この部分では、文明社会がいつごろどうしてこういう変化を起こしたのかという文化的な背景を、いくつかのエピソードを通して見ていくことにする。
金利が容認されるに至った文化的背景
さて「金利」というものが公認されるようになったから「貯蓄という名のリフトエンジン用燃料」が急速に備蓄され、それが資本主義社会への相転移を引き起こしたというのが、これまでの結論だったわけだが、ではその変化はいつごろ起こったのだろうか。ここでその文化的背景を少し見てみよう。
金貸しという職業は極めて古くからあるのだから、金利の歴史もまた長い伝統があると思えるかもしれない。だがそれはある意味において正しいが、ある意味において間違っている。つまり社会の裏街道には遥か昔から根強くそれが「汚い職業」として存在していたのだが、それが表街道に出てきたのは比較的最近のことなのである。
大体において昔の御伽話の王子様が利殖をサイドビジネスにしていることはまずなく、金貸しというものはほぼ例外なくシャイロックのような冷酷な悪人に描かれているものである。要するに一般市民にとっては、危険な高利貸のような金融業はあったが、銀行のような「健全な金融業」は長い間存在せず、そんなものに一生かかわらないことが健全な市民の証しだったのである。
そして社会がこうした変化を起こすには、多くの場合そうであったように、単なる利害関係の変化の半歩先を歩む形で、思想的・精神的な大変化がなければそれは本格的な発展をみることはない。
その思想的な変化の序曲は、すでにルネッサンスの人文主義者の中に見られ始めていた。それは金利がどうのというより、聖職者と軍事貴族の支配する農業社会で卑しまれていた商業の世界を、むしろ才覚次第で一攫千金の可能性のある世界であり、人間の可能性を広げる絶好の舞台だと捉えた点で、新しい主張であった。
彼ら人文主義者はまだ「商業の肯定」という段階でうろうろしていたに過ぎないが、カルヴィンの登場によってこれはより本格的なものとなる。やや誇張して言えば、そのときはじめて金利というものを道徳的に正しいものとする本格的な文明が登場したのである。そしてそのピューリタニズムの真相は、米国の資本主義というものの隠された背骨を浮かび上がらせてしまうという点でも興味深いものであるため、もう少しこれを詳しく見てみよう。
ウェーバーの伝えるカルビニズムの真実
マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」以来、カルビニズムと資本主義に文化的関連があることは一種の常識となっているが、実は彼が主張したのは、一般によく誤解されるように、カルビニズムの倹約・勤勉の精神が資本主義の土台となったなどという単純なものではない。むしろそれは遥かに驚くべきものだったのである。
ピューリタンすなわちカルビニズムの社会というのは、これが米国の過去の姿であったとは到底信じられないような代物である。実際史上これほど抑圧的な社会も珍しく、例えばカルヴィンがジュネーブで市政を牛耳っていた頃には、単に冗談を言ったというだけの罪状で投獄された男や、ダンスやスケートをしたため風紀警察につかまった少女の話などは全然珍しいものではなかった。
そして彼らの教義もまた仰天するような代物である。彼らの教義によると、人間は死んでから天国に行くか地獄に落ちるかを生まれた時にすでに神によって定められているのだという。そして地獄に落ちるべく定められている人間は、生きている間にどんな善行を積んでも、またどんなに敬虔に神に祈っても決してその運命を免れることはできない。
そして最初から天国行きの指定席を約束されている少数の「選ばれた人々」に対しては、神が恩寵のあかしとしてこの世で様々な幸運を与えるということになっている。要するに世の中の大部分の人間は生まれたときから、行ないの善し悪しに関係なく地獄に落ちるべく定められているという驚くべき内容なのであり、これを「予定説」という。
いささか理解に苦しむ教義であるが、ともかくこの点が、カルビニズムが他の多くの宗教と異なる点である。他の宗教の場合、例えばカトリックにせよイスラムにせよ(また他のプロテスタント宗派でさえ)、現世で不幸につきまとわれても、その苦しさの中で神を信じて清く正しく生きれば、来世では幸せが保証される点で、現世の運命の不公平を来世が受け止めて補うことができる。
ところがカルビニズムはそうではない。生きている間に踏んだり蹴ったりの悲惨な運命に会った人は来世でも地獄に落ちるのであり、それは全く救済の余地のない冷酷な椅子取りゲームである。
また、誰が救われる者で誰が地獄に落ちる者なのかは、外面的には一切わからないということになっている。しかしカルヴィンの教義の信者たちは個々に、自分だけは生まれながら救われる側に入っているということを密かに堅く信じており、そのため彼らにとってはビジネスの場とは、自分や周囲にそれを立証するための場なのである。
彼らは金を稼いでもそれを享楽のために使うということはしない。むしろ彼らにとって稼いだ金は、自分が神に選ばれている人間であり、天国へ行けることを示す証拠の品である。つまり資本主義を興した原動力は確かに金儲けの追求であったかもしれないが、その金儲け自体が、実は金自体のためではなく想像を絶する教義をもつ信仰のためだったというのが、ウェーバーの学説の論旨なのである。
ところで次のインドの話は割合有名なのでご存じかもしれない。すなわちある米国の実業家が生産効率を2倍にする手法を編み出し、米国内で実際に効果を上げたのでインドへこれを持っていった。彼はここでも2倍の生産量を期待できるものと信じ込んでいたところ、インド人労働者たちは効率が倍になったのをこれ幸いとばかり、生産量を今までと同じにして半分しか働かなくなってしまったという。
これは一般に西洋と東洋の文化の違いからくる笑い話として片づけられることが多いのだが、実はどうやらこれは西と東の文化的衝突というより、むしろもっと広く資本主義社会と伝統社会の文化的衝突の話であるらしい。それというのもウェーバーを読むと、意外にもこれと全く同じことが西欧の真中であるドイツでも起こっていたのだという話が伝えられているからである。
要するに少しでも多く働いて少しでも多く稼ごうと周囲に呼び掛けても、彼らドイツ人にもそんなことをしなければならない理由がわからなかったというのである。(そしてここでも、カルヴィン派に近い人々だけはそれをすんなり受け入れたと言われる。)実際当時のドイツ人のある青年が米国人を見て、彼らは一体なぜすでに十分な資産があるのに楽しむことを忘れて憑かれたように働くのかと首を傾げているのだが、皮肉にも彼が米国人に対して抱いた感想が、現代の米国人が日本人をエコノミック・アニマルと評した時に使った台詞と瓜二つなのである。
要するに伝統社会の引力圏を脱する際には西欧といえどもかなりの抵抗があり、そして現実にそれを振り切らせるだけのパワーを与えていたのは宗教的動機であったというのが実情であるらしい。
切断された相互扶助の糸
ここでカルビニストのもう一つの特性である「孤独性」というものについて指摘しておこう。これは貯蓄というものの発達に密接に関係していると思われるからである。
彼らカルビニストの中には、驚いたことに友情というものの価値を否定した者がある。それは、たとえ友人であってもその人物が神に選ばれた救われるべき者であるかどうかはわからない。地獄へ落ちる予定の者だった場合にはそれと魂を触れ合わせるべきではないのだが、全員が一応はその容疑者なのだから、友情というものに深入りすべきではないというのである。
全員が全員こうではなかったかもしれないが、カルヴィンの基本的教義からすればこれは何ら驚くべきことではない。彼らには自分と神の間に直接つながる一本の縦糸だけがすべてなのであって、それ以外の人間同士の横の関係などは取るに足らないことなのである。それゆえ彼らは各人が孤立しており、その間の社会的関係の絆というものは希薄化して切れていく。
現代資本主義というものは米国においてさえカルヴィンの信仰は脱落して世俗化した存在となっているが、こうしてみるとその鋳型はいろいろなところに残っているようである。つまりこのようにして各人がそれぞれ孤立して生きることを強いられるようになった結果の一つとして、貯蓄という行為を背後から促進したと見ることもできるのである。
伝統社会というところは、大体少しぐらい金がなくてもいろいろな相互扶助の糸がつながっているため、大抵は何とかなってしまうものである。しかし現代の都会に生きる者は本質的に孤独であり、自分で何とかしなければしなければならない。そのためどうしても貯金というものが必要になってしまうのである。
実際日本は今でこそ貯蓄王国として世界に名高いが、どうも近代以前には庶民の間では貯蓄ということはほとんど行なわれておらず、近代化の課程でその習慣を根づかせるには大変な苦労が必要だったらしい。
以前テレビドラマで戦前の田舎の郵便局を舞台にした話があったのだが、そこで女性局員が貯蓄奨励の紙芝居をやっているというシーンがあった。紙芝居の内容は中国大陸かどこかで戦っている兵士の話なのだが、彼らの部隊は弾薬が尽きかけて危機に陥っている。しかし最後には弾薬が届いてめでたく危機を脱し、紙芝居の終わりに女性局員の「この弾薬は皆さんの貯金によって作られたものです。お国のためにも郵便貯金をしましょう」という説明でしめくくられるという、キャンペーン用の紙芝居なのである。
これは実にこの時期の日本人の貯蓄というものに対する態度を象徴している。つまりこの時期まだ利殖を卑しむ風潮が強かったため、民間銀行に金を預けて増やしてもらうなどということは、習慣や制度として定着することが難しかった。そのため国家というものの信用をバックに、国のためという大義名分を与えて徐々に貯蓄という習慣を根付かせていかねばならなかったというわけである。
今ではお国のために貯金しているなどという殊勝な人はまずおるまいが、これもまたかつて伝統社会の引力圏を脱するために一時的に必要だったいろいろな仕掛けの一つであろう。
資本主義の必要性の「三要素」
さて意外にこのような精神的・文化的なものが一種のスターターになっていたということだが、しかしながら現在ではそれらは痕跡程度にしか残っておらず、文明が資本主義の軌道を回り続ける理由は、今では全然別のものが主力となっている。
無論現代の資本主義経済を駆動させている最大の力が何かといえば、それは人々の金儲けに対する要求である。しかし恐らくそれだけではない。例えばオーストリアの経済学者のシュンペーターの有名な言葉に「資本主義とは、金儲けを目的とせずに働く少数の人間の存在によってのみ支えられる、金儲けのためのシステムである」というものがあるが、実際過去において国家が積極的に熱心に資本主義を導入せねばならなかったことの背景には、そうしたもっと公の価値や国家全体にかかわる、単なる個々人の欲望以上の理由があり、またそうだからこそ現代社会は資本主義を手放すことができないのである。
では現代社会が資本主義を手放せない理由とは具体的に言えばどういうことなのだろうか。ここではそれを三つの要素にまとめてみよう。
(1)・軍事力の基盤を確保するための資本主義
これを代表するのは、(特に今世紀初頭までの)英国である。英国は16世紀以来伝統的に大陸側にある巨大な陸軍国−−それは時にスペインであり、フランスであり、そしてドイツ、ロシアである−−に対し、海軍力を用いてそれに対抗するということを国家の指針としてきた。
そして一般に海軍力というものは勇猛な兵士よりも艦艇の建造費が重要になるのであり、経済力に依存する面が強い。そしてマンパワーの少ない英国としては、そうした技術力の優位によってしか大陸側の陸軍国に対抗できなかったため、その国防力の基盤としての経済力には、他の国よりも切実な関心を払わざるを得なかったのである。
実際アダム・スミスの「国富論」には「国防は経済に優先する」という言葉がたびたび登場し、またそれは政策当局者にとっての共通認識でもあった。そのため、たとえある人物の事業の動機が露骨な金儲けであっても、それが英国経済、ひいては国防予算の確保に役立つものである限り、英国政府はしばしば積極的にその後押しを行なったのである。
一方現代世界を見てみると、ここでは軍事力の鍵を握っているのはミサイルとレーダーのシリコンチップであり、その技術力を維持するためには、半導体産業の裾野が国内になければならない。実はソ連敗退の最大要因はそれが十分になかったことであり、その充実した半導体産業を維持することはまさに資本主義体制でなければ不可能であることが、図らずも露呈されたことになる。
(2)・アメリカン・ドリームの舞台としての資本主義
これについては別に詳しく述べる必要はあるまい。これは言うまでもなく米国によって代表されるのであり、丸太小屋から億万長者への夢の階段を許す経済形態というのは、少なくともそのチャンスを万人に与えるという点で、資本主義だけであろう。
とにかく現在の米国人が資本主義を死んでも手放すまいと思っているのは、要するにそれが夢とビジネス・チャンスを与えてくれる(ことになっている)からである。
(3)・他国の資本主義から自国を守るための資本主義
日本の資本主義の本質とは、要するにこれである。日本の場合は伝統的に、安定した農村社会こそ安住の地と考える傾向が強いが、それが19世紀の産業社会の到来によって、このままでは身ぐるみ剥がされてしまうという恐怖から、それに対する対抗策として半ばやむを得ず資本主義を導入したのである。実際その移行期においては「列強の経済的植民地になることを阻止する」というのが合言葉だった。
日本資本主義を駆動する精神とは要するに「心配」であり、この点を理解しない限り、日本資本主義というものは理解することができない。極言すれば日本人は金儲けをしたくて必死に働くというより、今の地位を失うのが心配だから必死に働くのである。
この点からする限り「日本の資本主義というものは米国の資本主義とは本質的に別のものだ」という米国のいわゆる「日本異質論者」は正しい。しかしどういうわけか彼らは問題の本質すなわち「米国の資本主義は夢によって駆動され、日本の資本主義は心配によって駆動される」ということを見抜けなかったようである。
そのため70年代ごろから彼らは経済交渉で日本経済のオーバーコートを脱がそうと北風を吹かせまくってはそのたびに日本の工業競争力を結果的に強くしてしまった。そのため彼らは一時は日本経済を何か不可解な怪物のように考えることすらあったが、そのからくりは簡単で、要するに夢の種は尽きることがあっても心配の種は尽きることがないためである。(実際日本経済を弱くするにはおだてて驕らせるに限るのである。)
大まかにまとめれば以上3つになるというわけだが、大体において現在でも政策当局者たちは、自国にとってなぜ資本主義が必要なのかを説明するときに、大抵この3つを取り混ぜて解答としている。逆に言えば、もし今後資本主義を否定し、それにとってかわる新しいシステムを作り出そうとする者があるとすれば、必ずこの3点についてそれぞれを何らかの形で満足させねばならないであろう。
イスラム世界の資金調達方法
ところで次の話は本題からはやや外れるが、現代資本主義を逆方向から照射するエピソードとして面白いのでちょっと紹介してみよう。それはイスラム世界の金融の話である。
イスラム世界がカトリックと同様に利子を禁じていたことは前にも述べた。しかし考えてみるとこれは少々不可解な話である。つまりカトリック世界は農業社会だからそれで良いとしても、イスラム世界は本質的に商業社会なのであり、そして金融なしでは本来商業活動など成り立たないはずなのである。それならばイスラム経済は一体全体、利子なしでどうやって商業のダイナミズムを維持していたというのだろうか。
実のところイスラム社会も商業社会である以上、現代と同様に投資という行動は活発に行なわれていた。ではそれが現代の資本主義とどう違っていたのかというと、そこには「貸し手は借り手と平等にリスクを負担する」という原則が設けられていたことである。
これは平たく言えばこういうことである。例えばある人物が、砂漠を渡って商売するため隊商を組織しようとしているとしよう。ただ彼自身は、隊商が積んでいく大量の商品を準備するだけの金をもっていないため、利益を山分けするという条件でこれに出資をしてくれる人間を探そうとしているとする。
そしてこの資金集めの際に、前記の原則は次のような形で効いてくる。要するにもしこの隊商が砂嵐で遭難して大損害を出すようなことがあった場合、その損失は隊商を組織した事業者と出資者の間で平等に負担するという約束がなされるのである。
これは一見したところ当たり前で、わざわざ書くまでもないことのように見えるが、ところが現代の資本主義は一般的に言ってそうではないのである。例えば年率10%の利子で金を借りた場合、現代的な原則に従えば企業家や事業者は、もし事業が完全に失敗してもその金を利子ごと出資者に返すべき義務を負っている。
要するに極論すればこの場合、リスクは原則的に借り手側が一方的にかぶって、貸し手側のリスクはゼロであるべきだとされているのであり、たとえ事業が不可抗力でどんな状況に陥ろうと、貸し手側は利子が明記された証文を振りかざして、約束は約束だとばかりにそれを全額支払うことを要求する権利を有している。
しかし隊商を企画した事業家の立場からすれば、そんなことは不公平としか言いようのないことだろう。自分は大変な気力を費やして事業を企画し、自身が砂嵐で死ぬ危険さえ冒しているというのに、絨毯の上に寝そべっている出資者の側は金銭的なリスクさえ負う必要はないというのである。たとえ事業が不可抗力の自然災害で損害を出したとしても、その損害は全部事業家がかぶって、残りの一生を利子の鉄の鎖につながれて返却に費やさねばならないというのだから、どう考えてもこれはおかしい。
それゆえイスラム経済の場合はこの不公平感の是正のため、商業のリスクを双方が平等に負担すべしと規定されており、隊商を企画した事業家はたとえ事業が壊滅しても単に自分の手持ち分を失うだけで、その後の一生を出資者への返済に費やす必要はない。そして出資者の側も、自分の見通しが甘かったことを反省して問題を終わりにすることになるのである。
常識的に言って問題の原点に遡って考えるなら、一体どちらが法理論として筋が通っているだろうか。恐らく多くの人は、半ば困惑しながらもどうもこちらの方が現代の常識よりも筋が通っているとの感想をもつのではあるまいかと思われる。
現代イスラムの「無利子銀行」
そして今のイスラム型の話では、事業家と出資者の間で「利子」という言葉が一度も出てきていないことに注目されたい。実際このように、商業がもつ不確実性を借り手と貸し手が共同で背負うという約束がなされている限り、「確定した利子」などという概念は基本的に成立し得ないのである。
なぜなら利子や配当自体もその不確実性の中に置かれるわけだから、予知能力でもない限りは前もってそれを何%などという数字で証書に明記するなど本来不可能であろう。逆に言えばそれを事前に保証することは、要するに貸し手側だけの絶対的安全を約束することに他ならず、一種の不正行為なのである。(なお現代の米国でも、いわゆる「ベンチャー・キャピタル」すなわち有望なベンチャー企業に対して、自分で事業内容を判断してリスクの大きな投資を行なう投資家は、どちらかといえばイスラム型に近い。)
こういう具合だから、実はイスラム型では巨額の金があっても、ただそれを銀行に預けっぱなしにしておけば利息がどんどんついてくる左うちわの楽な金利生活はできず、大変な気力や緊張感を持続しなければその資金を活用できない。そこで、使いきれない金はあるがもうそろそろ疲れたという人は、それを投資に使うよりも喜捨や寄進に使って精神的に満足を得るほうが得だということになり、大体その判断の分岐点がイスラム世界における経済的活力と信仰共同体のバランスを決定していたものと思われる。
ではどうして現代の経済社会ではそういう、落ち着いて考えれば本来少々おかしい、貸し手が一方的に有利になる体制を選択しているのだろうか。その理由は簡単であり、要するにその方が遥かに投資資金を集めやすいからである。単純に言ってもし一方が、あなたのお金を全くリスクなしで必ず明記された利率だけ増やして差し上げますと言い、もう一方がそれを保証しなかったとすれば、前者の銀行に金をもっていこうと思う人が増えるのは当たり前の話である。
また効率の面から言っても、小口の預金をまとめて銀行にプールしておき、それを現場の判断で必要な時に必要な量だけ分割して投入した方が良いに決まっている。その投資先をいちいち預金者に伝えて許可を求めるというのでは、必要書類も膨大になってしまうだろうし、それに大体預金はプールの中でかき混ぜられてしまって、もうどれが誰のだかわからなくなっている。
なおイスラム世界も近代化の過程で70年代に「無利子銀行」という名でこれを現代に再生するという挑戦を、その豊富なオイルマネーをバックに試みた。
これは西欧型のいわゆる「銀行」と違い、どちらかといえば投資信託に似たものである。すなわちまず、預金者が預ける金はあまり少額では駄目で、ある程度まとまった金額のものであることが必要である。
そしてこの預金には利息は確定されていない、というより一応原則的にそれはゼロであると規定されている。そして基本的に預金者にはその金がどこに投資されるかが通知され、もしその事業が利益を生んだ場合、その利益が配当金という形で預金者に分配されるのである。(そして恐らく元本は保証されていない場合が多いはずである。)
このシステムは現在でも結構それなりに機能しているようだが、ただし無論、金融の主力として西欧のそれを脅かすような存在にはなっていない。その理由は、言うまでもなく預金一つ一つを別個に扱っていかねばならないという、その手間の煩瑣さであり、それゆえ西欧型の効率に比べると到底太刀打ちできないのである。(ただし、ひょっとしたら将来、イスラム世界へのパソコンの普及が、その弱点をカバーしてしまう可能性が存在しており、その点で将来はちょっと未知数ではあるが。)
少なくともこれは、イスラムの社会制度全体の中に置かれてはじめて機能するものであり、コーランに利息の禁止が明記されていること、市民の余剰金に「喜捨」という別の選択肢が与えられていることなどと組み合わせることによってのみ、安定して機能すると考えるべきものである。
そんなわけで、法理論や常識がどうだろうが、経済システムの側はもうその体制から容易に後戻りができないのである。しかしながら、西欧資本主義側がそういう歪んだ常識からスタートしてしまったことの原因には、どうもカルヴィンの鋳型の存在が感じられなくもないと思うのだがいかがだろう。
資本主義の命運
ではこの部分のしめくくりとして、資本主義の将来の命運について考えてみたい。それがどんな結末をたどるかについては、現在のところ大まかに言って二つの見解に分かれているようである。
一つは、資本主義というものは経済の最終形態であって、今後もこのまま発展を続けるだろうというものであり、米国人のかなりの人々がそれを信じている。もう一つは、資本主義はそのあまりにも不安定な基本構造から行き詰まり、やがて自壊するだろうというものである。
しかし私としては、ここで一つ経済学者から見れば気違いじみていると見えるような見解を提出してみたい。すなわちそれは「資本主義とはその外見とは裏腹に、実は最も原始的な社会経済システムなのであり、それ以上壊れようがないからこそ生き残ってきたのではないだろうか」ということである。
実のところ現代資本主義社会とは高度なテクノロジーと弱肉強食の金貸しの理屈をるつぼで混ぜて作った合金のようなものであり、いわば未来性と野蛮性の奇妙な混合物である。そのためどちらに注目するかでしばしばその見方は180度変わってしまうことになるのである。
実際もし後者の野蛮性の部分にもっぱら光を当てた場合、例えば金貸しなどというものが人類最古の職業であって、少なくとも中世までは人類がその英知を傾けて抑え込もうとしたものだったということなどがどうしようもなく浮かび上がってくる。
つまり伝統社会の指導者たちに言わせれば封建社会とは、むしろ金銭の力が社会を腐敗させることをいかに抑え込むかを目的に設計された、それなりに高度な「文明」なのであり、そして「資本主義の発展」などは実はその文明の堤防が崩れていく退歩の過程に過ぎないということになるだろう。
それならなぜそれが負けていったのかということであるが、それは進化論的な優勝劣敗の原則で淘汰されていったというよりも、むしろ現実には軍事力で経済力を抑えつけることが次第に困難になっていったためだと言った方が真実に近いように思われる。
なぜなら封建社会の場合、もともと純粋に経済の勝負では負けることが最初からわかりきっていたため、もっぱら軍事制度(あるいは宗教)の力に頼って金銭の力を抑え込むことを考えていた。つまりよくよく考えればそれはもともと軍事的制度につけられた名前であって、経済システムの名前などではないのである。
逆に言えばこういう理屈になる。つまり封建制度がいかに経済的に不効率であっても、それが十分な軍事力を維持して商業勢力の頭を抑えていける限りは、内部にどんな慢性病を抱えつつも一応表面上は倒壊せずに存続し得るということである。
実際歴史を見ると(日本の場合などはさしずめその典型であるが)、封建社会の倒壊に際しては新しい軍事テクノロジーの登場によってその強みが相殺されたことが決定打となっている場合が少なくない。むしろ経済的な強弱に関しては最初からそれを前提に設計がなされていた以上、今さらそれを「原因」と考えるのは、ちょうどビルが倒壊したのは地球に重力があるからだという話に似た無意味さがつきまとうことになる。
さらにまたその論理でいけば20世紀の共産主義にもかなりこれと似たところがあり、よく考えればこれもやはり経済制度であるというよりは、むしろ軍事力で商業の力に対抗するための軍事的制度だと思った方が正しいようである。実際スターリンはどう見ても経済の指導者であるというよりは軍事的指導者の顔をしており、彼のしたことは要するに、ソ連の戦車隊とKGBの力を切り札として強引に西側経済力の浸透に対抗しようとしたに過ぎなかった。
そしてその結末にしても、経済的不効率それ自体によって滅亡したというより、もっと巨視的に言えば、現代世界で軍事力それ自体がコンピューターや半導体などの登場によって有効性を失ったことで、ソ連型社会主義を支える最大の支柱が折れて崩壊したのだと言う方が正しい。
こう考えてみると「資本主義の勝利」は一見すると、それが社会進化の究極というべき最も優れたシステムであるが故に、劣った他のすべてを駆逐できたかのように見えはするが、実はむしろそれが勝利した理由はもっと空疎なものだったのかもしれない。
つまり現代ではもはや軍事力を主体として経済力に対抗することが不可能となったため、まずその方式をとっていたライバルが消え、そして今後の勝負が純粋に経済の中だけで行われるとなれば、必然的に経済の小宇宙の中において「それ以上壊れようのない」システムが最後まで残るようになるに過ぎないということである。
資本主義の「利己的遺伝子」
しかし本当を言うと、この軍事と経済のバランスが崩れたことは人類にとってもっと重要な問題なのかもしれない。考えてみると古くから人類社会に対して、商業は自由を、軍隊は規律を、宗教は慈悲を、それぞれ教えて互いに反目しながらバランスをとってきた。そしてそのバランスが決定的に崩れて第一番目だけが異常に肥大してしまっているというのが現在の姿であり、没落した残りの二つの機能を何かで補わねばならないということが、大きな課題として残されている。
もっともこれに対しても、自由放任の「神の手」を信奉する人々は、やがてその偉大な自動調整機能が働いて、社会全体を最も望ましい均衡点にもっていくだろうと信じている。しかしながらよく検討してみるとそれもかなり怪しい主張である。
ひところ生命科学の分野で「利己的遺伝子」という考え方が流行した。つまり遺伝子は生物のために存在しているというより、遺伝子自身のために存在しており、遺伝子にとっては生物というものは、遺伝子を伝えて存続させていくために次々と乗り換えていく乗り物のようなものに過ぎないという考え方である。
そして考えてみるとこの考え方は、金や資本というものに対してもっとよく当てはまるのではあるまいか。つまり金という生き物の目からすると、企業や社会というものは一種の乗り物に過ぎない。そして彼らは自分を肥らせてくれる乗り物を選んで乗るのであり、逆に言えば企業が潰れる時というのは金という乗客に乗り捨てられる時だということになる。
そしてその時一体神の手が社会に何をしてくれるだろうかと考えると、いささか不安になってくる。確かに乗り物探しを続ける資本の乗り換えポイントの各点において、神の手が働くであろうことはほぼ認めてよい。だがあくまでもそれ以上ではなく、乗り物自体がどんな状態になろうとそれは神の手にとっての第一関心事ではあるまい。
そしてまたそんな歪みが長く蓄積すればいずれ資本主義は自壊してくれるだろうと期待しても、この新しい乗り物探しを続ける資本の力に等しいだけの別の力がどこからか調達されない限り、資本主義それ自体が滅びることはない。つまり社会主義とは違って資本主義は「倒れる」ことがないというのだから、結局資本主義は、もっと別の巧妙なシステムをその上に建設することによってしか制圧できず、その新システムによって時間をかけて封鎖する以外に手はないことになる。
実際もしそれが「最も原始的であるがゆえにそれ以上壊れようのないシステム」だとするならば、たとえ金融システムが何度壊滅しようと、その都度懲りずに元通りの形に再生してしまうであろう。問題は、それが果たして人類にとって本当に良いことなのかが大いに疑問だということである。
要約
ではこれまでの最も重要な点をもう一度まとめておこう。
・銀行をはじめとする金融機関は、資金を迅速に輸送するという点で鉄道網が担う役割にによく似ている。そして19世紀に鉄道が軍事の世界に革命をもたらしたのと同じように、銀行・金融機関は「補給革命」を起こすことで社会全体を近代資本主義という一つの巨大な相転移に巻き込み、その中枢に居座っている。
・貯蓄という行為は、本質的に経済社会に貧血か超高血圧かの二者択一を強いる性格をもっている。そしてそれは現実にはそれは銀行という「経済世界のローカル線」を介して設備投資というものに結びつく形で経済社会に還流され、超高血圧体質が選択されている。
・資本主義経済は本質的に「空気より重い乗り物」であって、連続的に設備投資を行なっていかねばならず、それが突然完全に停止したならば、経済は浮力の1/5程度を失って落下してしまう。そして設備投資を連続的に続けるということは、生産能力向上が加速度の点でもプラスという恐るべき状態を意味し、ただでさえ暴走する経済の速度計の針が際限なく上がっていくのである。
一方その背景として
・本来人々の伝統社会に留まろうとする本能は、一般に考えられているより強いものであった。そしてその引力圏を脱出させるには、カルビニズムという想像を絶する思想が起爆剤として必要となり、そしてこのときはじめて利息というものが正当なものとして市民権を得て、資本主義成立の最大の鍵が根を下ろした。
逆に言えば、利息というものは物理的方法によってそれを根絶することは不可能であるが、中世のカトリックやイスラム圏に見られるように、精神的方法でその繁殖を抑制することは、過去においてはある程度の成功例が存在した。
・現代社会が資本主義をもはや手放せなくなっている理由は、ほぼ次の三点に要約できる。すなわち
(1)軍事力維持の基盤としての資本主義(旧英国型)
(2)人々に未来の夢を与えるための資本主義(米国型)
(3)資本主義から身を守るための資本主義(日本型)
であり、もしこれから何らかの新しい経済体制を設計しようと思った場合、必ずこの三点すべてについて同等の能力を何らかの形で保証できねばならない。
実のところ以上で、現代の経済を理解する最大の核の部分はクリアできたと言って良い。確かに他にも学ぶべきことはたくさんあるが、それらはたとえ重要とはいえ、いわば枝の部分に属するものであり、ここで述べたことがあくまでも一番中心の幹の部分である。