アメリカはローマ帝国のように存続できるか、およびイスラム文明が果たしてきた
世界史的意義について


※2003年3月例会での長沼氏の講演を編集したものです。

今回の戦争がアメリカの帝国建設の戦争であるという観点で、できた国がどういう
帝国になるかという話になると、それはローマ帝国をモデルにしたものとして議論が
行われることになると思います。これからローマ帝国とアメリカ帝国の比較というのは
結構話題になることも多いでしょうからそれに先んじて、という形でそれに関する話を
やっておきます。

 ローマ帝国の話となると「なぜローマ帝国は滅びたのか」と言う問いが常に議題に
なるんですけれども、まあ私に言わせればこれは質問の立て方が間違っていて、それ
よりも「なぜローマ帝国は、成立間もない時期に既に社会として死んでいたのに、実際に
滅びるのには300年かかったのか」という問いを立てる
のが一番いいと私は思うんです。そしてローマ帝国の構造そのもので留意すべき事が
2点ありまして、ひとつは、ローマ帝国は我々が普通に考えてる帝国とはちょっと
違っていて、ローマ軍団を、維持、育成するということに関して全ての機能が集中さ
れていた事、それともう一つはガリア地方の存在ですね。この2つの要因でローマ帝
国は滅びるのに300年掛かったと言っていいと思います。

 ローマ帝国が相手の国を併呑しますよね。併呑したときに、普通の、例えば中国の
中央集権型帝国だと、中央集権体制を取り、相手から税金を取って、それで帝国をど
うやって生かそうかという話から始めるというのがまあ普通なんですけれども、実は
ローマ帝国はその点で、歴史上のどの帝国とも違うやり方を取りました。それは、属領からロ
ーマ軍団の兵士を募集するんです。そして、属領出身のローマ軍団の兵士を育成して
置く。だからローマ帝国は、兵士を、同盟国というか属領から、ローマ軍団を支えて
くれる兵士を調達することを最大の目的としている、そういう帝国だったというのが
正しいと思います。そういう意味ではローマ帝国は属領から見ると、税金もそんなに
高くないし、割と「緩やかな」帝国だったんですよね。だからローマの支配を受ける
ことは非常に、まあ、そんなに悪いことではなかった、という状態がまず一つ、ロー
マ帝国が維持できた理由の一つとしてあるんです。

 ローマ帝国の場合に、じゃあなぜそういうことができたのかということですけれど
も、ひとつには、ローマ帝国は属領の蛮国から募集するときに、何をエサに募集した
かというと、金とか待遇じゃないんです。それはローマ軍団に、一定期間勤務すると
ローマ市民権が与えられるんです。そしてそれは子孫にも受け継がれるんですよね。
だからローマ市民になるための最大の近道は実はローマ軍団に入ることだったんです
よ。蛮国から定期的にその良質の兵士を調達できた最大の理由は、そのローマ市民権
というものがエサになっていたということだったんです。

 これがある種の時限爆弾であるというのはある専門家が言ってたことで、要するに
その市民権は子孫にも受け継がれることですから、新しい兵士がいればその家族はも
う次からは使えない。ローマ軍団になっていない家庭から新しい兵士の調達をしてい
かなければならないから、全部がローマ市民化した時点で、ローマ軍団の新兵調達は
不可能になるであろうという、ある種そういう時限爆弾が刻まれていた帝国でもあっ
たわけです。

 ところがその時限爆弾はある日突然早まってしまった。それは200年ごろに、カ
ラカラ帝(在位211〜217)という、カラカラ浴場で有名な暴君がいまして、彼
が人気取りのためにローマ帝国の全ての属領の民衆にローマ市民権を与えるという一
種のダンピングをやっちゃったんですね。そのダンピングをやったおかげで、それ以
後良質の兵士をローマ帝国は得ることができなくなってしまった。その結果どうなっ
たかというと、まあこういう場合のお定まりとして起こる事なんですけれども、半分
しか働かない兵隊が、倍給料を要求するようになってしまった。結果的に軍団の力が
4分の1になっちゃったわけですよね。で、その状態でローマ軍団の強さを維持する
ためには、金をどんどん費やして人数でカバーするか、それとも兵士の言うことを聞
くか、どっちかしかない。その兵士の言うことを聞くようになった時代が軍人皇帝時
代と呼ばれていて、軍人が皇帝をオモチャにして、どんどん首の挿げ替えをやって
いった、政治が乱れた時期です。

 その逆をやろうとしたのが、西暦300年ごろに、ディオクレティアヌス帝(在位
284〜305)という皇帝が出てきまして、この人が大改革をやったんです。それ
はどういう改革だったかというと、これはもう本当にローマを帝国化することだった
んですよ。われわれが知っている中央集権帝国ってことで、とにかく税金を吸い上げ
ることで、ローマ軍団の質を維持しようという政策を実行したんです。我々の知って
いる中央集権帝国にローマ帝国がなったのは実にこの時だったんですね。で、そのと
き以前は非常に安くローマ軍団を維持することが出来ていたから、結果的にそれで帝
国を守れたんです。ローマ帝国が滅びたのは、ゲルマン人に倒されたからですけれど
も、それはゲルマン人が強かったからでも何でもないんです。その昔ロ−マ帝国軍団
は非常に強くて、ハンニバルの軍団を平気で撃退できるほど強かったんですが、恐ら
くそのハンニバルの軍団に比べれば10分の1ぐらいの力しか持ってなかったゲルマ
ン人の軍団すら防げないくらい、ローマ軍団が弱くなってしまったことに原因がある
わけです。それを維持できなくなった最大の理由が、ローマ軍団を維持する最大の、
兵士を徴収するためのエサであった、ローマ市民権がなくなってしまったことにあ
る。結局ローマ帝国の崩壊の最大の原因は、私はここに求めていいんじゃないかと思
います。そしてすべての原因は、まあ経済的理由にせよ、政治的理由にせよ、それを
カヴァーするための道具として十分使えなかった、単にそれだけのことであって、や
はりローマ軍団の維持というその一点が大きかったのだと思います。

 それではローマ市民権というものがどうしてそう魅力的だったのか、というとそこ
にやはり我々はそのギリシア文明の影響と、それを受け継いだローマ文明の影響を大
きく見るわけですよ。これはどういうことかというと、ローマというのはそれまでは
田舎の小さな軍国主義国でしかなかったわけですよね。それが世界の理念を代表した
国になったのは、やはりある種、ギリシア文明を保護して、自分はその正当な後継者
なんだ、と世界に宣言したことにある。ローマ軍団に入ってローマ市民権を得たいと
いう市民たちというのは、ローマの威光を見てるのか、それともそのギリシア文明の
威光を見てるのか、どっちなのかちょっとよく分からないんだけれども、その両方が
複合した存在として、そこに魅力を感じていた、ということは間違いないです。そし
てこれはまさに我々がアメリカに対して見てることなんですよ。アメリカという国は
ヨーロッパが培ってきた合理主義的文明の正当な後継者である、そう言うことによっ
て我々はアメリカ文明ってものに靡く時に、複合体を見ている訳ですよね。アメリカ
という最強の軍事国家、軍事経済国家であるということが半分と、それともうひとつ
はやはりヨーロッパの文明の最大の後継者である、保護者であるというその2点を、
エサにしてみんなニューヨークに行きたがるわけですよ。

 それで、このギリシャ文明をローマ帝国が輸入したということは2つの効果をもた
らしました。ひとつは今言った属領からの兵士徴収に対して魅力を感じさせるローマ
帝国に仕立て上げることに大きなプラス要因になりました。もう一方ではマイナス要
因もありまして、それは一旦やっぱりギリシャ文明の個人主義とかそういうものに触
れたら、もう軍人としては軍隊生活が嫌になっちゃうわけなんですよね。だから一旦
この属領からローマに来てローマ化すると、そこからは2度と軍人は出ないんです
よ。その子供たちはもっと楽な職業につきたいということで軍人をやめてしまうんで
す。だから必ず一代で使い捨て、という構造になってしまった訳なんですよね。だか
らギリシャ文明は、ローマそのものに力を与え、威光を知らしめて力を与えるってい
うプラスの面と、ローマ軍団そのものはどんどん中から殺してしまうというまさにプ
ラスとマイナスの両面を持っていたということが言えるのではないかと思います。

 で、ローマ軍団に良質の兵士を供給していた最大の地はどこだったかというと、そ
れが実はガリアだったんですね。まあガリアというのは今のフランスと、それとライ
ン川よりも西のドイツを合わせた、ぐらいの地域です。まあ今のヨーロッパの中心部
だと思ってください。そこがローマ軍団の良質の兵士を供給する最大の中心地だった
んです。このローマとガリアの因縁ってのは非常に深いものがありまして、そもそも
シーザーが、自分が皇帝として権力を握るのに、最大の策源地としたものが、実はガ
リアでした。シーザーは『ガリア戦記』で知られるみたいに、ガリアを平定する、こ
こが自分の策源地だと思ってましたから、シーザーはどうしてもそのガリアを平定す
ることで、平定って役を引き受けて、そこに自分の力を集中させたかった。で、一旦
そのガリアを制圧した後は、ガリアはシーザーの統治能力のよさもあって、一挙に
シーザーに靡いたんです。そのために、ガリア兵からなる第13軍団というのが、
シーザーの最大の力の源泉となったんであって、ルビコン川を渡るときに率いていた
のがこのガリア人中心からなる、第13軍団でした。そしてまた、当時の宿敵であっ
てポンペイウスとの最後の決戦でも、まさにその現象が出て来まして、ポンペイウス
が率いてたのはローマ市民からなる、ローマの高級貴族からなる子弟の軍隊だったん
ですけれども、それに対してシーザーの方はガリア兵からなる軍隊をぶつけた。その
結果はどうだったかというと、もう勝負にならなかったんですね。ポンペイウスの率
いていたローマ市民の軍隊の方ははもう弱くて弱くて、一撃でシーザーにやられてし
まったんです。そこから見てもローマ帝国は、帝国出現の時期にガリアにいかに多く
を負っていたかということですね。一方ガリアから見ると、ローマはさっき言ったみ
たいに経済的な苛斂誅求はしませんでしたから、まあ、更に東のゲルマン人に対する
防壁をローマがちゃんと供給してくれたという点で、ローマと協力することはかなり
いいことだったんです。ただ独立は失ってしまいましたが・・・。
 
 で、これがねえ、このガリアの地位というのがどうも、この50年間の日本の地位
にちょっと似てましてね。まさにガリア戦記と同じように、アメリカに一回やられ
ちゃったわけですが、まあアメリカの統治がよかったおかげで、その後一挙に日本は
アメリカに靡いた。それで湾岸戦争から今にいたるまで、米軍のハイテク兵器を支え
ているのは実は、日本の半導体です。だから日本の半導体がなければ、アメリカは
果たして帝国になったか疑わしい。日本の技術がなければ、アメリカ帝国は成立しな
かったという点で、ローマにおけるガリアの地位は、アメリカにおける日本の地位と
かなり近いところがあります。

 それで問題は、この後、そのアメリカの帝国が成ったときに、果たしてそういう風
に属領を押さえていくことができるかということになると、やはりそれは今話した点
に、ひとつ決定的に違う点があることはお分かりかと思います。それは何かという
と、ローマの支配を受けても、そこの地にある農村とかそういうものはほとんど何の
影響も受けないわけですよ。自分のところからローマ市民になるために軍隊を送りさ
えすれば、それをローマ帝国は守ってくれるし、経済に対してはローマはそれほど強
力な中央主権体制をやりませんでしたから、農村で自給自足したいと思う限りにおい
ては、ローマ帝国化したところで何の影響もなかった。つまりローマ軍団を維持する
というただ一箇所だけに対して負担を強いたんであって、その他に対してはもう、完
全に、自給自足しようと思えば経済的にはそれができるくらいの、極端に言えば放任
に近いところにあった。それが属領がローマの支配をあまり重荷に感じなかったとい
うひとつの理由なんですけれども、アメリカの場合には、確かにアメリカの魅力で
人々を惹きつけると言う点においては共通してますけれども、やはり資本主義経済と
いうものを自分のパートナーに選んでしまった点がアメリカとローマの最大の違いだ
と思います。自給自足経済をやろうと思っても、経済的な収奪が相対に激しいものだ
から、結局それができないんですね。だからアメリカ帝国の支配を受け続けてる間に
は、農村的な自給自足経済をやろうと思ってもそれを維持できない、非常に厳しい収
奪の中に置かれている。ある意味、軍事的には放任に置かれていても、経済的には、
相対的にいえばウォールストリートを中心とする中央集権体制の中に組み込まれてし
まっているわけですから。そういった意味ではローマはローマ帝国によってディオク
レティアヌスの時に感じたであろう苛斂誅求の苦しさ、それをすでにいま第3世界が
すでに味わってしまっているということなんですよね、ということはみんながガリア
みたいに安全に、ローマの支配を安心して受けられるという状況ではすでになくなっ
ている。これはやはりアメリカ帝国はそう長いこと生き続けることができないであろ
うな、という判断するひとつの根拠です。

 で、この場合もし、昔ローマ帝国が生き残りを図ったようにアメリカ帝国が自分で
生き残りを図ろうと思ったならば、アメリカ自身が資本主義をやめて、一種の、
ウォールストリートに対する巨大権力として、ウォールストリートを潰すための共産
国家になるしか方法はないわけですよね。つまり属領がウォールストリートの力をあ
まり受けないで済むように一種の福祉国家として、ウォールストリートを潰す存在と
してアメリカ帝国の権力が生きるというのでない限り、その安定状態は作れないとい
うことははっきりしていると思います。そこら辺がやはりアメリカ帝国の支配がおそ
らくローマ帝国のようには続かないであろうと、私が判断するその理由です。

 それでここでひとつ面白いのは、その後ローマ帝国が滅びた後、どうなったかとい
うとそれは一種のコラプサー状態に近い状態が生じていたということです。当時、歴
史の本を見るとローマ帝国はゲルマンの傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされ、その
後イタリア半島はオドアケルの領土になったんだと言われるんですが、この国がすぐ
滅びてしまった。なぜかと言いますとゲルマン人がそうやって当時強い軍事力を持っ
てますからローマに入って行きますよね。そしてローマの文明に触れる、ローマ・ギ
リシャ文明に触れるとそこで軍隊の溶解が起こっちゃうんです。軍隊の力が全くなく
なってしまうものだから、今度は次に新しく来るゲルマン人の国家に滅ぼされてしま
うわけですよ。だからその後ヴァンダル族とか、ランゴバルド族とか、次々次々、入
れ替わり立ち代り入ってくるんですよね。でもそれらが全部、ローマ化すると同時に
腐敗を始めてしまって、まともな文明は作れないという状態が延々と続くわけです。

 このままどこからも世界史を動かす力が生まれてこず、そして地中海世界全体がコ
ラプサーになった状態で歴史が止まって終わりになってしまうのかというときに登場したのが
実はマホメット引きいるイスラム帝国だったんですよね。マホメットのイスラム帝国は、ともか
く宗教的規律を持ってますからギリシャ文明を吸収してもそれによって軍団が溶解す
るということは全く起こらなかったわけです。だからある意味はじめてギリシャ文明
に免疫を持った勢力が地中海に起きてきてしまったということです。その結果地中海
全体はもう、スペインまではイスラムの勢力下に入ってしまいましたから、当時生き
残っていたヨーロッパ文明そのものがイタリアのアルプスよりも北のところに、押し
込められる結果になってしまったんです。ある意味そこで一種の鎖国状態が生じたわ
けですね。そして商業がほとんどイスラム商人によって牛耳られるようになってしま
いましたから、そこでキリスト教徒が意地を張ろうと思えば、もう商業そのものから
撤退するしかないというわけで、このアルプスより北に、非常に農業的な、商業を持
たない、敬虔なキリスト教文明を持った新しい文明が、初めて誕生したんです。だか
らこれはベルギーの歴史学者でアンリ・ピレンヌっていう人がいますけれどもその人
が言った「ピレンヌのテーゼ」というもので、彼が言ったことはフランク王国はカー
ル大帝が即位したということを以ってフランク王国の成立とされましたけれども、
カール大帝はマホメットの存在なくしてはありえなかったであろうということです。
マホメット率いるイスラム帝国が地中海という商業文明圏を全部ヨーロッパからもぎ
取ってくれて、完全な鎖国の農業文明を北に作ってくれたおかげで、初めてヨーロッ
パというものを誕生させることができた。そこでやはり一種の規律を立てなおすこと
ができたから、封建体制によって軍隊も再建できて、そこで新しく世界史が動き始め
た。そういう現象があったんです。

 ところがこの話はこれで終わりではありません。ヨーロッパはそうやってだんだん
力をつけてくるわけです。力をつけてくると今度は俺たちも地中海世界に出ていこう
や、という気運が高まるのは当然でしてね。それがついに爆発するのが十字軍の時で
した。十字軍によってヨーロッパは、地中海のところを回復できたんですけれども、
その時にやっぱり商業文明も一緒に入ってきてしまったんですよね。そしてそれが実
はルネサンスをもたらした最大の原因だったんです。商業文明と一緒にギリシャ文明
もまた入ってきた。そうなったら今度は軍隊よりもキリスト教界がすさまじく腐敗を
始めちゃったんですよね。我々は教科書で免罪符の販売なんていうのを習いますけれ
ども、実際にはあんなのは氷山の一角で、もう、当時のキリスト教の修道士なんての
は今のマスコミの一番タチの悪いあんちゃんを10倍タチを悪くしたような、そのぐらい
ひどい存在だったんであって(日本史だと信長に焼き払われる直前の比叡山の
僧兵みたいなもの)、もう人殺しはするわ、女は犯すわ、修道院はハレムと化すわ、
ところがそれにもかかわらず教会権力に庇護されてお咎めなしで野放し状態、
というぐらいにひどいものだったんですよ。この連中から何とかヨーロッパを解放
してくれということで立ち上がったのが宗教改革だと思っていたほうがいいです。

 この時にまた一種のコラプサー現象に近い現象が起こったんですよ。当時とにかく
ローマ教皇の力はもう絶対的でしたから、宗教改革をやろうと思えば、教会の人間に
引っ張られて行きまして、ローマに連れて行かれて火あぶりにされてそれで終わり
だったんですよ。じゃあルターがどうしてそれができたのか、と言ったら、実はドイ
ツの諸侯が彼を、軍事力をもって保護したからなんです。ところがそれですら、普通
の状態ではできませんでした。というのはローマカトリック教会は神聖ローマ帝国と
も手を組んでまして、神聖ローマ帝国が一応軍事面を全部統括してるということに
なってましたから、諸侯がローマ教皇に歯向かった時には神聖ローマ帝国軍がそこの
諸侯を攻めて、逮捕してローマに連れていって火あぶりにする。そういう構図が本来
は生じるはずだったんです。
 
 ところがここに出てきたのがこれまたイスラムのトルコでした。オスマン=トルコ
のスレイマン大帝というのが、当時ウィーンにまで攻め上ってきて、それで神聖ロー
マ帝国軍としても、神聖ローマ帝国だけの力では、これを撃退することができないと
いう危機に瀕してしまったんです。その結果諸侯の力を借りないと絶対に撃退できな
い、ルター問題にばかり関わっている暇はないな、ということでルターの問題は後回
しにして、スレイマンのトルコ軍を撃退することにヨーロッパは全力を挙げなければ
いけなかったんですね。そしてそれがルターに時間と余裕を与えたんです。その結
果、もうローマ教皇の力をもってしても制圧できない力に育ったのは実はまさにスレ
イマンがいたからなんですよね。そしてそれはある意味ヨーロッパがコラプサーにな
らずに済んだ2度目のときだったと思うんです。2度ともがイスラムに救われてると
いうことは、まあ注目していいんじゃないでしょうか。それでその後宗教改革によっ
て、カルビン的な、非常に規律の正しい文明が生まれて、ずっとそのギリシャ的な自
由主義の文明というのは、かなり蓋をされていたわけですけれども、それがフランス
革命とアメリカの登場によって再びそこから蘇ってきたわけです。まさにそのギリ
シャ的な自由主義がビンから出て、それが極限までいって、一種のコラプサー状態に
なってるという状態が今まさにそれなんであって、それはゲルマン人のランゴバルド
族なんかでコラプサーになった状態、それから宗教改革ができなくなりそうでコラプ
サーになった状態、それに続く3回目であると。恐らく将来の歴史家はそう見るので
はないかと思います。

 西洋においてはこうでしたけれども、東洋においてもこれと似たようなメカニズム
というのは起きてまして、今度はギリシャ文明ではなくて中国のいわば儒教文明です
ね。儒教文明って言うと戒律が厳しいように見えますが、要するにある種の人間中心
文明ですよ。神とかそういうことに対してあまり価値を認めずに、合理的に人間を見
つめていこうという文明ですね。そういった点ではある種の合理主義文明です。

 中国には当時当時蛮族の侵攻がありまして、中国に対して北から蛮族が攻めてくる
という現象があったんですけれども、この現象においてまさにそのゲルマン人と同じ
現象が起こったんですよね。北から蛮族がくると、中国軍に比べて蛮族の人口は非常
に少ないんですが軍事力においてははるかに規律正しくて、蛮族のほうが強いんです
よ。それで中国に彼らが、南下して攻めてきて占領してしまう。そうすると今度は彼
らは中国文明に染まっていくわけですよね。そうすると軍隊の規律が崩壊してしま
う。それで結局またゲルマン人たちが滅ぼされて行ったのと同じように、彼ら蛮族た
ちは滅びていってしまう。そしてまた中国文明がそこに再び出てくると。そういうコ
ラプサー状態に近いことをずーっと繰り返していた、という現象があります。

 この時唯一やや例外に近かったのが、元のモンゴル帝国でした。普通蛮族は攻めて
きたときに、統治に関する文官をすべて漢民族に依存していたんですが、モンゴルの
フビライはその危険を分かってました。とにかく漢民族を使ってはいけないというこ
とで、そのかわりにペルシャ地方のいわゆる色目人ですね、目が青い色をしていまし
たから式目人と呼んでたんですが、彼らを連れてきて、彼らにモンゴル人に次ぐ2番
目の地位を与えて、技術者をペルシャ人にすべて依存したんです。その結果漢民族の
文化的支配を退けようというのがフビライの、理想だったわけです。それでフビライ
の帝国そのものは、中国においてたところはさすがにやはり中国文明に染まって駄目
になってしまったんですが、フビライの帝国というのは中国の部分は一部で、あと中
央アジアにもいろんなハーン国っていうのがありました。チンギス・ハーンの息子た
ちに分けて作った国です。キプチャク・ハン国とかイル・ハン国とか。そう言う国な
んですけれども、そこが実は100年か200年の間に、ほとんどイスラム化してい
くんですね。そしてそのイスラム化して行った、イル・ハン国などの国は、モンゴル
の本国が滅びたその後も、長く生き続けました。

 それはもう近代に至るまで続いていたんであって、モスクワとかあそこら辺は実
は、イスラム化したモンゴル人の圧迫をずっと受けていて、ロシア人達はそれを「タ
タールの軛(くびき)」と呼んでます。モンゴル人のことを「タタール人」と呼んで
いたもんですから。またクリミア半島にいたクリム・ハン国などは、17世紀か18
世紀まで存在していたと言いますから、如何に、イスラム化することでモンゴル帝
国、蛮族だったモンゴル帝国が長く生き続けることができたかということですよね。
それは東と西の両面を見ても、イスラム文明が、ギリシャ的、あるいは中国的な、人
間中心の文明に対して如何に強い耐久精度を持っていたか。それとその一見よいよう
に見えるギリシャ文明というものが、如何にその文明をコラプサーにしやすい危険を
孕んだものだったかと。それがやっぱりイスラムってものを軸にして東西両面を見る
と、非常によく分かるんですね。

 当時はイスラム勢力の力というのは相対にかなり強かったですし、ローマ帝国が強
かったといっても、地球全土を覆うものではなかった。でも今回のアメリカ帝国って
のはそれとは桁が違います。そしてはっきり言ってイスラム文明全体との格差も非常
に大きくて、3回目を果たそうと思ってもイスラム自体だけでは多分、できないで
しょう。
 その時世界史に対して、世界がコラプサー化するのを防ぐためにイスラム文明が
如何に大きい貢献をしてきたかということから見ると、イスラム文明が世界から消えることが、
一体我々にとっていかなる意味があるのか、それはもう対岸の火事とは言っていられ
ないような大きなことである、ということです。

 今まさに世界が統一帝国になるかどうかという話ばかりではなく、コラプサーに対
する耐久性を持っている一個の文明が消えるかどうかという重大な局面にも立っている
ということ、そして我々がその最終防衛ラインから如何に近いところに立っているか
ということを、我々は認識する必要があると思いますね。