪天候で座礁する船が多く、旗艦ソレイユ・ロイヤル含め十数隻が、英側の放った火船、あるいは自らの手で焼き払われた。結局のところ英側の勝利となったわけであるが、もしルイが状況を正しく把握していたならば、フランス艦隊は港内にこもって出てこずに英側の不戦勝となるべきはずであった。戦われるべきでない戦いが行なわれたからこんな奇妙な結果となったのである。

・マルティニック海戦(1780年)
 米独立戦争の勃発とともに、フランスはアメリカと同盟してそれを支援するが、フランスはさらにそれに乗じて西インド諸島におけるイギリスの海上支配を崩壊させることを狙ってきた。イギリスとしては、北米本土の植民地を手放すのはやむを得ないとしても、西インド諸島の制海権は譲れない。そのため何度か激しい海戦が繰り広げられた。 
 戦争初期には英海軍では人事上の問題から有能な提督があまりいなかったが、中期になると能力のある提督が出てくる。ロドネーがその最大の一人で、彼がアメリカ・西インドに到着してから最初の大海戦がマルティニック海戦である。
 英仏両艦隊は西インド諸島マルティニック島付近で互いに視認して接近し、良い攻撃位置をとるため艦隊運動に入った。相手側より優位な位置につくため両軍とも丸一日にわたって艦隊運動を繰り返したが、ついにロドネー艦隊は相手側の後半部に鋭角的に接近する位置につくことに成功、ロドネーは全艦に対して相手側戦列の後部に殺到するよう指示する。しかし部下の艦長たちはこの信号を誤解し、自分と同じ艦番号の敵艦に向かってしまい、絶好の優位はみすみす失われることとなった。


(図17)

 この戦いで英側は勝つには勝ったが、陣形の点でこれだけ絶好の位置につけることは珍しく、後にロドネーが「もし部下の艦長たちが私の命令を正しく理解していたならば、この海戦は自分の生涯で最大の勝利となったろう」と悔しがったのもうなずける話である。
 また、英海軍ではどういう行動をとるかについて交戦規定を定めており、これにしたがって行動すれば失敗してもあまり責任は問われなかった。これによって整然とした艦隊行動が可能であった半面、しばしば戦術の硬直化を招いてみすみす勝利の機会を逸することがあった。この海戦などはその好例と言えるだろう。(しかしだからとって交戦規定の価値を即座に否定するのは早計であるが。)
 ロドネーはその後ドミニカ海戦においてド・グラース提督指揮のフランス艦隊との戦いに大勝利をおさめ、英側の西インド制海権の防衛に成功する。

・アブキール(ナイル)海戦(1798年)
 フランス大革命の勃発から九年、ナポレオンはすでに二年前のイタリア制服で英雄となっていた。一方革命政府は彼の力が強大になりすぎたことを恐れて、国内から遠ざけたがっており、エジプト征服を提案、あわよくば彼の自滅を願う。ナポレオンの側はそれを知ってはいたが、自信のある彼はむしろこれを面白いと考え、あえて実行に移した。
 ツーロンで乗船した遠征軍は、地中海を横切ってアレキサンドリア付近に上陸、ナポレオンはそのまま内陸部へ侵攻を開始するが、ブリューイ提督の留守艦隊は付近のアブキールに停泊する。
 一方英側は、ナポレオンがフランスを出港したとの情報を得てネルソン艦隊が追跡を始める。ネルソンはナポレオンの目的地がアレキサンドリアであると正しく判断したが、皮肉にも知らないうちにフランス艦隊を追い抜いてしまい、彼がアレキサンドリアに達してみるとそこにはまだ何もいなかった。
 ネルソンが悩んで地中海をあちこち探し回っている間にナポレオンは上陸を行なってしまったのだが、ネルソンがもう一度エジプトに戻ってみた時、アブキールで留守番をしているフランス艦隊を発見、直ちに攻撃に移る。
 浅瀬のそばであったので座礁の危険はあったが、ネルソンは追い風を受けて果敢に相手側戦列の頭を包み込むように左右両側から攻撃をかけた。


(図18)
 
 停泊している艦隊は先頭が弱いと言う原則を生かして集中攻撃をかけたわけだが、何故先頭が弱いのかをここでちょっと見てみよう。大体において、帆船というものは次のメカニズムによって向かい風で進む。風を粒子と考え、帆を板と考えて弾性衝突が起こるとしよう。この場合帆には図のように反作用がはたらく。


(図19)

 ところが帆の下の船体は、船体の形状や波きり板などによって、縦方向にはスムーズに動くが横方向には水の抵抗で動かない。したがって帆の受けた反作用のうちの横方向成分は運動にほとんど寄与せずに縦方向成分だけが帆を前へ動かす力としてはたらくのである。まっすぐ風上へは進めないが、ジグザグに運動すればこうして風上へ切れ上がっていくことが可能となる。 
 これが(やや簡略化したが)船が向かい風でも進める理由だが、ここで重要になるのは停泊して静止した状態からいきなりこういう運動に入ることは現実問題としてできないということである。まず反転して追い風で少し進んで船に行き足をつけてからようやくこういう動きができるようになる。
 停泊している艦隊が向かい風で先頭を敵に襲われた場合、無傷の後尾はこの問題に遭遇する。つまり船に行き足をつけるために一旦、戦っている最中の先頭を置きざりにしてUターンしなければならないのである。
 

 (図20)
 
 十分に行き足がつけば再び救援に向かうことも可能だが、それまでの間は決定的に弱くなる。なお、停泊している相手を攻撃する場合、攻撃側は(襲撃方向を選べるのだから)わざわざ向かい風で襲う馬鹿はいない。必ず風上から追い風で襲う。
 では風向きが逆で、停泊している艦隊の後ろから風が吹いている場合はどうか?この場合は艦隊は追い風で比較的楽に出港できるので、向かい風の場合ほどには混乱しない。運動中に後尾をかじり取られるのと似たようなことになる。
 さてネルソン艦隊であるが、一時はフランス艦隊は激しく砲撃を行ない、ネルソン自身も負傷する事態となったが、英側の猛攻の前にブリューイの旗艦「ル・オリアン」は爆発し、フランス側の敗北は決定的となった。
 この場合、襲われた側が反撃に成功するかどうかは、抜錨して一旦戦列を離れた後衛が再びどう参加するかにかかっているが、この時ヴィルヌーブ提督率いる後衛は先頭に参加せずに闘争してしまった。
 なお、エジプト遠征計画というものはフランスではナポレオン以前にもルイ14世の時に提案されたことがあるが、提案者はあのライプニッツであった。(無論実現はしなかった。)またこのナポレオンのエジプト遠征軍にはフーリエが参加していたことも書き加えておこう。

・トラファルガー海戦(1805年)
 前年に皇帝の位についたナポレオンは英本土上陸作戦を計画し、実際にその準備を進めてドーバー海峡沿岸に大軍を集めていた。そして一時的に英海軍を欺瞞して牽制し、そのすきに陸軍に海峡を渡らせて上陸させようと企図していたのだが、結局計画には蹉跌が生じて上陸作戦は断念される。しかしこの上陸を支援するために集結させられたフランス・スペイン連合艦隊はそのまま撃破することなくスペイン南部のカディス港に入港していた。この撃破を行なったのがトラファルガー海戦である。
 もう少し詳しく言うと、ナポレオンの当初の計画では、まず一旦フランス艦隊が大西洋を横切って西インド諸島方面に出撃し、英艦隊に追跡させてこの方面に誘い出す。そこでうまく追跡を振り切って、英艦隊が西インドでうろうろしているうちにフランス艦隊は再び大西洋を横切り、一斉に合同して本国近海で一時的に隻数の優位を達成する。そして英艦隊が戻ってくるまでの間に上陸軍にドーバー海峡を渡らせようというものであった。(次の図参照)
 しかし英側はこの陽動を早期に見破り、またフランス側の指揮官であったヴィルヌーブ(アブキールの海戦のときの人物である)の不決断も手伝って、合同も海峡の一時的制海権確保も成功しなかった。ナポレオンはチャンスに賭けていたのだろうが、駄目とわかって彼はさっさと英本土上陸を断念し、矛先をヨーロッパ内陸に向けて進軍を開始した。
 その後カディス港に退避した仏・西連合艦隊を、港外でネルソン艦隊が待ち受けて監視していたが、ナポレオンがヴィルヌーブに対して出港して地中海で地上軍の支援を行なうように命じたため、隻数では勝るが練度や整備において格段に劣る連合艦隊はカディスを出港、それは直ちにネルソンに通報され、トラファルガー岬付近で両艦隊は接触する。
 このときネルソンがとった戦法が名高いT字戦法である。しかし実際の陣形はTの縦棒が二本になっていたため、むしろΠ字戦法と呼ぶべきだったろうか。それはともかく、ネルソンは自分の艦隊を二分し、相手側の戦列に真横から突っ込む大胆な行動に出る。通常の戦列では旗艦は戦列の中央に位置するが、この場合ネルソンの旗艦ビクトリーと次席指揮官の艦がそれぞれ二列の戦列の先頭に立って突撃を行なった。ネルソン自身の戦列は相手側戦列の中央に、次席指揮官コリングウッドの戦列は後部に突入する。


(図21)

 この陣形の意味については多くの議論がなされているが、まず全体的に言って、相手側の前衛とは接触を避けて後半部分に攻撃を集中する形になっている。また、槍の穂先たる戦列の先頭の衝撃力を最大限に活かす格好であることもわかる。
 第二に、ネルソン自身の戦列は相手側の旗艦に直接突入することを狙っている。旗艦をまず撃滅してしまうことによって指揮を混乱させ、乱戦状態に持ち込むことも恐らくネルソンの狙いの一つであった。こちらの旗艦も真っ先に乱戦の中に入ってしまうから自分の艦隊の指揮も混乱することになるが、実はここがネルソン艦隊の強みである。ネルソンは日頃から部下の艦長たちが全員あたかもネルソンの分身のように行動するよう訓練しており、ネルソン艦隊は強烈な同胞意識で支えられたちょっと類のない艦隊だったのである。
 つまり両軍ともに乱戦状態に陥ってしまえば、相手側は旗艦からの信号が届かなければ神経を切断された手足と同じだが、ネルソン艦隊は神経が切れても手足は各個に統一行動をとれることになる。実際、ネルソンがこの戦闘中に敵に狙撃されて重傷を負い、間もなく死亡したにもかかわらず戦闘が全く支障なく続いたことを見てもそれがわかる。
 この陣形の弱点は、力の全てがあまりにも二本の戦列の先頭部分に集中されているため、その鋭すぎる切っ先を粉砕されるか押えられるかした場合、もはや戦列の戦闘力は体をなさないことである。実際、先頭の艦は相手側の集中砲火を浴びて粉砕される危険はあったのだが、ネルソンは相手側の練度を考え、砲の命中率が低いと判断してこのリスクの大きい戦法に踏み切ったのである。現実は彼の判断どおりであったが、もしマストを打ち倒されでもしたら危ないところであった。
 この海戦の勝利により、英側の海上支配は決定的なものとなり、結局はナポレオンの破局を引き出すのにかなり根本的な役割を果すこととなった。この海戦は、文字どおり帆走軍艦時代の頂点に立つもので、小競り合いを除けば英国はその後100年にわたってこのような大海戦を経験することがなかった。

・日本海海戦(1805年)
 トラファルガー海戦から奇しくも百年目、日本の国の存亡がかかった大海戦であり、概況は以前に述べた。ロシア側のバルチック艦隊と旅順艦隊を合同させようという企図は、すでに旅順艦隊の壊滅によって潰えていたが、日本の国力はもはやぎりぎりのところまで来ており、バルチック艦隊をウラジオストックに入れてしまえば早期講和は望み薄であった。
 東郷提督がとった戦法(これは参謀の秋山中佐の発案であるが)はT字型のあったがこれはネルソンの場合とはちょうど逆で、今度は自分がTの横棒になるのである。(区別のため、ここでは逆T字戦法と呼ぶことにする。)
 トラファルガーにおいても、先頭が集中砲火を浴びて粉砕されるのは一つの危険として存在していたが、むしろ逆にそれを積極的に活かし、集中砲火の威力を最大限に引き出すことを狙ったわけである。砲撃戦ということだと、T字の縦棒の相手側後尾は有効射程外にいて戦闘に参加できず、集中の原則を最も有効に活かして先頭を撃破できる。


(図22)

 この戦法は日本側の射撃の命中率の高さによってはじめて有効なものであり得たと言える。ちょうどトラファルガーでのフランス艦隊の状況とは逆だったわけである。
 この戦法の弱点は、こちらが一つの「待ち」の体勢になるという点にある。ネルソンのT字戦法の場合、とにかく相手の横腹目指して突っ込んでいけば良かった。いわば艦隊運動の主導権がこちらにあったわけだが、逆T字戦法の場合、相手が突っ込んできてくれるのを待つという形にならざるを得ない。常に相手側の頭を押え続けるのはこの戦法では容易なことではないのである。
 例えば極端な話、二つの艦隊が遠くから直角に接近していくとしよう。この場合、直進コースでも両方の速度のちょっとした誤差によって、どちらがT字の横棒になるかは全く逆転してしまう。


(図23)

 結局公海上で開戦する場合、うまくT字の横棒になるためには大抵の場合どこかで、かなり接近した状態で鋭いターンを行なえばそのターンの位置そのものは海上の一点となって動かないため、相手側の好目標となりやすい。いわゆる「敵前大回頭の危険」である。
 特に先頭の旗艦が粉砕されてしまえば大混乱に陥りかねず、東郷がこのリスクの高い戦法をとり得た理由はネルソンの場合とかなり似ていて、東郷艦隊はかなり戦術思想の統一が取れていたため、ひとたびこういう戦法をとると決した以上、たとえ旗艦三笠が粉砕されても艦隊はそのまま行動をとり続けたと見られる。また相手側のロシア艦隊の射撃能力があまり高くないことも判断理由の一つだったろう。逆にロシア側のロフェストヴェンスキー提督は専制君主的な統率を行なっていたため、旗艦スワロフが撃破されると同時にロシア艦隊は艦隊としての能力を失ってしまった。なお、帆走時代のロシア海軍に対して、「ロシア艦隊に限って言えば、走行中でも後尾でなく戦列の先頭を攻撃した方がよい。それによってロシア艦隊はひどく混乱する」とネルソンが言ったことがあるのだが、日本軍首脳の頭にこの言葉があったかどうかは明らかではない。
 この戦いでロシア艦隊はほとんど壊滅したが、日露戦争それ自体が近来にないいわば巨大な近代戦の実験場であったため、各国が多数の観戦武官を派遣し、特にこの日本海海戦の戦訓は各国が競って採り入れた。

・ユトランド沖海戦(1916年)
 英国では日露戦争の戦訓等を生かし、英海軍のフィッシャー軍令部長の指導のもとに新戦艦ドレッドノートが建造され、各国は本格的な大艦巨砲主義の時代に突入する。この時期英国にとっては特にドイツ海軍の追い上げは脅威であった。とは言っても英国はかろうじて海の女王としての地位は保っていた。 
 第一次世界大戦はこういう状況のもとで勃発した。新興ドイツ海軍にとってはやはり英海軍の力をはねのけることはできず、活動を制約されて艦隊は基地にこもりがちだった。ユトランド沖海戦は、ドイツ側が港内で朽ち果てるよりは一か八かで主力艦隊を出撃させ、あわよくば分散状態の英艦隊に遭遇し、相手側に損害を与えてスコアを上げようとしたものである。
 この海戦においては巡洋戦艦部隊が互いに重要な役割を果たした。これが快速を生かして偵察を行ない、主力艦隊の目になると同時に、相手側主力をこちらが待ち構える位置に誘い込む役割も果たした。 
 砲の射程距離も日露戦争時代より伸びていたため、主力同士は巡戦部隊の情報をもとに相手を視認しないで動き、視認・発見と同時に砲戦が始まるという形態になった。
 先頭は両軍の巡戦艦隊同士の交戦で始まり、ビーティ提督の英巡戦部隊がドイツの巡戦部隊と主力部隊を、英主力が待ち受ける中に誘っていった。ジェリコー提督の指揮する英主力艦隊は逆T字の陣形でこれを迎撃し、ドイツ艦隊に集中砲火を浴びせる。


(図24)

 ドイツ主力を率いるシェ−ア提督は罠にはまったことを知り、全艦一斉に回頭して英艦隊から遠ざかる。その後シェーアは英側に大きな損害が出ていたのかもしれないと思い、もう一度引き返して英艦隊に接近したが、再びジェリコーの(逆?)T字戦法に会って戦闘を断念。決着がつかないまま両軍は基地に戻った。
 ジェリコーは非常に有能な提督であり、また日露戦争と同じ逆T字戦法をとったのになぜ決定的な戦果が上がらなかったのだろうか。実は状況の違いが一つある。日露戦争においてはロシア艦隊にはウラジオストックという目的地があり、日本艦隊はその道筋の途中に立ちふさがった格好になっていた。しかしユトランド海戦は公海上の遭遇戦であり、ドイツ側には切実な目的地や道筋というものがなかった。つまりUターンしようと思えば何の制約もなかったわけであり、一方が決戦を避けようとした場合には決定的な戦いにはならないのである。 
 この海戦がドイツ大艦隊の事実上の最後の出撃となり、結局英海軍の海上封鎖が最終的にドイツを崩壊に導いたのである。一方イギリスではドイツ艦隊を撃滅しないで本国に帰してしまったという理由でジェリコーは非難された。しかし当時の英海軍としては、ドイツ艦隊を構内に封鎖し続けることができれば十分だったのであり、また英国の海軍力自体がトラファルガーのときほど絶対的優位になかった。これらの状況を考慮すれば、限界をよく認識して英艦隊を無用の危険にさらさなかったジェリコーの判断は正しかったと言えるだろう。

・スリガオ海峡海戦(1944年)
 太平洋戦争における最も決定的な海戦はミッドウェー海戦であり、言うまでもなくこれは空母主体の海戦であった。縦一列の戦列で戦う戦法ももはや主力ではありえなかったが、一方において(航空関係者を除く)米海軍士官の間では日本海海戦を超える戦闘をやってみたいということが一つの夢として残っていた。実際ニミッツ長官以下、彼らのほうがむしろこの時期の日本海軍士官より東郷提督の後継者という感じがある。
 スリガオ海峡海戦はレイテ海戦の名で総称される一連の海戦の一つで、海戦史上、戦艦同士の最後の戦いであった。レイテ島に上陸した米上陸軍を叩くべく、日本の戦艦部隊はレイテ湾に突入をはかり、このうちスリガオ海峡を通って入ろうとした西村提督の艦隊を米戦艦部隊が迎撃したのがこの海戦である。
 このとき米戦艦部隊は行く手を遮断する形で逆T字戦法に出て西村艦隊を撃破した。この場合、狭い海峡をめぐる戦いで日本艦隊はそこを通るしかなく、米側は待ち構えていればそれでよかったわけであり、逆T字戦法の欠点は出てこなかったのである。なお、逆T字戦法はこれより前にもガダルカナル近海で、ガダルカナル島突入をはかろうとする日本艦隊に対して何度か米側が用いたことがある。これに対して日本海軍の側が一度もこれを用いることがなかったというのは皮肉というべきだろう。
 以上で縦隊戦列をめぐる海戦史概観は終わる。


(図25)