中東情勢・2011
last update: 2011/04/10
 
  中東動乱の概観とオバマ大統領の判断ミス
 
 以下の稿は、最近の中東の動乱に関して震災前に書き進められていたもので、さすがに震災直後は中東問題どころではないと思ってそのままになっていたのだが、いずれにせよ必要な内容ではあり、放棄するのも惜しいので、専用ページで限定公開しておくことにする。
 
欧米政府の右往左往ぶり
 さてこの出来事、つまり最初チュニジアから火がついてエジプトに拡大し、今もリビアで混迷を深めている一連の中東動乱だが、それにしても今回、最も印象的だったのは欧米政府側の右往左往ぶりである。
 米国政府にせよフランス政府にせよ、とにかくその方針が極端から極端へ迷走し、どうもその迷走ぶりが事態をさらに拡大させているように見えて仕方がない。
 大体これは「ジャスミン革命」などと言われているが、そもそも彼ら(とその分析を鵜呑みにしているわれわれ)は、状況全体を把握するに際して最初に大きな勘違いをして、それが全ての迷走の始まりだったように思えるのである。
動乱の本質は当初は「革命」ではなく「一揆」だった
 まず今回の出来事の本質について言うと、それは当初は革命というよりはむしろ「一揆」だったということである。
 そもそもこの動乱の最初の発端自体、必ずしも政治目的によるものではなかった。それはチュニジアにせよエジプトにせよ、当初は食料品などの値上がりに端を発しており、むしろ政治的動機よりもそちらがメインだったということは、観測筋のほぼ一致した見解である。
 要するに江戸時代の一揆や、もっと言えば幕末期にも見られた「米よこせ」の(倒幕や攘夷とは無関係な)町人の打ち壊しをイメージすると、あるいはそれが一番真相に近いのではあるまいかと思われる。
どこが江戸時代の一揆や打ち壊しと違っていたか
 ところが単なる一揆と違ったのは、民衆の側が新奇な武器を手にしていたことである。無論それが言わずと知れたネットの力だが、これも次のようなイメージで捉えて一揆のイメージに組み合わせると、理解しやすいかもしれない。
 
 まずそれまでの一揆では、皆が納屋から鍬や熊手を持って代官所に押し寄せ、門の外で騒いでいたのだが、代官所の門の前には警護用の装甲車が陣取っていて、一揆勢はそれに対してはまるで歯が立たず、いつも追い散らされていた。
 ところがここで、今回はここに一つ新しい要因が生まれていたと考えよう。それは最近では農薬散布用の安いラジコン機が普及し、各農家が一家に一機ぐらいの割合で皆が購入していたとするのである。
 そしてそれをちょっと改造して簡単な手製爆弾や火炎ビンを積むと、空からそれを投下でき、即席の無人機(「プレデター」のような)として使える、という話が知れ渡ったとすればどうだろう。(言うまでもなくこのラジコン機がネットに相当する。)
代官所が農薬散布用ラジコン機で襲われたと考えると・・・ 
 つまり代官所の側は、どうせ一揆勢は熊手や鍬をもって押し寄せてくるだろうと考えて、地上に鉄壁の防御線を敷いていたのだが、それらの装甲車やバリケードなどは、地上から来る脅威だけに対応するための装備で、空からの対策は一切考えていなかった
 ところが事が始まってみると、意外なことに農薬散布用のラジコン機が、無人機「プレデター」のようにその防御線の上をあっさり飛び越えて、完全に無防備な弾薬庫や指揮所のテントの上に火炎ビンを投下していったのである。
 つまり一揆勢は一種の即席の空軍力を持っていたというわけで、これでは装甲車も何の役にも立たず、予想外の事態に政府側はパニックに陥ってしまったのである。しかしむしろ誰よりも驚いたのは、当の一揆勢だったのではあるまいか。
 何しろただの農機具の一つとして買ったつもりの農薬散布用ラジコン機が、今まで全く歯が立たなかった装甲車の壁をこんなに簡単に乗り越えて代官所を直撃できるのである。
 そんな話が伝われば、もう若者たちは米や麦の話などそっちのけでむしろそっちに熱中し、皆が一斉に納屋にあった農薬散布用ラジコン機を改造して、一揆に参加しようとするというのは、まあ当然の話としてよく理解できるだろう。
欧米側はどこで分析を間違え始めたか
 そしてこう考えると、むしろ欧米側が情勢分析に関してどうしてああも右往左往したのかについて、その理由が良く見えてくるのである。
 まず最初、チュニジアで火の手が上がったとき、チュニジアと政治的関係の深かったフランスは、それを単なる一時的騒乱と見て完全に軽視していた。
 結局それが大間違いだったことはすぐに露見するのだが、しかし今にして思うと、その分析自体は、これが本質的には「一揆」だったということを認識していたという点では、むしろ正しかったのではあるまいか。
 そもそも「革命」と「一揆」の何が違うかというと、革命というものが明確な政治的意図をもち、そのための勢力や組織を十分に整えてから政府にぶつかっていくのに対し、一揆はただ民衆の不満が膨れ上がって爆発したものに過ぎず、何の組織もビジョンももたないため、その後どうすれば良いかわからずに混迷の中で解体していくだけに終わってしまう。
実はその分析は半分は正しかった
 その点に着目して分析する限り、今回の彼らの行動は明らかに一揆であって革命ではない。大体その後の彼らを見ていると、ビジョンも何もあったものではなく、そもそも発端となった食料品の値上がり自体、犯人はむしろ投機マネーを操る欧米の巨大機関投資家たちで、怒りを自国政府を向けてそれに倒しただけではどうにもならない。
 つまりその部分ではフランス外交筋の一番最初の分析は正しい判断だったのだが、今までの「プロ」の分析には、一揆勢が知らない間にそんな一種の「即席の空軍力」を手にしていたことは、全く考えられておらず、分析の中から完全に脱け落ちていた。
 ところがチュニジアであっさり政府が倒れるという、予想外の結末を目にして驚いた欧米側は、今度は一挙に振り子が反対側に振れるようにして、いきなりこれを「革命」と位置づけてしまう。そしてそれを発端にして、その分析もどんどん混迷を深めていくのである。
オバマ大統領の致命的判断ミスがそれを破滅的に拡大した?
 そんな中、動乱は次にエジプトに飛び火するわけだが、ここで米政府はフランス政府のチュニジアでの失敗を見て、まさにそのように極端に正反対の判断に走った。つまり早々に「ムバラク即時退陣」のスタンスを打ち出したのである。
 特に外交に自信のないオバマ大統領にとっては、最初の時点でそういう判断を固めてしまえば、以後余計なことを考えずにすむため、精神的に楽だったのかもしれない。
 しかしエジプトでムバラク政権が倒れるか否かは、チュニジアなどとは比較にならない重要な意味をもっている。
 実際この騒乱がムバラク政権のところで止まるかどうかは、イスラム世界全体への「類焼を防ぐ」防波堤としての意味があり、エジプトの当事者全体がそれをどこかで重く受け止めていたのだが、どうもオバマ大統領の認識には最初からそこがすっぽり抜け落ちていたように見えるのである。
 そのためこの判断はあるいは想像以上に大きな誤りで、それが事態をさらに混乱させた可能性が高いように思われる。
エジプトの状況を火事に喩えると・・・
 ここで状況を俯瞰するために、世界全体を一つの国と見て、エジプトを一つの県や都市、そしてムバラクをその一地方で権力をもつ地域実力者とし、そこで火事が起こったと考えてみよう。
 この場合エジプト軍はさしずめ地元の消防団で、むしろ米政府こそが「世界の警察」として全国組織の警察に相当する存在である。ただし地元の治安維持に関しては、この消防団が一種の準警察組織として、ある程度の権限を持っており、そしてムバラク大統領はこの消防団を配下に置き、堅固な城に住んで地元で権力をふるっている。
 この堅固な城の防衛機能はそれ自体が権力の重要な戦力で、もしこれが火事で全焼すればムバラクの権力も失われ、彼は市の外に逃げ出さねばならないだろう。そしてもう一つ、この城は防火拠点としての意味も持っており、市の火災を他の都市に飛び火させることを阻止して、類焼を防ぐためにも重要である。
 とりあえずこのような形で米政府、ムバラク、エジプト軍の力関係をイメージしていただきたい。
消防団=エジプト軍の立場
 さてそのような状況下、エジプトで火事が起こった。ムバラクは当然ながら自分の住居でもある城が焼け落ちることをどうしても防ぎたがっているが、地元の消防団の立場は微妙である。彼らは確かにこの火事は容易ならないもので、城の全焼もあり得ると覚悟していたが、同時に彼らは、この城が一種の防波堤として、近隣への防火拠点となっていることも理解していた。
 ところが意外なことに、全国組織である警察=米政府は、近隣への類焼を防ぐというその重大な点に関して驚くほど関心が薄く、早々ともうこの城は焼け落ちるものと決めてかかっている風だった。そしてその認識ギャップが、今回の米政府の迷走ぶりを読み解く最大の鍵であるように思われる。
当初の経過
 そのようにイメージした上で経過を振り返ってみよう。つまり最初米政府は、ムバラク政権は騒乱が始まって2〜3日のうちにあっさり倒れてしまうだろうと思っていたらしい。
 そのため早々に「ムバラク即時退陣」というスタンスを国際社会に示していたのだが、ところが始まってみると意外にしぶといのである。その背後には、上で述べたエジプト側の「エジプトは類焼を防ぐ重要拠点なのだ」という自負の意識があったように思われるのだが、とにかくこのしぶとさを目にしたあたりから、米政府の確信にぐらつきが出始める。
ラクダに乗った集団は捏造か
 実際今にして思うと、ムバラク政権にもある程度の支持者はちゃんといたようである。例えばテレビで世界中に伝えられたようにこの時期、群集の中に突如、ムバラク支持派のデモ隊と称する集団が現われて、ラクダに乗った数人が反政府デモ隊の中に突入するという映像が流された。
 無論当初から「これは政府側の演出だろう」と言われており、筆者も、何らかの形でそれが政府の後押しを受けていたこと自体は恐らく事実だと思う。しかしムバラクの支持者が完全にゼロという状況下であれだけの人数を集められたかというと、筆者はそれも疑問に思う。
 例えば昔のフィリピンのマルコス政権崩壊の時などと比べると、あの時はそんなことさえできなかったはずで、そう考えると、少なくともそこそこの支持派はいたと考えるのがむしろ妥当であろう。
デモの潮目と重大な曲がり角
 それはともかくその後のエジプトの経過を見ると、デモの最初の大きな極大点としての盛り上がり、つまり金曜礼拝の後に大規模集会を行って一気にムバラクを退陣に追い込もう、と呼びかけた時が、まず最初の重要な曲がり角だったようである。
 つまりこの時は、確かに人は集まって最大の盛り上がりを見せたのだが、結局それ以上のことは起こらず、それが明らかになった時点で、デモ隊はひとまず勢いを失ってしまった。
 その後さらに先ほど述べたように、ムバラク支持派のデモ隊が出現し、完全に膠着状態に陥ったわけだが、とにかくこの時点で一種の潮目のように誰も主導権を持っていない微妙な状態になったと言えるだろう。
 そしてこの時、報道されているように、ムバラクはスレイマンに政権を委譲することを発表し、しかしながら9月までは政権に留まると表明したわけである。
消防団が迫られた難しい判断
 さてここで立場が微妙だったのは地元消防団=エジプト軍である。まずもしここで「城の全焼=ムバラク政権即時崩壊」という事態がもはや食い止められないのに、ムバラクに全面的に従って一緒にその崩壊に巻き込まれてしまったとしたらどうだろう。
 その場合、今さら無理な消火活動を行ってその過程で消防団に大きな損害を出し、その上で城も結局焼け落ちたとなると、権力の真空状態が生じて、その時には焼け跡の治安維持に当たるべき戦力もガタガタになっている恐れがある。
 しかしその一方、城が全焼すれば近隣全体に類焼していく恐れがあり、それはムバラクの命令とは別の次元での消防団の義務である。
 そのためジレンマの中で彼らは全く動かなかったのだが、ところがここで、城の火事を「半焼」で何とか食い止められる可能性が出てきた。つまりそれが、ムバラクは退陣はするが即時退陣ではなく9月退陣だというシナリオである。
プロの目からは良い落とし所だったのかも・・・
 外交のプロがそれを見たならば、この状況から判断すると、恐らくそれが一種の「落とし所」として最適であったのではあるまいか。実際にこの時、米政府の外交のプロたちは、その方向に方針転換をしようとしたらしい。
 実際そのようにすれば、とにかく中東全体への類焼をひとまず食い止めて、冷却期間を稼ぐことができる。そしてムバラク政権がもはや寿命だとしても、少なくとも今まで親米政権としてこれまで米国の中東政策を支えてきた功績があり、それに報いる意味で時間をかけて花道を用意してやることができる。
 また、イスラエルなどは中東和平の要としてムバラク政権の存続を望んでいるが、これならイスラエルの望みもそこそこかなえてやることができるだろう。
その場合にはオバマ大統領はどう動くべきだったか
 そのためもしオバマ大統領がここで例えば、デモの騒乱でエジプトの博物館が展示品にダメージを受けた話題などを巧妙にピックアップし、
・そうした人類共通の遺産を守るために、ひとまずここは騒乱を収め、観光などのエジプト経済への打撃を最小限にしてその回復を図ることを最優先とする、
・そしてムバラクがデモ参加者への報復を行わないよう、米国は監視団を派遣することとし、それが受け入れられれば9月までの政権維持を認め、ムバラクの名誉ある退陣を認める。
・もし仮にその監視団の行動が妨害されるようなら、米国はエジプトへの軍事援助を打ち切る。
などの演説を行えば、多分それが一種の妥協点として、プロから見ても最善の行動だったろう。
何も考えていなかったらしいオバマ大統領
 ところがオバマ大統領はそれを行わず、断片的な報道によると、むしろプロたちの意見を無視して米政権の中で彼一人が「ムバラク即時退陣」に固執したらしい。
 また、イスラエルの主張を無視するという点でも、この時期のオバマ政権は歴代の米政権の中でも際立っていて、イスラエルが中東和平安定のためにムバラク政権の存続を訴えていたにもかかわらず、オバマ政権はそれを完全に黙殺するかのような態度をとっていた。
 およそ歴代の米政権でそこまでイスラエルを無視した例はなく、その時は少々驚いたのだが、しかし今から振り返るとそれは別に何か信念や思慮に基づいたものではなかったらしい。
 実際にその後、本当にムバラク政権が崩壊してみると、予想された通り中東諸国は国内の不満を逸らすため共通の敵としてイスラエルをクローズアップし、国連でパレスチナ問題に関してイスラエルを弾劾する行動に出た。
 ところがこの時になって今さらのようにオバマ大統領はイスラエルに味方し、米国の伝家の宝刀である拒否権を発動してそれを葬るという行動に出て、結果的に中東諸国の怒りを買ってしまう。
 何とも中途半端で首尾一貫しない行動だが、ともあれこれを見ても、どうやら彼が驚くほど最初から何も考えていなかったらしいことが推察される。
類焼を止められた可能性
 それはともかく、この「9月退陣」という案はいわば城の火事を「半焼」ですませるようなもので、確かに半焼状態の城はどうせ9月ごろには取り壊さねばならないが、それまでは応急的に治安維持の施設に使うことはでき、また半焼で消し止められれば、隣町への類焼を食い止められる見込みも出てくる。
 そのためもしあと少し皆で頑張れば全焼を半焼まで制限できるということなら、消防団としても多少の危険を冒しても全力で消火に当たり、「半焼」で食い止めるのが最善ではあるまいか、
 実際、ひょっとしたらこの時、エジプト軍もそういう方針に傾きかけていたのかもしれない。また先ほどの話からすれば、警察(=米政府)の方でも下の人間の間ではその方が良いかもしれないという意見が出始めているとのことで、あるいは警察の方でもスピーカーで周囲にバケツリレーを呼びかけてくれるかもしれない。
警察署長=オバマ大統領の意外な行動
 ところがそのように「半焼」で事態を収拾するという希望が出てきた状況下、消防団は予想もしなかった光景を見ることになる。それは何と、視察に来ていた警察庁の長官(オバマ大統領)が一人でメガホンを持って町の中を走り回り、「もう城は全焼するぞ!崩れ落ちるからみんな逃げろ!」と叫んで回っていたのである。
 そしてそれを聞いて、消火要員もだんだん浮き足立ってきた。こうなると士気の総崩れは時間の問題で、この有様ではバケツリレーなども全く期待できそうにない。
ついに決断した消防団(想像)
 ここに至ってついに消防団は決断したのである。もうこれでは消火は不可能で、城を半焼で食い止めるという計画は放棄するしかない。だとすれば、城が焼け落ちた後の治安をどうするかを考えねばならないが、彼らはメガホンを持って走り回る警察庁長官のぶざまな姿を見てしまった。
 もはやムバラクも城もないというのに、警察があの有様ではそこに頼ることもできない。そのため彼らは最後に残った選択として、消防団自身が全てを掌握して治安維持に当たろうと決断する。
 
 だったら治安維持要員のために無傷の部下は一人でも多く必要で、もはや無駄な城の消火のために人員を損耗させる余裕はない。そして旧権力者にかわって治安維持を引き継ぐ以上、ムバラクが持っていたものを全て消防団が掌握し、全ての権限をそこに集めることが必要である。
 つまりこうなった以上、城の消火命令は無視して、逆にムバラクに城からの退去を要求し、すべての権限を消防団に渡してもらう以外にない。恐らくそのようにして、エジプト軍はムバラクに即時退陣を迫ったのである。
想像されるムバラクの反応
 さて退陣を迫られたムバラクはどうしたか。真相は想像するしかないが、あるいは彼はもはや頭ではそうするしかないことを理解していたのかもしれない。城を半焼で食い止めるというプランは、あくまでも警察=米政府が同意してくれるという前提で成立するものだったが、その警察があの有様なのである。
 そのため軍首脳から退陣を要求されたとき、一度は彼はそれを受け入れたのではあるまいか。一方消防団=エジプト軍は受諾の返事を聞いて、ムバラクがその夜の演説で退陣を表明するものと理解し、そのため(報道で伝えられたように)このとき軍はデモ隊に対して、「ムバラク大統領がこれから行う演説によって、諸君の望みはかなえられるだろう」と伝えたのである。
ムバラクの憤怒(想像)
 そしてここでもう少し想像を加えてみよう。そのようにムバラクは一度は軍の通告を受け入れたのだが、一人になってみると、考えれば考えるほど怒りがこみ上げてきた。
 何よりも、せっかくうまく行きかけていた状況をすべてぶち壊しにしたオバマ大統領の愚かさに対する怒りは、いくら抑えても抑え切れない。おまけに、もし自分がここで退陣してしまえば、結果的にその愚かなオバマ大統領の言ったことが正しかったということになるではないか!
 そのため彼は目の前の退陣表明の原稿を破り捨てて、土壇場で演説内容を変更してしまうのである。もはや失うものは何もないし、最後に万に一つぐらいの奇跡は起きるかもしれない。
やけのやんぱち、最後の演説
 そのため彼は夜の演説内容を、軍への返答とは違うものに差し換えて、あくまで政権に留まると絶叫する道を選んだのである。しかし結果的にその演説はデモ隊の怒りに油を注ぎ、表面的にはそれがきっかけで彼は退陣に追い込まれることになった。
 しかしどのみち退陣の路線自体はエジプト軍に決められており、所詮それは奇跡を期待しての「駄目でもともと」の試みに過ぎないことは、誰よりもムバラク自身が知っている。そのため奇跡が起こらなかったことを目にしたムバラクは、あっさり諦めて官邸を退去する道を選んだというわけである。
 本当に内幕がこの通りだったかどうかはわからないが、とにかくそのように想像してみると、米外交があのような二転三転(つまり最初は「即時ムバラク退陣」、続いて「9月まではでムバラク政権容認」に変更、その後やっぱり「即時退陣」、という右往左往)の経過をたどったのか、またムバラクが最後にとった奇妙な行動の経緯が、何だかぴたりと一枚の絵にはまるような気がするのである。
それは中東の親米政権にはどう見えていたか
 そして結果的に情勢は警察庁長官=オバマ大統領がメガホンで叫んで回った通りになったわけで、そのためもあって、特に欧米ではオバマ大統領の判断ミスを非難する声はあまり聞かれない。
 しかし中東の人々が見ていた光景は恐らくそれとは違ったものである。まず中東の親米政権の指導者たちからすると、今までさんざん米国に忠勤を励んできたのに、花道も用意せず犬のように放り出された、という印象を彼らが抱いたことは間違いない。
 しかし恐らくむしろそれ以上に強烈な印象だったのは、オバマ政権の「幼稚な右往左往ぶり」で、米国はこれほどまでに子供じみて頼りにならない存在だったのかと、怒りを通り越して口をあんぐり開けて呆然と見ていたというのが実情ではないかと思われる。
米政府が失ったもの
 とにかく彼らにとって今までの米国は、たとえ横暴で腹の立つ相手だったとしても、少なくとも強くて恐ろしい存在だった。しかしひとたびこのような形で「幼稚」という軽侮の念が植えつけられてしまうと、それはもはや元へは戻らない。だとすれば今回、オバマ大統領のために米国が中東地域で失ったものは、ブッシュ政権時代に失ったものさえもを上回ることになろう。
 これはあるいは今後欧米のメディアが見落としていくことかもしれないが、その印象が決定的に残り続けるとすると、それは今後この地域で起こるあらゆる物事において重要なファクターとなっていく可能性があり、読者は必ず頭のどこかにこれを留めておく必要があると思われる。
さらなる混迷の拡大
 さてそれはともかく、その後の経過を見ると、火事が防火壁だったはずのエジプトを乗り越えてしまったことで、騒乱はさらに広く中東全域に拡大していった。
 特にそれが最も拡大したのがリビアだったというわけで、そしてここでまたサルコジ大統領が、チュニジアの失敗を挽回しようとして過剰反応し、拙速にリビアに軍事介入を始めた。
 そしてどうもこれがまたエジプトの状況と似ているのである。まず介入当初は英仏はカダフィ政権は数日で簡単に倒れるだろうと思い込んでいたのだが、いざ空爆が始まってみると、カダフィの意外なしぶとさに驚かされ、少なくとも最初の甘い目算は完全に外れることになった。
尾を引く最初の勘違い
 これはエジプトの時と同じで、そのため事態はますます混迷を深め、出口がなかなか見つからない。しかしそのことも、最初の分析に立ち返ればよくわかる。
 つまりこの一連の事件のもともとの本質とは、それが当初は「革命でなく一揆」であったということで、欧米側が単なる一揆を一人前の革命勢力だと錯覚して、そこを中途半端に後押ししたため、旧体制側と一揆側のいずれもが決定的な勝利を収めることができないという、何とも宙ぶらりんの状況に陥ってしまっているわけである。
 (その意味ではエジプトの場合、軍という第三の権力機構が生き残って状況を支配し、それなりに安定状態に達したという点で、極めて幸運だった)
 いずれにせよ騒動がたとえ収拾できたとしても、一揆勢の側がビジョンも指導者も持たないという問題は、根本的な欠陥として表面化してくるはずである。
どのようにすれば収拾できるのか
 それならば、この事態はどうすれば収拾できるのだろうか?まずツイッターやフェイスブックは、騒乱を拡大するには非常に威力があるが、その後の秩序のためにはほとんど全く役に立たないことが明らかとなりつつある。
 そのため結局は先ほど述べた一番の本質に戻ってこざるを得ない。つまり一揆の最大の特徴はビジョンがないということで、そのため一揆が下手に勝利すると、その後何をどうすれば良いかわからなくなって、無秩序の中で漂流して社会の全てがおかしくなる。
 逆に言うとこういう場合、明確な新社会のビジョンがあって、それを使いこなせる一種の将校団やエリートが育成されうるかどうかが成否の鍵を握っており、過去の革命の成功と失敗を分けたのも結局はそれだった。
 つまりそれらのビジョンと新エリートをこれから育成しうるかどうかということが、今後のすべての鍵であり、その本質とは無縁のプランは全て末梢的で役に立たないと言えるだろう。
「テクノ・ウラマー」育成が全ての問題解決のカギ
 しかしここで問題なのは、西欧キリスト教側がお膳立てするビジョンは基本的に役に立たないということである。それというのも「民主化」という台詞は少なくとも中東世界では、キリスト教文明側が「劣った」イスラム文明を解体するための道具として、宣教師の台詞のようにあまりにも都合よく使われ過ぎてきた。
 つまり、そういうところからは真の意味で社会を支える層は育たないのであり、そのためこれはビジョンたり得ないという特殊状況が生じている。
 むしろここでカギを握っているのは、「テクノ・ウラマー」という、全く聞きなれない単語であるように思われる。
 それに関しては今までこのサイトでは何度か論じたことがあるが、それは何かというと「科学技術を理解したイスラム法学者(ウラマー)」のことで、現在のテクノロジーとイスラム文明をどう融合させるかの方法を知っている新しい知的エリート層である。
 
 これはそれ自体、回を改めて論じる必要があるので、今はこれに関しては深入りは避けるが、とにかくイスラム世界の長い歴史を眺めて判断する限り、そういう層を育成できるかどうかが、この世界の真の安定の全てのカギを握っており、今までの欧米の中東政策が全てうまく行かなかったのも、それが問題のカギであることを理解していなかったからである。
明治維新の歴史の輸出が有効?
 そしてここで、その話題に関して一つの予告編として述べておくと、その際に日本の明治維新の歴史というものが馬鹿にならない意義を有していると考えられるのである。
 特に、単なる攘夷の暴動が不毛な殺し合いに終始する脇で、「理数系武士団」の存在が決定的な意味を持ち、そこに国が乗り換えたことが日本の明治維新の奇跡を生んだというストーリーは、何よりも中東において教訓となるのではあるまいか。
 つまり将来の「テクノ・ウラマー」となる若者にとっては、それに最も似ていて参考になる存在を探すとすれば、日本の歴史の中にいた「理数系武士団」をおいて他にいないと考えられるからである。そのため「明治維新の歴史を中東地域に輸出する」ということが、一つのビジョンを指し示す参考として、非常に有効ではないかと思われるのである。
 
 とりあえず今回の議論はここまでで一区切りとするが、その「テクノ・ウラマー」などの問題に関しては、ご要望があれば続編という形で論じてみたい。
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