2−3 人間の直観力は人工知能の模倣追撃を振り切れるか


さて先ほどのまでの議論で、人間の直観力のメカニズムが人工知能では解けない問題でも迅速に扱う能力を秘めており、それを使って反撃すれば人間側が最終的に優位に立てる、という可能性が現実に現れてきた。しかしこれだけではまだ最後の勝者がどちらであるかはわからない。

それというのも、もしそれがそんなに優れたシステムだということが判明したならば、恐らく人工知能はそれを模倣した形でもう一段の進化を遂げ、直観力さえも備えた姿で再登場して、さらに人間側を追撃しようと試みるだろう。そのためもしその挑戦を退けられないならば、人間側は結局最後は人工知能に制圧されてしまうことになる。

つまりその追撃を振り切れることを示せた段階で、ようやく人間側の最終的な勝利が確定することになるわけで、この2−3ではその最後の決着の行方について見ていくことにする。またここでは「人間の芸術家の尊厳は守られるか」という重要な問いにも、全く新しい視点から答えを与えており、読者はそのような興味で読まれても良いだろう。


その対決で焦点となる「暗号が解読できるか否か」

そしてここで人工知能がどうやって人間の直観力を模倣追撃するかを考えると、意外なことが重要ポイントとして浮かび上がってくる。それは、単に今まで論じてきた直観力のモデルを外形だけ真似ても駄目だということである。

それというのもその議論では、人間の直観力のメカニズムは頭の中の固有波形が共鳴することで成り立っており、その際の優劣は頭の中にどれだけ優れた固有波形パターンを持っているかで決まる、ということだった。しかしそうだとすれば、いくらそのシステムを外見だけそっくり真似て作っても、肝心の固有波形パターンが残念なものであっては意味がない。つまりその場合には人工知能は単に人間の凡人を真似るだけで終わってしまうのである。

これはDNAの機能を模倣する話にも少し似ているかもしれない。DNAの場合も確かに二重らせん構造のメカニズムは印象的だが、むしろ重要なのはそこに書き込まれている塩基配列パターンの暗号を解読することである。それに比べると二重らせん構造自体は、単にそれを収めておくための入れ物に過ぎず、それだけを真似ても生命の神秘は再現できないのである。

われわれの場合も同様で、人工知能が人間の直観力を模倣する際に鍵を握るのは、如何にして天才がもつ優れた固有波形パターンを解読して、それをコピーできるかどうかにある。そしてここで「暗号」という言葉が出てきたので、われわれはむしろこれを一つのキーワードとして、今までの直観力モデル全体を解釈し直してみよう。

この場合DNAの塩基配列に相当するものが何かといえば、それは「頭の中にどういう固有波形パターンがどういう形で配列されているか」ということである。つまり固有波形パターンの内容や配列そのものが「暗号」なのであり、人間の頭の中にはそういう形で一種の暗号が書き込まれている、ということになる。

そしてここで、優れた作曲家などは頭の中にそういう暗号を持っているために名作を作ることができるのだ、と考えてはどうだろう。つまりもともと芸術作品の世界には、名曲を作るための一種の未知の暗号のようなものが存在しており、優れた作曲家はそれと同じものを頭の中に持っているからそういう名曲を作れるというわけである。

また芸術以外でも、世の中のいろいろな重要問題を解く鍵がやはりその種の暗号にあり、人間の直観力は頭の中の暗号とそれを照合することで、その答えを瞬時に出しているとするのである。

実はこれは厳密な意味では「問題を演算で解いている」とは言えないかもしれない。またこの場合には共鳴による直観力の演算システムそのものは、単にこの暗号を迅速に読み出すための最も効率の良い「読み出しシステム」に過ぎないと言える。

しかしとにかくこの場合には、人工知能側はこの暗号を解読してコピーできれば人間の直観力と同等の能力を身に着けることができるし、逆に人間側はその暗号の解読を阻止できれば人工知能の追撃を振り切れることになり、結局それが問題の最重要ポイントとなるわけである。


数学・物理の難問がもつ「暗号」

ただ確かに芸術などの場合は、名作の内部に一種の暗号が隠されている、というのも十分ありそうな話に見えるが、それに比べると数学や物理、あるいは戦略などの外的な世界にそういう「暗号」があるという話には、やや唐突で違和感を覚えた読者もあったかもしれない。

そのためここで言う「暗号」とはどんなものかを最初にはっきりと定義しておこう。それは要するに「数値配列などに関する未知のパターンが問題を支配しているのだが、その規則性が人間には全くわからないようなもの」のことである。つまりその規則性がわかればそれは「法則」なのだが、規則性が人類には全くわからない場合にはそれを一応「暗号」と呼んでおこうということである。

そういうことなら確かに数学の世界にもそうしたものはたくさん存在している。例えば素数の問題などはその好例で、この場合、何番目の素数がいつ現れるかを一発で知ることのできる規則性というものはわかっていない。しかしもし「規則性」というものを広く解釈するなら、それは確かに人類にはまだ知ることができないものの、何らかの隠れた一種の規則性に従っていることは確かで、その未知の規則性がここで言う「暗号」である。

これは素数の問題に限らない。要は単にこの場合「まだ人類にはわからない隠れた規則性」を「暗号」という言葉で言い換えているだけなので、もし人類に解けない数学の難問があったなら、そこには必ず何らかの形でこの定義からする「暗号」が含まれている理屈になるのである。

そういうことなら数学の世界には「解けない難問」が大量にあり、三体問題などはその代表である。こうした難問は数学ではもっと一般的には「非線形問題」というカテゴリーに分類されており、そのグラフの曲線や複雑な軌道は、今まで人類が知っている規則性の概念では扱えず、大まかに予測することさえもできない性質のものであることがわかっている。

さらに言うと、もっと抽象的な戦略などの問題も、強引に定式化したとすればやはりそのカテゴリーに入るだろうというのが、数学の世界ではほぼ常識である。そして後に述べるように、そうした問題の多くは、その暗号があれば答えが求まるが、もしそれ抜きで答えを出そうとすると大変なことになるはずだということも、この非線形問題からの類推で見当がつくのである。

しかし不思議なことに人間の直観力は、しばしばそうした複雑な問題に一瞬で大まかな正解を出している。そうだとすればその理由は、人間の頭の中に何か奇跡のような演算システムがあるか、あるいは何らかの形でこの「暗号」をもっているかの二つ以外に考えようがない。

その二者択一ならばむしろ後者の方が話としては簡単で、その際には以前から述べている「人間の頭の中の固有波形パターンの種類や配列」がその暗号に沿っていると解釈するだけでよい。

つまりこの問題全体をこのように、一見唐突に見える「暗号」というキーワードで解釈し直すと、意外に堅牢なビジョンでパノラマ的に俯瞰できるのである。


人間の頭の暗号が勝敗の鍵を握る

それは良いとしても、そもそも人間の頭の中にそういう大きな暗号体系が組み込まれているという話には、何か根拠はあるのだろうか。ところが実は人間の頭の中にはすでに少なくともワンセット、大きな暗号体系が存在していることは確実なのである。

それはわれわれの音楽や美に関する感覚であり、例えば音符をどういう配列で並べれば名曲ができるのかについては、必ず何らかの隠れた規則性があるはずである。しかし人類がこれについて法則として理解できるのは、ごく入り口付近のいくつかだけに過ぎず、それより奥にあるものとなると全く未知である。

例えばなぜミとファの間に黒鍵がないのか、どうして音階が12音から成っているのか、なぜ人間の耳が無理数と有理数を聞き分けるのか、などについては本当の理由は今もわかっていない。その意味でそれは一種の「暗号」であり、それだけの規模の大きな暗号体系が少なくとも一組は、人間の頭の中に生まれつき組み込まれていることは確実なのである。

だとすれば、それと同規模の暗号体系が頭の中にもう一組あると考えても、別に不自然なことではない。というよりいっそその推理をもう一歩進めて、むしろ両者は実は一つのもので、頭の中には巨大な暗号体系が一個だけ存在していて、それが数学や物理と音楽の間で共有されて使われている、と考えた方が、より効率的である。

それはむしろ過去の多くの科学者にとっては半ば常識だったようで、どうもオイラーなどは、その暗号が素数や音楽の間などで共通するのではないかと考えていたふしがある。そして彼が素数や音楽などに多大な関心を抱いて研究を行っていたことの背景には、そのことが大きなモチベーションになっていたのではないか、という気がしてならない(実際に数学の常識からしても、もし音楽の問題を数学的に無理矢理に定式化しようとすれば、それはやはり一種の「非線形問題」になるはずだというのは共通認識で、少なくともそのレベルでは十分に関連性があると言える)。

もともとわれわれの今までの議論でも、両者のつながりは重要なものと考えてきたが、ここでもそれを想定することの意義は大きく、人間の頭の中に暗号が存在することの手がかりを音楽側が提供する一方、その暗号がどんな性質をもっているのかは、数学の方から詰めて行ける。

そしてその上で、人工知能がこの暗号を解読できないことを示すことができれば、その追撃を振り切れるかどうかをかなりの程度まで判定できるわけである。

本来ならこの「人工知能による模倣追撃を振り切れるか」という問いは、答えるのが非常に困難な問題である。特にもしその議論の中心課題が、ハードウェア面の技術発展の問題である場合、何といっても将来の人工知能がどんな新技術で直観力を模倣しようと試みるかは現時点で知りようがない以上、それに答えることはほとんど不可能である。

しかし議論の中心が「暗号」という形で一本化されていたなら、その解読が可能か否かという一点で、根本的な数学の話によって一段上の視点から押さえることができ、この難しい問いに答えることが可能になるのである。


「公開鍵の存在」という根本的ジレンマ

さてそのように数学・物理と音楽の間で共通の暗号の存在を想定したことで、われわれは一見すると強固な論拠を手にしたように見える。ところが実はそれどころではなく、われわれはそのためにむしろとんでもなく大きな弱点を、気づかぬうちに抱え込んでしまっているのである。

それは何かというと、音楽や芸術の場合、作曲家が優れた固有波形パターンや暗号を頭の中に持っていなければならないのは当然だが、それだけでは駄目で、受け手である聴衆や一般大衆の側もそれを持っていなければならないということである。そして皮肉なことに、それがこの暗号全体を解読するための手がかりを提供しかねないのである。

これは根本的な宿命で、天才的な作曲家がいくら頭の中の固有パターンに従って名曲を作っても、受け手である大勢の観客の側がそれを美しいと判定する能力を持っていなければ、その曲が名曲であることを認識できず、それが後世に残ることもないだろう。

つまりその暗号は、送信者側の作曲家と受信者側の聴衆の双方が持っていなければならない。そして後者はいわば一種の「公開鍵」として、大衆の誰もが持っており、世の中に大量に何億個もばらまかれている、ということになる。

そういうことなら人工知能側がその暗号を解読するのは容易である。つまり一般大衆の中から適当に被験者を選んで、受信者(聴衆)の側がどういうパターンに反応してその曲を快いと感じているのかを徹底的に調べればよい。こういう場合その被験者の人数が十分多ければ完全解読も可能なはずだが、そのデータサンプルとして数千万〜数十億人分を用意できるというのである。

そのため結局は送信者(作曲家)の側がどういうパターンを送り出しているのかも、暗号解読と同じ要領で芋づる式に割り出してしまうことができるだろう。さらにここでもし、数学・物理や戦略で音楽と共通の暗号が使われているとすれば、事は重大である。

なぜならその場合、この音楽暗号が弱点となって、そこを突破口に他の暗号全体が全て割り出されてしまいかねず、その時には人間側は一挙に制圧されてしまうことになるからである。

そんなことになるぐらいなら、いっそ最初から下手にそのように音楽の暗号と数学・物理の暗号が共通しているなどとは考えない方が良かったのかもしれない。しかしこの仮定についてもこれはこれで絶対に手放せないのである。

なぜならこれは、人間の頭の中にそうした暗号体系が存在することの数少ない「物的証拠」なのであり、もしこれを手放してしまうと、「人間の頭の中にそういう暗号が存在する」という話の説得力が一気に弱まってしまうことになる。そのためわれわれは根本的なジレンマの中に陥ってしまっているのである。


一例でも反例を作る

そもそもこの「音楽の暗号は公開鍵によって必ず解読できる」という話は、たとえ音楽と数学の関係などを全く何も考えなかった場合でも、人間の芸術家の尊厳を巡る話として、これ自体が単独でも人類全体にとっての重大問題だったはずである。

読者もあるいは日頃から密かに懸念を抱いていたかもしれないが、現在すでに人工知能やコンピューターによる作曲というものは行われており、それが極限まで進歩すれば、ついに人間の芸術と遜色ないものを作るようになるのではないか、という話は以前から囁かれていた。

常識的に考えても、芸術の創作活動を人工知能で模倣することは、パターンのデータ数を大量に集積していけば原理的にはいつかは可能になるはずである。そしてその際に数十億人の脳からデータを集められるとなれば、それはいずれ完全制覇できるだろう。そのため人工知能の推進派の人々の多くは「人工知能の創作能力はいつか必ず人間と完全に同等のレベルに達する」ということを、ほとんど自明の理として確信している。

確かにこれはチェスや将棋が原理的に完全制覇できるというのと同じぐらいに、疑う余地のない宿命のように見える。そしてその時には人間の作曲家の存在意義は、せいぜい「天然」というラベルのブランド力ぐらいしかなくなり、人間の芸術家の尊厳というものは事実上消失することになるだろう。

そのため恐らくこれは現在、多くの音楽関係者にとっても精神的に切実な問題なのではあるまいか。実際読者の中には、むしろこの問題こそが本書の話題の中でも一番重大な関心事で、他の問題など放っておいてもこれだけは何とかして欲しいと感じている方もあるかもしれない。

そして世の中では現在多くの人々はその不安を打ち消すために、一種の情緒論に逃げ込むことで何とか安心感を得ようとしている。しかしその論理は、どれも無理矢理にめいめいこじつけたようなもので、説得力不足の感は否めない。そのためやはり確固とした数学的根拠に基づく形で、人間の芸術家の意義を保証する強力な論理がどうしても何か一つ欲しいのである。

しかしこの芸術や音楽に関する「大衆が全員公開鍵を持っていなければ芸術作品は社会的に成立しない」というジレンマは非常に根本的なものなので、ちょっとやそっとでは解決できそうにない。実際に周囲を見回しても、この原理的な壁を破れるようなモデルは、根本的な発想やアイデアそのものがほとんど当たらず、この宿命を逃れるには、どうやら今までに全くなかったような新しい考え方がなければ無理のようである。

そのようにあまりにも困難な課題であるため、われわれの方でも少しハードルを下げて、とりあえず「たった一個でも反例を作る」ことさえできれば良い、ということにしよう。

つまり「人工知能が追撃できない直観力モデル」というものを、少なくとも考え方としてたった一例でも示せればよく、その際には必ずしも現実の人間の直観力がそのようなものであることの証拠は示さなくてよい、とするのである。

とにかく反例となる考え方やアイデアが一つでも示せれば、少なくともこの宿命は絶対的なものではない、ということだけは証明されうる。そのためそういうものを考え出せるか否かは、人間の芸術家の尊厳を賭けた議論ということになるだろう。

またこれは根本的な難題なので、もしそれを可能にする答えがあるなら、それは人工知能による追撃を退ける話全体の決定打となるはずである。恐らくそれは今後、読者がこの種の問題に取り組む際にも新しい思考パターンの手本となって、そのイメージは一生頭に残り続けるかもしれない。

そのように眺めると、まさに以下の数ページは本書の議論全体の一種の天王山で、ここで勝てるか負けるかが、人間と人工知能の最終的な勝敗を決めることになるのである。


芸術や美に関するもう一つの経験法則

それにしてもやはりこの難題のハードルは非常に高く、おまけにここでは何しろ対戦相手として「無限に発達進歩した人工知能」を考える以上、人間側としてもそれに対応するために、何かあともう一つぐらいは設定をつけ加えても許されるだろう。

そこで、芸術や美に関してもう一つ、古くから音楽学校や美術学校で言われてきている次のような経験法則を状況証拠として採用し、それをこの難題を解決するために使ってみたい。

それはどういうものかというと、恐らくこれは昔から音楽学校や美術学校で幾度となく言われてきたことだが、「真の美というものは、完全に整ったものをほんの僅かに崩した時に生まれることが多い」ということである。

実際に多くの芸術作品が、本来なら不協和音であるはずの汚い音を故意に混ぜることで、凡百の作品では及べない美しさを引き出している。そして芸術学校では多くの優等生が「君の作品は完璧に正確に調和がとれていて減点すべき点がどこにもないが、単にそれだけで、真の芸術として人を感動させることができない」という台詞に泣かされてきたものである。

またそんな高尚な話でなくもっと一般の話としても、あまりにも整いすぎてどのパーツにも減点個所がない美人というのは、意外に人気が出ず、むしろどこか一か所がそこから逸脱して、本来なら崩れた欠点となるはずの部分をもっていた方が、かえってチャームポイントとなって絶大な人気を博す、ということが非常に多いのである。

さらにこれは戦略戦術の場合についても言えることで、戦略戦術の場合、双方が完全に教科書通りのバランスのとれた戦略で組み合った場合、均衡状態で動かなくなって、膠着状態に陥ってしまう。

そしてこういう場合には、むしろ一方が故意に戦略をそこからずらすことで、しばしば大勝利が得られるのである。つまり「ずれ」がない場合には、戦線には何の動きも起こらず、故意に「ずれ」を作った時にそれが決定的に状況を動かすわけである。要するにこれが7番目の状況証拠であり、整理すると

状況証拠7・ 人間が感じる真の美は、完全に整った状態をほんの僅かにずらした時に現れる。

ということになる。


「波形パターンを僅かにずらす」というイメージ

しかしこういう状況証拠を導入したことで、一体何が可能になるというのだろうか。実はこんなことを言い出したのは、物理の世界では波に関して、古くから知られている面白い現象が一つあって、それをうまく使うことでこの難題を解決する糸口が得られるからである。

それはどういう現象かというと、次の図のように、まず二つの波を用意する。これら@とAはほとんど同じ波なのだがほんの僅かに違っており、両者の波長や振動数を比べると、その値がほんの僅かにずれているとする。

そしてこれら二つの波を重ねてやると、不思議なことに一種のうなりのようなものを生じて、図のように波全体が一定の比較的長い周期で強くなったり弱くなったりするのである。  
                    

この「うなり」はBのようにその包絡線を描いてやると、それ自体が一種の周期の長い波を形成しており、要するにこのように2つの波をほんの僅かにずらして重ねてやると、オリジナルの細かい周期の波とは別に、もっと周期の長い別の波が生み出されてしまうのである(一般に物理ではこの包絡線で構成される周期の長い波を「波束=ウエーブ・パケット」と呼んでおり、これは量子力学や核物理学でも重要な役割を果たしている)。

要するに波に「ずれ」を作ってやるとこのようなうなりが発生するという話なのだが、このあたりでカンの良い読者はご想像がついたかもしれない。つまりこのうなりを「美」だと考えれば、先ほどの「美はオリジナルの整ったパターンをほんの僅かにずらした時に生まれる」という話を、このように二つの波をずらすメカニズムで捉えられるのではあるまいか、というわけである。


FM放送にも使われるこの原理

この「二つの波を重ねるとうなりを生じる」という不思議な話については、初めて聞いたという読者も多かったろうし、また核物理学で使われるなどと言われると、何やら日常的センスからは縁遠い話のように思えたかもしれない。しかし実はこれは意外にわれわれの身近なところで応用されている。それはFM放送の電波であり、音楽をきれいな音で聴くためにその特性が使われているのである。

われわれはFM放送自体には日常的に接しているが、その仕組みを知っているかと言われると、ちゃんと答えられる人はあまりおらず、そのメカニズムの中には初めて聞くような意外な話も少なくないようである。

例えばFMでは放送局がアンテナから送り出している電波は、実は公称周波数ぴったりの電波が常に送られているわけではない。その周波数は意外なことに放送内容の音声信号に応じてほんの僅かにそこからずれる形で変動しており、そういう電波が放送局から送られているのである。(そもそもFMの「F」は「周波数(Frequency)を変動・変調させる」ということの頭文字をとったもので、AMの「振幅(Amplitude)を変動・変調させる」ということと好対照をなしている)

一方それを受けとるFM受信機の側には、一種のフィルターとして、ぴったり公称周波数どおりで全くずれや変動がない一定の波が用意されている。そして受信機内部で両者を重ねてやると、受信機の内部で先ほど述べたような低周波の「うなり」が発生し、われわれがスピーカーで聴いている音声信号の音波は、それを経て得られた波なのである。

つまりこのシステムはまさに先ほどの「ほんの僅かに波長や振動数がずれた波を重ねると、うなりのような別の波が生じる」という話を基本にしていることがわかるだろう。(余談だが、FM無線機は第二次大戦当時には「スーパーヘテロダイン無線機」と呼ばれていた。この場合の「スーパー」は字幕スーパーなどのように「重ねる」の意で、要するに「ヘテロ」=異なる二種の波を「重ねる」ということになり、まさにこの構造そのものを表現する名称だったわけである)。

そしてここでわれわれが注目すべきことは、このうなりによる低周波の波が、オリジナルの二つの波に比べてかなり低い周波数になっているということである。つまりこのメカニズムは周波数を下げたい時に応用できるのである。

FMラジオはその良い例で、空中を飛んでいるオリジナルの電波は数十MHz単位の高周波の波だが、スピーカーから出てくる音波の周波数はせいぜい数十〜数百Hzの低周波の波である。そのため周波数だけを比べれば、後者は前者の10100万分の1に下がっていることになる。

もっとも現実のFMのシステムの場合、このように高周波の電波から低周波の音声信号を生み出すことを、一挙に全て先ほどのうなりのメカニズムを使って行っているわけではない。実際には周波数を下げる過程のごく一部でそれを使っているに過ぎないのである。それは現実のFM受信機では、そのように部分的な使用に留めた方がラジオ技術上のメリットが大きいためで、実際の受信機の構造はそうしたいろいろな事情でもう少し複雑である。

しかしその気になりさえすれば、高周波の電波を二つ重ねて生じるうなりを利用して、そこから一挙に低周波の音波信号を作り出すことは原理的には可能である。そして以下の話では一種の思考実験としてこのメカニズムを使うので、むしろそのように少し誇張して単純化されたイメージで捉えた方が話はわかりやすい。そこで上の話を、思考実験用に単純化した形であらためて整理しておこう。

まず用意するのは、互いにごく僅かにずれた二つの波(共に周波数は比較的高い)である。それらのうちの一方は放送局から送られる電波で、これは波長や周波数がごく僅かに公称周波数からずれて変動しているものである。またもう一方は一定の周波数(放送局の公称周波数と同じもの)で振動を続ける単調なものであり、これが受信機の中にフィルターとして用意されている。

そしてこれら二つを受信機の中で重ねてやると、うなりのように全く別の波長の長い波が現れて、これが低周波の音声信号となり、先ほどの「ずれの変動」を適切に設定することで、自在な音声信号の波形を作り出すことができる。

一方もしそのずれを全く作らず、放送局のアンテナから送られる電波もやはり公称周波数ぴったりの全く変動しないものだったとすれば、その時にはスピーカーは静寂を保ち続けることになる。
         

要するに送りたい音声信号の内容に応じて故意にずれを作ることで、初めて音が鳴るのであり、そのずれを持たない電波をいくら送っても、音声信号は生まれず無音状態となるわけである(なおこれは逆手にとればノイズを減らすために応用できる。つまりもし自然界に何か雑音電波があっても、それがこのように複雑に振動数を変化させる特殊な電波でない限り、FMはそれを雑音として拾わないのである)。

現実のFM受信機はいろいろな事情でもう少し複雑だが、ここでは以下、この単純化されたモデルの方を「FMモデル」と呼ぶことにするので、その点はご了承されたい。


このメカニズムの応用価値

それにしてもこの状況を先ほどの状況証拠「7」の性質に照らすと、何ともぴったりではあるまいか。つまり二つの波の間にずれが全く存在しない状態は、ちょうど先ほどの芸術学校の、単なる小ぎれいに整っているだけの優等生の作品のようなもので、われわれがそれを見たり聞いたりしても、ちょうど上の話の無音状態の時に似て何の感動も生まれない。

ところがそれを僅かにずらしてやると、二つの波がうなりを生じて初めて音が鳴り始めるように、人間は本当の美というものを感じるのである。

要するにそういうメカニズムの存在を仮定することで「真の美は、完璧に調和のとれた状態をほんの僅かにずらした時に生まれる」という、古くからの経験的事実を、まさにこの「ずれ」の形できちんとイメージできることになるわけである。

しかしこのメカニズムを導入した本当の理由は、無論そんなことではなく、むしろこれが先ほどの難題を解決するために使えるということである。

ではそのあらましを述べてみよう。この場合先ほどから述べているように、作曲家などの頭の中には二つの波形、つまりオリジナルの固有波形と、それをほんの僅かに崩した波形の二つがあって、これらの中に暗号が隠されている。

そしてそれらを組み合わせることで、うなりを生じるようにしてアウトプットとしての芸術作品が生まれるわけだが、ここで重要なのはそれを「波形パターン」というイメージで見たとき、作曲家の頭の中にあるものは非常に細かい波だが、それに対してアウトプットである芸術作品はそれよりもかなり粗い低周波の形になっているということである。

それは言葉を換えれば、たとえ後者の中に暗号情報が含まれているとしても、その情報量は作曲家の頭の中にある真の暗号に比べてかなり小さいということを意味する。そしてわれわれが応用したいと思うのはまさにこの点である。

つまりこのアウトプットとしての作品を聴衆が判断する際には、各自の頭の中でこの低周波の側に対応できるだけの精度で固有波形パターンや暗号が用意されていれば、十分にそれが共鳴して、それを名作と判定することができるということである。
     

より具体的には次のように考えてみよう。つまり芸術家が持っている固有波形は細部まで入念に作り込まれた精巧・希少なものだが、それに比べると聴衆が持っている判定用の低周波の波形は、もっと少ない情報量で作れる大まかなものなので、誰でも持つことができる。そのため何億人もの大衆が同じものを頭の中に持っていて、名曲を聴いた時にそれが各自の頭で共鳴する仕掛けになっているということも、十分に可能である。

そこでこの低周波の波形を、誰もが持っている「公開鍵」と考えればどうだろう。これは秘密鍵とは違う低周波のものなので、これを使っても作品を生み出したりすることはできない。しかし作品の良し悪しを判定するだけの公開鍵としては十分に使えるのである。

それは感覚的には例えばちょうど「難しい漢字を読めるけれども書けない」という状態に一脈通じたものがあるかもしれないが、とにかく大衆側が皆これを頭の中に持っていれば、芸術家が名作を世の中に送り出しても、ちゃんとそれを大勢の人間に名作であることをわかってもらえるわけである。


この暗号を外から割り出せるか

そういうことになってくると、人工知能がその暗号を割り出すための構図も根本的に変わってくるのであり、それはFMモデルの話に置き換えるとわかりやすい。

つまりこの場合その課題そのものが「もし音波・音声信号(つまりせいぜい数十Hz程度の低周波の音波の波形)だけが与えられているとき、その情報だけからオリジナルの二つの波形(つまり高周波のMHz単位の電波の波形)を両方とも同時に割り出すことができるか」という命題に置き換えられるのである。

結論から言えば、それだけからオリジナルの二つの波形を同時に割り出すことはできない。確かにこの場合、もし二つの高周波の波形のうちの一方がわかっていれば、それと低周波の波形を照合して、もう一方を割り出すことはできる。しかしこのモデルを直観力に応用した場合、高周波側の波形は両方とも人間の頭の中にあっていずれも未知だということになっているので(実はこの点でFM送受信機の話とは少し違う)、その両方を同時に割り出すことは、これだけでは原理的に不可能なのである。
         

では具体的にどう困難かをもう少し詳しく見てみよう。まず人工知能でこの暗号を割り出そうとする際には、データとして入手できるのは、アウトプットとしての作品そのものか、あるいは聴衆である一般大衆からデータ採取した公開鍵である。

前者の方は音符の配列パターンを分析すれば良いし、後者はもし必要なら大勢の聴衆の脳を直接測定機器にかけてデータを採取すればよい。

後者の場合さすがに一人分だけのデータでは、脳内に見られた反応が何に相当するのかを特定することは難しい。例えばある音楽を聴かせた時の脳内の反応が、果たしてその曲が美しくて快かったためなのか、それとも何かその人の過去の人生で大事な瞬間にたまたまその曲が流れていて、その記憶が呼び起こされたためなのかは、しばしば区別できないからである。しかしそれでも数十億人分のデータを照合して共通部分などを洗い出していけば、その最大公約数の形で公開鍵を割り出すことは十分可能だろう。

従来のモデルなら、これだけのデータがあれば、それを基に十分に頭の中の秘密鍵を割り出すことができるはずである。しかしわれわれのモデルではそうは行かない。

われわれの場合には、秘密鍵と公開鍵は細かさや精度に大きな開きがあって、アウトプットの作品や公開鍵には、相対的に少ない情報量しか含まれていないことが最大の特徴である。その情報量の差は大きく、FMモデルの例を参照すると、両者の精度には100万倍程度の開きがあることも、ごく普通にあり得ることだろう。

そしてここでそれが本質的な問題として現れてくる。つまりそれらのデータだけでは、芸術家の頭の中の秘密鍵を割り出すためには情報量が絶対的に不足し、原理的にその割り出しは不可能となってしまうのである。(現実問題として見ても、そのデータだけしか使えない場合は、せいぜい聴衆・大衆側の公開鍵を割り出すあたりまでが限度かと思われる。)

それでは芸術家の頭の中の秘密鍵を、測定機器で直接割り出すことはできるかというと、この場合は一般大衆の公開鍵とは違って、基本的に被験者を一人しか用意できないことがネックになる。そのためたとえ脳を機器で直接調べても、それが本命の秘密鍵に関連したものか、それとも単に創造活動とは無関係な、芸術家の個人的な記憶に基づく日常的な情動なのかが、一人分のデータだけではどうにも判別することができないのである。

要するに、このモデルの場合には、どのルートから行っても、希少な芸術家の頭の中の秘密鍵を2つ同時に割り出すことは原理的に不可能となってしまうのである。


公開鍵はどう生まれた

ともあれ以上を見ると、どうやらわれわれはついに欲しかったものを探り当てたようである。つまりこの場合には公開鍵が何十億個世の中にばらまかれていても、人工知能はそれを使って芸術家がもつ秘密鍵を割り出すことはできない。にもかかわらず、芸術家が作品を世の中に送り出すと、大衆は公開鍵を使ってちゃんとそれが名作であることを理解でき、先ほどのジレンマはちゃんとクリアされるのである。

なおそういう公開鍵がどうして人間全員の頭の中に生まれたのかに関しては、以前に2−1で一種の科学的なおとぎ話として述べたことが、推理の一つのヒントを与えるかもしれない。

それは何だったかというと、人間が進化の過程でなぜ音楽などの「美」という感覚を発達させたかの話だった。つまり人類にとって物理や数学などの秘密鍵は、種族をやがて月にまで到達させるほどの重要なものであるため、本来ならば種全体として守り育てていくべきものである。ところがその高度な暗号は文明が未発達な状態ではあまり役に立たず、その持ち主は肉体的な弱者として淘汰されやすい。そこでその大事な暗号をもつ家系を発見して保護するため、それを芸術作品という別のチャンネルから感知できるようにし、全員がその感覚を持つよう進化した、という話である。

この場合公開鍵はまさにそのようにして生まれたわけで、言葉を換えればこの公開鍵は最初からそれ専用のものとして作られ、秘密鍵とは全くの形で進化発展したものだ、ということになる。

しかしこれに関しては別の考え方も成り立ちうる。つまり凡庸な作曲家や一般の人間でも、確かに精度は極端に悪いものの、基本的には芸術家の秘密鍵と同じものを一応は頭の中に持っているはずである。そのためこれらの細部を捨てて大まかな外形だけを抽出すれば、その最大公約数的部分は多くの人間で共通しており、これ自体が低周波の公開鍵になる、という考え方も成り立たなくはないからである。

しかし先ほどのような解釈の方が、解読を防ぐためには確実性が高く、その観点からはそちらを採った方がよい。ただ反面この考え方は単純なので柔軟性に乏しいという弱点もあり、そのため両者を何らかの形で組み合わせて、モデルのスペック不足を補ってもよいかもしれない。

もともとこのモデルは基本構造が単純なので、必要に応じて各部をもっと巧妙な形に改良しても基本的な能力は失われない強みがある。そのため読者もむしろ一種のゲームとして、いろいろな改良型バージョンを考えてみると面白いのではないかと思う。


人間の作曲家の価値は最後まで残るか

それはともかく、これによって、今まで人類全体にとっての問題だった「人間の芸術家の尊厳が失われるのではないか」という懸念が、根底から解消される可能性が出てきたわけである。

さらに言うと、もし人間の直観力がそのようなメカニズムだった場合には、単にその秘密暗号の割り出しが物理的に不可能であるだけではなく、もっと深い哲学的なレベルでも、人間の芸術家の意義を保証する結論が導かれてくるのである。

そもそもこの考え方によれば、芸術の価値は単に人間を高揚感に導くだけではなく、その美の奥にある何かが、数学や宇宙の秩序に通じる「神の暗号」につながっている、ということこそが、その究極的な価値だということになっていた(単に高揚感や興奮を得るだけなら、ギャンブルのトーナメント大会や、場合によっては薬物でも十分に代用になるだろう)。

つまりそれは数学・物理や戦略戦術などのいろいろな分野にまたがって、独創的な直観力の源をなす重要な暗号を反映するものであり、人間の芸術家が作る作品には、その片鱗が含まれている可能性があるからこそ、人類はそれを一種別格なものとして尊んできたのである。

ところがその暗号は、基本的に秘密鍵の側に含まれているものであって、それに比べるとアウトプットである作品の側は、むしろそこからの二次的な生成物に過ぎない。FMモデルの話で言えば、オリジナルの細かい高周波の波形パターンの側に真の宝が隠されており、単なる低周波の音声信号の方にはその一部しか含まれておらず、後者がわかるだけでは意味がないのである。

しかし人工知能による作曲というのは、基本的にアウトプットである作品の側をパターン分析してそれを真似たものに過ぎず、どれほどビッグデータを駆使しようとも、所詮は二次生成物である低周波の音声信号パターンの世界の中をうろついているだけで、たとえどこまで表面的に似せたところで、最後まで真の暗号にはたどり着けないのである。

つまりこのモデルに依る限り、人工知能の作る作品は表面的にどれほど似ていようと、最初から別物に過ぎず、人間の作曲家の絶対的な価値や尊厳は、たとえ人工知能が無限に発達した世界でも最後まで守られうる、ということが数学的に保証されうるわけである。

これによって、ついにこのジレンマを抜けられるモデルが一つは作れることになった。そしてとにかく反例を一つだけでも示せればよいということだったため、どうやらわれわれはその決定的な壁を超えることができ、ひいては人間の直観力が人工知能の模倣追撃を退けて、最終的な勝利の可能性を確定することに大きく近づいたことになるわけである。


二つの波形の役割分担

さて今までの話はこの重要な結論を急ぐために、話の細部についてはかなりの部分をはしょって後回しにしてしまった。そこで少し落ち着いたところで、あらためてそうした細部をじっくり推理して補っていこう。

まずこの二つの波形については、先ほどは「オリジナルの固有波形」と「それをほんの僅かに崩した波形」としか述べていなかったが、これはもう少し想像を膨らませると、それぞれの性格や役割分担についてもある程度推理することができる。

そこであらためてそれらについて見ていくと、この場合、オリジナルつまり崩していない方の波形の側が、本当の意味での天与の固有波形パターンである。そしてこれはどちらかといえば冷たく完成された完全な天界の調和を反映したもので、そこには熱い人間の情感などは入っていない。そこでこちらを便宜的にα波形と呼んでおこう。

それに対してもう一方の、ほんの僅かにずれた波形パターンの方は、上のα波形をベースに熱い人間の情感などの影響を入れて崩したもので、こちらはβ波形と呼んでおくことにする。つまり前者は宇宙的な冷たい美だけを反映したものだが、後者には人間的で熱い情念が含まれており、これらを合わせることで真の美というものが生まれてくるというわけである。(なおここで表記の記号としてαβを使ったのは、ABなどの文字は以前の議論で使ってしまったので、それとの混同を避けるためギリシャ文字にしたに過ぎない。そのためいわゆる脳科学の「α波」などの話とは一切関係がないので、注意されたい。)

そしてここで両者を比べると、前者のα波形は恐らく完全に先天的なものだが、後者のβ波形はもともと前者をベースにそれを僅かに崩して生まれるものであるため、恐らく完全に先天的なものというわけではない。

むしろこちらは頭の中で日常的に前者を参照しつつ、人間の立場でそれをどう崩せばよいかの試行錯誤を毎日行うことで、半ば後天的に形成されるものと考える方が自然だろう。そしてここでそのように後者のβ波形を半ば後天的なものだと考えることで、その役割はさらに拡大して推理することができるのである。

例えば作曲家が美しい山の風景を見て楽曲のインスピレーションを得たとしよう。ところがこの場合、前者のα波形の側は、宇宙の普遍的なものを表現する抽象的なものであるため、山の風景などという具体的なものが含まれているとは考えにくい。

それに比べると、半ば後天的に形成されるβ波形の側は、その気になれば山の風景の印象などというかなり具体的なイメージでも、経験や学習によって組み込んでしまえる。つまり天から与えられたα波形が抽象的すぎて使えないとき、それを具体的な事象とつなぐためにβ波形の側が一種のインターフェイスの役割をも担っている、と考えれば、割合に自然に納得がいくのである。

さらにそこから推理を発展させると、こういう場合にはいくつかの分野でβ波形をそれぞれ別個にインターフェイスとして用意することで、共通のα波形を複数の分野で使う、ということも可能である。
             

つまりもともとどの分野であれ、抽象的すぎて使いにくいα波形を具体的な事象で使うには、現実との橋渡しをするβ波形が必要なのだが、これをもう一歩進めて物理や戦略など、異なるいくつかの分野ごとにそれぞれβ波形を1セットづつ別々に用意すればどうか、というわけである。

この場合には中心に優れたα波形が1個あれば、複数の分野でそれが使えるわけで、過去のいわゆる「万能の天才」は、その複数のβ波形を頭の中で用意することができた人間なのではないか、という想像が成り立つのである。


前章までのイメージとの統合

ところで上の話ではα波形、β波形という形で複数のものが考えられているが、一方これまでの議論を振り返ると、そこでは「頭の中にある何個かの固有波形を重ねていく」という形で複数の波形が想定されていた。しかしこれを見ると、どうも両者で互いに少し違う意味で「複数の波形」というイメージが使われている印象があり、混乱してしまった読者もあるかもしれない。

しかしこれらのイメージを矛盾なく一つの絵にまとめるのは難しいことではない。この場合、以前の議論で出てきた固有波形一つ一つが、その気になればいずれもそれぞれα波形とβ波形の二つに分解できる、という形に話を多少手直しするだけでよい。

          

そして特に必要がない場合には、別にこれらはαβに分解せず、今までどおりの固有波形1個として考えていてよいというわけである。

なおこの場合にはαβに関しては、とにかくそのように二つに分解できさえすればよいので、必ずしも「波形パターン」というイメージにこだわる必要はなく、もっと抽象的なものを考えても差し替えない。

とにかくそういう場合、それらを使って作られるアウトプット=作品の情報量が、秘密鍵の情報量よりも何桁が小さい、という条件さえ満足されていればよいのであり、その際には先ほどの「α波形・β波形」という語句は「α暗号・β暗号」などという呼び方に変えても良いだろう。


「ずらして重ねる」ことのより簡単なイメージと「喜劇」

ところでそのように「波形」というイメージにこだわる必要がないというなら、あるいは文系読者の中には、物理の話を使った説明ではわかりにくく、そのため先ほどの「二つを僅かにずらして重ねると作品ができる」ということに関して、多少質を落としても良いからもっと簡単な文系的センスでも理解できるようなイメージが欲しい、と思われた方もあったかもしれない。

そこで例えばある著述家が、理想社会と現実社会の狭間の中で、どうすれば社会を良くすることができるかの手段を著作にまとめて、それを「作品」にするという話を考えてみよう。

そしてこの著者は、他の人にはない才能として、頭の中に理想社会の姿のイメージを天与のαパターンとして持っていたとする。ところが現実の社会は当然ながら理想社会とは違っており、これは日常的に直観力で社会を認識するためのツールとしては、直接は使いにくい。

そのためこの人は頭の中でαパターンをベースに変形させて、現実社会の姿に似せた形のものを作ってそれをβパターンとし、日常的に社会を認識する際にはむしろこちらのβパターンをメインに使っているとするのである。

このβは、決して現実社会をそのまま写し取ったものではなく、あくまでもオリジナルのαパターンをぎりぎりまで変形させて現実社会の姿に似せたもので、外から写実的に作ったものとは別物である。またそれを作る際には頭の中で抽象的な変形を試行錯誤的に何度も繰り返して行うため、どこをどのぐらい変形させたかは本人自身も覚えていないし、周囲からも全くわからない。

しかし両者のずれの部分には、「現実が理想状態からどうずれているか」の情報が集中的に含まれているはずである。そのため何か社会を良くする方法を見出したいと思った時には、頭の奥のαを呼び出してβと照合し、差の部分を抽出すれば、現状のどこをどう変えれば良いかが浮かび上がってくることを期待してよいはずである。

つまりそうやって生まれるものがこの場合の「作品」であり、こう考えれば、二つの僅かに異なる波形パターンを頭の中で重ねることで作品が産み出される、ということを一応イメージでき、以前の話がわかりにくかった文系読者は、そのような形で理解しておくと良いかもしれない。

もっとも読者の中には、そういうことなら最初からそういう形で説明してくれれば良いではないか、と言う方もあるかもしれないが、根底に物理的なモデルが存在していることの強みは圧倒的で、それが常識的にちゃんと成立している限り、論理的にどう反論されても、結局はそれを切り抜ける方法がほぼ必ず見つかるものである(というよりそもそも最初にヒントとして何らかの物理的なモデルがない限り、こういうことは着想すること自体が現実には無理なのである)。


またこれとは別の話だが、もう一つ想像を膨らませて、次のようなことを考えても面白い。それは、このβ暗号を作る際の「崩し」の部分だけを独立させると、実はそれは人間の笑いのメカニズムなどと結びついているのではあるまいか、ということである。

もう少し詳しく述べよう。まず芸術家の場合には頭の中に日常世界より高いレベルのα暗号があって、それを崩すことで現実世界に引き降ろすためのβ暗号が後天的に作られる。しかしこの「崩し」の技術の中には、特別なα暗号がベースになければ作れないような高度なものばかりでなく、どの場合でも定番的に使われるような、比較的初歩的で共通性の高いものも含まれているかもしれない。その場合後者だけを集めれば、α暗号とは無関係に共通で使える、一種の独立した廉価版の技術とすることも十分可能である。

そこで、そのように最低限の「崩しの技術」を最大公約数的にまとめたものを、公開鍵と同様にやはり大衆全員が持っていると考えてはどうだろう。ただしこれを、今までのように日常レベルより高いところにあるα暗号を崩すために使うのではなく、むしろ日常レベルの現実世界を崩して、さらに下げることに使うと考えるのである。

つまりこういう崩しの技術だけあれば、たとえα暗号がなくても、同じ落差を確保することで一種の「作品」を、今より下の方に作れる理屈になり、そこで「笑い」が生まれるというわけである(実はこれは昔から悲劇と喜劇の違いに関して言われていることに似ており、一般に喜劇の笑いというものは、自分より低いレベルにあるものを眺めることで生まれると言われている)。

これはα暗号とはつながっていないので、真の暗号をたどることなどにはほとんど使えない。しかし迅速巧妙にα暗号を崩すための技術としては有用で、これを備えているとβ暗号を素早く作ることに役立つことになる。その有用性は昔からユーモアや笑いの効用として言われていることとも一致し、人類はそういう用途でこの感覚を発達させたのではないかというわけである。

これはあくまでも余談なのでここでは深入りはしないが、後に述べるβ暗号の性質と照らし合わせると多くの点で興味深い共通点が見られ、読者もいろいろ考えてみると面白いだろう。


もう一方の方面からの暗号攻略は防げるか

さて話を戻すと、とにかくこの件に関しては公開鍵の存在が最大の難題だったが、それは一応クリアできたことになる。そしてこのようなα暗号とβ暗号の組み合わせという考え方をあらためて眺めてみると、それは広く一般的に解読を防ぐための有効なメカニズムたりうることがわかる。特にこれは「公開鍵は特に存在しないが、解読のために用意できるデータの量は事実上無限に集められる」という場合に有効なので、参考までに以下に見ておこう。

この場合に重要になるのは、先ほどの「α暗号は先天的だがβ暗号の部分は後天的に作られる」という話であり、これをもう一歩進めることで、この暗号全体をさらに解読困難なものとすることができるのである。

この場合、βの部分が後天的であるということは、言葉を換えればこれは学習効果によって次々に変化してしまうものだということである。例えば作曲の場合なども、人間は何か一つ新しい名演奏を聞いてしまうと、耳が肥えてしまって、もっと進んだものでないと感動しないようになってしまうが、要するにこのβは一回使うごとに次々に別の形に変化してしまうのである。

ここで読者は、第一部で次のような話があったことを覚えておられるだろうか。それは、ブラックボックスの中身を外部データから特定する話で、もしその中身が1回ごとに変化してしまうと、たとえ外部データが無限個あってもその特定ができなくなってしまう、という話である。

読者はその話の中身は忘れていてもよいが、一応復習しておくと、これは特に、ブラックボックスの中身が複数の要素で構成されている場合に起こることである。というよりむしろそういうことの方が一般的で、こういう場合にはブラックボックスは行列=作用マトリックスで表現されることになる。

つまり全体の構図は図のように、行列(作用マトリックス)の格好のブラックボックスに@をインプットすると、アウトプットとしてAが得られるという格好になる。

そしてこの時には人間がデータとして直接入手できるのは@とAのペアで、それをいろいろ状況を変えて何組か用意し、それを手掛かりにブラックボックスである行列の中身を特定していくわけである。
            

ところがこの場合に重要なのは、@やAのペアが一組だけでは行列の中身を特定できないということである。例えば行列が5行5列だったならば、行列の成分は25個あるので、その25個の成分を全部特定するためには、@やAのペアが最低でも5組なければ情報が量的に足りないことは、常識で考えてもわかる。

ところがここでもし行列の中身が1回ごとに次々に変化して別物になっていくとすればどうだろう。つまり@を1回インプットしてAのアウトプットを得てしまうと、ちょうど曲を1回聴くと耳が肥えてしまって反応が別物になってしまうのに似て、ブラックボックス(行列)の中身が別物に変化してしまうとするのである。

こういう場合、もう一度別の@をインプットして2回目のデータ収集を行っても、そのデータは変化後の新しいブラックボックスのためのデータとなってしまっている。つまりこの方法ではブラックボックスが1回ごとに変化するため、同じブラックボックスのための5組のデータペアを用意することが最初から不可能で、行列内容の特定は原理的にできなくなってしまうのである。

(注・なおこの場合、αβが行列ではなく、いずれも一個の成分だけから成る量だった場合には、そうしたことは起こらず原理的に特定は可能である。しかし常識的に考えると大抵の場合にはそれらは複雑な構造をもっていて、行列や作用マトリックスでないと表現できないのが普通である。むしろ理系の人の方がしばしば無意識のうちにそういう非現実的な仮定を行って「特定は可能」と錯覚していることが多いので、注意されたい。)

それはともかくこうしてみると、このようなα暗号とβ暗号のコンビネーションは、人工知能による解読を防ぐためには非常に強力なメカニズムであることがわかる。つまり天与の先天的なα暗号の側はその複雑さによってすぐには特定できないが、一方半ば後天的なβ暗号の側は1回ごとに内容が変わってしまうので、外部データをいくら用意してもその特定はできないのである。
                

(ただしこの場合、βの変化が個人レベルではなく主として社会レベルの世相やニュースなどの影響で起こり、社会全体で全員のβ部分が一斉に同じように変化する、という場合だと、かなり多くのデータを同じ条件で集められるため、状況次第では特定は可能である。特に何らかの公開鍵が存在していて、全員の公開鍵がそういう格好になったりしているとその危険があるが、そういう場合でも先ほどのメカニズムのように、作曲家の秘密鍵と聴衆の公開鍵の精度に非常に大きな差があれば一応安全である。そのため双方のメカニズムで弱点をカバーし合うのが望ましい。)


「人間の努力」が意義をもつモデル

そしてこのように直観力をαβの組み合わせで考える方法論は、結果的に別の重要な問いにも肯定的な答えを与えることになる。それは「人工知能が無限に発達した世界でも『人間の努力』というものはなおも価値を持つことができるか」という重大な問いである。

この懸念もやはり世の中で密かに囁かれていたと思うのだが、将来の人工知能があらゆることを模倣できる世界では、芸術家が尊厳を失うばかりでなく、人間の努力というもの全体がいずれ意義を失うのではないかという懸念を、現在多くの人々が密かに抱いていると思われる。

それというのも下手に人間側が努力で自身の能力を向上させられる方法が存在していると、その方法論を人工知能に数万倍の規模でコピーされて、あっという間に追い抜かれてしまう恐れがあるからである。そのため人間側がそれを避けようと思えば、むしろそうした努力の余地そのものを最初から塞いでおかねばならない。

実はこれは今までのわれわれの直観力モデルにも言えることで、そこでは直観力に基づく人間の能力は先天的なもので百%決まってしまっているので、人間が努力でそれを向上させることは基本的にできない、ということになっていた。つまり直観力という城壁を人工知能がよじ登ってくることを避けるには、人間が努力で上ってこられるようなハシゴも最初から全て撤去しておくしかなかったわけである。

しかし「人間の一切の努力はいずれにせよ無駄」というメッセージが送られてしまうことは、社会にとってはやはり望ましいことではない。つまり人間側の理想としては、確かに直観力が天与のものとして大部分が決まってしまうことは基本線として認めるとしても、ある程度の努力でそれを補うことは可能で、しかもその努力は人工知能では真似ができない、というビジョンが何か欲しいのである。

しかし今まではそんな虫の良い要求は常識的に無理と考えられ、それを可能にするようなビジョンも(少なくとも情緒論でないちゃんとしたものは)ほとんど存在していなかった。ところが意外にも上のモデルを使うと、それがある程度可能になるのである。

先ほどわれわれは、β暗号が半ば後天的に作られることから、β暗号は抽象的なα暗号を目の前の具体的な問題に適合させるためのインターフェイス的な役割も果たしている、と推理した。

特に数学や物理の場合には、これがなければそもそも目の前の式が何を意味するのかがわからないことになり、かなりの努力を払ってこれを整える必要がある。それは言葉を換えれば、天与のαの部分がいくら優れていても後天的なβの部分がずさんなものでは駄目ということである。

そのため場合によっては、前者のα暗号の部分に関する天与の才では遜色があっても、後者のβ暗号の部分を努力で優れたものにすることによって、結果的に総合力では上回る、ということもある程度なら可能だということになる。

そしてここで重要なのは、β暗号はあくまでもオリジナルのα暗号を変形したり崩したりして派生的に作られるものであるため、外部で完全にゼロから作り上げることはできないということである。つまりもともとα暗号に関しても頭の中にそれなりのレベルのものを持っている者でないと、β暗号を向上させること自体ができないことになる。

しかしそのことがかえって人工知能による模倣を困難にしており、人工知能はそういう天与のオリジナルパターンをもっていないため、その努力は人工知能では真似できないのである。

つまりこのβ暗号の部分はある程度まで人間の努力で向上させる余地があるが、それでいて人工知能がそれを真似ることはできないことになる。そのため全般的に見ると「人間の直観力には、努力によってある程度向上させられるにもかかわらず、人工知能ではそれを模倣追撃できないという部分が存在し、それゆえたとえ人工知能が無限に発達した世界でも、人間の努力の価値は最後までゼロにはならない」という哲学的に重要な結論が得られるわけである。


世の中のどのぐらいの重要問題がこの暗号をもっているのか

さて公開鍵などの問題があまりに大きかったために、冒頭で少し述べたこと、つまり「この話を数学の『非線形問題』の話とつなげて大きな視点から眺めるといろいろ重要なことがわかる」という話がすっかり後回しになってしまった。そこでそれについて簡単に述べておこう。

まずその一つは、この世界に存在する問題を、解けない「非線形問題」と解ける「線型問題」に分けた時、後者のような解ける問題は一握りに過ぎず、圧倒的多数が前者のような「非線形問題」だということである。そして前者は、われわれの定義からする「暗号」を持っていることになり、実はわれわれの身の回りにある様々な問題は、むしろそちらが普通なのである。

このことはわれわれに次のことを教えてくれる。それは将来の真性シンギュラリティの現場でわれわれが遭遇する問題の中でも、その真価を問われるような重要な問題は、基本的にこのような暗号をもつものである可能性が高いということである。

そしてもう一つ非線形問題が教えることは、もしこの暗号を、あらゆるパターンを虱潰しに書き出す物量作戦で演繹的に割り出そうとした場合、そのパターン数や手間は最終的には「数えられない=非可算無限回」になってしまうため、完全には不可能だということである。

そのためにこの暗号を解読するには、現実のデータを集めて帰納的に割り出していく方法をとるしかないことになり、それゆえにこそ、上での割り出しの議論が重要だったのである。

実はわれわれのこれまでの議論は、これらの事実を前提としていたのであり、もしこれらの話がない場合、せっかく上で得られた結論も、それがメインの舞台で本当に重要な役割を果たせるか、それともごく限られた例外的ケースでしか使えないものなのかは何とも言えなかった。

しかしこのように非線形問題の話と結びつけることで、上の結論が中心的な意義をもつ重要なものであることが示され、その暗号を解読できない可能性を示すことが、人間側が文明レベルで人工知能側の追撃を退けられるという結論につながっていたわけである。


オイラーらの信念

ではもう少しこの非線形問題についてもう少し眺めてみよう。人類は過去にこのような難問を解こうと何百年も努力を重ねたのだが、ついにほとんどそれを解くことができなかった。

しかしそれでもオイラーなどをはじめとして、科学者たちのほとんどは、それについての一つの信念や信仰をもっていた。それは非線形問題を中心として、この宇宙のいろいろな問題の中でも、特に重要な意義をもつものだけをピックアップして集めてみると、それらがどれも共通して一つの大きな暗号に支配されており、それら全体に対する一種のマスターキーのような巨大な暗号が存在しているのではないか、ということである。

確かに一般のほとんどの問題ではその暗号はランダムなものなのだが、この宇宙の成り立ちそのものに関わるような重要な問題に限っては、そういう大きなマスターキー的なものが存在しており、それはひいては「なぜこの宇宙に秩序が存在しているのか」という話にもつながってくるというわけである。

ただし何しろそれは非可算無限個のメカニズムの領域に片足を突っ込んでいる以上、もしそこに何らかの規則性があったとしても、それは今まで人類が知っていたものとは概念からして根本的に異なるものだと考えねばなるまい。実際その暗号はそれを扱う方法論からして不明なのだが、それでも何らかの形でそこに存在するのではないかというわけである。

この考え方は、源流をたどれば最後はギリシャの基本哲学に行きつくが、これはその後の科学者たちの間でも密かに信じられてきた。例えば生命やDNAの複雑な秩序がどうやって生まれたのかも、そうした大きな共通メカニズムに支配されているのではないか、というのは多くの科学者が密かに考えてきたことで、だとすれば、それらの背後にもこの未知の暗号が存在していることになるだろう。

しかし現実にはそれは発見できなかったため、人類はやむなくそうした暗号部分をもたない、もっと簡単な問題(単純な円軌道のようなもの)だけを扱うことに専念してきたのだが、それでも20世紀のテクノロジーの驚異をもたらすには十分なものだった。

そのためもしその暗号が攻略できたなら、例えば音楽や芸術がどうやって作られるのか、また場合によっては生命やDNAの複雑精巧な塩基配列がどうやって生まれたのかに至るまで、この宇宙の大事な問題のほとんどをその暗号によって一挙に解明できるかもしれない。

つまりその非線形問題の暗号は「神の暗号」とでも呼ぶべきもので、それを発見することは、数学の究極のゴールと言っても良く、これまでオイラー以外にも多くの数学者・物理学者がそれを見つけ出すことに生涯を捧げてきた、というより極論すれば、ほぼ全員がそうだったと言っても過言ではないのである。

(ただし数学の世界ではそうした未知の規則性を「暗号」と呼ぶことはあまり行われない。筆者自身もこれまでこの言葉はあまり使ってこなかったが、本書のテーマに限ってはむしろ適切なので、あえてこれを「暗号」と呼んでいるわけである。)

またこの科学者たちの信念は「そんな『非可算無限』の世界に接点をもつような複雑な暗号がどうして人間の頭の中に生まれ得たのか」という禅問答のような問いにも、一定の示唆を与えるかもしれない。

実はもともとDNAの話でも、そんな絶妙で希少な塩基配列パターンがたかだか数億年の短い進化の時間内で、本当にランダムな試行錯誤だけで生まれ得たのかはしばしば疑問符がつけられてきた。実際それに関しては万人を納得させるだけの結論が得られているとは言い難く、数学的に突き詰めると最終的に破綻する可能性も囁かれ続けている。しかしだからといって逆方向に話を突き詰めると、今度は人格的な神様の存在を想定するところまで行き着きかねない。

ところがここで先ほどの科学者たちの信仰、つまり「この宇宙の重要な現象の多くが共通した非線形問題の『神の暗号』に支配されており、DNAの発生などもそれによる」という話を要請すれば、双方の形成の過程で「神の暗号」が何らかの形で同時に関与した、という解釈が成り立つ。

実を言うとこれらの議論は科学的には「臭いものに蓋をしている」状態で、どの立場をとってもどこかに怪しい話を抱え込んでしまい、この「神の暗号」の話も例外ではあり得ないのだが、それでも消去法で行けば存外これが一番「科学的」かもしれない。

つまりわれわれは人間の頭脳の中にそうした優秀な固有パターンが生まれることを「優れた形質の獲得」と考えて、DNAで可能だったならこちらでも不可能ではない、というスタンスで、その議論にコバンザメ的に乗っかってしまえばよい。(何といってもDNAは現物が厳然として存在してしまっているのである)。

ただしもしこの暗号が頭の中に存在するとしても、恐らくそれはDNAの暗号などとは概念そのものからして全く違ったもので、われわれの常識では想像できないような形で書き込まれていると考えるべきだろう。そもそもこの「神の暗号」自体がそうなのだから、残念ながらその詳細は想像できない。

確かにそのように、数学や音楽を一緒にカバーするマスターキーのような暗号が存在するということには、いまだに十分な証拠はなく、その意味では単なる科学者たちの信仰に過ぎない。ただ一つだけ言えるのは、過去の科学の世界で最も優れた独創的成果の大多数が、むしろこれを信じていた人間によってなされていたということである。

それは裏を返せば、恐らく彼らはそういう発見を行った時の体験を通じて、そのことを確信するようになったのではないかと想像されるのであり、そうだとすればその体験を持たない者がいくら外から否定の理屈を並べ立てても、彼らにはむしろそちらの方が「非科学的な話」に見えていたろう。そのようにどちらが「非科学的」かは結構相対的な話であるため、本書ではあえて彼らの側の見解を採ってみたわけである。


参考・非線形問題と暗号

こうしてみると、音楽暗号と数学・物理の(特に非線形問題の)暗号がつながっているという想定は、確かに一度は公開鍵からの一斉解読というピンチを招いたものの、ひとたびそれがクリアされれば想像以上に大きな効果をもたらして、人工知能の追撃を退けることに大きく寄与することがわかる。この結論を受け入れていただけた読者は、もうここで「まとめ」に進んでいただいて差し支えない。

ただ、理系の読者の中には、数学部分に関してもう少し説明が欲しい、という方もあるかもしれないので、そういう読者のために以下に参考としてそれを少し述べておこう。


この話で一番重要なのは、2−2でも問題となっていた堂々巡りのメカニズムが、非線形問題が解けない理由と密接に結びついているということである。

ここで次のような問題を考えよう。まず互いにライバル関係にある3つの生物種があって、それらが成長・繁栄していく過程を考える。これらはいずれも成長の過程でその繁栄レベルがある値に達すると、次の図のように、一種のイノベーションを起こすようにして成長スピードが一段上の値になり、成長過程でそういうイノベーション点が何度か訪れるとしよう。

   

これはもし生物種が1種類だけで、他のライバル種の影響を考慮する必要がない場合には、これだけでグラフの格好は定まってしまう。例えばこの生物種(それをX種としよう)の場合、イノベーションは種の成長・繁栄レベルが図の縦軸のそれぞれx、x、xに達した時点で起こるとする。この場合、各イノベーション点の間でグラフがどう上昇するかは、単純な直線あるいは非常に単調な曲線で、それらの傾きもわかっているため、それを順につなげていけばグラフの格好は描けるし、それが何日目に起こるかのaaaの値も、グラフを縦横にたどれば知ることができるはずである。

そのため例えば「50日後の時点でこの種の成長・繁栄はいくらか」と問われても、それはグラフから簡単に求めることができるだろう。これは他のY種やZ種でも同じことで、そこでもbb、などのイノベーション点で同じようなことが起こるため、やはりそれらをつなげていけば各個にグラフを簡単に描けてしまう。ところがこれらのライバル種同士が互いに影響しているとなると、そうはいかなくなるのである。

この場合、もし他のライバル種がこちらより一足先にイノベーションを引き起こして、その成長速度を上げてしまうと、資源などを先に占有されて、そのあおりを食う形でこちらの成長速度は鈍化してしまうとしよう。無論それはもしこちらが相手より一足早ければ、相手の成長を鈍化させて衰亡に追い込めるということでもある。

要するにこの場合には、どちらが先にイノベーションを多く起こせるかで結果が大きく異なるわけで、そのため先ほどのように「50日後の時点でのX種の成長・繁栄はいくらか」と問われても、それは簡単には答えることができない。

この場合、まず自分つまりX種が50日目までにどの段階まで成長発展していて、何段階目までのイノベーションを起こしているのかがわかっていないと、当然グラフは描けない。

ところがそれは、もしその時点までにライバル種であるY種などがイノベーションを起こしていると、こちらの成長が遅くなるのでその結果が違ったものになってしまう。そのため「Y種がその時点までに何段階目までのイノベーションを起こしているか」の情報が必要になるのだが、今度はそれは「X種がどのイノベーション段階に達してY種に影響を与えているか」という情報がないとわからない。つまり話が完全に堂々巡りに陥ってしまうわけである。

        

ではこういう場合それを迅速に求めるにはどういう情報があればよいのだろうか。それは「何日目にどのイノベーションが起こるか」の情報である。例えば50日目までに3種の間でのイノベーションがa1→a2→b1→c1→c2→a3→b2→c3→a4の順で起こる場合、そのb1a3などが何日目に起こるか、ということがわかっていればよいのである。

その場合には、図の右のようにグラフ全体をそれらのイノベーション点で時間的に縦に区切ってしまえばよい。そしてそれぞれの各区間内部では、イノベーションがないことがわかっているので3種のグラフはいずれも単純な上昇線となり、その傾きの値も簡単にわかるので、その線をつなげていけば3枚のグラフをそれぞれ別個に描いていくことができる。

また、具体的な日数の値がわかっておらずとも、せめてイノベーションの起こる順番だけでもわかっていれば、これほどではないにせよ手間はかなり楽になり、条件がよければ、大まかにどの種が栄えるかの見通しをつけられることもある。

一方それがない場合には、堂々巡りにもろに巻き込まれてしまって話はひどく厄介になる。そういう場合、3種全部のグラフを一緒に並べて、それら全てについて現在よりほんの少し先の時点を眺めては、そこでイノベーションが起こるか否かを調べ、その確認を行った後に再びほんの少し先を眺める、ということを馬鹿正直に延々と繰り返さねばならない。これは生物種がせいぜい3種ぐらいなら、それでもまだどうということはないが、これが数千種にもなると大変なことになるだろう(実はそれを極限まで増やすと、その手間は「数えられない=非可算無限」になってしまうのである)。

こうしてみると、先ほどの情報こそがこの問題の鍵を握る「暗号」であることがわかる。また作曲などの場合も同様で、以前の話では多くの曲に「神の宿る細部」が存在していて、その微小な場所をいじると全体に巨視的な変化が起こってしまう、ということになっていた。つまりこういうポイントが、まさに先ほどのイノベーション点だということになり、この暗号がわかっていれば、堂々巡りを起こさず名曲などを作れるわけである。


非線形問題はなぜ解けない

そして実は「非線形問題がなぜ解けないか」というメカニズムも、基本的にはこれを拡張したものなのである。

そもそも非線形問題とは何かというと、詳しい話は省いて思い切り単純に言えば、基本的には「足し算の体系と掛け算の体系が混ざって解けなくなっている問題」のことである。

そんな簡単なことで問題が解けなくなってしまうのか、と読者は意外に思われたかもしれないが、一般に「足し算と掛け算が混ざると解けなくなる」ということ自体は非常に基本的なことで、簡単には次のことからもわかる。

例えば「17」という数字は「2×2×…」という掛け算を4回繰り返して「16」とした後に1を足すと作られる。ところがご承知のようにこの「17」は扱いにくい素数で、両者の演算を混ぜるとそういう数字が生まれてしまうことになる。しかもこの場合、どの時点で足し算を混ぜるかで結果が大きく違ってきて、それがどの時点だったのかを結果からたどるのも難しく、こうした難しさがしばしば暗号にも応用できるのである。

実はこうしたことが起こる背景にはもっと深い理由があり、それは足し算と掛け算が、単位元そのものからして異なる全く別の演算体系だからである。つまり前者の単位元は0、後者の単位元は1であり、水と油のように交じり合わないため、そういう難しさが生じてしまうのである。

そして非線形問題の場合、これがもっと大規模に微小量レベル同士で無数に繰り返される格好になり、足し算でゆっくり増えて行く部分と、掛け算で一足飛びに増えて行く部分が複雑に混ざり合ってしまっているのである。そして先ほどの話と同様に、前者があるレベルに達すると後者が起こる、という格好になっており、そのため両者がどういう順序で起こるかで結果が複雑に分かれてくることになるのである。

要するにこれを見ると、非線形問題が解けないことの理由が、先ほどの堂々巡りのメカニズムと、根本的なところで共通していることがわかるだろう。そのあたりの事情は作用マトリックスで表現するとさらにクリヤーになるが、ここでは詳細は必要ないので結論だけを述べておくと、一般にこういう堂々巡りが生じて簡略化できない問題の場合、答えを求めるためには2つの方法が存在している。それは

・暗号抜きで馬鹿正直に計算(つまり作用マトリックスのn乗計算)を行う

・暗号を割り出すため、その全パターンを虱潰しに書き出して、それを使って答えを求める

の二つの道なのだが、ところがこの場合いずれについても、その手間は基本的に非可算無限個になってしまう。つまりどんなルートから攻略しても、可算無限個の手間で答えを得ることが不可能だということになり、それゆえに非線形問題は解けないのである。

 さらにここでもしそれらの問題が、第1部でも述べた「初期値敏感性」を持っている場合、暗号にほんの僅かでも解読できない部分が残っていると、結果そのものが大きく違ってきてしまう。そしてこれも作用マトリックスを使うと、思いのほか多くの問題がそういうものであることがわかるのである。

つまり先ほどの結論、つまり将来の真性シンギュラリティの現場で遭遇するであろう重要問題は、その多くがそうしたものであるという話は、まさにこの議論の上に成り立っていたのであり、結果的にこの非線形問題の話が議論全体を数学面から支える強力な論理となっているのである。


まとめと結論

ではここまでの結論をまとめておこう

・もし人間の直観力が、頭の中に存在する優れた固有波形パターンが共鳴することで成り立っていた場合、人工知能が直観力を模倣して追撃する際の最大のポイントは、その配列などの「暗号」を解読することにある。それができなければ単に外見的なシステムを模倣しても、人間の凡人を真似るだけで終わってしまうだろう。

・その暗号とは要するに「未知の規則性」のことで、そう定義するならほとんどの解けない難問はそれを持っている。その代表が「非線形問題」だが、過去の多くの数学・物理学者たちは、それらの重要な難問の背後には「マスターキー」のようなものが存在し、それが音楽や数学、さらにもっと複雑な問題などの共通した鍵になっているという信念をもっていた。つまり本来なら難しいはずの問題に人間が直観で正解を出せるのは、頭の中にそれと同じ暗号があるためだということになる。

・そうだとすればそれを解読されない限りは、人間の直観力は人工知能の追撃を振り切れることになるが、われわれはここで重大なジレンマに直面する。それは特に音楽の場合、作曲家だけが頭の中に暗号をもっていても駄目で、聴衆の側も同じ暗号を「公開鍵」として持っていなければならないということである。そして何しろ暗号のデータサンプルが数十億人分ある以上、その解読を防ぐことはまず不可能だと覚悟すべきだろう。

・このジレンマを解決できない限り、原理的に人間の芸術家はいつかは人工知能に追いつかれる理屈になり、その尊厳は守れない。それだけでなく、もしこの暗号が広く人間の直観力の共通基盤をなす重要なものだった場合、そこから暗号全体が解読される恐れがある。

・ところがこの難題は、FM放送や物理の「波束=ウエーブ・パケット」の原理をうまく応用すれば、その解き難いジレンマを解決できるモデルを作ることができる。

FMなどの原理は「ほんの僅かにずれた二つの波を用意してそれらを重ねてやると、全く別の低周波のうなりを発生する」ということに基づくが、その一方で人間の美的感覚に関しては、古くから「真の美は完全に整ったものを僅かにずらして崩した時に生まれる」ということが言われてきた。そこでこれを7番目の状況証拠として採用した場合、もし二つの波をずらすモデルでそれを表現すれば、その際に発生する低周波のうなりが「真の美や作品」だと解釈できる。

・この場合には、その低周波の波形を検出するための固有波形パターンを聴衆全員が持っていれば、それは公開鍵として機能するが、その一方でこの公開鍵からオリジナルの二つの波を割り出すことはできない。つまり「聴衆全員が公開鍵を持っていて名曲か否かの判定はできるが、その公開鍵から芸術家が持っている秘密鍵は割り出せない」というモデルを作れるのである。

・もし人間の直観力がそういうものであった場合、たとえ人工知能がどれほど発達しても、それは一段下の領域にある公開鍵を割り出すまでが限度で、その上にあって人間の芸術家の真の価値の源をなす秘密鍵には迫れない。その際には人間の芸術家の尊厳は最後まで守られるだろう。

・さらに、このような二つの波を重ねるモデルを一般化して、先天的なα暗号と半ば後天的なβ暗号の組み合わせによるモデルを考えると、もっと大きな直観力全体についても、そのマスターキーの解読を阻止できる形のものを考えることができる。その場合にはたとえ人工知能がほとんど無限に発達しても、この暗号は解読できず、人間側はその追撃を振り切れるのである。


ということになる。この意外な結論は、恐らく音楽関係者の方々などにとっても心底知りたいはずの重要な話だと思われるが、何しろこれは発想自体が数学や物理の十分な知識がない限りは生まれて来ようのないものなので、理系出身でない音楽関係者がその結論に自力でたどり着くことは極めて難しいと思われる。そのため、こういう話が存在し得るのだということだけでも、その層などに是非伝わってほしいと願っている。