2020年4月18日(土) 例会 16:00〜19:00
「コロナ禍後に我々は何をすべきか」
現在「コロナの後の世界にどう対応すべきか」ということは、誰もが知りたがっている最大の問題でしょう。そして『現代経済学の直観的方法』に書いておいたことのいくつかが、まさにこれに関連する形で重要性を増してきており、また今まで考えてきたいろいろなことも、これから一斉に出番が来るようです。
ただ、それらは現在の状況に合うように多少組み替えることが必要だったのですが、とにかくこの1か月ほど必死でそれを考えた結果、一応は目鼻をつけてまとめることができました。
何だか今まで聞いたこともないような巨大な話になってしまいましたが、ともあれそのビジョンをいち早く確立することは緊急の案件なので、それらについてこれから述べていきたいと思います。
まず基本的にパスファインダーがやるべきことが何かと言えば、そもそもこれからおっとり刀で前線に出かけて行っても大したことはできません。むしろそれ以上に重要なのは、これが一段落した次の時期に状況を支配するはずの重要問題について、視野を拓いておくこと、そしてその際に必要となる新しいアイデアの青写真を用意しておくことです。
これらに関して戦略的に重要な進路を迅速に拓いておくことは、まさにパスファインダーにしかできない極めて重要な役割です。
実際、医療の面では長くても2年もすればコロナの問題は収まるはずですが、それを過ぎればむしろ経済をはじめとするそうした問題の方がはるかに切実になるでしょう。しかし現在人類が持っているこれまでの理論やツールだけでは、恐らくそれに対応しきれないのではないかと思われます。
そしてそういうもの新しく考え出すことは、普通1年程度ではまず無理で、本来なら何年もかかる大変な作業です。そのため我々が今、その試みをスタートさせておくことは、2年以上のスパンで見れば、医療のワクチン開発にも劣らない重要性があると言えます。
コロナ後に重要となる2つのこと
さてコロナのあとに何が起こるのかというと、そこでは2つのことが重要なものとして、世界にのしかかってくると考えられます。
ひとつは経済の問題であることが明々白々で、とにかく今までの産業や経済の枠組みはひっくり返ってしまうはずですから、それを何とかするために、当面政府は結局はいろいろな形で金をつぎ込まざるを得ません。
今の時点で誰もがまず頭に思い浮かべるのが例えば飲食店の救済などですが、それに引き続いて航空会社の経営再建、ホテル業界の支援など、一体どこまで拡大するかは見当もつきません。
結局は財政赤字が桁外れになるわけで、これまでの財政再建のプログラムが全部役に立たなくなってしまうものと予想されます。そしてそれに対処するための方法論も、今あるものではどれも限界に達してしまう可能性が高く、そのため新しい戦略に関する考え方だけでも、スタート地点に立って今から考えておく必要があるわけです。
もうひとつは人工知能の問題です。どういうことが起こるかというと、まず物質的な仕事はリモートでやろうという動きが出てくるのは確実です。また宅配のロボット化、医療のAI化なども、いろいろな企業が政府の後押しを受けて開発に乗り出すでしょう。
つまり産業界がコロナ後の不況を、その転換需要で乗り切っていくという方針を取っていく可能性が高いわけですが、そうなると、今までにすでに生じていた「人工知能が人の仕事を奪っていく」という懸念がもっと大きい規模で加速されるということも明らかです。
まあ企業が政府の要望に答える形でそれらの開発を行っている間は、まだ簡単なものしか仕上がって来ないでしょうが、もう少し進んで企業同士がライバル心全開で熾烈な競争を始めるとそれが加速し、人間生活に必要ないわゆる「エッセンシャルワーク」の全部をAIロボットで出来るようにしよう、というところまで駒を進めようとする可能性は高いと思われます。
そうなると、「それら全部を人工知能がやってしまうようになったときに果たして人間が何をすべきなのか」という、我々が今まで論じてきた問題が、これによって加速する形で出てきてしまうわけです。
とにかく次の時代はしばらくの間、みんなが「人工知能を使って不況を何とかしよう」ということにかかりきりになってしまうはずで、「その後の人間の問題はどうするのか」ということにはしばらく頭脳が向いてこないと思われます。そのためわれわれとしては、今から先手を打ってそこを何とかしておこうというわけです。
そこで以上の2つに関してこの先どういうビジョンが必要か、ということについて、人工知能の問題をビジョンA、経済の問題をビジョンBという形で論じていきたいと思います。
ビジョンAについて
まずビジョンAですけれども、これについては今言った「人間の仕事がなくなってしまう」ということの他にもう一つ、『現代経済学の直観的方法』第9章で論じた「快楽カプセル」の問題も改めて大きく現れてしまうことが懸念されます。
実際に、今人々がやっていることは、まさに快楽カプセルの中で過ごしているのと似たところがあります。つまり外にあまり出ないようにして、閉ざされた家の中で安全に暮らすというわけですが、ここにVRの設備でもあれば、ますますカプセルに似て来ます。
まあ現時点ではVRはまだそれほど普及していないですけれども、将来再び別の新しいウイルスが襲来してくるという事態に備えることを考えると、その設備を保有していたほうが良いということになるでしょう。
実際すでに現在、自粛でゲーム漬けになってしまっている若者とかが結構いると思いますけど、今やそれを不健全などと言っている場合ではなく、これはもう認めるしかないという状況です。そうしたことを考えると、まさに我々が心配していた「快楽カプセル」を推進するということに関して、下準備が出来てしまっていることになります。つまりコラプサー化の第一歩を、やむを得ないものとしてすでに踏み出してしまっているわけですよね。
また、仕事をテレワークの電話線を通して行うようになってしまったことで、人間でできる仕事というのが減ってしまう下準備も進んでいます。
実際問題、下手をすれば電話線の向こうにいるのが人工知能なのか人間なのか関係ないわけですからね。今まではとにかく人との接触がないとだめ、電話線よりも人間でないとだめだ、というのがあったのですが、それがリモートになってしまうとその条件が崩れてしまうわけです。それにより、まさに人工知能で代替可能な仕事の規模が大きくなってしまったというのは確かです。
要するに「人間は快楽カプセルの中に閉じこもって、外の仕事はAIが行う」というコラプサー化が加速される恐れは非常に大きく、これは日本社会がどうこう言うより、米国でもっと大規模に推進されて世界的な流れを作ってしまうでしょう。
そういう意味でも、今まで心配していた、「人工知能が発達した以後人間は何をすべきか」という問いが、コロナ以後にますます深刻になってきたわけです。
人工知能と人間の仕事
ではここで、コロナ後にAI導入に拍車がかかり、人間の仕事がなくなる問題について、もう少し詳しく論じましょう。
実際問題、これに関しては今後出版予定の人工知能の本の中に盛り込まれていた内容が、そのままの形で生きてくることになります。そして『現代経済学の直観的方法』の6章でも、貨幣の「実」と「虚」のメカニズムをこの問題に意外な形で応用できるかもしれない、ということが一言だけ書いてありましたが、ここでそれらについて予告の形でざっと述べておきましょう。
これは、われわれは人間の仕事にも「実」と「虚」があり、それが貨幣の世界のメカニズムと一脈通じたものがあるのではないか、という考え方に基づくものです。
貨幣の場合を見てみると、貴金属や現金による「実」のマネーが価値の基礎を支える一方、それだけでは量的に足りないので、信用によって成り立つ「虚」のマネーがその何倍かの規模で生まれ、それが質と量の両面で互いに補完するという構造になっています。そしてここで注目するのは、実は社会における人間の仕事や職業というものも、似た構造になっているのではないかということです。
文明社会での「実」と「虚」の仕事
歴史的に振り返ってみると、「実」の仕事の代表は例えば農業で、人間の生存に必要な食料を作るなどというのは、完全にそうした「実」の仕事です。そして人類社会では17〜18世紀あたりに、大体これは人手が足りるようになりました。
それまでは自然の脅威の方が大きくて、人間全体が必要な食料の生産に人手が足りないこともありましたが、このあたりで穀物の生産能力がある意味自然の障壁を上回った。つまり「実」の仕事は人手が足りるようになって、その後は人が余る時代が本当は来ていたんですよね。
これは江戸時代も同様で、この時期に米の生産量が上がって、日本の人口をまかなうだけの米が作れるようになってきました。だから農家の次男坊三男坊は仕事がなくなってしまい、なんとか仕事を求めて江戸に流れ込んだ。これは逆に言えば、日本全体が「実」の仕事だけでは雇用全部をカバーできない時代に入ったということです。
一方江戸という場所には娯楽を含めて「虚」の仕事がたくさん生まれていたため、それで雇用を量的にカバーすることができました。「虚」の仕事の最大の特徴は、「実」の仕事に比べて人間が勝手に作ったりすることができるということです。
そのため人間が生きるのに必要なものは「実」の仕事で作って、余った人間の雇用を確保する手段として「虚」の仕事が作られていった。つまり「実」と「虚」の仕事が、質と量の両面で互いに補完し合う関係になっており、この時期から文明はそういう状態になっていたわけです。実のところ、このように仕事に「実」と「虚」という概念があるということは、我々が人工知能の挑戦を受けることで初めて認識させられたことではないかと思われます。
人工知能の本当の脅威は何だったか
そして今我々が人工知能の脅威として直面していることというのは何かというと、本当は「実」の部分の仕事を人工知能が全てできるようになってしまうのではないかという心配だったんですよね。
そしてここで再び貨幣のメカニズムに立ち返ると、そこでは「実」の貨幣がベースとしてしっかりしていれば、量的にその何倍かの「虚」の貨幣を生じさせられますが、もし「実」のマネーベースの部分が何らかの理由でだめになってしまえば、「虚」の部分も信頼できなくなってしまうために、全部のお金がだめになってしまいます。
つまりわれわれの不安はまさにこれに似ていて、実はその本質は、人工知能によって人間の仕事の「実」の部分が駄目になってしまうことで、結果的に「虚」の部分もまとめて駄目になってしまうのではないか、ということだったのです。
例えば現代世界の仕事や職業を眺めたときに、「虚」の仕事として最も規模の大きなものはやはりスポーツビジネスでしょう。実際、これはルールを勝手に人間が作っていくらでも増やせるという点で、定義からしてもその通りです。
そのためコロナ以前の時期には、これからは科学をはじめとする知的な「実」の仕事は全部AIがやるようになるのだから、人間の仕事はスポーツを頂点にする形で「虚」がメインになり、極端な話、人間はもうそれだけでやっていけばよいではないか、という議論もあったわけです。
ところがコロナ自粛の中でわれわれは、例えば大相撲の無観客試合などを見てしまいました。その印象は衝撃的で、テレビ画面を見ている人の多くが、静まり返ったその展開を見て虚無感に似た印象をもち、「そもそもこの行為自体に本当に意味なんてあったんだろうか」という疑問さえ抱いたのではないかと思われます。
要するにスポーツの「虚」としての側面があぶり出されてしまったわけで、実際に「虚」の仕事というのは、まず「実」の仕事の世界というものが確固たる形で存在していて、その価値体系の上に派生・寄生する形で、例えば息抜きなどの社会的意義が主張されることで初めて意味をもち、「実」の部分がその存在価値や意味を保証する形でのみ、成立するものだったのです。
要するに貨幣と同様、「実」の仕事に価値を保証される形でしか「虚」の仕事は存在し得ないわけで、「虚」だけでは立っていけないのです。その意味ではAIに人間の仕事の「実」の部分を全滅させられると、もうスポーツも虚無化していくことは避けられず、とってかわることは結局はできません。
思えばアメリカ文明というものは確かに「実」の部分をやる文明ではあるけれども、全員に職を与える「虚」の部分に対してかなり高い地位を与えた文明であるとも言えるわけですよね。例えばそれ以前には、英国などではプロスポーツや芸能の社会的地位は低かったですけれども、米国はそれを「尊敬される職業」に引き上げました。
しかしそれが行き過ぎて、「実」の部分が相対的にないがしろにされる状態になっていたとも言えます。「虚」の部分の仕事は伸縮自在な分、お金も儲かりやすいわけです。そのためほったらかしにしておくと、「実」の部分より「虚」の部分の方が儲かるという現象が起きてしまうわけですよね。その結果、「虚」の部分が肥大しすぎて「実」の部分を侵食してしまいかねないのですが、その状況で「実」の仕事がAIに奪われてしまうと、大量の「虚」の仕事が一斉に倒れかねません。
つまりそうなってくると、人工知能の脅威に関して何が核心だったのかがようやくわかってきます。つまりそれは、とにかく「実」の仕事がどこかに残ってコアになることが保証されねばならない、ということだったのです。
そしてそのためには、「たとえ人工知能が無限に発達しても、人間の天才がやる「実」の仕事にはそれを上回る部分が残りうる」、ということをきちんと数学的に証明することが、非常に重要なカギになります。
これまではそれを示すことは、単に人間の尊厳や意地の問題だと受け止められていたように思います。しかし実は、それは「実」のコアがベースとして残ることを示すことで、何倍もの「虚」の仕事に価値を保証してそれを成立させる、という非常に重要な役割を持っていたことになります。
それが図らずも、このコロナの件でさらに重要性を増してしまいました。実際さっきも言ったように、世の中ではすでにリモート化で、宅配はできるかぎりロボット化、AI化してウイルスの中でも機能するようにしようということが国家的な課題として推進され、そこに対する研究開発投資、設備投資というのは国家単位で巨大化してくるでしょう。
これはコロナ後の立て直しのために、誰もがその必要性を認めることではありますが、しかしその裏でどうしても「その行き着く先に人間は何をすれば良いのか、人間の存在そのものが無意味化するのではないか」という不安や恐怖を抱え込むことになるはずです。
つまりこのままだと、今後の文明世界全体は、全員が日々その不安の中で暮らし続ける、暗澹として心の晴れない世界になる可能性が大きいのです。
そんな中で、たとえ人工知能が無限に発達しても人間の天才的直観力が勝つ余裕があることがきちんと数学的に証明されたとなれば、ひいてはその「実」の部分を確保することにつながることになり、大変な重要性を持つわけです。
これは今までも重要な問題であったけれども、さらに拍車がかかったと言えるわけで、これまではそれが如何に重要なことかということが理解されていなかったと思うんです。
まあ現在前線に張り付いている人は目の前の仕事に手一杯で、こんなこと考える余裕はないと思われます。ましてや、その数学的な証明を1年やそこらで行えといきなり言われても、呆然とするだけでしょう。
そのため現在のわれわれが、その戦略的に重要な部分に向けて今から前進を開始することがどうしても必要だというわけです。
コロナ禍が表面化させた本質的な課題
それにしても人工知能とコラプサー化の問題の両面にまたがったことではありますが、そもそも今回のコロナ禍で大きかったのは、それが人間社会の本来なら健全なはずの「人間の直接的な触れ合い」という部分を直撃してしまったことです。
産業の面でも「観光立国」のビジョンなどはほとんど崩壊に近いダメージを受けたと言っても良く、豪華クルーズ船などは今後何隻もスクラップになるかもしれません。確かに時間をかければ観光そのものはある程度は回復するでしょうが、もうそれを主力にしようということは誰も言わないはずです。
その一方で現在問題なのは、電子の世界に生まれる仮想世界というものが、コラプサー化に対する障壁というものをほとんど持っていないということです。
つまり今のところその世界は、短期的欲望にもとづいた「虚」のコンテンツが主力になる形で作られて、それが野放しになっています。いわゆるネトゲ廃人というのはその象徴で、彼らは人々の短期的願望を満たすように設計されたファンタジーの世界で、苦痛から逃げる形で生きています。しかし皮肉なことに現在ネトゲ廃人は自粛には貢献しているわけで、それが不健全なのではないか、という社会的なブレーキの力がなくなっているわけです。
要するにそういう形で市場規模が大きくなってしまってしまったため、短期的願望が極大化されてそこから抜けられなくなっており、まさにコラプサー化の温床になっているというのがバーチャル世界の現実です。
これを見ると、一見する限りではバーチャル世界そのものが本質的に駄目なのだという話になるように見えますが、われわれのアプローチは少し違っています。
つまり現在のバーチャル世界が問題なのは、それが単なる商業的要求以外に何も考えず、短期的願望の「虚」のコンテンツで作られていることにあるのであって、むしろバーチャル世界に今後「実」の世界をコンテンツとして持ってくればよい、というのがわれわれの答えです。
ではその際の「実」のコンテンツの最有力候補は何でしょうか。それは「無形化された世界史」だというのが、目下の最有力な解答です。
あらためて述べると、『無形化世界の力学と戦略』で提示された方法論は、経済力を陸軍力に、メディアの力を空軍力に、研究機関の知的影響力を海軍力にそれぞれ対応させて、それを一挙に可視化してしまおうという試みです。
そして一般に経済戦争と軍事的戦争を比べると、そのスピードが1:10の比率で進行するという法則があるので、50年間の経済戦争が5年間の軍事的戦争に対応づけられます。
そう考えると、『現代経済学・・・』で述べた、金融を鉄道に対応させるというのは、まさにその可視化の第一歩だったわけで、その発展形として、さらに「15秒CM1本のオンエアが、航空爆弾2sの力に換算される」などの、エネルギー換算に基いた具体的な数量換算の体系が控えています。
これを使うと、将来的には企業戦略を戦車戦の理論で解析するなどということも可能となり、それら全部を合わせれば「目に見える世界史」を現出させることができるようになるというわけです。
つまりそのずっしりとした重みをもつ新しい世界史自体を、まるごとバーチャル世界に引っ越させてそこの主力コンテンツとし、むしろバーチャル世界が真の意味での「実」の世界史を担う世界に変わってしまえばいいわけです。
というより、そもそも第二次大戦後、核兵器が登場してしまったことで「実」の世界史はすっかり痩せ細っていました。戦争の主力は無形化した経済戦争に移行する一方、カメラに写る物質世界の映像は脈絡のない事件の羅列になり、無意味な芸能人の「虚」の映像の方が幅を利かせて、世界史の「実」の流れというものは見えなくなってしまっています。
その一方でバーチャル世界は、ファンタジーを筆頭に、スイッチを切ると意味が全て失われるコンテンツが主力となって作られていて、名実ともに「虚」の世界でした。
そこで、このさいそれを一挙に整理する形で、壮大な引っ越しを行ってしまおう、というわけです。つまり第二次大戦の時代までは「実」の世界史は物質世界にありましたが、その世界史の中核部分は現在は無形化して、カメラに写らないものになってしまっています。
そこで、それをまとめて仮想世界に引っ越させて全部を可視化することで、バーチャル世界を「実」の世界史が展開される場所とする一方、現在テレビカメラに写っている無意味な映像の羅列は、逆に「虚」の存在に格下げされることになり、物質世界と無形化世界で一種の巨大な立場の逆転が起こるわけです。
今までは無形化戦略の可視化という発想自体が、やはりあまりにも世の中から先へ行き過ぎていて、日本で受け入れられる見込みはないと思われていました。しかしこの未曽有の事態の中で、ついに出番が来たのかもしれません。
実際、無形化戦略という考え方に慣れてくると、政治家の発言が時折、何だか間の抜けたものに見えることがあります。例えば現在の状況を「第三次世界大戦」と呼ぶなどという話ですが、われわれに言わせればそんなものはとっくの昔に終わってしまっているのです。
つまり実は、かつての冷戦つまり米ソ間の50年間の経済戦争が、無形化された第三次世界大戦そのものだったのであり、そしてそれを5年間に換算した「準三次世界大戦」の経過は、驚いたことに第一次大戦の5年間のパターンとそっくりなものだったのです。
そこから考えると、もう終わってしまった「第三次世界大戦」の語句自体は永久欠番とするのが適切で、むしろわれわれは現在、次の「準四次世界大戦」の真っ只中にあり、それと第二次大戦との共通性に注視しているという状況にあるわけです。
そしてこの「準四次大戦」は、恐らく未来の歴史家の目から眺めると、その意義は第二次大戦のそれより大きいものになるかもしれません。それというのも、これは「人類社会がグローバル化によるコラプサーの中に陥ってそこから抜けられなくなるか、それを阻止して勢力均衡を維持できるか」という、人類史の最も決定的な岐路に位置しているからです。
実はこれはかつて中国の歴史で起こったことに似ており、それは始皇帝の中国統一です。『現代経済学・・・』でも、これを境に中国文明全体がコラプサー化し、その意味でこれこそ中国の歴史全体における最大の転換点だったと述べました。そう考えると、無形化された形ではありますが、この「準四次大戦」はその意義において第二次大戦を遥かに凌駕する、人類史上の最も決定的な局面に位置する可能性が小さくないと考えられるからです。
そのため、この巨大コンテンツを次の世代のコロナ後の切り札として使うんだという主張は、かなり説得力のある状況になってきたのではないかという気がしています。
実際、今後はどんな将来ビジョンも「もし新たなウイルスの来襲が再度訪れた時に、それに耐えられる性質のものなのか」という条件が課されてしまいます。観光なども徐々に再開はするでしょうが、今後はこの懸念を抱えることになるので、産業として以前と同じ信頼感を取り戻すことはできないでしょう。
それに比べると、無形化された「実」の世界史を仮想世界に引っ越させ、人々がその世界史に参加して人類社会のコラプサー化を阻止する、というビジョンは、少なくともまずその条件はクリアできます。そしてなおかつ、これまで見たことのなかった斬新さ、新鮮さがあって文明の再スタートにふさわしいという点で、かなり有力な候補だと言えると思われます。
また大きくカメラを引いてみると、今のウイルスとの戦いはいずれ終わりが来て回復することが確定していますが、文明社会のコラプサー化は、一旦そこへ堕ちてしまうと千年近く回復できないという点で桁外れに深刻です。
そのためこの「準四次世界大戦」という、表面的には米中の経済・メディア戦争がメインに見えつつ、その背後に「人類社会のコラプサー化の阻止」というもっと大きな意義を秘めた、無形化された大戦争に参加する、ということは、コロナ後の最有力なリーディング・コンテンツになり得るのではないかと思います。
そして人工知能に関連して「人間が何をして生きていくのか」という課題についても、先ほどの数学的な証明で人間存在の意義を確保する一方、それを「世界史の『実』を仮想世界に引っ越させる」ビジョンと組み合わせることが、その両方を解決する手段として将来的に不可欠になるものと思われ、これは医療にも劣らない(というより長期的にはそれを遥かに上回る)極めて重要な課題だと言えると思います。
ビジョンAに関しては、以上のあたりになります。
次に、ビジョンBの経済の話についてですが、その話に入る前に、現在の世界の状況を無形化のルールでどう可視化するかということをちょっと考えてみたいと思います。
われわれは今「スターリングラードの雪」を見ているのでは?
そもそも無形化した世界史において、現在のこのコロナ恐慌がどう表現されるべきかですが、ここで一つアイデアとして「大雪」というイメージをこの際使ったらどうかという気がしています。
無形化のルールではさっきも言ったように、例えば金融が鉄道に、メディアが空軍に対応するなど、経済戦争への対応物というのが大まかに定められていますが、地形や植生などのこまごましたものにもそれぞれ対応物を考えることができます。
しかし今までは「大雪」というものが経済世界の何に対応するのか、ということが未定のままでした。まあ候補としては色々あったんですけれども、どれもちょっといまいちで、対応がピンボケでしょぼいというか、適当なものがないなという感じだったんです。
しかし今の状況こそ、まさにこれにぴったりしたものではないか。つまり現在の経済の麻痺状態は、いわば道路そのものが小さな裏路地に至る末端まで全部通れなくなってしまっているようなものです。これは戦線全体が大雪で交通が途絶し、皆が家に閉じ込められているという状況そのものなんですよ。
また現在は芸能界も活動がストップしていますが、これも要するに飛行場の滑走路が雪で閉鎖されて航空機が飛べない状態に相当するわけです。
そしてこれが大雪であるというのはもうひとつ理由がありまして、それはこれが無形化された準4次世界大戦史の年表にぴったり重なるということです。
そもそも準四次大戦の年表では、湾岸戦争でその開始の号笛が鳴ったと考えると
・1990年代がWW2の1939年後半から1940年前半に
・2000年代が1939年後半から1940年前半に
・2010年代が1941年後半から1942年前半に
相当しています。
つまり今の2020年代というのは第二次大戦に対応させれば1942年代の後半に差し掛かっているわけですが、この時に第2次大戦で何があったかと言いますと、一番大きいのがスターリングラード攻防戦なんですよね。
そしてスターリングラードというのは、第二次大戦で「雪」というものが一番大きくクローズアップされていた場所でした。それを考えると、現在のこの世界的な災厄を「スターリングラードの雪」と捉えることは、状況表現として規模の面でもぴったりしているだけではなく、二つの大戦で年表が重なってくることにもつながってくるわけです。
また今後しばらくの間、少なくとも一時的に「赤い」中国が攻勢を強めてくると予想されていますが、これもスターリングラードのイメージに照らすと、何やら妙にしっくりきます。
まあ世代によって多少の濃淡はありますが、昔から歴史好きのビジネス男子にとっては「戦国と第二次大戦は鉄板ネタ」というのはそう変わらないものです。
こうしてみると、確かに今は世の中お先真っ暗ですが、これが「スターリングラードの雪を見ているのだ」という話になれば、苦しいは苦しいなりに、何か自分の立ち位置や将来の風景が見えてくる気がして、不思議と自分の中に活力が生まれるのを感じるという人は少なくないのではないでしょうか。
また「コロナ禍は2年は続く」なんて言われると、もう生きているのが嫌になってしまいますが、無形化換算のルールでは10年が戦時の1年に換算されるので、それは2か月ちょっとということになります。つまりこれがスターリングラードの雪だというなら、そのぐらいは長引いても不自然なことではないでしょう。
そのためもともと歴史マニアでそれを糧に日々を生きてきた人の中には、「今自分たちがスターリングラードに立っているんだ」と考えれば、奇妙な光が差してくるのを感じて、それを将来の見通しをつけるためのスタート地点にする人もあるかもしれません。
仮想地球儀上の民族移動
まあ正確に言えば、「大雪」はコロナそのものというよりも、一般に「自然災害の影響で凍結してしまった経済」の可視化ということなのでしょうが、さらに言うとさっき言った問題点、つまり物質的な「実」の仕事が、みんなリモートの電話線でできる仕事に代わってきて、今まで社会の中で健全とされていた部分が駄目になってしまうという「生活パターンの変化」の話も、仮想的な地図の上で可視化できることになります。
一般に無形化された地図上では、「古典的な経済活動の営まれる世界、しっかり物質と結びついた伝統的な世界」というのは、緑が豊かで風光明媚な人間が暮らしやすい場所として可視化されます。一方IT産業の世界というのは、砂漠の戦車戦に似たことが展開されている砂漠地帯です。
そして現在では、大雪がその緑の風光明媚な地域を直撃して大災害に見舞われ、もうここは人間の居住領域としては不適格なのではないか、という疑念が住民の間に出てきている状態だと見ることができます。一方IT のオンラインの世界が砂漠地帯だとすれば、そこには少なくとも雪は降りません。
そのため人々は今までは、緑のない砂漠はろくに外に散歩にも出られないので暮らしにくくて嫌だったけれども、緑豊かな場所が大雪でこれだけ損害が出るとなると、まだしもそれに比べれば砂漠の方が暮らしやすいということになるでしょう。そのため徐々に砂漠への民族移動が始まるという、そんな絵としても描き得ることになり、リモート化に伴う経済の動きをそういう形で可視化できるわけです。
恐慌と世界大戦
そしてここで歴史を振り返ってみると、(本の5章でも書きましたが)かつての1920年代の大恐慌を立て直したのは実は経済政策ではありませんでした。それらは何をやっても大した効果はなく、結局は全てを解決したのは第二次大戦だったのです。そう考えると、コロナ恐慌を立て直すのも結局は準四次大戦、という歴史の展開も、十分にあり得そうです。
実際「コロナ恐慌が戦争につながるのではないか」ということは、多くの人々が何となく茫漠とした不安として感じているようで、そういうコメントも良く聞きます。それは今言ったことを考えれば、ある意味では根拠がある話なのですが、ただこれに関しても、われわれからすればしばしば捉え方がピンボケに見えてしまいます。
つまりその戦争はこれから起こるものではなく、すでに90年代の湾岸戦争が口火を切る形でとっくの昔に始まってしまっているということです。そしてその「準四次世界大戦」は、現在はもうスターリングラードの時期にさしかかっているわけです。
実際、核兵器がある限り、戦争はこういう格好になる以外にないわけで、そこでは爆撃による大量殺戮などはさほどありませんが、惨状は経済格差やテロなどの形に姿を変えて、すでにかなり現れてきています。
つまり中盤あたりを迎えて戦争の最も悲惨な部分のパターンは、ある意味半ば以上は出尽くしているとも言えるわけで、そうなればこれからは中盤以降の出口戦略がメインになってきます。第二次大戦の歴史も、まあ勝者の側から書かれたものではありますが、中盤以降は明るいポジティブな部分が出てくるので、これからその部分に乗っていくことを考えればよいわけです。
とにかくあまりにも茫漠として将来が見定め難い現在の状況下、視点を「スターリングラードあたりの時期からどうなるか」ということに設定できるとすれば、少なくとも視点が一つ定まって、物事を考えていくためのとっかかりを得ることが出るのではないかと思われます。
われわれは全員歴史から消える運命にあった
ところで可視化という話題に関連したことですが、そもそも昔から、疫病というのは歴史の記憶に残りにくいという話があります。確かに歴史の印象という点では、第一次大戦の存在感に比べると、スペイン風邪の話は普段は存在を忘れられて、感染症の時にだけ引っ張り出されるものでしかありません。
実はこれは経済事件についても言えることで、アジア通貨危機やリーマンショックはあれだけ大きな事件だったにもかかわらず、歴史の記憶としてはもう希薄になってきています。その理由は簡単で、これらの大事件は戦争に比べると「絵」になっていないからです。
こうしてみると、われわれは今までの自分たちについて一つ大きな錯覚をしていたのかもしれません。つまりわれわれは前までの世代の人々と違って、いつの間にか「歴史から完全に消える人々」になっていることに気が付かなかったのです。
つまり「実」の世界史は無形化して絵になっていないので、未来の人々はそんな歴史はつまらないから誰も振り返って見ようとはしません。一方われわれの世界のカメラがフィルムに収めている「絵」は、テレビの画面を眺めればわかるように芸能やスポーツが主力ですが、これらが如何に大量消費されて10年で完全に無のものとして忘れ去られてしまうかには、しばしば驚かされています。
それを考えると、ずっしりとした「世界史としての絵」を残せないため、今のままではわれわれは未来において全員その存在がほぼ完全消滅する運命にあると言わざるを得ないのです。
つまりむしろこれを機に、無形化された準四次大戦という「実」の歴史を仮想世界に引っ越させるというのは、その運命から脱出する上でも意義のあることではないかと思われます。
無形化に関しては、以上です。
次に本格的にビジョンBの話に行きます。
経済に関して今なにが問題になっているかということですが、どうも『現代経済学・・・』で書いたことのいくつかがあちこちで生まれているようです。
まず第5章でも論じた、ケインズプログラムの石油ポンプの話が、そっくりそのまま生まれています。つまり地下の石油を汲み上げるポンプの燃料がなくなっているという話で、現在まさにポンプそのものが動かなくなってしまっているというのが、あらゆる需要部分に関して起きています。これはもう政府の側が燃料を供給する以外にどうしようもありません。
おまけにコロナが一応終息しても、産業構造が変更を余儀なくされてその面でも雇用のダメージは続くと思われます。
そうなると、その財源をどうするかが問題ですが、これを増税でまかなうというのは無理で、どうしてもやはり赤字財政の再建は諦めてでも、巨額の国債を発行することでなんとかするしかないわけです。
つまり今後の最大の問題は財政赤字が巨額なものとして残ってしまうということでしょう。これまでも財政赤字の巨額さは処置なしの重大課題でしたが、それがここで輪をかけてさらに次元の異なるほどに巨大化してくるわけです。
しかしこの状況下で増税など無理で、しばらく政府としては財政赤字の立て直しは諦めてこのまま財政赤字を抱えてやっていくしかないわけで、どこの政府もそうならざるを得ないと思うわけです。
ただ非常に短期的にみる限りでは、その財政赤字は必ずしも直ちに国に破滅をもたらすものではないとは言えます。まずこれは基本的には対外債務ではなく、国の中でのいわば家族内での貸し借りのようなものです。
また、一国だけが巨額の財政赤字を抱えていると、そこを狙い撃ちされる恐れがありますが、今回はどの国も共通してそういう課題を抱えているため、その危険もやや軽いでしょう。そのため巨額な財政赤字は放っておいてもしばらく猶予はあるということで、財政再建にはしばらく目を伏せておきましょうということになると思います。
ただそれでもやはり長期的に問題になってくることは明白です。そして財政赤字の問題については、本の中であちこちに一言コメントの形で書かれていますが、きちんとした形では書けなかったので、これについて少し述べてみることにしましょう。
これは経済史を見ての私の感想なんですけれども、実は財政赤字だけが原因で滅びた国はない、というのが経済史を見て感じたところです。
もう少し正確に言うと、財政赤字で滅びる国というのは、財政赤字を抱えているのに次の文明ビジョンをもっていないという国なのであって、そういう場合には確かにその国は亡びています。それに対してたとえ財政赤字は巨額でも、明確な次のビジョンをもっていた国は、滅びずにむしろ次の時代に飛躍することもあり、要するに鍵は「ビジョンの有無」にあるということです。
一方それとは反対側を眺めた時に、財政赤字改善のために徹底的に倹約に励んで本当に成功した政策はあったのかというと、むしろ長期的には悪い結果をもたらしたことの方が多いと言えると思います。
財政赤字だけで滅びた国はないということについての一つの根拠は、イギリス史です。
アダムスミスの国富論を実際に読んでみると、この本は世の中で言われているものとはちょっと違ったものだという印象を受けます。それというのも、実はあれはイギリスが当時抱えていた「財政赤字をどうするのか」という時事問題のために書かれた本としての側面が大きかったからです。
当時イギリスが抱えていた財政赤字は卒倒するような額でした。当時英国は宰相ピットの指揮でいわゆる「七年戦争」に参加し、これは英国史上最も成功した戦争だったのですが、戦費のためにやはり巨額の財政赤字は残ってしまいました。
そこで、これをなんとかしないといけないということで書かれたのが『国富論』で、そのため最後の章にはその数字が延々と列挙され、それに基づいて、例えばアメリカの植民地は切り離してしまって自前で守らせた方が、財政赤字の為にはいいのだという、一つの政策提言でもあったわけなんです。
ところがアダムスミスの本が書かれた後に、イギリスはさらにナポレオン戦争をやるので、それでさらに戦費がかさんでしまいました。
これで財政赤字はどうやっても返せないほどの巨額なものに膨れ上がったんですけれども、結果はどうなったかというと、イギリスは結局滅びませんでした。それは産業革命をしたからなんですよね。
むしろイギリスは財政赤字という問題を抱えていたからこそ、産業革命に乗り出す冒険をやったとも言えますが、とにかくそれで財政赤字も消し飛んで、イギリスが滅びることはなかった、むしろ「世界の大英帝国」へのきっかけをつかんだわけです。
これは幕末にも言えます。そもそも幕府のときには将軍吉宗の享保の改革とか、いろいろやっていたわけなんですけれども、どれもあまり効果はなかったというのが歴史の結論ですよね。一方幕末期の薩摩なんかを見てみると、500万両という巨額の借金を抱えていたけれども、結局薩摩は潰れなかった、それどころか、幕府を倒して政権をとってしまった。
そこには500万両踏み倒してでも次の時代に行くんだという気概があったわけですよね。つまり新しい時代に対するチャレンジ精神、ビジョンさえあれば財政赤字というのはそれほど怖い問題にはなっておらず、国を滅ぼすほどのものにはならなかったというのが、経済史全体をみた私の感想です。
むしろ幕府の倹約の方が、保守的で旧来の体制に縮こまって次の文明を起こすことができなかったという点で、その努力はむしろ衰退を招く原因にもなっていたと思います。そもそも仮にその時にたとえ倹約で幕府の財政を健全化させたとしても、それがひたすら縮こまって帳尻だけ合わせたに過ぎないとすれば、それで幕府そのものが元気になった可能性は低いように思われます。
むしろ積極的に財政赤字を出していた国の方が活力があるのではないかとも見えるわけで、そういった意味では問題の本質というのは、財政赤字の貨幣の側面にあったわけではないということですよね。
今までの財政赤字の議論では、この視点が結構欠けていたと思うんです。つまり「次に向かうべき文明のビジョンや行先さえ確固として持っていれば、財政赤字は怖くない」、ということが鍵であるという話が、結構これまでの財政赤字の本の中には書いていないことが多いんですよね。そこでこのさい、これをちゃんと議論しておく必要があるのではないかというわけです。
財政赤字の「胴体着陸」のビジョン
では具体的にはそういう処置なしの財政赤字に陥ったとき、それはどういうメカニズムで処理されるんでしょうか。ここでいわば「新文明の資産」というものを考え、それと従来の通貨との一種の為替レートというビジョンを入れたらどうかというのが、ここでのアイデアです。
ただしこれは、政府の財政当局がツールとしてちょくちょくこまめに使える、という便利なものではなく、いわばもう飛んでいられなくなった飛行機が胴体着陸をするような、強引な非常手段に過ぎません。
ただ、明らかに燃料切れが避けられないという状況下、これまでの議論だと、もうそこまで行ったら燃料切れで墜落しますから、皆さん諦めましょう、という話しかありませんでした。そういう時に、最後の最後に胴体着陸という手があるとなれば、話は違ってきて、その手順について一応知っているかどうかは、結構大事なことだと思うんです。以下の話はそういうものだと考えていただければと思います。
さて、とにかく今までの経済史を振り返ってみると、財政赤字を解決してきたのは結局インフレなんですよね。本にも少し書きましたけれども、インフレでそれを蒸発させてしまうというのが一般的な方法論で、アベノミクスのインフレターゲット論、インフレ期待論なんていうのも、インフレを2%以上に期待することで財政赤字を蒸発させてしまおうという目論見です。ただなかなかそういうインフレが起こってくれず、インフレが起こったとしても、生活必需品ばかりが値上がりしてしまう悪質なインフレだったら元も子もがないわけで、上手く良質のインフレを起こせないというのがこれまでアベノミクスの上手くいっていなかったところです。
それはともかく、これをもうちょっと抽象化して、財政赤字をインフレで蒸発させるメカニズムをもう一ひねりし、「新文明資産」というものと組み合わせる形で応用しようというのがここでの考えです。
「新文明資産」という呼び方が適切かどうかはわかりませんが、例えばこれは昔の宗教団体なんかで良く見られることなんですけれども、宗教で巡礼を何回やったとか、善行を何回積んだとか、それが人々の人生の資産になっているということが多いわけですよね。巡礼に何回行くということが、何万ドル相当の満足感を得ているんだと。
ある意味その宗教の中でだけ通用する一種の資産のようなものがそこにあるわけで、それが抽象的に見た場合の「新文明資産」と思えばよいでしょう。
これは宗教だけでなく、新しい文明に乗り換えようとか、そういうときにも結構見られることで、例えば今までは貴族の位が一番重要だったけれども、これからは近代の軍艦を操れる方がいいんだという具合に価値観が変わってしまう、これまでとは違った価値体系への移行過程でも一時的にそういうものが生まれるんですよね。
今言った宗教団体の話はまさにそれなわけで、もう少し生臭い話になると、教団の中でナンバーいくつにあるかというステータスみたいなものが、結構重要な資産になってくることがあります。
そして中にいる人々は、それを何とか手に入れたいから、結構お金を貢ぐということが、そういった宗教団体では起こるわけですよね。現実にそういう宗教団体では教団の中での位を上げるために、低い位にある人ほど、生活を犠牲にしても教団に金を貢ぐということがしばしば見られます。
そういう場合、一種の抽象的な為替レートが生まれてしまっていると見ることもできなくはありません。つまり教団の中の世界では、その「新資産」が外の旧来の通貨のいくらに相当するのかという、一種の為替レートが発生してしまっているわけです。
まあ教団の話は生臭くてあんまり良くないですけれども、一般に文明が新しいものに乗り替わるときにはこういうことが結構起きているのではないかという気がします。それはともかく、一種の為替レートという見方を導入すると、それにリンクさせる形でインフレのメカニズムというのを使うことができるわけですよね。
つまり例えば「円安の時にはインフレになる」というのが経済の常識ですが、一般に自国通貨の為替レートが下がってしまうと、国内ではインフレが起きるというのが、経済の基本法則です。
つまりこれを応用すると、新資産と旧通貨の間での「為替レート」でもそういうことが起こる理屈になります。
例えばもし後者の為替レートが相対的に下がったとしましょう。つまり人々が新資産の方に魅力を感じて、もう旧通貨を持つことに興味を失ったため、後者の値打ちが下がっているという状態です。この価値の値下がりは、見方を変えれば旧通貨がちょうどインフレなどで紙幣の価値が下がってしまっている状態そのものです。
ところが経済社会の中でそういうことが起こった場合、重要なのは次のポイントです。つまり多くの場合、今までの財政赤字そのものは旧通貨建てで発行されているということです。
だとすれば、そういう具合に旧通貨全体が一種の為替レートの下落を起こせば、それに伴うインフレで、財政赤字を蒸発させることができる、というのがビジョンの基本です。
例えばさっき言ったイギリスの話なんて言うのはまさにそれなわけで、これからの産業革命の世界でどう生きるかというのが「新資産」だったわけですよね。それに対して財政赤字が基本的に「旧資産建て」、つまり昔の農業社会でやっていくための旧資産の形でその証文が書かれていたとすれば、一種の抽象的なインフレで財政赤字を蒸発させることができたわけです。
また幕末から明治にかけても似たようなことが言えて、これは第4章で書いた「貿易で得られる資金が国家財政のこれまでの農業世界のGDPにほぼ匹敵するものにまでなった」という話に照らすと、この時にいわば近代商業文明というものが新資産として登場してきたわけです。
一方これまで商人から借りていた農業文明時代の借金というのは、旧資産(両)で計上されていました。そのために新資産、貿易で生まれるお金(円)の方がどんどん大きくなると、旧資産はインフレのような価値の下落を起こして、借金の額が小さくなっていくわけですから、新しいお金で簡単に返せるものになっていくわけですよね。
これはある意味、商業を使った新文明の資産と、幕府時代の旧資産の為替レートが大きく変動したために、インフレを起こして財政赤字が蒸発してしまった、という見方で見ることも可能なわけです。
まあこの二つの事例を「為替レート」という見方で見るのは、ちょっと誇張で、本当は円と両は法的な交換比率はちゃんと定められていました。そのため単純に、産業文明の部分の急拡大で国家経済全体のパイが大きくなり、それに伴う国全体の良性のインフレで借金の証文が蒸発していった、と見た方が正解です。
ただ、こういうことは一種の新文明がドーンと一塊になって出現しないとできないことで、精神的に新文明の価値が高く見積もられていないと、こういうことは起こりません。その意味ではやはり抽象的な形では、一種の新旧の交換レートというのは何らかの形で生じていたことも事実だと思われます。
それはともかく、実は文明の財政赤字というのは、結局はこういう形の、為替レートに似たメカニズムで解決されてきたのではないか、というのがここでの新しいビジョンです。
国家財政を「縮退」の概念で定義し直す
そしてこれを考えていてふと思いついたんですけれど、そもそも我々は国家財政というもの自体を「縮退」という概念で定義し直すべきなのではないでしょうか。
これは今までの経済学にはなかった概念なんですけれども、そもそもなんで「大きな政府」の国家財政というものが必要になるかを考えてみると、それは文明全体が縮退していく過程で要求され、社会の縮退が大きくなるほど拡大するもののように思われます。
それというのも伝統社会では地域社会というものがあってそれが人々の面倒を見ていました。それが近代に入ると企業社会にとってかわられるんですけれど、企業というのは、自分のお金儲けに関連した部分だけについては、例えば従業員の福利厚生という形で責任を持ちますが、その外については責任をもちません。
つまり社会全体を見ると、企業が島みたいに、自分のお金儲けで成立する部分を作ってそれらが点在し、そこから外れた人は面倒を見ないという格好になっています。
昔の伝統社会では、地域の中で何か突発事態が起こって誰かの生存が困難になったら、たとえ法律にはその保護義務が明記されていなかったとしても、とにかく地域社会がその人を保護していました。
ところが企業は、明確に保護の義務が法的に明記されていない、そういう新種の被災者は助けないので、社会がそういう複数の島に分かれてしまうと、その島と島の間のギャップに落ち込んだ人は、どの企業も「我社の責任外」として助けませんから、結局そういう形であぶれた人は国家が面倒を見てやらないといけないことになります。
そして社会が縮退すると、こういう島のように縄張りが分かれてきて、それらのギャップの部分も拡大していきますが、こうしてみると社会が縮退すればするほど、国家はそのあぶれた部分をカバーするために「大きな政府」となって、財政の規模は拡大しないといけないことになります。
逆に言えば伝統社会のように相互扶助、地域社会みたいなものが生きていて、そこで経済生活が営まれているところは経済の縮退度が非常に少ないですから、国家財政の規模は小さくてよかったわけです。
実はそうして整理してみると国家財政というものの役割は、基本的に
・経済社会がそのように縮退してしまった分を国が引き受けて面倒をみること
・戦争や災害のような非常事態に対処すること、
の2つから成っていた、国家財政の存在意義はそこだったという新しい見方ができます。
そうなってくると、さっきの新資産、旧資産という考え方もすこし違った見方で見ることができてきます。例えば宗教の話が出ましたけれども、イスラム原理主義のハマス。ハマスは日本ではとかくテロ集団と見られがちですが、実はパレスチナの方では、貧困層の医療など国が面倒をみられないところをハマスが結構カバーしていて、良い意味での宗教原理主義の義務で地域の生活を保護しているという面があると言われます。
つまりパレスチナはハマスみたいなものが結構社会を支えているという側面があるわけですが、そこで医療に従事している人は、確かにハマスという組織に属してはいるものの、本人のモチベーションとしては組織のために働くというよりは、そういう行為で宗教という新資産の貯えをする、という面の方が結構大きいのじゃないでしょうか。
こうなるともう一歩考えを進めることができ、例えば医療も含めて社会の長期的願望のためのサービスを、新資産で結構まかなえるという状態になっていたとしたらどうでしょう。
その場合には人々には「新資産と旧資産をどれくらいの比率で持つか」というのが選択として生まれてくるわけですよね。金儲けのための旧資産がそれほどなくても、自分は人生の中の新資産を得ることで精神的な満足を得ていくことができ、重要なサービスのいくつかもそれで受けられます。
そうなると、旧資産の方が結構ダメになったとしても、自分は新資産の方がメインだからあまり困らないよ、ということになってくる可能性はあるわけですよね。
実際にローマ帝国の末期に原始キリスト教が社会を乗っ取っていく過程では、それに近いことが生じていたように思います。つまり貧困層への福祉を教会が引き受けていたため、人々は旧資産をそれほど持たなくても、キリスト教徒として教会に頼れば結構生きられたということです。
そうなるとさらにもう一歩話を進めることができ、一種の棲み分けとして
・新資産は社会の長期的願望の部分を
・旧通貨は社会の短期激願望(金儲け)の部分+国家財政の部分を、
それぞれ担う、という格好になっていたとすればどうでしょう。
さらにここでベーシックインカムみたいな考え方も一緒に導入し、食料をはじめ最低限必要なものは国家が旧資産で買い上げて民衆に供給しているとなると、実質的に新資産だけで生きられる人の割合というのが高くなっていくことは期待できます。
そうなればたとえ旧資産の世界がインフレを起こしても問題ないわけで、また政府が旧通貨でかなり高い税金をとっても、それがちゃんとベーシックインカムの方に回ってくれるならさほど困りません。
つまり多くの市民にとっては、どうせ旧通貨を持っていても、それは短期的願望に基づく投機・金儲けのためで、特にバブル的生活に憧れを持っていなければ、新資産だけでつましく暮らしていこともでき、旧通貨を大量に持つ必然性はさほどないことになります。
そうなると、旧通貨に対してだけ課税する形の増税は、さほど響いてこないことになり、むしろそれは社会の中で投機に回っていたマネーを政府が吸収して、ベーシックインカムに回す、つまり富を短期的願望の部分から長期的願望の部分に移転させる効果さえ持つことになります。
つまり縮退度ということを概念の鍵として、新資産と旧通貨で長期的願望(縮退度=低い)と短期的願望(縮退度=高い)の棲み分けがある程度きちんと分かれていたとすれば、そういうことも一応可能だという理屈になってきます。
そしてここで重要になるのは、呼吸口の数をどちらが多く持つかということです。旧資産の方が呼吸口が多く維持できるということになると、実は相対的に為替レートは新資産の方が高くできます。つまり呼吸口の数をどっちが多く確保できるかどうかが、為替レートに対して支配的な影響を与えていくことになります。つまりここで、第9章の碁石理論の話が早速必要になってくるわけなんですよ。
もう一つここで重要になってくるのは、「新資産」というのは知的制海権がないとうまく機能しないということです。イスラムの場合、ハマスがそういうことをできるというのは、イスラムという価値観が少なくともある程度は世界的レベルでの知的制海権を持っているからなんですよ。つまりその価値が普遍的なものとして重要なものであるという常識が、かなり広い10億人単位のもので認められているから、できることなんですよね。
ところがこれが小さなコミューンとか泡沫新興宗教となると悲惨です。実際にそういう場所では、内部の仲間内でこういう「新資産」を作るというのはむしろ一般的に行われることです。それは確かに一時的に集団の中で大きな呼吸口を供給できるので、内部では新資産の為替レートは結構高く、信者はかなりの額の旧通貨とそれを交換したがる、要するに金を教団に貢ぐわけです。
しかしそのコミューンは社会から孤立していて、その価値観は普遍的なものとして知的制海権を得ていません。そのため、教団が崩壊すると新資産の価値はゼロとなり、信者が貢いだ「旧通貨」は幹部だけが持ち逃げして、無一文の信者が社会に放り出される、という悲惨なことになりがちです。そのため社会的・法的にはあれは詐欺だった、という形で総括される場合がほとんどです。
これを見てもわかる通り、やはりこれは政策当局にとっては胴体着陸のような最後の手段で、気軽に便利に用いるというわけにはいきません。
そもそもこれは、文明の転換点のような大きな局面でしか用いることができないので、日常的な政策手段としては使うのが難しいものです。
しかしそれでも、最後の最後の手段として、胴体着陸の手順について一応知っているというのは、重要なことです。実際、燃料が切れたから墜落するしかないと思っているのと、いよいよとなれば胴体着陸という手もあってその手順を知っているのでは、行動の上で大きな差になるはずです。場合によっては、この胴体着陸の発想をヒントにもう少し手軽なものをうまくアレンジして、現実に使える方法のアイデアが生まれるかもしれません。
それにまた、文明の転換なんていう大きな話は、普通ならばそのあたりに転がっているということは、そうそう期待できないものですが、ただ先ほど述べた「無形化された『実』の世界史を仮想世界に引っ越させる」という話は、そういう大きな文明レベルの転換の一種なので、場合によっては使えないこともないかもしれません。
そのため、それらをうまく組み合わせれば、両方を同時に解決する手段も見えてくるかもしれない、というわけです。
いわゆるMMTについて
ところで今まで経済学の世界では、いわゆるMMT(Modern Money Theory)という議論があって、それは「財政赤字というのは結局放っておいていいのではないか」という、超楽観的な考え方です。
これは今まではトンデモ理論として片づけられることも多かったんですが、財政赤字がこうなってくると、今後はこれが結構注目される機会が増えてくるかもしれません。そこで、これに関しても簡単にコメントしておきたいと思います。
白状すると、私はこの事件が起こるまでMMTについてはそれほど関心がありませんでした。しかし状況がこうなってきたことで、あらためて覗いてみたんですけど、一見した感じでは「何だか古くからあった議論だな」という印象がありました。
実はケインズ学派の一部の中には、財政赤字というのは放っておいてもそんなに害を出さないんじゃないかという議論がもともとあったんです。つまりその論旨は、ケインズ経済学では結構昔から論じられてきたことなんで、そんなにトンデモ理論というわけではないんですよ。
彼らのこういった安心理論の一つの論拠は、さっきも言ったみたいに財政赤字というのは基本的に家族内の貸し借りだということです。要するに家族の貸し借りなんだから結局家族の中で何とかなってしまうことが多いというのが、MMT系列の議論を支える基本的な考え方だったわけです。
もう一つは、一般には借金は悪いというのが常識だけれども、例えば企業の話で、借入金が「多い企業」と「少ない企業」のどっちが将来性があるかという議論になると、必ずしもそうとは言えません。
むしろ借金をたくさんしている企業の方が将来性がある場合は珍しくなく、それというのも借金していない企業というのはあまり冒険しないで自前の安全な資産だけでやっている企業なわけですけれども、借金している企業はリスクを背負って事業拡大のための資金を借りています。いわば冒険的な企業なわけで、そこから考えると、企業の場合には借金が多いという方がかえって企業としての活力はあるという見方も成り立つわけです。
これはさっき言った「次の文明へのビジョンや気概がある限り、財政赤字だけでは国は亡びない」ということとも一脈通じる話ですが、実はMMTというのはこの見方を、貨幣というチャンネルだけから論じた理論だ、というのが本質だと私は思います。
逆に言うと、MMTの大きな弱点というのは、あまりにも貨幣というチャンネルだけから物事を論じていて、一番の鍵である「次の文明のビジョンがあるかないか」ということについては、あまり中心課題として論じておらず、そこが最大の弱点であるように思えます。
そして「家族間の貸し借り」というイメージの原点から言っても、この理論に弱点があることはしばしば指摘されています。
実際、日本政府はこの理論をあんまり信用していないと思いますが、その判断は妥当なのであって、もし「財政赤字はいくらあっても大丈夫」ということになれば、もう歯止めが効かなくなります。そしていくら家族間の貸し借りと言ったって、そこまで額が膨れ上がってしまえば、もう家族崩壊という事態に行きかねません。
また、一昔前の一国資本主義の時代には、国家が国内経済のコントロールができ、例えば第1章でも書いたように、その時期には公定歩合の操作などが強力な効果を発揮しましたが、それは金融自由化以降は威力を失ってしまいました。MMTの話は、何か一昔前のこういう時代の状況を想定しているような感じがあり、国際的な通貨が入り込んでいる状態では、家族間の貸し借りという格好を維持できるかも大いに疑問です。
ただ、2〜3年は時間を稼ぐ気休めの手段としては、その効用も結構ばかにならないかもしれません。しかしいずれにせよ、巨額の財政赤字の元では、次の文明へのビジョンや気概を持っているかどうかが鍵となり、それさえあれば、貨幣のチャンネルでそういうことが起こるのも、決してあり得ない話ではない、ということです。つまり最低限それだけは肝に銘じておかねばならない、というのが、これに関する結論ではないかと思います。
以上のまとめ
では最後に、今までの話全体をあらためて整理しておきましょう。まず今のままでは、コロナ後の世界は2つの巨大な心配や不安に覆われて、それが精神面から大きく復興の足をひっぱることが予想されます。
まず一つは、人工知能が人間の仕事を侵食して、人間の存在意義が失われることが現実化するのではないかという不安、そしてもう一つは膨れ上がる巨額の財政赤字の数字がいつか破局をもたらすのではないかという不安です。
そのため経済社会がたとえ何とかよろよろ運転できるようになっても、その背後で皆がこれらの不安を抱え込み、今後の文明世界では全員がこの二つに怯えながら日々を過ごすことになりかねません。場合によっては、その不安が総崩れの一因となることも、ないとは言えないでしょう。
こういう場合、総崩れを防ぐには、それらに対する最後の砦のようなものをとにかく一つ確保し、そういうものが存在しうるのだということを人々に示すことです。それがあるとなれば、同じよろよろ運転でも希望をもつことができ、その精神的余裕が次の時代を拓く力を引き出すものです。
ただ現在前線に張り付いている戦力をそれに割く余裕はなく、そこはパスファインダーと「最強の予備戦力」としての理数系武士団が担うしかありません。
では理数系武士団が今とりあえず何をすればよいかですが、それはとにかくこうした新しい発想をキャッチアップできる体勢を作っておくことでしょう。そのためには「経済もわかる理系」という、今まで日本にいなかった人間集団が生まれれば、それだけで次の時代に大きな戦力となりうることが期待されます。
図らずも『現代経済学・・・』はちょうどこの時に、そのために最も役に立つ本として投入されたわけですが、これらを通じて今まで遠かったその知的距離を詰めておければ、それが最大の効果を生む行動になるということです。
さて一挙にここまで語ってしまいましたが、とにかく短時間で人類社会がコロナ後に必要とするものについてまとめねばならないというので、何か私も必死になっていたようで、相当な情報量になってしまいました。
それはともかく、議論全体を振り返ってみても「次の時代のビジョンをいちはやく示せるか」ということこそが最大の鍵であることがわかります。
とにかく1か月足らずの突貫作業でしたが、ここまで進路を拓いておけば、当面最低限の役割は果たせるのではないかと思います。
まあそうなってくると、当然ながら「第二次大戦の歴史ではスターリングラードの次の展開はどうだったか」ということが関心事になってくると思われますが、さすがに今回はそこまで論じることは限界で、ちょっと無理でした。そのため要望があれば、それは次の機会に論じたいと思います。