前回の原稿は、どちらかといえば抽象的な能書きの話ばかりでしたが、今回は逆に、いきなり具体的な実戦向きの話をしたいと思います。すなわちそれは、EBM万能論には実は数学的な盲点があって、データの収集範囲を無制限に拡大すると、かえって理論が不正確になる場合があり、そのメカニズムを明らかにできるということです。
つまりEBM万能論への対抗理論が実際にできる可能性というものが現実化しているわけで、それはまた「東洋医学を守る数学」の第一歩となる可能性もはらんでいます。では以下に、その内容についてのアウトラインをお話ししていきましょう。
1・その盲点と攻略のためのツール
「作用マトリックス」という新兵器
さてここでは、それを切っていく武器として「作用マトリックス」という新兵器を使います。これは、ベースは割合に誰でも理解できるような単純な道具の組合せですが、それを一種の大きな盲点に鋭く指向することで、意外なことが比較的簡単に証明できるという、最近ではちょっと珍しい数学的道具となっています。
その詳細は次回以降に譲りますが、ここでは話を少し簡略化することで、いきなりEBMの数学的盲点とその攻略法について、医療関係者の方々がイメージできる形にしてみようと思います。そのため細部に多少わからないところがあっても、全体のイメージの方を捉えていただければ十分です。
では手始めにツールの説明から始めましょう。まずその「作用マトリックス」とは大体どんなものかということですが、発想の基本としては、体を構成する器官などの要素を書き出し、そしてそれらの間にはたらく「相互作用」というものに注目して、それをマトリックスとして表現したものを考えてください。
そしてそれらの表現に際しては、まず各器官などの要素をそのマトリックスの左上から右下に対角線上に一列に並べて書き、そしてそれらの器官の間にはたらく相互作用を、何らかの行列成分の形で表わして、残りの空白部分に縦横に並べていきます。
具体的に言えば、例えば肺が胃に与える影響や作用があったとすれば、それを一個の行列成分の形で書いて図の位置に置くことで、作用が及んでいる状況が表現されます。
図2
そしてこれらの相互作用の糸は、このマトリックスの中を連鎖を作って回っていきます。つまり肺から胃に及ぼされた相互作用はそれで終わりというわけではなく、その胃の変化が今度は心臓に影響を与え、そして心臓の変化が他の器官に影響を与え・・・という具合に、器官から器官へと次々に影響していくわけです。
そのためこの表現形式の場合、その相互作用の連鎖の糸は、常に左回りにマトリックスの中をらせんを描くようにして回っていくことになります。
ただしおわかりと思いますが、例えば「肺が胃に及ぼす相互作用」と一口に言ってもその内容は複雑で、場合によっては複数の要素が同時に作用していることもあり、そのためこの「成分」も、本来一言で表現できない複雑なものであるはずです。
そういう時、しばしば世の数学者はそれを無理矢理1つの数値に単純化して表わそうなどと乱暴なことを考えるものですが、ここではそんなことは行なわずにもっと柔軟に考えます。つまりこの成分自体は、むしろ何らかの入力に対して出力を行なう一種の抽象的な箱のようなものだと考えて、とにかく二つの器官の間に相互作用があれば、厳密なことを言わずにとりあえず全部その中に突っ込んであると思えば良いでしょう。
そしてこのような巨大なマトリックスの中に体内のありとあらゆる器官を書き出して、対角線上に書き並べ、さらにそれらすべての間にはたらく相互作用も細大洩らさず一切を交点の位置に書き込んでいけば、ある意味それは人体という系そのものを表現したことになります。無論現実には複雑すぎてそんなことは無理ですが、しかし少なくとも原理的にはそれは可能と言ってよいでしょう。
ただし注意しておきますが、ここで述べているものは実はイメージ化をやりやすくするために、本来の「作用マトリックス」の形を簡略化して表現した「簡略バージョン」で、本来の形の「作用マトリックス」ではありません。
本来の形式については次回以降に解説する予定で、きちんとした証明などを行なう際にはそちらの形式を使う必要がありますが、ただ物事や問題の大まかなイメージを捉える場合にはこの簡略化バージョンは何かと便利なので、われわれも多用しています。今回はちょっと紹介の順序が逆になってしまっていますが、その点はご了承ください。
数学全体におけるその位置づけ
さてすでにお気づきと思いますが、この表現方法はもともと発想が「全体論的」であり、それゆえホリスティック医学や東洋医学の数学的表現法としては非常に適していると言えます。
そのためもっと壮大な話への展開も予想されるところではありますが、それは次回以降に述べるとして、今回はとりあえずEBM関連の話に限定しておきましょう。
さてこの「作用マトリックス」の考え方ですが、単にこの種の物事を行列やマトリックスに表現するということ自体は、割合にありふれた発想で、それだけならば米国でEBMに熱中しているような人でも知っていることです。
しかし実は一見目立ちませんが、ここにはコロンブスの卵的な重大な工夫がいくつかなされており(それはおいおい明らかにしていきましょう)、それが物事の盲点を突く上で意外な威力を与えることになっています。
今回はそれらの話には深入りしませんが、当面必要なこととして、ここではとりあえず次のことを頭のどこかに留めておいてください。
・まず第一は、およそこの世界にあるものは、どんな系でも、一応こういう作用マトリックス形式に表現することだけは、とりあえず原理的に可能だということです。もともと作用マトリックスの体系は、かなりの抽象化を許すだけの柔軟性を残してあるため、その気になれば宇宙でも人体でも表現できるというわけです。
・もう一つは、単にそういうものかと思ってお聞きいただけるだけで結構ですが、それは一般に作用マトリックスは、それを適当に変形してやると、現在の数学の背骨をなす最大の主力メソッド−−微分方程式−−と事実上同じものにできるということです(ただしそれはこの簡略化バージョンでは行なうのは困難ですが)。つまりある問題が作用マトリックスに表現された段階で、すでにそれは現在の数学の本格的なコアの部分ともちゃんと接続されているというわけです。
そのためこれら二つのことから、大体次のことを期待してもよいでしょう。それは作用マトリックスの体系は、一見単純に見えても実は裏ではかなり本格的な数学とつながっているため、ひとたびそこで決着がついてしまえば、その後でもっと凄い数学的手法が土俵に上がってきてその結論がひっくりかえされてしまうということは、まずほとんどないと思って差し支えなく、安心して議論をしていてよいということです。
まあとりあえず以上を頭に入れておいていただければ、当面は十分かと思われます。
EBM万能論が成り立つ場合
では攻略方法の概観を見るために、まずEBM万能論が成り立つための世界とはどんなものかを、早速これを使って見てみましょう。実はそれは作用マトリックスを用いると、非常にクリヤーに表現できるのです。
なおここで言う「EBM万能論が成り立つ世界」とは何かと言えば、具体的にはそれは、体質による影響が少なく、ある疾病に対する解=治療法が体質とは無関係に一通りに定まるような世界のことを指しています。
つまりここでは東洋医学的な世界と異なり、例えば同じ病気であっても体質によって処方が全く逆になってしまうという現象は存在しません。そのため体質の違いはあくまで誤差として処理できる、あるいは後で単なる修正項として「解」に代入してやれば良いというわけです。
ところが実はこういうことが完全に成立するためには、体の状態を表現する作用マトリックスが、もともと次のような特殊なものでなければならないことが証明できるのです。
その前に、なるたけこれらを簡単に表現するため表現方法にいくつか工夫をしておきましょう。まずこういう場合、体質などの問題をまともに表現するとえらく複雑になってしまうので、ここでは暫定的な措置としてやや乱暴にそれを単純化し、各体質がそれぞれ1個の「仮想的な器官」によって担われていると仮定します。
つまり例えば汗をかきやすい体質や、あるいは肩や筋肉が凝りやすいという体質が何か重要な問題になっている場合、それらの体質の問題はそれぞれを司る仮想的な器官一個の機能で、専ら決定されていると考えるわけです。
ただしそれらの「器官」は、必ずしも汗腺や筋肉などそのもののことではなくもっと抽象的なもので、むしろその体質にかかわる機能を体の各部から集めてきて、あたかも一つの独立した小器官のようにまとめ上げた仮想的なものだと考えれば良いでしょう。
ともあれそのようにすれば、それは作用マトリックスの中に単なる1個の器官成分として書き込むことができ、体質にまつわる現象の表現はかなり簡単になります。
そしてここでは、それらの体質を司る仮想的な「器官」や成分は左上に集め、「本物の」器官や成分(つまり西洋医学的なドグマからすれば、病気の本質にかかわるのはこちらだけです)は、右下の部分に集めるという形で表現しておきましょう。
さてこのようにした場合、結論から先に言ってしまえば、EBM万能論(先ほどのような意味での)が完全に成立するためには、作用マトリックスは次のような形でなければなりません。
図4
一見してわかるように、四角で囲まれた部分の外では相互作用成分にゼロ成分が多くなっていますが、この場合何が重要になっているのかというと、
・「体質にかかわる相互作用の連鎖の糸が(閉曲線の)ループを作っていないこと。つまり体質成分を通る糸は、(作用マトリックスの中にゼロ成分が多いために)どれもどこかで必ず途切れて行止りになっていて、決して1周して自分に戻ってはこない」
ということです。その理由はおいおい明らかにしていこうと思いますが、ともあれその点に注目してもう一度これをご覧ください。
この作用マトリックスを見ると、右下の四角で囲まれた部分の内側ではゼロ成分が少なく、そのため相互作用の連鎖の糸はこの中では何本も閉曲線のループを作ってしまっています。
しかしその外側の部分では相互作用成分のかなり多くがゼロになっており、そのため相互作用は閉曲線のループを作れず必ずどこかで途切れています。つまり「体質要素」を通る相互作用の糸はどれ一つとして一周して自分に戻ってくることはありません。
そして数学的に見た場合、系がこういう格好になっていない限り、EBM万能論は成立しないのです。(なお上の例では、四角形の外側ではループが生じていないことを端的に示すため、そこの部分では対角線より下半分がきれいにゼロ成分だけになっていますが、必ずしもそこのすべてがゼロ成分である必要はなく、とにかくループが全部途切れて自分に戻ってこないようになっていさえすればOKです。)
逆に言えばEBM万能論を信じている人の頭の中では(本人が意識しているかどうかは別として)、実は無意識のうちにこのような系が仮定されている可能性が極めて高い言えるでしょう。そしてまさにこの点を押さえることで、EBM万能論の盲点は射程に入ってくることになるのです。
2・EBM万能論の盲点は如何にして生まれたか
天体力学が及ぼした重大な影響
ところで私自身はEBM、というより医療の世界そのものについてさほど詳しいわけではありません。(それは医学用語の使い方が素人くさいことからもご推察できると思います。)
にもかかわらず、何やら自信ありげにそれについて論じるのは、この種の思い込みや錯覚が医学の世界に限らず、経済学、社会学その他ほとんどあらゆる分野において生じており、しかもその錯覚がほとんどすべて同一のパターンになっているためです。
そして実を言えばこの錯覚は、遠く三百年前の天体力学の中で生まれたものなのであり、特に前回お話した「三体問題」こそがまさにその焦点でした。その意味ではもともとこの問題は、天体力学まで遡って考えないとその錯覚の源を一望することが難しかったのかもしれません。そのためここでも、そのバックグラウンドを知るために少しそれについて見てみましょう。
では天体力学では、過去にどういうことが起こっていたのでしょうか。それはまさしく先ほどと同様、「系の中のゼロ成分が多くなっている」状態を想定することだったのです。
そもそも惑星などの天体の運行を解き明かすという問題は、つまるところ天体間に働く「引力」という相互作用がそれぞれの天体をどう動かしているかということに尽きると言って良く、そのため作用マトリックスによる記述に最も適した対象です。
そして太陽系の中の惑星の運行を考える場合、本来ならば天体間の引力としては太陽が各惑星に及ぼすものだけでなく、惑星間の相互に働く引力も考慮せねばなりません。要するに作用マトリックスを作って太陽と各惑星を対角線上にずらりと並べた場合、相互作用成分の各位置には、天体間相互の引力の値が記入されることになります。
図5
そのためこの場合、本来なら作用マトリックスの中は、縦横すべての成分が余さずそれらで埋められることになるのですが、ところが太陽系の場合には、一つの特殊条件がありました。それはここでは、とにかく太陽の引力というものが他を圧して大きく、それに比べれば惑星が他の惑星に及ぼす引力などというものは、全体から見ればほとんど無視しても差し支えないということです。
そのため、当時の天文学者たちは、太陽系というものを表現する作用マトリックスとして(もっとも彼らは当時作用マトリックスそれ自体については知りませんでしたが)、ちょうど太陽のところの縦一列を除いて、ほとんどの成分がゼロになっているような系を無意識のうちに想定し、それを天体力学の出発点としたのです。
図6
これを先ほどの、EBM万能論に要求されるもの(特に四角形の外側の部分)と比較してみてください。こちらの太陽系の作用マトリックスの方が、もっと徹底してきれいに整理されていますが、とにかく引力の相互作用はどれも太陽から各惑星への一方通行になっていて、ループを作って戻ってくるものは1本もありません。
そのため先ほどEBMのところで要求した条件、「作用マトリックス内部にゼロ成分が多いため、相互作用の連鎖の糸がループを作らず行き止まりになっている」に照らせば、両者は同様のパターンになっていると見なすことができます。
天体力学の発展の秘密
実は今にして思えば、このパターンを最初に想定したことこそ、天体力学が後に大発展した最大の理由でした。それというのも、作用マトリックスの中にこういう条件が想定されている系ならば、その振る舞いはすべて微分方程式を用いて完全に解き明かせるということが、きちんと数学的に証明できるのです。
つまり天体力学、というよりひいては近代数学全体のその後の驚異的発展は、これを土台にしていればこそあり得たというわけです。
しかし逆に言えば、そのパターンを想定できないような局面では一体どうなのかということが、一つの泣き所として残っていることになり、それは下手をすれば全体のアキレス腱になりかねないものでした。そしてその焦点にあったものこそが、まさしく三体問題であったわけです。
つまり言葉を換えれば、三体問題というものはそんな特別な条件やパターンを想定しない場合のすべてを代表していたわけなのですが、ところがこういう問題の場合、いかなる手段を用いてもそれを解くことはできないのです。
この「解けない」ということの意味は、詳しく説明していくと少々面倒になりますので、ここではむしろEBMの場合に重要となる側面だけをピックアップしておきましょう。それはこの三体問題型のパターンの場合、どれかの成分の値をちょっと変えただけで、系全体のその後の振る舞いが大きく激変してしまうという特性があることです。
つまりこのように、どの成分も何らかの形でループの上に乗っているというパターンだと、天体のどれかの位置を最初の時点でちょっとずらしただけで、後の天体すべての軌道が完全に変わってしまい、ちょっとやそっとの計算では修正できないのです。
それに対して太陽系型だと、最初のスタートの時点で惑星のどれかの位置を少々ずらしても、ずらさずにスタートさせた場合の軌道とそれほど大きく違ってくるわけではなく、簡単な計算で修正することができます。
図7
要するにループの上にある成分は、そのちょっとした変化が後に系全体を大きく変える恐れがあるということであり、これが医学と関連してくることなのです。
それはともかく、これを見るとむしろ本来三体問題型のパターンの方が、何も特別な条件を想定していないという点で、明らかに一般的なケースであったことがわかります。しかし当時の数学者たちは、ゼロ成分の多い最初の太陽系型の方が標準型だと思い込んでいたため、なぜそれが解けないのかがわからずに悩んでいました。
ところが彼らの密かな悩みをよそに、科学の外の世界にいた知識人や社会思想家の側の方が、むしろ天体力学がそれまでに成し遂げたことを見て圧倒的な感銘を受け、これこそ世界を切っていくための究極的な物の考え方だと確信し、自分の世界にそれを大黒柱として採り入れていきます。
そしてアキレス腱の存在を知らないまま、デカルト的近代合理主義はどんどん思想の世界で支配権を確立し、それはやがてアメリカ的合理主義となって一般市民の間にも浸透していきました。つまりこう大きく見てくるとEBM万能論も、その大きな流れの末端に生まれたものだったということになります。
ところが作用マトリックスのフィルターを通して見ると、実はそういうことを事実上期待できないような三体問題型の系の方が、余計な仮定をしていないという点でむしろ系として一般的なものだったというわけですから、これは話は大変なことになってきました。
まあそれはともかく、以上から作用マトリックスの話というものが、いかに大きなバックグラウンドをもっているか、そしてまたそれを用いた場合、EBMの問題などもいかに大きな場所から俯瞰されることになるかは、おわかりいただけたのではないかと思います。
EBM攻略の鍵となる数学的部分
さて以上、少々大きな歴史的バックグラウンドの話に寄り道をしてしまいましたが、ここで話をEBMの方に戻しましょう。
EBMにまつわる問題の場合、次のことがいわば本質であって、問題全体を貫く大きな鍵です。
先ほど天体力学の話で、三体問題のようにループの途中の成分が変化する場合、それがほんの僅かなものであったとしても、全体を大きく変化させると述べましたが、作用マトリックス理論を用いると、そのさらに詳しい内容がわかります。
それは、こういう場合に誤差が時間と共に急激に拡大していく状況は、数学的に言えばそれは指数関数のカーブを描いて増大しているということです。それに対して、ループが切断されている場合、誤差はせいぜい直線状に緩やかに拡大するに過ぎないのであり、それが作用マトリックス理論から明らかにされています。
「指数関数」などと言われて身震いしないでください。ここでは何も難しい話は必要なく、要するにそれはいわゆる幾何級数、すなわち2、4、8、16・・・という具合に数を2倍、2倍にすることを繰り返していくと、せいぜい数十回で天文学的数字に達してしまうという話のことだということを理解していれば、それで十分なのです。
しかしその意味するところは重大で、それは誤差のグラフが指数関数のカーブになっている限り、最初の誤差がほんの0.01ぐらいでも、ちょっと時間がたてばたちまち巨大化してしまうということです。
そのため体質の違いによって体全体に生じる僅かな誤差も、その相互作用の糸がループの中にある場合、時間をとってやりさえすれば原理的には必ず無視できないものとなってしまうということになるのです。
一方それがループを作らずどれも一本道で終点になっていれば、体質による誤差は確かに川が泥を運んでくるようにして、時間と共にだんだん終点に蓄積していくかもしれませんが、最初が0.01ぐらいなら最終的な結果もせいぜいそれを数倍した程度で終わってしまい、質的にも量的にも誤差として後で修正可能な程度のものにしか成長しません。
図8
もうこれだけでも東洋医学の問題に数学的根拠を与えるという点では十分なほどです。つまり前者の場合、たとえ最初の体質による誤差が全体から見れば僅か0.01%程度だったとしても、十分時間が経てばそれは10%にも20%にも成長するわけで、そしてついにそれが測定データそのものの身の丈と肩を並べるまでになってしまったとすれば、もはやそれは単なる量的な誤差というより、結果そのものを黒から白へ変えているに等しいと言わざるを得ません。
つまりこういう場合、体質の違いが処方箋自体を逆転させるという現象が理論的にあり得ると言っても良いでしょう。というよりもこれは話が逆なのであって、むしろ体質を無条件で誤差要素として処理できる場合の方が特殊なケースなのであり、作用マトリックスを用いるとその意外な事実が数学的に証明されてしまうことになります。
そう見てくると、西洋医学・EBM万能論の側と東洋医学の側とで、すでに数学を巡っての立場が逆転を起こしていることはおわかりでしょうか。つまりこれまでは、やれ証拠だデータだと、数値の提出を求められていたのは東洋医学側でした。
しかしこれからは逆に、例えば向う側がEBM万能論を振りかざし、体質を単なる誤差として軽視する態度をとっていた場合、今度は東洋医学サイドが彼らに対し、本当に現在問題になっている作用マトリックスにはゼロ成分が多いのか、そして体質相互作用のループが本当に存在していないと言えるのかについて、証拠データの提出を要求できる立場に立つことになります。そして向こうがその証拠を提出できなかった場合、逆に向こうの主張を数学的根拠に乏しいものとして退けることができるようになっていると言えるでしょう。
まあ以上においては、議論に際してちょっと「体質」という問題に重点を置きすぎた感もありますが、ともあれもっと一般的な観点から見ても、EBMへの対抗理論はそれが存在するというだけで、これだけの立場の変化をもたらすことになるわけです。
3・EBMへの具体的な対抗理論
具体的な攻略法
ではいよいよ、もっと突っ込んだ具体的なEBMの攻略法に移りましょう。EBMへの対抗理論の場合、次の点が鍵になります。先ほど、作用マトリックスの中で体質要素成分がループの上にあった場合、それをちょっと変えたことによる影響は、爆発的に成長して結果そのものを変えてしまうことがあると述べました。
つまり数学や統計の観点からするならば、この要素はまさに誤差の地雷のようなものであって、うっかり踏んでしまったらそれでアウトという危険な代物です。
ところで考えてみると、どうもEBMのデータ収集をめぐる状況というものは、言ってみれば地雷が埋まっている危険な砂浜で潮干狩りをするようなものだったのかもしれません。つまりなるたけ多くの貝を穫るためにはなるたけ広く砂浜を歩きまわるのが望ましいのですが、しかしその分、地雷を踏んで元も子もなくす可能性も増すというわけです。
要するにEBMの場合、一般にデータの収集範囲を拡大すると、確かにデータ数を増やして着実に統計誤差を減少させていきますが、その一方でその種の「誤差の地雷」を踏んで、逆に誤差を一挙に爆発させる危険も増大させることになります。
そうなってくると、データ収集も馬鹿の一つ覚えのように無制限に拡大すれば良いというわけではなく、実は本来この両者の兼ね合いで決まる適正点というものがあったのではないかという理屈になるわけです。
そしてこれをちゃんと定式化して示してしまえば、EBMへの対抗理論も十分に作れるはずだというのが、ここでの論旨です。
「誤差の地雷」のメカニズム
ではそれをあらためて詳しく見ていきましょう。もともとこの「誤差の地雷」というものは、一体どこに隠れているのかわからない厄介な代物ですが、EBMにおいては特に次のような局面が問題になります。
それは、データ収集に関してそれを当初、限られた狭い地域・範囲で行なっているうちは、ほとんど表面化してこない場合があるというような局面であり、それは例えば具体的には次のようなケースです。
ここでまず、ある体質要素が先ほどの一連の話と同様、作用マトリックス内のループ上にあり、それをちょっと変えてしまうだけで結果を大きく変えてしまうような状況になっているとします。
ただしこの場合、その体質要素の変化というものは、ある何らかの外からの環境変化、つまり例えば飲み水などの変化によってのみ引き起こされるものであり、日常飲んでいる飲み水が同一である限り、その要素は例外なく常に値が万人について同一であって、その変動を考える必要は一切ないとしましょう。
図9
さてこういう場合、もし自国内では飲み水が全部同一であるとすれば、最初に調査を国内だけで行なっているうちは、そこで何らかの変動が生ずることはなく、またそこから大きな誤差が発生することを心配する必要もありません。
ところがここで、隣国に入ると飲み水の性質が変わってしまうとすれば、調査範囲をそこまで拡大した途端に、この体質要素の部分に変化が生じて誤差が爆発し、しばしば結果そのものをまるで逆にしてしまうことになります。要するにこの場合、これら二国での結果をごちゃまぜにしたデータは、統計として全く意味をなさなくなってしまうわけです。
逆に言えばこの場合、国内だけで調査を行なっている限りはこの「誤差の地雷」は眠ったままでいて、その存在が気づかれることはありません。しかし調査範囲を広げていくとそれが目を覚まし、続いてさらに外まで調査を広げると、同様にして眠っていた全く別種の体質成分に関するものも同じように目を覚ます可能性が高くなるため、結果としてそれを踏んで爆発する危険性は次第に1つ、2つと増えていくわけです。
図10
なお注意しておきますが、ここでは環境の変化などに関して一種の「階段状変化」、すなわちそれらは国境線を境にして大きくまとめて変化するが国内ではほぼ完全に平坦一様であるという、やや極端な仮定を置いており、「国ごとに医学常識が全然別物になってしまう」という状況は、あくまでこういう仮定のもとでのみ成り立つことです。
まあ現実には環境は、国境線一本を超えただけでそこまでまとめて階段状に激変するわけではありませんし、また逆に国内ではそこまで一様というわけでもありません。
しかしそれでも、やはり環境要因は地方や集団ごとにある程度まとまっているのが普通なので、少なくとも理屈としては十分に成り立つものと思われます。
もっとも環境要因が国境で区切られているか否かを別としても、一般に調査範囲を広げていけば、少なくとも何らかの形で、予想もしない環境・体質要因の変化に遭遇する可能性が増していくことだけは、まあ理屈として確実だと思ってよいでしょう。
そのためいずれにせよデータ収集範囲の拡大に伴って、この種の「誤差の地雷」を踏む確率が増していくことは、論理的に見てまず間違いありません。
データ収集範囲の適正値
それではここで、その状況をグラフにして見てみましょう。まず従来の考えでは、データ収集量に関しては通常の統計誤差の話だけが問題とされていました。
つまりそれは高校数学でもやるように、一般にデータ数を増すほど統計誤差は減るという常識的な原則のことです。そしてその状況を大まかにグラフにすると次のAのようなカーブになって、データ収集範囲を拡大するほど統計が正確になっていくことが表現されています。
図11
しかしその一方、先ほど述べたようにデータ収集範囲を拡大していくと、「誤差の地雷」を踏んでしまう確率もそれだけ増してしまいます。
まあそれが具体的にどのぐらいの大きさになって現われるかは、条件にも左右されるため少々複雑な話になりますが、まあ大雑把に言えばそれは現実には例えば次のBのような形のグラフになると考えられ、データ収集範囲を拡大するに伴って結果に現われる誤差の平均値も増大していくことが、表現されているはずです。
図12
結局そのため、最終的な結果の正確さとデータ収集範囲に関する真の姿は、この相反する2つの要素の兼ね合いで決まるものだったということになります。つまり具体的にはそれはAからBを引いたものとして表現されることになり、大体大まかに次のグラフCのような形になるものと考えられます。
図13
これを見ると、グラフのd点のあたりが正確さの極大点で、それを超えてデータ収集範囲を拡大すると、かえって統計データは信用できなくなってしまうことが、このグラフCの上に示されています。
そのためこういう場合、データ収集範囲や収集量は無制限に拡大すれば良いというわけではなく、本来その拡大はd点あたりで止めておくべきだったということが数学的にちゃんと証明できるわけです。
(註・ただし一つ注意しておきますが、今の話のグラフBのカーブの形は、実は系の状態をどう想定するかの仮定次第で大きく変わる性格のものであって、必ずしも数学的に一通りに厳密に定まるものではありません。そのためここで示したグラフの形にしても、割合に標準的なものの一例を示したものでしかなく、このカーブの形が完全に数学的に天から与えられた絶対的なものだと誤解していると、相手側からそこを突かれる恐れがありますので、その点は多少の注意が必要です。)
EBM万能論が成り立つ場合
ところでこの場合でも、EBM万能論は特殊な条件を想定すればちゃんと成立するということに注意しましょう。つまりそれはグラフBを事実上無視できるという特殊な場合であり、そしてそれはさらに遡って言えば、以前に述べた「EBMが完全に成立する系」の話から完全に説明されるのです。
ここで、以前にEBM万能論が成立するパターンを作用マトリックスで表現した時のことを思い出してください。そして先ほどの「飲み水で変わる体質成分」の話を題材にこの話を行なうと、そのような、環境でいきなり変化するような厄介な体質成分がたとえ存在していたとしても、それらの(作用マトリックス内での)位置がすべて四角形部分の外側にある限りは大丈夫なのです。
もっとも確かにこの場合でも、環境が変化すればその体質成分は変化するので、いわば地雷を踏んでしまうこと自体には変わりはありません。しかしそれは作用マトリックスの中ではループから外れた位置にあるため、全体に与える誤差はせいぜい修正可能な小さいものに留まり、結果の黒白を逆転させるような大きな誤差の爆発を引き起こさないのです。
図14
つまり言ってみればこの場合、それらの「誤差の地雷」は爆薬を抜かれた状態で埋められているようなもので、たとえ踏んでも現実に爆発するものは実はここには一つもないのです。そしてBのグラフが示していたのは爆発の結果として系全体に現われる誤差の大きさの値だったのですから、いくら収集範囲を拡大してもそれはゼロ(ないしゼロに近い横ばい状態)として事実上無視でき、結局グラフCは基本的にグラフA(単純に増大する)だけで構成されることになります。
そのためこの場合は本当にデータ収集範囲を拡大することは、ほぼ無条件で正確さを増すことにつながり、EBM万能論はこの場合に限り、完璧に成立するという理屈になるのです。
思えば従来の数学には、この誤差の爆発現象をコンパクトに扱えるツールが存在していませんでした。まあその気になれば解析できないわけではなかったのですが、いかんせん大仕掛けで難しすぎて、一つ一つに大変な時間がかかる上、出てきた結果を見ても数学者以外には何が書いてあるのかさっぱりわからない有様で、要するに実用的に使える代物ではなかったのです。
それに対してこの場合、基本的には作用マトリックスの中のゼロ成分の分布状況が与えられさえすれば数学的記述は可能であり、Cのグラフ、そして原理的にはd点の値も計算は可能になると考えてよいでしょう。
つまりこれがEBMへの対抗理論であり、以上がそのアウトラインというわけです。
参考・社会学などの場合
ところでこの種のことは、むしろ社会学の分野では割合に経験的な常識として定着しており、そこではEBM風のデータの物量作戦というものはあまり信用されていません。(まあそれは一つには、見込み違いをした場合にあまり厳しく責任を問われないこともありますが。)
例えば米国で収集したデータを基にして、ある社会学や人間行動に関する理論を作ったとき、理論の信用を増すためにデータ収集範囲をインドにまで拡大し、全部のデータをごちゃまぜにして統計にかける、などということは普通はなされません。
実際、米国で作った理論をインドに適用すると、結果が全く正反対になってしまうなどということは極めて頻繁に起こるのであり、それが経験としても良く知られているため、そういう乱暴なことをするとかえって信用されないのです。
まあ経済学や社会学ではこうしたことは比較的早くから経験的な常識となっていたため、そう深刻な議論が行なわれなかったきらいがありますが、しかしいずれにせよそれは実は背後に前述のような厳密な数学的メカニズムをもっていたというわけです。
医療の時間スケールとEBM
なお一つつけ加えておくと、先ほどの解析からもう一つ重要なことがわかるため、ここでそれについてつけ加えておきましょう。それは先ほどの問題は、実はその医療が想定している時間的スパン−−長期的か短期的か−−によっても、かなり変わってきてしまうということです。
どういうことかと言えば、もし作用マトリックスの基本的な状態が本来EBMにとっては不利なものだったとしても、非常に短期的な医療を考える限り、必ずしもそのマイナスは大きくは効いてこないということなのです。
その理由は、先ほどの「誤差の地雷」を踏んでしまうという話を振り返るとよくわかります。先ほどの議論では、それをうっかり踏んでしまうと、誤差が指数関数の形で時間と共に急激に拡大してしまうと述べました。
そしてここで問題になるのは、そのカーブの時間的な振る舞いの特性です。つまり一般に指数関数のカーブというものは、時間がたつと急激に大きくなりますが、それは逆に言えばスタートからしばらくの間は、むしろ値は非常に小さいままでいるということでもあります。
そのため医療の場合も時間のスパンをどの程度に考えるかで、状況は大きく変わってくるわけです。つまり数年単位の長いスパンでの結果が問題となる長期的な医療の場合、もし誤差の地雷を1個でも踏んでいると、その影響や誤差は図のaのように数年後には黒白をひっくりかえすほどのものに成長しています。
ところが同じように1個を踏んでいる場合でも、bのように例えばせいぜい1週間後ぐらいまでの短期的な結果がわかれば良いという場合、1週間後の時点での測定ではまだ誤差がほとんど成長していないため、系全体への影響もどうということはありません。
図15
つまり内科や総合医療のように年単位の長期的なスパンで考える医療と、外科や、あるいはもっと極端には救命医療のようにとにかく1週間を目処に乗り切れば良いという医療の場合とでは、相当に状況が違ってきてしまうということです。
実際後者の場合、たとえ誤差の地雷を1個踏んでもその影響は、少なくともその1週間という時間内にはさほど大きなものとしては出てこず、系全体に生じている誤差は、実験全体を破綻させるような限界値に比べてせいぜい1/10ぐらいの小さなものとして無視することも十分可能です。
逆に言えばその場合、地雷10個ぐらいまでなら踏んでも何とか耐えられることになり、データ収集範囲もその10個を許容限度と設定して拡大することができます。
これはEBMにとっては非常に重要な条件です。実を言えば本来先ほどのグラフにおいても、医療の時間のスパンが長く設定されているか短く設定されているかで、Bのグラフの縦軸の縮尺が変わるように縦に縮んでしまい、データ収集範囲の有効極限値(前のグラフのd点)の位置も変わってきてしまうという仕掛けになっていたのです。
図16
そのため時間のスパンを短く設定すると、グラフのd点は右に寄って、確かにデータの収集量は増やした方が良いという状況が実際に生まれることがわかります。そう考えると、例えば救命医療などを考える限り、恐らく今のEBMでも有効という状況が現実に生じているのではあるまいかと想像されるわけです。
そして同時にこのことは、東洋医学(傾向として長期的)と西洋医学(傾向として短期的)を巡るEBMの問題の上にも、重要な要素として現われてくるということは明らかでしょう。
(注・ただし誤解のないよう注意しておきますが、「短期的・長期的」の区分は、単純に表面的な時間の大きさのみで比較してはいけない場合があります。まあこれについては稿を改めて論じることにしますが、ともあれそれは、時間的には確かに短期的でははあるものの、それ以上に体全体を巻き込んでの病状の進行速度が早いという場合です。
要するにその場合、「ループが最終的に系を何周するか」の回数に注目すると、回転速度が早いためむしろそれは長期的医療並みになってしまうので、短期的医療の統計基準は適用できなくなってしまい、この点で注意が必要です。)
結論
では結論を整理しておきましょう。
・EBM万能論は、実は作用マトリックスの相互作用成分に非常にゼロが多いという特殊な条件のもとに成り立つものであって、実はその錯覚は遠く天体力学から引き継がれている。
・そのためそういう特殊な条件がない場合、データの収集範囲を無条件に拡大することは必ずしも正確な結論にはつながらない。実はそれは本来、統計誤差減少の問題と「誤差の地雷」を踏む可能性の綱引きだったのであり、後者の危険が前者を上回る場合、下手にデータ収集を拡大するとかえって誤差が爆発する。
・そのあたりの数学的内容は、作用マトリックスのゼロ成分の分布状況で決まってしまい、それを通じての数学的表現および定式化が可能である。
・ただしその際の誤差は、時間に対して指数関数的に拡大する性質があるため、逆に言えば短期的な医療を考える場合には、その問題は表面化しにくく、EBM万能論もしばしばちゃんと成り立つ。
ということになります。つまりこの作用マトリックスを用いた対抗理論が十分に普及すれば、例えばもしEBM万能論に立つ側が大量のデータを要求してきた場合、総合医学・東洋医学側は逆に相手側に次のデータを要求する権利を有することになります。すなわち
・問題としている系の作用マトリックスに関する、ゼロ成分の現実の分布状況ないしはその推定
・そこで考えている医療の時間スパン−−長期的か短期的か−−の基準値
・その結果として算出される、有効なデータ収集範囲の上限値(前のグラフのd点)
であり、もし向こうがそのデータを提出できない場合、こちらは向こうの要求を、数学的前提に不備があるとして退けることが可能になるというわけです。
今回はこの技法の応用を、EBMの盲点の定式化というかなり具体的なところからスタートすることになりましたが、無論その将来における意義や応用範囲はこれに留まるものではありません。
実際、遺伝子治療の暴走などにどう歯止めをかけるかという、いまだに世界がどう取り組んで良いかわからずにいる問題などについても、この数学をうまく使えば恐らく十分将来の射程に入れることができ、東洋医学と手を組んでそれへの回答を与えるなどという壮大な構想も、決して夢ではないと予想されます。
ところでその普及を考える際には、数学という学問のもつ、他とはちょっと違う性格に注目しましょう。それは、数学というものはその気になれば誰でも紙と鉛筆で正しいかどうかを検証できる一方、正しいものでも億劫がられて使ってもらえなければ、結局生命を保てないということです。
そのため数学の真の生命線とは、権威による承認や学会での評価よりも、むしろ技術者などの世界にその有効性を知って使い始める人々が何人生まれるかの数なのです。実際面白いことに数学史の過去の実例を見ても、当時の数学界の最高権威には粗雑だと酷評された技法が、それをよそに現場の技術者たちが便利だからと勝手に使っていったことで、結局王座についたという例は非常に多いのです。
それはともかく、今回の内容はたとえ総合医学・東洋医学と切り離しても単体で重要な問題であり、また汎用性の高い手法です。そういった意味でも、総合医学に携わる方の中にこれを理解している方が一人でも多く増えるとすれば、その意義は重要なものがあると言えるものと思います。
※グラフBの大意は「踏む地雷の個数×1個あたりの誤差(定数)」だが、ここでは後者の値だけが先ほどのグラフの二点の値を基準に1/10程度に変化
グラフC=A−Bだが、ここではグラフAは全部前と同じ