第2部


さて第1部では、人工知能やコンピューターの能力がたとえ無限に向上しても、問題の性質によっては原理的な壁に突き当たって最後までそれを超えられなくなる、ということが突き止められた。

それによって、無敵に見えた人工知能の攻勢といえども一応どこかで限界点に達することがわかったが、無論話がここで終わったのでは大して意味がない。つまり人工知能がその限界点に達した時には、人間の頭脳の側はすでにその遥か以前の段階でお手上げになっていた、というのでは話にならないのである。

そのため第2部では人間の天才の直観力が、人工知能が壁に突き当たった時にもそれを上回る力を発揮して、その壁を超えられる可能性を有している、ということを、数学的にきちんと示すことを行ってみたい。つまり第1部が人工知能の攻勢の限界点を見極める防御の話だったとすれば、第2部はいわば人間側がそこから反転攻勢に出る話だと言える。

そのためこの第2部ではまず、いくつかの状況証拠を基に、人間の直観力のメカニズムをある程度まで推理して、それに最も近い数学がどこかにないかを探す、というアプローチをとることにする。

本稿の場合、第1部からのルールとして、人工知能の発達が無限に達した状態を考えており、当然この第2部でも人間の直観力はそういう相手と対決することを想定する必要があるが、通常の文系的な議論ではそんな話は無理である。

しかしこの場合、「人間の直観力に最も似た数学的メカニズム」がもし存在していれば、その数学的な極限を考えることで、そのように無限に発達した人工知能と人間の天才的直観力の対決という、本来なら不可能に近い議論にもきちんとした答えを出すことが可能になる。

まあここまで議論の駒を進めるだけでも従来にないような話であるが、ここではもう一段議論のハードルを上げて、さらに難しい疑問にも答えている。それは、もし仮にそのように人間の直観力のメカニズムがある程度明らかになったとすると、今度は人工知能の側がさらにそれを模倣して追撃してくることを考えねばならないのではないか、ということである。

そのためこの第2部では、人間側がその追撃を振り切れるかどうか、ということの検証も視野に入れており、そこまで考えてこそ、人間側が最終的に人工知能に勝ちうることがはじめて示されるのである。さらに本稿では、将来の人工知能の発展として、量子コンピューターが本格的に登場した場合までも視野に入れ、人間の天才的直観力が最終的にそれに勝てるのか、ということまでも議論している。

しかしそうしたことまで考慮するとなると、ここでの議論自体が奇妙なルールを抱え込むことにならざるを得ない。それは他でもない、もし仮にこの議論で人間の直観力のメカニズムを完全に解明してしまったならば、皮肉にもその成果を人工知能側が取り込んで進化を遂げ、結果的にこの議論自体が人間側を追い込んでしまう可能性が生まれてしまう、ということである。

そのためそのメカニズムを百%完全に解明しては駄目だということになるが、その一方で、人工知能と直観力の極限での最終的な対決に黒白をつけられる程度には問題の本質を明らかにできる必要がある。

これを両立させるというのは、本来不可能に近いと言えるのだが、それでもこの無理を可能にするには、議論そのものに前代未聞のスペックが要求されることになり、そこで一応その特殊なルールを決めておこう。

この場合、人間の直観力のメカニズムを示す際には、状況証拠を示すだけで十分で、物的証拠を揃えた完全な議論である必要はない、ということにする。そしてその状況証拠が正しいとしてひとまずモデルを組み、そのモデルの範囲内で数学的に導かれる結論をもって、この問いに対する答えとすることができる、というルールで議論を行うことをご了承されたい。(つまり「物的証拠がないから非科学的だ」という批判は、この議論の性格上は意味をなさないわけである。)

そして以下は4つに分かれ、最初の2−1で、まず人間の直観力のメカニズムがどんなものかを、いくつかの状況証拠に基づいて推理し、それを大まかにモデル化する。そして次の2−2では、人間の直観力がもしそういうものであった場合には、人工知能との対決でどちらが勝つかを数学的な立場から解析する。

そして次の2−3で、もし人工知能がその結論自体を取り込む形で、さらにそのモデルを模倣た形で進化を遂げ、そこから新たな追撃を行ってきたとき、人間側はそれを振り切れることができるのかについて考察する。さらに最後の2−4で、人工知能が量子コンピューターという新たな装いで能力をレベルアップさせてきた時に、人間側がその攻勢に耐えられるかどうかを眺める。

従来も、2−1のレベルつまり人間の直観力のメカニズムを推理するあたりまでなら、似たような議論はたくさんあったと思われるが、2−2から先までを視野に入れた議論というものは、世界全体を見ても恐らくほとんど存在せず、その意味味で、以下の議論は第1部をさらに上回る形で、読者が見たことのないものになると思われる。


2−1・人間の直観力はどのようなメカニズムに基づいているのか


人間の直観力にどう切り込むか

ではこの2−1では、人間の直観力のメカニズムについて早速見ていきたいが、そもそも「人間の直観力」というものを、一体どのように捉えていったら良いのだろうか。

今までは人間の頭脳の働きにアプローチする際には、ニューラル・ネットワークの考え方なども含めて、どれもが一つの共通した基本思想の上に立っていたように思う。つまり人間の頭脳といえども根本的にはコンピューターと同様に、何らかの形で生体的に作られた論理回路とメモリーによって成り立っており、その論理回路が学習効果によって情報処理能力を向上させていく、ということである。

確かに人間の思考が論理的能力だけで成り立っていると考えるならば、そうしたモデルでもそれなりに説明はできたが、しかし「直観力」という部分となると、どうもそれだけでは根本的に説明ができない部分が多い。そのためここでは全く別のビジョンでアプローチを行うことが必要であると考える。


基本となるいくつかの状況証拠

それでは人間の直観力に関して、そのメカニズムの性質を示唆しているようにみられる一般的にみられる重要ポイントをいくつかピックアップしたい。


状況証拠1・「若い人工知能の能力<年長の人工知能の能力」のルールが通用しない

まず人工知能に関しては、それが次のような性質をもつことは、誰の目にも明らかである。それは「人工知能の能力は学習時間を増やすほど向上し、そのため一般に長く学習を行った『年長・高齢』の人工知能の能力は、若い人工知能より全ての点で必ず勝り、『発想力』もその例外ではない」という原則が存在することである。

それは当然の理屈であり、言葉を換えれば「人工知能の発想力は、若い時期に突然開花することはない」とも言える。つまり若い人工知能は他の「高齢」の人工知能の経験データをまるごとコピーして移植しない限り、高齢の熟練した人工知能に勝る能力を示すことはないわけである。

ところがこの観点から人間の科学・芸術の天才的発想力を眺めると、この理屈が全く当てはまらないことがわかる。最たる例がモーツアルトで、彼は僅か5歳で最初のピアノ曲を作曲しており、その作品のレベルは大人のそれと比べても全く遜色ないものである。実際にそれは現在でも演奏会の演目にできるもので、彼の後年の作品と聞き比べても、素人にはそれほど違いがわからないほど、最初から完成度が高かったのである。

科学や他の芸術ではさすがにそこまでは行かないが、しかし科学の場合も、その人の最も重要な業績は20代に着想が得られていることが多い。また文学では多くの作家の場合、その処女作が最高で、その後自分の処女作を超えることがなかなかできないとも評される。

こういうことは、人間の才能については広くみられることで、むしろそれを否定する事例の方が稀なほどである。それに対して人工知能の場合、他の「高齢・ベテラン」の人工知能からメモリーをまるごとコピーして最初からインプットしておかない限り、こうしたことは常識から考えて起こりえないことである。

この差異の存在は、実は一見する以上に重大なことで、それはこれがメカニズムの根本に根ざす問題だからである。つまり人間の直観力が通常の「合理的な」考え方に基づいて「学習効果を積み重ねて論理回路やメモリー内容を次々に改良することで能力を伸ばしていく」というメカニズムをとっている場合、原理的にこういうことは起こらない。

つまりそういう考え方によるモデルである限りは、結局どこかでこの矛盾を抱え込むことになり、そのため人間の直観力に関しては、この(考えようによっては異常な)性質をクリアできるような、全く別のメカニズムを考えねばならないわけである。


状況証拠2・直観力は全体像を一瞬で捉える

次に人間の直観力に関して言える特徴的なことは、それが「一瞬で全体像を大まかに捉える」という性質をもっていることである。

つまりこれは言葉を換えると、人間の直観力は、必ずしも問題の出発点から順繰りに論理を積み重ねて直線的・演繹的に答えにたどり着く、というメカニズムをとっていない、ということである。

これは音楽の作曲の場合なら比較的当然のこととして納得できることで、恐らくモーツアルトが作曲を行う際には、必ずしもまず1小節目を作曲してその次に2小節目を考え、それを順繰りにつなぎ合わせていく、という方法はとっていない。そうではなくて、ある程度まとまった長さのメロディーを一塊のものとして思い浮かべていたはずであり、極端な場合、彼は最初の一音をイメージした時には、最後の一音も同時に頭の中にあったかもしれない。

そこまで断言できるかどうかはともかく、少なくとも人間の直観力は、最初の一瞬でまず全体像をおぼろげに捉え、その映像をだんだん鮮明化していく要領で細部を整えていく、という方法をとっているように思われる。

つまりまず最初に大まかな曲全体のイメージが頭の中で閃くが、その段階ではまだ細部は定まっておらず、ぼんやりとしか見えていない。そしてそれをもう一度、全体を見ながらもう少し細部がわかるよう焦点を絞っていく、という具合に、全体像ごとだんだん解像度を上げていくわけである。

これは科学や数学の場合についても言えることで、実は過去の天才たちは必ずしも演繹的、論理的に考えて問題の答えにたどり着いたわけではなく、そうした天才的業績の場合、むしろ頭の中で問題が全体像として最初に見えていて、答えが先に存在しているという場合が圧倒的に多い。

これについてはオイラーが「真の数学者とは、e=−1という式の正しさを(証明を経ずに)一目で理解できるものである」ということを言っており、彼は直観力で一瞬にそうしたものの答えを知ることができていた、と想像される。むしろ演繹的な論理思考で厳密な証明を経て答えを出すというのは、本物の天才ではない大秀才の側に多く見られる傾向である。

ただ、それらの業績を後で整理して教科書に載せる段階では、そういう本当の発見の筋道は捨てられて、整然とした一本道の論理としてトリミングされる。そのため教科書を見ると、あたかもその発見者が何か演繹的な思考を整然と積み重ねていって、答えにたどり着いたように見えてしまうのである。

しかし本当はその発見者は、最初に直観的に答えがわかっていて、むしろそれを自分や他人に説明するために「証明」を行っていることが多い。つまり最初に一瞬の直観力で得られた答えはまだ大まかなイメージに過ぎず、細部にはいろいろと不明確な点や思い違いが多い。そのためそれらを洗い出して修正するために、ゴールの位置から問題を振り返って、むしろ自分に説明するように、出発点からゴールまでのルートを言葉や論理でたどってあらためて整備していくのである。

そしてそうやって清書する形で語り直した論理が、世の中に「証明」として公表されるので、それを教わる後世の人間からすると、何かその発見者が凄まじい演繹的な推論能力を持っていたように見えて、どうしてこんなに複雑な論理の筋道を積み重ねて答えを出せるのか、としばしば驚嘆してしまう。しかし実は多くの場合それは答えを先に知っていて、その証明は単にそこへ戻ろうとしているからに過ぎないのであり、逆に言えば答えを先に知っていない限り、そういうことは滅多にできるものではないのである。

それはともかく、人間の直観力の重要な性質として「問題の答えや論理を、出発点から終点までの全体像として一瞬で大まかに捉える」というものがあることは、状況証拠として採用することが十分許されるだろう。


状況証拠3・科学の直観力と芸術的センスの深い関連性

そして次に重要な状況証拠は、数学や科学の能力と芸術的センスの密接な関連性である。例えば数学が音楽と密接に関係しているらしいことは、古くから指摘されており、「優れた数学者の家系をたどると、大抵はその中に音楽家が何人か混じっている」ということは、しばしば言われることである。

またアインシュタインが、自分が導いた式や理論を正しいかどうかを判断する際に、「それが美しいかどうか」でそれを行った、という話も科学の世界では良く知られている。このように一般に物理や数学では、レベルが上がるほど美的・芸術的なセンスとの結びつきが深くなる傾向が見られるのである。

一方逆に芸術系の学校でも、数学との結びつきが言われることがあり、例えば絵の構図では古くから、物の配置をいわゆる「黄金分割」の比率で設定すると最もすっきり見える、ということが言い伝えられている。これは実際に今でも作品に応用されることがあるが、一方数学的にはこの黄金分割は、「フィボナッチ数列」で表現され、美と数学の神秘的な結びつきを示唆するものとして、多くの人々の関心を惹き続けてきた。

もう少し身近なところとしては、飛行機の設計などに関しても「優れた設計による高性能の機体は美しい」ということは、一種の暗黙の常識である。確かに必ずしも逆は真ではなく、美しい機体が必ずしも高性能とは限らないが、例えばジブリの「風立ちぬ」でも、主人公が魚の骨の曲線を美しいと言って、零戦の翼の設計にその感覚が生きていることが示唆される場面があった。

現在では航空機の翼や胴体の曲線は、流体力学に基づいてコンピューターで描かれてしまうが、昔の時代の航空機の翼や胴体の曲線は、そうした設計者の美的・芸術的センスによって描き出されていた、とは良く言われることである。

こうしたことは、確かに科学的には完全に立証されてはいないものの、経験的にはプロの間で広く認められていることであり、そのためここでは一歩踏み込む形で状況証拠の一つとして採用したい。

そして科学や数学だけでなく、軍事における戦略戦術の世界でも、軍事分野の天才と音楽や芸術との結びつきは、特に西欧では顕著だった。例えばナポレオンなども数学だけでなく芸術への関心が深かったが、彼より一世代前の西欧世界を見ると、その時代での最大の戦略的天才であったドイツのフリードリヒ大王などは、さらにその傾向が強かった。

フリードリヒ大王は、自らフルートを演奏するほど音楽が好きで、演奏するに留まらず自ら曲を作曲し、実際に現在でも稀に演奏会で「フリードリヒ大王作曲」ということで演奏されることがあるほどである。

西洋ほどではないが、東洋の歴史でも芸術や音曲に関心の深い天才的戦略戦術家の話は多く、例えば「三国志」でも曹操は詩文に長け、呉の周瑜などは音曲に巧みだったとの伝承がある。

戦略戦術の場合はともかく、特に数学や物理の世界ではこうした多くのエピソードを見るにつけ、筆者としてはあまり深入りしない限り、これは十分に状況証拠として採用しうるものだといって良いと思う。


どういうモデルならこれらの状況証拠に適合しているか

さてここまでの状況証拠だけでも、人間の直観力というものが、通常考えられるような演繹的な演算システムとは、何か全く別のメカニズムによるものであると考える必要がありそうである。

そこで少し唐突だが、これらの条件に最も適合するものとして、次のようなものを考えてみよう。それは、人間の頭の中には、それぞれ一種の固有波形パターンのようなものがいくつかあって、その組み合わせで物事を見ており、そして頭の中で何かが直観的に閃く時というのは、その特定の固有波形パターンが頭の中で「ピーン」と共鳴して立ち上がっているのではないか、ということである。

そして数学の世界を眺めると、実はそれと非常に良く似たものが存在している。それは「フーリエ級数」と呼ばれるもので、もし人間の直観力が上のようなものだったならば、以前から述べているここでの課題、すなわち「人間の直観力のメカニズムに最も近い数学を探す」ということについて、まさにおあつらえ向きのものが存在しているのである。

それは要するにそういう波形パターンを何個も重ねていくことで、あらゆるものを表現してしまおうというメソッドで、その具体的な数学の中身は次の2−2で詳しく述べるが、ここではむしろ物理的な実例の方を見た方が早いだろう。それというのも、こうしたことは実際にある程度見ることができるからである。

ここで、大音量で鳴っているスピーカーの前にバイオリンを置いて、その弦の様子を拡大鏡で眺めることを考えてみよう。その際には十分大きな倍率で眺めると、弦がごく僅かに振動していることが観察できるはずである。

これは各弦が、スピーカーの音の中から自分の固有振動数と同じ音をそれぞれ拾い出して共鳴しているのであり、そのため逆に言えば、もし弦の本数を4本といわずもっと大幅に増やして、全ての音階をカバーできるようにした上で、それぞれの弦がどのぐらいの強さで振動しているかを残らず調べて記録しておけば、後でそれぞれの弦をその強さで振動させて全部を足し合わせることで、スピーカーで鳴っていた元の音を、かなりの程度まで正確に再現できることになる。

この重ね合わせの話は、科学捜査の音声分析でも似たようなことがあり、オッシロスコープのスクリーンに表示された音声の波形が複雑すぎて分析しにくい時に、各周波数ごとの音を別々に抽出してそれを並べてスクリーンに表示し、それらを個別に分析することが良く行われる。

これは逆方向もOKで、そういう各周波数ごとの波形をたくさん用意して全部重ね合わせてやると、オリジナルの複雑な波形を再現できる。それは言葉を換えれば、その複雑な波形は各周波数ごとの単純な波形の重ね合わせで表現できるということである。

要するにこれが、先ほどの直観力に関するイメージに最も近い物理的な仕掛けである。つまりこのように、人間の頭の中にはもともとこの弦のような固有波形パターンが一揃い備えられていて、それらがスピーカーで鳴っている音に共鳴し、その重ね合わせとしていろいろなものを認識している、という解釈が一応成り立ちえるのである。

そしてフーリエ級数というものは、これを数学的に完全な形にして、このメカニズムをそのまま厳密に表現した数学ツールだと思えばよい。つまりこのツールは、先ほどのような基本波形をいくつか用意して、それぞれにいろいろなウエイトをつけて重ね合わせることで、あらゆる波形を表現できるのである。


そして逆にそういう数学的ツールが実際に存在するという事実が、われわれに非常に大事なことを教えてくれる。それはこの世界の神羅万象は、その気になればこのフーリエ級数の形に直して表現することができる、ということである。言葉を換えれば、われわれが認識すべき対象物やその振る舞いは、どんなものでもその気になれば、そのような波形パターンの組み合わせや重ね合わせで表現してしまうことができる、というわけである。

またフーリエ級数の中の定理からもう一つわかることがあり、それは先ほどの話に出てきた、用意しておくべき基本波形のセットは、必ずしも一通りに制限されていて、全ての場合に必ずそのセットを用いなければならない、というわけではない。

こういう場合、それらがセット全体としてある一定の条件をクリアしていれば、別の固有波形パターンのセットを使っても、それに応じた組み合わせ方を工夫することで、やはり今と同じように望みの波形を再現することができる、ということがわかっている。

つまりそれは、先ほどとは別の弦のワンセットを用意しても、同じようにスピーカーの音を再現できるということであり、フーリエ級数の性質は、それが原理的に可能であることを保証しているのである。

しかしこれはわれわれにとって非常に意味の大きいことで、それは人間の頭の中に存在すると想像されるその固有波形パターンのセットは、必ずしも一通りではなく、人によって別々のものであってもよい、ということである。

つまりその頭の中の固有波形パターンは、ある程度の幅で個人差があっても良いというわけで、これをもう一歩進めれば、天才の直観力のメカニズムに対しても一つのビジョンが得られることになる。

ここでもしその固有波形パターンの中に、何か世界や宇宙の本質に関わる重要で貴重なものが存在しているとしよう。そしてその固有波形パターンがあれば、それをベースにして重要な物理・数学現象を一発で把握できたり、素晴らしいメロディーを生み出せたりする、というもので、それを神の秩序と表現する人もあるかもしれないが、普段はそれは複雑な波形の中に埋もれていて容易に抽出できない。

ところが人間の中には、万人に一人の割合で、生まれつき頭の中にその固有波形パターンと同じものを持っている者が存在して、何か世界や宇宙の重要問題を目にした時、頭の中でそれが鋭く共鳴して立ち上がる、と考えればどうだろうか。

つまりそういう人間は、外から宇宙や世界の重要問題の複雑な波形パターンを与えられた時に、頭の中でその特殊な固有波形パターンが鋭くピーンと共鳴して立ち上がり、それによってこの重要な波形パターンを一瞬で効率よく抽出できるのである。

そしてたとえそれ1個だけでは目の前の問題の本質を完全にはカバーできない場合でも、補助的に他の何個かの固有波形パターンと組み合わせて、せいぜいそれらの3個か4個の組み合わせで、かなりの程度正確にそれを再現できるのではないか、というわけである。

それに対して、そうでない一般人の場合、頭の中に一応別の固有波形パターンがあることはあるのだが、それは宇宙の本質からはかけ離れた残念なもので、たとえ先ほどの天才と同じものを目にしても、頭の中でそれが共鳴して鋭く立ち上がるということはないし、それらの残念な固有パターンを何十個も組み合わせても、宇宙の本質からはピントが大きく外れた誤差の多いものしか再現できない、ということになるわけである。

もっともフーリエ級数の原則に照らすと、たとえそれらの残念な波形パターンであっても、頭の中に何百個、何千個も用意してそれを重ね合わせていけば、天才が頭の中で3〜4個の重ね合わせで作ったものと同じものを、一応は作ることができる。

しかし実際にはそういう作業は、答えを最初に知っていて、そこに向かう道を模範解答どおりにたどっていけば確かに合成作業自体はできるが、そうでない場合には、その種の作業は現実にはほとんど無理なのが普通である。

そうでなくても、頭の中ですでに立ち上がっている3〜4個と、外から教えられて用意した数百個を使うというのでは到底比較にならない。ただ無論、そういう残念なパターンでも日常生活で使うには別に問題なく、むしろ営業の外回りで使う際にはむしろ役に立ったりする場合があることは、言うまでもない。


3つの状況証拠との照合

実はこれによってようやく、先ほどの「状況証拠1」に対する一つの答えが得られることになる。つまりモーツァルトが5歳でピアノソナタを作曲できたというのも、彼が生まれつき頭の中にそういう何らかの固有波形パターンのようなものを持っていたからだ、という解釈になるからで、これはそうしたものを生まれつき持っていない人間には、学習や訓練では身に着けることができないのである。

そして上の「フーリエ級数型モデル」は、この状況証拠1にはまさにぴったり適合したものであることがわかる。ただし誤解のないよう言っておくと、一般に数学で使われるフーリエ級数の場合、重ね合わせていく波のパターンは、単純な数学的ルールに従って一律に決められるもので、別にその波形の中に何か特別なものが混じっていることは想定されていない。

その点だけは上のモデルは普通のフーリエ級数とは違っているのだが、逆に言えば「その中に非常に特別な固有パターンが混じっていて、万人に一人、頭の中にそれと同じものを持つ者がいる」というこの仮定こそが、この直観力モデルの最大の肝で、それがこの人工知能の年齢パラドックスを解決しているのである。

そしてまたこのモデルは、状況証拠2の「人間の直観力は全体像を一瞬で大まかに捉える」という性質にも良く適合している。つまりこれは、最初の1回で非常に大まかに全体像を捉え、それをだんだんシャープで正確な像にしていくということになり、これはまさに人間の直観力の性質に極めて良く似ているのである。


ギリシャから発する音楽と数学の関連性

ただ、読者の中には「状況証拠3」の、数学と音楽に関連があるという話については少し唐突感を覚えた方もあるかもしれないので、これについては以下に多少ページを割いておこう。

そもそもギリシャからの流れを汲む音楽については、歴史的にも数学との縁は切っても切れないものがある。実際われわれが用いている音階それ自体が「ピタゴラス音律」を基礎にしている。

一方日本の古い民謡などの場合、その音階は「陽旋法」「陰旋法」などが基礎になっており、現在のいわゆる西洋音楽とは違った体系である。これは日本ばかりではなく、世界の各地にこうしたローカルな音階や音律(いわゆる「ペンタトニック」)があって、それらはいずれも近代化と共に廃れていった。

ではどうしてギリシャ起源の西洋音楽だけが、世界標準として他の民謡の旋法を駆逐していったのかというと、答えは単純で、西洋文化が優れていたというよりは、ピタゴラスの名が示すように、それだけが数学を基礎にしていたからである。

もう少し具体的に言うと、ピタゴラスは音階の基礎づけを数学をベースにして行おうとしたのである。もともと弦楽器などの場合、弦の長さを半分にすると音は1オクターブ上がるという性質をもっている。そして弦の長さは音の振動数と直結しており、そのため要するに一般に音の振動数は、音階を1オクターブ上げると2倍になるのである。

また他にも重要な和音を見てみると、その振動数は整数比(2:3や3:4など)になっており、これを見るならば音階の問題は、数学や幾何の問題として捉えうることがわかる。そのためピタゴラスは、その振動数比をもとに、いわば数学的に音階の基礎づけをしようとしたのである。

こうしたことは他の世界の民謡の場合の「陽旋法」などでは全く考えられもしないことで、これを見ても、なぜギリシャ由来の西洋音楽だけが数学と結びついて進化を遂げ、それゆえ他のローカルな民謡などの音律を駆逐して、世界で唯一の標準となったかがよくわかる。

そしてなぜピタゴラスがそんなことを考えたかの理由には、ギリシャの世界観が大きく影響している。そもそもギリシャの思想には、われわれの物質や生命の世界の一段上位の場所に「イデア」の世界というものがあって、そこには純粋な秩序や調和というものが塊のようになって存在しており、われわれの世界の物事の秩序や芸術の美、そして生命などの全てが、そのイデアの世界から流れ出してきている、という世界観が存在していた。

言葉を換えると、彼らにとってはわれわれが住んでいる物質や生物の世界は、それ自体は単なる石ころや泥のような素材に過ぎず、それ自体は秩序を生み出さない。そしてこれらの原料素材に、上からイデアの世界の秩序や調和が投影されることで、それらが初めて生命力を帯びるのであり、極論すればわれわれの物質的世界は、上のイデアの世界のいわば劣化コピーに過ぎないのである。

そしてわれわれには見えないそのイデアの世界を見るための最も有効な道具が数学や幾何学だ、というのが彼らの共通認識だった(逆に彼らは「実験」という方法論を軽視したが、それは彼らに言わせれば、単なる劣化コピーをいくら調べてもそこからオリジナルの真の姿はわからない、というわけで、それなりに理屈は通っていることになる。)

そう考えると、ピタゴラスが音楽の美に数学的基礎を与えようとした、というのも、何ら不思議なことではない。つまりそのように、音楽の根源が数学と結びついたものだったとするならば、音楽もまたイデアの世界を見るための有効な道具となり、数学や幾何学に次ぐ第2位クラスのものに格上げされるからである。

この思想は後に西欧にも引き継がれたが、ただしその際にキリスト教化に伴って、無論この「イデア」の語句は大半が「神」と言い換えられた。そして音楽が神の世界を垣間見るためのアイテムだという思想も、特にドイツにおいて顕著に受け継がれた。

中でもルターにはその傾向が強く、当時は宗教改革の中で新教と旧教がライバル関係にあって、互いに信者の心を得るべく激しく競争していたが、その際に旧教側がローマの大聖堂などに巨大な壁画や天井画を描いて信者の心を得ようとしたのに対し、ドイツの新教側は教会を讃美歌の合唱に適する形に設計するなど、音楽で信者の心を得ることを狙った。

バッハの作品も、そうやって設計された教会の中で育まれたわけだが、ともあれ西欧の文化史においては、音楽や芸術は単に「人間が見たり聞いたりして楽しければ良いだけのもの」という存在ではなかったのである。

そして教会や宗教とは遠い場所でも、芸術の中の美は、何かこの世界の重要なことを反映する鍵だと思われており、科学の世界でも近代数学や物理学を築いた過去の英雄時代の科学者たちの多くは、そういう考え方をどこかで引き継いでいた。

少なくともわれわれは、過去の科学の偉大な発見の大半が、むしろそれを信じていた人々の頭脳から生み出されたものだったということだけは、あらためて再認識する必要があると思われる。


状況証拠4・頭の中の固有パターンは、様々なものを生み出す柔軟性がある

さて話を戻すと、人間の頭の中にはそのように何か固有波形パターンのようなものが存在しているのではないか、という話になったわけだが、しかしそもそも良く考えると、そのように頭の中に生まれつき何らかの固有パターンをもっている、という話自体は何も人間だけに限らず、多くの生物に見られるものである。

例えば鳥などの場合は、種目ごとにそれぞれ鳴き方が決まっていて、ウグイスやツグミなどは、どこの地方で卵から生まれようと、同じ種目である限り全部が同じ「メロディー」で鳴く。それは恐らく、彼らの頭や体の中にそういう固有パターンが何らかの形で組み込まれているためで、その意味では上の話と本質的に変わりはない。

つまり逆に言えば、生物にとって頭の中にそういう固有パターンのようなものを生まれながらに持っているというのは、ごく当たり前のことであり、人間の頭の中にだけそういうものが存在しない、と考える方が、むしろ不自然なことだとさえ言えなくもない。

そしてそういう他の生物との事例と照合することで、さらに面白い問題が提起されることになる。それは、この頭の中の固有パターンというものが、文字通りテンプレートのように特定の一種類のワンパターンだけに対応したものなのか、それとももっと抽象的に多種多様なものを生み出す能力を備えたものなのか、ということである。

鳥の場合を見ると、それは明らかに前者で、ウグイスやツグミは自身がもつその固有パターンに従って、ただ一通りの決まったメロディーでしか鳴かない。それに対して人間の場合、天才的な作曲家の頭の中にあると思われるその特殊な固有パターンは、無数の全く異なる名曲のメロディーを紡ぎ出す能力をもっている、と推理されるのである。

これは戦略戦術の場合にも言えることで、ナポレオンの事例を振り返ると、彼はおよそ同じ戦術パターンを何度も繰り返し使い回す、ということをほとんど行っていない。つまり彼は頭の中にある(と想像される)その稀有な固有パターンを使って、戦場ごとに千差万別の独創的な戦術パターンを紡ぎ出しており、二度と同じものを繰り返さないのである。

むしろ人間の場合、単なる秀才型の人間が学習によって天才を模倣しようとした場合に、しばしば同じ戦術パターンを繰り返すという症例が現れる。

そしてナポレオンなどの場合、もう一つ面白いことが示唆されており、それはある戦場で独創的な戦法が閃いた時、実はそれは過去の別の戦例にヒントを得たものだ、と述懐しているのだが、彼がヒントにしたその戦例というものが、表面的には全く似ていないものである場合が多いということである。

逆に言うと、士官学校を出ただけの特に才能のない人間に「この状況に似ている戦例を探せ」と言うと、しばしば表面的に一番似ている例を選んでしまう。つまりそういう人間が頭の中で人工的に作ったそのテンプレートは、ウグイスやツグミのように1通りのパターンにしか対応していないタイプのものだということになる。

それに対してナポレオンの場合、その頭の中の固有パターンは、明らかにもっと抽象的な、千差万別のものを生み出せるタイプのものだと推論できるわけである。

そしてナポレオンのその例のように、表面的に全く似ていないものに共通性を見出せる能力は、科学の世界でもそれに似たものは見られ、さらに言えば数学よりも物理の方面において見られることが多い。つまり過去において物理学において偉大な着想が得られたとき、それは全く異なる分野の一見全く似ていないものに、一種の共通性を見出してそれを斬新なモデルに組み上げた、という場合が少なくないのである。

これはナポレオンの「表面的には全く異なる他の戦場での戦例をひらめきのヒントにした」というものと基本的に似ており、これはワンパターンのテンプレートでは不可能なことである。そしてこの場合には、むしろ全く異なる分野を横断して、表面的には全く似ていないパターンの間に共通性を見出す、ということが要求されるのであり、実際に過去のそうした人物は、他の分野においても別の形で独創性を発揮することが多い。

近代に入ってからは、制度的に専門主義の鋳型にはめ込まれてそうした横断的な才能の発揮や育成が妨げられる傾向があったが、物理や数学でもそれ以前の時代では、例えばライプニッツなどは微積分をニュートンと並んで確立した数学と物理の天才だったが、彼は外交戦略の分野でも才能を発揮し、ナポレオンのエジプト遠征のプランも、最初にその戦略の雛形を着想したのはライプニッツだったと言われている。


頭の中の固有パターンの汎用性

それはともかく、この状況証拠は先ほどの話題に当てはめた場合にも、極めて重要なことを示唆していることがわかる。

つまりその頭の中の固有パターンが、1通りだけに対応するワンパターンの単純なテンプレート型なのか、それとも何か宇宙の本質と深く結びついたもっと抽象的なもので、千差万別のパターンを生み出す能力をもっているものなのか、ということが、この問題についても判断を分けるのである。

この場合、それが前者のような単能型の性格が強いほど、各分野ごとに全く別のテンプレートが必要となり、異なる分野をまたいで使うことは難しくなる。つまりそういう場合には、音楽のための作曲家の頭の中のテンプレートと数学者の頭の中のテンプレートは、もしそれが存在したとしても基本的には別のもので、前者は音楽専用、後者は数学専用のものである。

それに対して後者のように多種多様なものを紡ぎ出せる能力が高いほど、異分野間での汎用性も高くなる。つまり戦略戦術の場合のように、もともと一つの分野の中で使った場合でも、全く異なる局面に適用して多種多様なパターンを紡ぎ出す能力をもっているというなら、それをそのままもう少し拡張して、異なる分野との間で使ったとしても基本的には似たようなもので、そこには本質的な違いがあるわけではない。

つまり後者のような性格が強くなるほど、作曲家の頭の中の固有パターンと数学者の固有パターンは、抽象化した深いところで共通の部分を持っている可能性が高くなることになり、その結びつきを想定することの不自然さも弱まっていくわけである。

そして状況証拠としてナポレオンなどの事例を見る限り、人間の頭の中のそれは後者であることが強く示唆されている。こうしてみると、数学と音楽の結びつきという一見唐突な話も、当初思ったほどに不自然ではない感じがしてきたのではないかと思う。


数学者の頭の中の美

ところで「数学や物理の世界が意外に芸術的センスが要求される」という話だが、読者はこの場合に数学者が感じる「美しさ」とは何なのかについて、今一つイメージが湧かなかったかもしれない。そこでそれについて筆者なりに少し補っておこう。

例えばある数学の問題が、出発点では単純な式だったのに、それが式変形の途中でどんどん汚くなって不協和音の塊のようになっていくが、最後の瞬間でその汚い式が一挙にきれいになる、というのは良くあることである。そしてその時に式の中に突然姿を現す見事な調和は、まさに美としか表現のしようのない感覚として、一種のカタルシスを覚えさせるものなのである。

それは音楽の場合も良く似ていて、ここでも最初は単純な和音からスタートしたものが、その後の展開で離れた方向に進み始めて、不協和音のようにあまり美しいものではなくなっていく。しかしそれらが曲の終わりで全て統合されて、最後にきれいな一つの和音として鳴り響いた時、一種のカタルシスをなすのである。

つまりそのカタルシスに至るまでの経路をどういうパターンで導き出せるかについては、数学と音楽で何か共通する部分があり、いずれの分野でも天才的な業績は、頭の中にあるその秘密のテンプレートをいくつか使って行われているというわけである。

こうして振り返ってみると、数学や物理の世界は二つの部分から成っており、一方は完全に合理的で無味乾燥な計算技術の部分だが、もう一方は芸術的・美的センスに基づく部分である。そして前者の人材は単なる秀才として比較的容易に量産できるが、後者の人材は量産の効かない希少な天才だけで、数学や物理は後者の人材を欠いた場合、単なる論理の積み重ねだけでは偉大な発見はできないのである。

そして数学の世界がそういう二つの部分から成っていたと言われると、われわれは実は音楽の世界もそうだったことに気づく。つまり一方の部分は上の数学の話とも共通する「美」の部分だが、もう一方はもっと原始的な情動や興奮に基づくもので、この二つの部分が音楽の世界をなしているということである。

後者の部分はその根源をたどるならば、原始的な狩りの太鼓や戦いの陣太鼓などから始まっているもので、美よりもむしろ戦場や狩猟の興奮と一体化する性質のものである。

そうした陣太鼓がもたらす興奮は、人間だけでなくしばしば馬などの動物も感じ取ることができる、と言われることもあるが、そうしたドラムのビートや、あるいはもう一段進化した形の例として、ラッパーなどに要求される資質を見てみると、それはしばしば政治的アジテーターの資質に似ていると言われる。

むしろこういう領域では、大衆の熱狂やリアルタイムの流行自体を直接敏感に感じ取って、それを増幅するという別種の才能が、純粋なメロディーの美を追求する能力以上に要求されるというのは、恐らく本当のことだろう。

つまり音楽の場合には、原始的な舞踏のように人々の情動や興奮のうねりと一体化する能力が、純然たる「美」のメカニズムとは別にもう一つ要求され、両者が混じったものとして音楽の世界が形成されている、というわけである。

要するに数学と音楽は、それぞれの半分の部分だけが「美」に関する共通部分なのであり、長く後世に残るものほど、その部分の比重が高くなる。しかし特に20世紀後半になると、産業社会と大衆社会はむしろ残りの半分の部分を拡大して、それに特化したものをそれぞれの主役として持ち上げる傾向があった。

つまり産業社会は数学に対して、宇宙の美などよりも製品を量産するのに役立つ計算技術の部分を求め、また大衆社会は音楽に対して、聴衆を単純に興奮させるものを量産することを求めたのであり、実際にその方が金は手っ取り早く儲かったのである。

その結果、数学と音楽の本来の共通部分が衰えることで、社会的に両者の世界が対極的な別人種によって成り立つものと見なされていき、しばしば音楽の世界が、論理が苦手で感性だけで成り立つ人々の王国のように考えられることも稀ではなくなった。

しかし歴史の現実を見ると、そうやって作られたであろう各地の民謡のペンタトニックは、純粋な音楽の王者として世界を制することはできず、むしろピタゴラス的な数学的発想で作られた体系が音楽の世界に君臨して、交響曲などの黄金期を実現させた、という皮肉が存在するのである。逆に言えば、その共通部分がしばしば見失われることが、現代世界を痩せた貧弱なものにすることに一役買っていると言えるのかもしれない。


数学者は石器時代をどう生き残ったか

しかしそうは言っても、読者の中には数学と音楽という二つの別個の大きな世界がつながっているという話は、何やら背後に神秘的な神様のような存在を何か想定してしまうような感じがして、もう少し「合理的」な説明が欲しい、という方もあるかもしれない。

そこで本題からは少し脱線するが、一種の知的ゲームとして、そもそも音楽や美術の美という感覚がどうして人間の中に生まれたのか、という問題について、以下に一つの面白い考え方を述べてみたい。これはまた、ホーキングの共同研究者だったペンローズが語っていた一つの疑問、すなわち「数学者は石器時代には一体何をして生きていたのか?」という話ともリンクしており、それを筆者なりに解釈し直して詳しく述べてみよう。

さて現在の人類は、地球を飛び出して月や他の天体まで届くまでに至っており、そのことだけでも、地球上で最強の種族であることに疑いの余地はない。そして人類がどういう能力を持っていたために月まで行けるようになったかというと、その源が数学の能力にあることは、誰しも異論はないだろう。

つまりもし人類が進化の過程で神様から「地上で最強の種族となるために何か一つ能力を授けてやるからそれを選べ」と言われたならば、その答えは鋭い牙でも速く走れる脚でも空を飛べる翼でもなく、むしろそれは数学の能力であるべきだった、ということである。

しかしここでペンローズの先ほどの疑問が出てくるのであり、それは石器時代には、そんな高度な数学の能力をもっていても何の役にも立たなかったはずだということである。

実際それは人類の文明レベルがあるまで程度進んで、鉄と化石燃料を地下から大量に採掘できる段階に達した時に、はじめてそれを現実の力に転換できるものなのである。

確かに現代の国際社会では、数学の能力を持たない国は軍艦や飛行機の設計を行うことができず、その能力が国の強さの決定的要因となっているが、中世あたりでは国家がそういう人材を持っていてもほとんど力にならず、むしろ槍と盾を連ねた肉体派の兵士を揃えて軍隊を編成できる国の方が強い力を持っていた。

そのためそういう国の社会では体育会系の人材が尊ばれる一方、数学の能力などは明らかに役立たずの扱いを受けていたはずである。まして石器時代を考えると、そんな高度な数学は役に立つような場所がどこにもない。こんな状態では、一体そういう人々は石器時代に何をして生きていたのだろうか、というのが先ほど疑問だったというわけである。

まあペンローズが本当にそういう意味でその言葉を言ったのかどうかはわからないが、とにかく石器時代のことをもう少し詳しく想像すると話はもっと厄介で、現在われわれの周囲で数学の才能をもつ人物を見ると、その多くは痩せて眼鏡をかけており、腕力も弱くて肉体的には貧弱な人が多い。

一方石器時代の社会では、恐らく筋骨隆々として腕力が強く、棍棒を振り回すのが取り柄の人間が幅を利かせていたことを考えると、数学の能力をもつ者は、そうした体育会系の人種に食料や住居を奪われて、子孫も作れずその血筋が先細りに途絶えてしまい、家系自体が長期間のうちに自然淘汰で消えて行くのが道理ではないか、ということになる。

そして種族の長老などがそうした家系を保護しようにも、高度な数学のようにあまりに独創的で従来の伝統を破るものであった場合には、しばしば長老さえも経験に基づく知識だけではその価値が理解できない。

そういう状態で、人類はどうやってそうした人物やその家系を保護して、月にまで到達するだけの種に発達することができたのだろうか?


むしろ周囲の大衆の側が進化した?

そこで、ウグイスやツグミなどの鳥の社会を題材に、一種の思考実験として次のような話を考えてみたい。今ここで、ある鳥の社会の内部に、他とは少し違う性質をもった家系が小集団をなしているとしよう。そしてこの家系の鳥は、体などは仲間に比べるとむしろやや小さくて力も弱いのだが、ただ巣を作るに際して、他の仲間のものより頑丈な巣を作るという性質を持っているとする。

そういう頑丈な巣は、平素はそれほど必要というわけではないが、数十年に一度訪れる気候変動の際には非常に重要となり、その際にはそういう巣を作れる能力を有することは、種の存続に関わるほど重要なことになっているとしよう。

そのためこの能力をもつ個体の割合が種全体の中で多くなることは、長期的な意味での生存能力の強化につながり、そのためこの家系が栄えてその子孫が増えることは、種にとって優秀な形質の獲得を意味する。ところが平素のこの種内部での生存競争では、この家系は体が小さくて力も弱いので、淘汰されて子孫も残しにくい。

そのため少々困ったことになったわけだが、そこでもう一つ想定を追加して、この小集団がもう一つの小さな特徴をもっているとしよう。それは、この小集団の家系に属する鳥が鳴く時には、他の仲間とはほんの少しだけ違うメロディーで鳴くとするのであり、ただしそれは相対的に見て単にメロディーパターンが他と違うというだけで、外から観察しても、両者の鳴き方には特に優劣が見いだせないという性質のものである。

さてその上で発想を逆転させて、一つのアイデアを導入しよう。それはこの小集団の側が努力をするというより、むしろこの鳥全体が一種の進化によって美的感覚を変貌させることで、それを可能にしたと考えればどうだろうか、ということである。

つまりこの小集団よりもむしろその外側にいる普通の家系の鳥たちの側が、その小集団の特殊な鳴き方を「美しくて魅力的だ」と感じるように、自分たちの感覚の側を進化させた、と考えるのである。

その場合にはこの小集団の特殊な鳴き方は、例えばクジャクの派手な色の羽などと同様に、繁殖上の有利なポイントとして作用してくることになる。つまりその家系は子孫を残しやすくなって、仲間の中でこの遺伝子をもつ個体の割合が増え、それによって結果的に種全体がその優れた巣作りの形質を獲得していく、というわけである。

そしてもうおわかりと思うが、人間の場合にもそれと似たようなことが起こると考えてはどうか、というのがここでの話の本題である。

つまり石器時代に先ほどのような数学の能力をもつ家系があったとすると、今の鳥の話と同様に、体も貧弱でそのままでは粗暴な者に食料や住居を奪われて淘汰されやすい。しかしここでもやはり先ほどの話と同様、この家系の者が何か歌を作ったり粘土で造形を行ったりする際には、他とは少し違ったものを作ると仮定するのである。

もっともこれは、以前に述べた「頭のテンプレートの汎用性」の話からすれば、むしろ自然に起こってしまうことで、数学の能力の源となっている頭の中のその特殊な固有波形パターンは、音楽や造形においても何らかの形で作品の上に現れてしまうだろう。

ただ無論この場合もやはり先ほどと同様に、そうして作られた造形物などは単に形状パターンが他と違うだけで、客観的に見る限りは、別に他のものと比べて優劣があるわけではない。

ところがここで先ほどと同じことが起こったと考えるならどうだろう。つまりその家系の外にいる大衆の側が、それを見たり聞いたりすると「美しい」と感じるよう「進化」した、とするのである。

この場合には、この家系の者が何の気なしに作った歌や造形物を、なぜか大衆の側が美しい芸術作品として欲しがるようになり、そうなれば少なくともその家系は多少なりとも大衆に優遇されて、比較的豊かな衣食住の中で子孫も残しやすくなる。

要するにこの場合も進化したのは外側の大衆の側なのだが、ともあれ社会全体がそういう感覚を進化発展させたならば、数学が全く役に立たなかった時代でも、その家系は「芸術に優れた家系」として大衆に保護され、その際に結果的に、この家系がもつ数学の潜在的才能も一緒に保護されることになる。

そしてその時期をそうやって乗り切っている間に、人類の文明が化石燃料と鉄を大量に採掘できる段階に達し、その時に至って今まで保護されていたその能力がとうとう物を言い始め、ついには人類を月にまで届かせるまでになった、という壮大なストーリーになるわけである。

つまりこの見方に従うと、音楽などの美的感覚は、種全体が月に届くのに必要な形質を獲得するため、それを社会内部で発見・保護していくためのセンサーとして発達し、それは生存戦略の面から重要なものだったことになる

まあ物的証拠のない話なので、一応これは科学的なおとぎ話と思っていただいて結構だが、ただこれに似た話は例えば「人間がなぜ『可愛い』という感覚を持っているのか」という問題でも見られており、その際に「それは幼少期の弱い個体を保護して種全体の生存能力を上げるためで、そのために必要な武器としてそういう感覚が『進化』していったのだ」という説明がしばしばなされている。

とにかくこのように考えると「数学に優れた家系からは音楽に優れた人材も輩出する」ということを仮定するだけで、特に神秘的・オカルト的な理屈を想定せずとも、数学と音楽という二つの大きな世界がつながることに対して、進化の論理だけから「合理的」な説明をつけることが一応は可能になるのである。

注・)ただその仮定が完全に正しいかと言われると、物的証拠として統計的に完全なデータが得られているとまでは言えないようである。一応ここではルールとして、物的証拠を示す必要はないことになってはいるが、そもそも数学だけ、音楽だけについて見た場合でさえ、ある家系が長期間にわたって安定して大家を輩出し続けている、というデータは必ずしも確実に得られているとは言い難い。

確かに音楽におけるバッハ一族、数学・物理におけるベルヌーイ一族のように、まとまって短期間に一つの家系から多くの人材を輩出した事例はあり、一応は卓越した才能が家系の中で受け継がれることの証拠はある。しかし全体として眺めると、(アインシュタインをはじめ)長い家系の中でぽつんと孤立的に一人しか現れていない事例の方が多い。

しかしそれはある程度仕方のないことで、この場合、一つの国の歴史で後世に残るほどの人材はせいぜい2〜30人である。それに対して、候補となりうる家系が数百、数千あった場合には十分な相関データはもともと得られるはずがなく、まして数学と音楽をまたいでの話となると、正確な相関データを得るのはさらに難しいのである。

つまりそうしたデータは、歴史的な顕著な事例からはサンプル数が少なすぎてピックアップしにくく、むしろもう少し制限を緩くして、身近なところで大勢の「そこそこの才能の人物」について経験的にぼんやりと観察した方が、まだしも質の良いデータが得られると言えるかもしれない。そういうことなら、少なくとも筆者の身近なところを見る限りでは、その関連性を肯定する事例の方が多いように思われる。

そしてまた歴史的に大きく眺めても、数学などに長けて周囲の世界を制覇した文明や民族は、近代西欧以外で眺めても、ギリシャの場合のアテネのように芸術や学問を尊重して保護していた民族であったことが多く、これを一つの証拠と見ることもできるだろう。


オイラーが夢見た?壮大な「音楽工学」

しかしそもそもオイラーなどの数学や物理の英雄時代を生きていた人々にとっては、わざわざそんな面倒な「合理的」な理屈などを考える必要はなく、数学と音楽の根底で共通する部分が宇宙や神の重要な秩序につながっている、ということを、むしろ当たり前の常識として信じていた。

実際にオイラーなどは音楽そのものに重大な関心を寄せ、快い和音を作ることを数学的に解き明かそうという研究まで行っていたのであり、あるいは彼にとってはそれは素数などへの関心に劣らないものだったかもしれない。

確かにもし音楽と数学が何らかの共通部分をもっていて、それが宇宙の重要秩序を反映する、という話が半分でも真実だとしたなら、それは十分に理解できることである。

身近なところから見ても、例えば鍵盤のミとファの間には黒鍵がないが、その本当の理由は今もよくわかっておらず、なぜ音階の中でミとファ(それと上のシとド)だけがなぜ半音なのかは、大きな謎のまま残っている。

そのためもし仮にそれが数学と結びついている、ということにでもなれば、そこには宇宙の大きな謎の鍵が隠されている可能性が存在することになり、それを解き明かしたいと思わない物理学者はおるまい。それは現代風に言えば「音楽工学」とでも呼ぶべきものかもしれないが、オイラーだけでなく、ニュートンやケプラーなど当時の多くの数学・物理学者がそのような音楽や音階に関する研究に手を染めていた。

そしてこれは、以前から述べている人工知能に関する「二つの無限」の話とも関連しており、第1部でも述べたように、その話はもともと無理数と有理数の間で生じる問題である。ところが科学や工学全体の歴史を振り返って、この無理数と有理数の問題が最初に現実の工学において現れたのは、一体どの分野だったのかを見てみると、意外なことにそれは機械工学などではなく、音楽の分野においてだったのである。

それについては後に別稿で、参考エピソードという形でもう少し詳しく述べてあるが、ここでも簡単に述べておこう。実はバッハの時代にすでにピアノの調律などにおいて、二種類の調律法が並立していて、両者の間で無理数と有理数の違いに起因する形で、音の振動数に小数点以下の僅かな誤差が生じてしまう、という問題が発生していた。

その二種類の一方は、先ほども述べた「ピタゴラス音律」に基づくもので、こちらは整数比をたどって作った音律である。ところがこの音律だと、曲を転調して演奏する際に支障が出ることがあり、そこを改良した「平均律」というもう一方の新しい音律が工夫されて、そちらが主力となっていった。(現在われわれが使っているのもこれである。)

ところがここで、両者の振動数に僅かなずれが発生する、という予想外の事態が起こってしまったのである。例えばドとソの音の場合、前者のピタゴラス音律ではソの振動数はドのきっかり1.5倍なのだが、後者の平均律ではそれは「1.49830…」倍という値になってしまい、ごく僅かなずれが存在しているのである。

そしてこれは数学的に見ると、僅かな誤差どころの話では到底すまず、それどころか根本にかかわる重大問題をはらんでいた。それは、前者のピタゴラス音律の「1.5」が有理数であるのに対して、後者の平均律の「1.49830…」が無理数だということである。

その状況をもう少し詳しく言うと、まずピタゴラス音律の場合、全ての音を整数比(2:3のような)から求めることになっているので、その振動数はそれらを分母と分子とする分数で表せる。そして一般に数学では有理数の定義自体が「分数で表せる」ということである以上、それは必ず有理数になる。

一方無理数の場合だが、そもそも先ほどなぜそんな数字が出てきたのかというと、それは鍵盤の12音(白鍵と黒鍵を合わせて)の間で自由な転調を行うには、音階の振動数が「2の12乗根」をベースにしたものでないと、それがうまくできない、という理屈に基づいている。先ほどの数字はそうやって出てきた数値なのだが、読者もご存じのように、一般に2の12乗根は数学的には無理数である。

そのため数学的には、平均律の無理数の振動数比を作り出すことは、整数比をたどっていくだけでは不可能だということになり、これは当時の音楽家=数学者の頭を悩ませる大きな問題だった。そして先ほど述べたように、これが科学史において、無理数と有理数の話(ひいては「二つの無限」の話)が現実の工学の問題として登場した最初だったのである。

 実際に先ほどのピタゴラス音律のドとソの音の振動数比の「1.5」と、平均律の「1.49830……」を比べると、その差はわずか0.0017であり、%表示で見た場合でもその誤差は僅か0.11%である。

そしてバッハの時代の機械工学などでは、ここまで小数点以下の精度で物を作ること自体がほとんどなく、それだけの精度を要求される機会そのものが存在しなかったのである。確かに科学史においては、無理数そのものは、円周率の「π」などで遥か昔の時代に登場してはいたが、実際に工学の中でその無理数と有理数との僅かな差が問題になることなどほとんどなかった。

ところが音楽の場合、意外にも人間の耳は、有理数と無理数の違いに発するそんな小さな誤差を聞き分けてしまい、すでにバッハの時代にピアノという物理的な実体の上でそれが現実の問題となっていたのである。

その意味では上の話は、少なくとも有理数と無理数の問題に限って言えば、「音楽工学」こそが一度は工学全体のトップを走っていた、とも解釈できることになる

そしてバッハの同時代人がオイラーであり(オイラーはバッハの3歳年上)、この有理数と無理数の問題をリアルタイムで見ていたことを想像すると、彼をはじめとする当時の数学・物理学者たちにとって、音楽や音階という対象が、素数などに劣らず重要な数学的テーマに映っていて、彼の意識の中で「音楽工学」が工学全体の最先端を行く学問に位置付けられていたとしても、全く不思議はないように思う。

なお上の話は、別稿のエピソードでもう少し詳しく述べてあるので、興味のある読者はそちらを参照されたいが、ただ人工知能の話にはそれほど関係はないので、先を急ぐ読者は特にそれを読む必要はない。ただこの話は恐らくオイラーたちの時代には常識として数学・物理学者の誰も知っていたはずのことで、筆者が思うに、彼らは恐らくこれを熟知しているが故に、「状況証拠3」の数学と音楽の関連性の話を言われても、全く違和感を覚えなかったのではないか、と想像されるのである。

逆に言うと、どうも現在の理系の世界では必ずしもこれが完全な常識として定着しているとは言い難いようであり、もし上の話を知らない人が「状況証拠3」を非科学的だと評して議論を行うようなことがあれば、理系の教養レベルを問われる話として大問題だと思うのである。


人間側に加わる新しい装備

まあその点だけを頭の隅に留めていただければ十分なのだが、ここで何よりもわれわれの興味を掻き立てるのは、有理数と無理数の話こそが、以前からわれわれが中心課題として論じている「二つの無限」について、その両者を分ける話そのものだということである。

確かに以後の2−2の議論においては、直接そのことがメカニズムの鍵になっているわけではないのだが、それでも人間がそれを聞き分けられたとするならば、それは人工知能が扱えない「数えられない無限=非可算無限」の世界につながる何かを、人間の直観力が有している、ということを示唆しているようにも思えるのである。

そのためオイラーなどがそれに重大な関心を寄せたことも納得のいく話だが、しかし実際には彼の研究は結局みるべき成果を上げず、間もなくその試み自体がストップして途絶えてしまった。その理由は今にして思うと、素数の問題さえも遥かに上回る、オイラーさえも歯が立たない桁外れの難問だったからである。

そのようにスタートして早々に完全に停止状態に陥ったため、「音楽工学」はそう命名される間も与えられず、死産に近い形で夭折してしまった。しかし皮肉なことに人工知能が人間の頭脳を脅かし始めた現在、それが桁外れの難問だったことが逆に意味を持つことになり、それが「解けない」ことを逆手にとることで、人間側の防壁として思いもかけず役に立つ可能性が出てきているわけである。

また数学と音楽がそのようにつながりを回復することは、双方にとっても、それ自体の価値を大きく引き上げることにつながる。つまり音楽というものは、ドライに突き詰めて言ってしまえば要するに、人間の脳内で快楽を刺激して娯楽や慰問を提供するためのものである。つまり確かに社会的に人間同士の共感を高めるなどの力は一応持っているものの、究極的には人間の頭の中の内部だけで完結して快楽だけに資するもので、それ自体としては世界に働きかけてそれを動かす力はない。

その一方、数学は世界や文明を変える文明レベルの強力な力を持ってはいるものの、それが完全にドライな論理に還元されて、人間ならではの神秘的な部分が全く無くなってしまうと、人工知能の狩場を提供するだけである。

ところがここでもし数学と音楽がつながるとすれば、双方の弱点が互いにカバーされることになり、それは人工知能と対決する「真性シンギュラリティ」の問題において、人間の存在意義を保証するための最強の武器となりうる可能性を秘めているのである。

つまりもし上の話が正しいとするならば、数学や物理における本格的な文明レベルの勝負においてさえ、主力武器として重要になるのは秘められた芸術的・美的能力(の源)だった、ということになる。

考えてみると本来、人間の脳内でもそうした美的・芸術的能力はかなり広大な領域を占めていたはずなのだが、今までその能力は、もっぱら娯楽・慰問用の用途に位置付けられてきて、そういう勝負においては武器とは考えられてこなかったのである。

つまりせっかくのその広大な領域が今まで戦力には勘定されていなかったのだが、もしそれを人間側が主力武器として使えるとなると、単純に量的に見るだけでも、人間側の装備が倍になることを意味する。

確かに単に武器が量的に2倍になるだけなら、何しろ無限の進歩を許されている相手との対戦を考える以上、ほとんど焼け石に水だが、もしそれが質的にも対戦の数学的な構図に変化をもたらすとすれば、それをもたない人工知能との対決の構図は大きく変わってくることになるのである。


姿を現す新しいビジョン

さて話が少し脱線してしまったが、とにかくこうしてみると、人間の直観力のメカニズムに関しては、今までの常識とは全然違うモデルが姿を現してくるのであり、ここで一旦整理してみよう。

まず、人間の頭の中にはもともと一種の固有波形パターンのようなものがあって、目の前の光景や問題を見たときに、それがピーンと共鳴するように立ち上がり、むしろそれによって物事を認識したり着想したりする、ということである。

そしてそれを何個か組み合わせて次々に重ねていくことで、だんだん問題の答えそのものに近づけていく。そして万人に一人、頭の中に優れた特別な固有波形パターンをもっている人間の場合、たった数個の組み合わせだけで、大まかにではあるが宇宙の重要なことを表現できる、というわけである。

またここで重要なのは、頭の中でそれらの固有波形がピーンと共鳴するように立ち上がる際には、それは一種の芸術的な美的感覚のような形で行われる、ということである。

もし人間の直観力の基本的メカニズムがこのようなものであった場合、それは人工知能との対決の構図を根本的に変える可能性をもっていることになるだろう。確かに、単に美的・芸術的能力が人間側の戦力として加わるだけなら、それは無限に発達した人工知能との対決で必ずしも勝利を保証するものとなるわけではない。

真の問題は、その直観力による思考を「フーリエ級数型モデル」という形で数学的に定式化した際に、その数学的構造そのものが人工知能とは根本的に違ったものとなって、人工知能が非可算無限回=「数えられない無限回」の演算を行わなければ正解にたどり着けないような問題でも、人間の直観力ならば可算無限回=「数えられる無限回」の手間でたどり着ける、ということが示せるかどうか、ということにある。

とにかく次の2−2で、その核心部分に本格的に斬り込んでいくことになり、もしそこで肯定的な結論が得られれば、たとえ人工知能の演算速度が無限に向上した場合でも、人間の天才的直観力はそれを上回る形で対抗しうる、という可能性が存在することが、ついに数学的に証明されうるわけである。





補・参考エピソード=人間の耳は無理数と有理数をどう聞き分けたか


さてここでは先ほどは省略してしまった問題、つまり人間の耳が無理数と有理数の違いをどう聞き分けたのか、そしてそもそも音楽の中になぜ有理数と無理数にまつわる問題が現れたのか、ということについて、参考エピソードとして補っておくことにしよう。

これはオイラーたちが皆常識として知っていたはずのことで、筆者としては理系の人間がこれを教養として知らないというのは、あってよいことではないと思うのだが、にもかかわらず現在の理系世界では知らない人が結構多いのである。

つまりこれに関しては現在の理系世界の常識は当時よりも退歩していることになるが、これを機会に是非仕入れておくことをお勧めする。

さてこの話は先ほど述べたようにピタゴラスから始まっており、彼は全ての音階について、その振動数(あるいは弦の長さ)を、整数比だけから割り出そうとした。

例えば1オクターブ上の音は弦の長さや振動数が1:2という整数比になっており、他の目ぼしい和音を見ても、ドとソが2:3、ドとファが3:4など、やはりきれいな整数比になっている。

そして後者のドとファは、まるごと一音上げればレとソになるが、これは絶対音感がない人には全く同じ和音に聞こえる。こういう場合、和音の振動数比は両者で同じ値になっているはずで、そのためレとソの振動数比もやはり3:4である。

そのためこれを前者と合わせて、ド→ソ→レという経路でたどれば、ドとレの振動数比を割り出すことができる。さらにそれらを手掛かりに他の音もたどっていて、結局全ての音階を、似たような整数比で表せるのではないか、というわけである。

 

これはパズルとしても面白いので、興味のある読者はやってみるとよいが、ともあれピタゴラスはある程度までそれに成功し、西欧の音階はその音階=「ピタゴラス音律」を基準にして進んでいった。

ところが作曲技法や楽器技術などが進歩していくと、その背後に意外な問題が横たわっていることが明らかになった。特にこの問題はピアノという楽器が発展した段階で表面化したが、それはこのピタゴラス音律で調律されたピアノの場合、曲を転調させた形で弾くと、微妙に違ったものに聞こえてしまうのである。

実はこれは現在でも演奏会でピアノの調律を行う際にしばしば問題となっており、一番の基本に戻って説明してみよう。

先ほども少し述べたが、同じメロディーを1オクターブ上げて演奏する場合、全ての音符の振動数が一律に2倍になる。つまりちょうど幾何の相似の問題の時に、図形を同じ形のままサイズを2倍、3倍に拡大するのに似て、要するに一般的に振動数全体を2倍、3倍に拡大縮小しても、メロディーを構成する各音符同士の振動数が同じ比率に保たれていれば、それはいわば相似形として全て同じメロディーに聞こえるということである。

これはオクターブの上げ下げだけでなく、転調という形でもう少し小刻みに、キーを2つか3つ上げ下げする場合も同様である。そして絶対音感がない人の場合、例えばハ長調のメロディーをキーを下げてホ長調にした、などというものを示されても、全く同じメロディーで聞こえてその違いは普通はよくわからないものである。

ところがピタゴラスが先ほどのようにして作った「ピタゴラス音律」の場合、たとえ絶対音感がない人でも、ハ長調とホ長調など、転調したものは、メロディーそのものがほんの僅かに違って聞こえてしまうのである。そしてそれは数学の根本的な理屈に基づくもので、そしてここで有理数と無理数の問題が現れてきてしまうのである。


当時の数学者と音楽家を悩ませた問題

ではどうしてそんなことが起こるのかだが、それは多少面倒ではあるもののそんなに難しい話ではないので、簡単に述べておこう。

先ほど述べたように、メロディーが完全に同一に聞こえるためには、音符同士の振動数が全て同じ比率が維持されたまま、相似の形で全体がまるごと拡大・縮小されていることが必要である。そして一般に音階の1オクターブは、白鍵と黒鍵合わせて12個の音で成っており、そして1オクターブ上がると振動数は2倍になる。

そのためもっと小刻みに、キー全体を1音階だけ上げる時には、今の話の振動数の「2倍」を鍵盤の数の12個で等分に分割してやればよいことになる。ただこの場合の「等分」は、足し算の感覚でのそれではなく、掛け算での「比」という形での等分を意味している。

要するにこの場合、キーを1音階上げるごとに、ある一定の同じ比率で振動数全体が拡大され、それを12回繰り返せば「2倍」になる、という形になればよい。そしてその意味での12等分された数値を、この場合の共通比率に採用すればよい、ということである。

その数値を求めるには、要するに「その数値を12乗すれば『2』になる」というような数を探せば良いわけだが、何のことはない、それは2の12乗根のことなので電卓で簡単に求められ、実際に電卓のキーを叩いて求めれば、それは1.0594…という数値になる。

つまりこの場合、隣の鍵盤(黒鍵も含む)との振動数の比率が、全て1:1.0594…という同じ値に設定されていればよいのである。そのように設定されていれば、キーを1つ上げた場合、全ての音の振動数が一斉にその倍率(1.0594…倍)で拡大されるので、全体がまるごと一段づつ隣にずれるだけの格好になり、キーを上げる前と後で、各音符の振動数は完全に相似の関係が維持されることになる。

そしてそれを12回繰り返せば、きちんと全体が2倍=1オクターブになるわけで、そのためこういう数値で設定を行った場合には、転調をどういう形で行っても、全く同じメロディー、全く同じ響きが維持されることになり、要するにこれが「平均律」である。

ところがこの場合、例えばドとソの振動数比を眺めると、実はピタゴラス音律の場合のとの間にごく僅かのずれを生じてしまうのである。ピタゴラス音律の場合、先ほど述べたようにドとソは「2:3」の整数比、つまりソの音の振動数はドの1.5倍となっているが、では平均律の場合にはどうなるだろうか。

しかしそれは全然難しい話ではなく、ドとソの間には鍵盤が白鍵・黒鍵を合わせて7個あるので、要するに平均律の場合には、先ほどの「1.0594…」を7回かければ、ソの音の振動数を得ることができる。そこで電卓で計算してみると、その7乗は「1.49830…」という数値になる。

つまりこちらの場合にはソの音はドの「1.49830…倍」になる、という結果が出てくるわけである。そしてこれをピタゴラス音律の「1.5倍」という数値と比べると、コンマいくつのごく僅かな違いを生じてしまっていることがわかる。この違いこそが、最初に述べた「ごく僅かなずれ」なのである。

そしてこのずれが、ピタゴラス音律の側に転調の際の困難をもたらすことになる。つまり平均律の場合はそもそも、どう転調を行ってもそれぞれの内部での各音符同士の振動数比は変化せず相似の関係が維持される、ということを目的に振動数が設定されている。それは逆に言えば、振動数比が平均律のように設定されていない限りは、それができないということである。

つまりピタゴラス音律はそこからずれている以上、それができない、つまり転調を行ってキー全体を順次上げていく際には、各音符同士の振動数比が完全には相似の状態を維持できず、途中でそれらの間に微妙にずれを生じてしまうことにならざるを得ないのである。

つまり極端に言えば、転調する前と後では、ごく僅かにではあるが、メロディーそのものが互いに違って聞こえていることになる。それはポジティブな言い方をすれば、ハ長調やヘ長調などはそれぞれ全てが、響きが違って聞こえるため、各調ごとに別個の個性があるとも言えるかもしれないが、とにかくそれはたとえ絶対音感がなくてもわかってしまう性質の差異なのである。(もっともこの話はむしろ、整数比をたどって作った有理数の音階と、2の12乗根で作った無理数の音階が、これほど小さな誤差でほとんど同じものになった、ということの方が遥かに驚きかもしれないが)。

理論的にはこの問題はそういう形で明らかにされていったのだが、一方音楽史の観点から眺めた場合、この問題に関しては、バッハの「平均律クラビーア曲集」が作曲されたあたりが、一つのエポックとされる。つまりバッハはこの一連の曲集によって、どの音を基準に選んでも(あるいは自由に転調を行っても)同じように演奏ができるという新しいスタイルを、一つの手本として示してみせたのである。

これは音楽の思想としては、ハ長調もヘ長調も完全に相対的だという点で画期的な意義をもっており、物理屋の目から見ると、バッハの同曲の登場は、音楽の世界に一種の「相対性原理」が持ち込まれたことに相当する、と言えるかもしれない。そしてこれがスタンダードとなることで、それ以後、この平均律という概念が一般的なものとして定着したのであり、われわれがカラオケ機械などでキーを何の気もなく上げ下げする時も、その習慣は実はそこから発しているのである。


平均律の弱点

ところがそれなら平均律の方が絶対的に優れているかといえば、必ずしもそうではなく両者は一長一短なのである。それというのも、ピタゴラス音律の方はきれいな整数比で作られているため、和音を鳴らしてみると極めてハモりが良いのだが、平均律だと、どの調を選んでも和音がピタゴラス音律の時ほどにはきれいにハモらないのである。

つまり平均律という方式の側は、確かにキーを上げ下げしても完全に相似が維持されるというメリットはあるものの、和音の振動数がきれいに整数比にならない。実際先ほども述べたように、ピタゴラス音律だとドとソの振動数はぴったり1:1.5=2:3)だが、平均律だとそれが微妙にずれて1:1.49830…ぐらいになるため、そのずれの分だけハモりが悪いのである。

そのため現在はピアノの調律は通常は平均律で行われるが、演奏家の中にはハモりの悪さを嫌って、ピタゴラス音律で調律するようわざわざ頼む人もあるとのことである。

一方バイオリンの場合を見ると、演奏前にプレイヤーが調弦を行う際には、耳でハモりを聞いて行うため、無意識のうちにピタゴラス音律で調弦してしまっていることになる。そのため実は現在の演奏会場でピアノとバイオリンが合奏を行う場合、両者の楽器が違う振動数の音に調整された状態で演奏に臨んでいるという、意外な事実があるのである。

(注・なおこの場合「それなら現代の演奏会でバイオリンが平均律で調律されたピアノと一緒に演奏する際にこの音のずれが問題になることはないのか」という疑問が生じるかもしれない。実際に筆者がバイオリニストの姉に聞いてみたところ、確かに原理的にはそういう問題は存在するが、実際にバイオリンを演奏する際には、指で弦を押さえてビブラートをかける必要上、弦から指を離してそのまま鳴らす―-解放弦で弾く―ことはほとんどなく、そして耳でピアノの音を聞いてそれに合わせて音を鳴らすので、実際に二つの音律の間のずれが問題になることはほとんどないとのことである。)

 それはともかく、この、人間が有理数と無理数を聞き分ける話は、それ自体は必ずしもわれわれの人工知能と直観力のメカニズムに関する議論に直結するものではないとは考えられるが、それでも有理数と無理数の話が「二つの無限」を巡るものであることを考えると、それは少なくとも何かそれを予感させるエピソードであるように思われる。