無限に発達した先の人工知能vs人間の天才的直観力

=「最後に勝つのはどちらか」に数学的な答えを出す


序・この議論がなぜ現在の世界にとって必要か


以下は、「人工知能とコンピューターの能力が無限に発達したとき、人間の天才の直観力との対決で最終的にどちらが勝つか」という問題に対して、数学の論理から一つの明確な答えを出すという、野心的な試みである。

一見するとこれはいわゆる「シンギュラリティ」が本当に来るか否かについて論じたもので、普通そういう議論では、人工知能の現在の技術レベルとその上昇カーブを検討し、それがそんなに早くは訪れないことを立証する、といった話になるのが一般的である。

ただ読者の中にはそうした結論を聞かされても、何かもやもやした不満を覚えて、本当に知りたいのはもう少し別のことなのだが、という思いが心にくすぶってしまう方が少なくないのではあるまいか。

つまりたとえそれがすぐは訪れないとしても、もっと先の未来を考えれば人工知能が極限まで発達して、そうは行かなくなるはずであり、中途半端な将来の話を聞かされても仕方がない。要するにもし一番聞きたいことがあるとすれば、その最後の局面を考えた時に、果たして人間側に勝つ余地が残るのか、ということなのではあるまいか? 

そうだとすれば、以下はまさにその疑念に真正面から答えるものだと言えるだろう。以下の議論の最大の特徴は、現在の技術レベルの話は脇へ置いて、とにかくまず人工知能が「無限に」発達した状況を考えてしまう、という点にある。

そしてその上で、人間の天才的直観力をそれと対決させた時、果たしてその最終局面でどちらが優位に立つかを、「人間vs人工知能」という対戦モードの感覚で眺めてしまおう、というわけである。

これはいわば究極の対決の話なので、もしその結果がきちんとした数学的な根拠のもとに示せるとしたら、その意義は現在の世界にとって極めて重要なものとなるだろう。

そもそも現在の世の中では、人工知能が無限に発達を遂げてしまえば、もう人間側が勝てる余地は残らないのではないか、という諦めに似た感覚が一般的で、人間側がそれに対抗するためのアイデアやビジョン自体がないのである。

しかしもしここで、人間側が勝ちうるようなモデルを一つでも作ることができて、そこでは人工知能が人間を完全制圧できない、ということが数学的に示せたならば、それは現代世界にとって巨大な価値をもつことになるはずである。

読者の中には一体そんなことが本当にできるのか、と疑問に思われた方もあるかもしれない。しかしここでは「三体問題」から出発したツールを用いるなどの新たなアプローチによって、今まで難しかったそういうことが可能となっており、以下はまさにその試みである。


未来への深刻な不安

ではあらためて述べていこう。実のところ、人間がいつか機械に完全に負けて世の中から不要になるのではないかという懸念は、かなり以前から常に存在していた。しかし現在ほど多くの人々がそれを深刻な不安として感じている時代はなかったろう。

これは恐らく若い世代の人々が自身の将来を考える際にも深刻で、今の時点で職業選択を迫られた時にどんな職種を選んでも、二十年後ぐらいには人工知能にとってかわられて、無力な失業者と化すかもしれない。

確かに機械が人間の職を奪うこと自体は、今までも技術革新による自動化の波で多くの時代に経験されてきたことである。しかし過去に機械にどんな労働が凌駕駆逐されていったかを眺めると、まず使役用の動物が内燃機関に置き換えられたことから始まって、それに続いて人間の肉体労働、その後に下請けの単純労働者など、いわゆる下層領域に限られていた。

そしてもっと上層にあって人類のエースというべき知恵の分野に関しては、あくまでも人間が頂点に立ち続けており、機械によって人間の腕力が無意味化されたことは、むしろ社会的にはそうした知的階層の立場を強める役割を果たしていたと言える。

ところが現在では、その最大の頂点の部分が脅かされつつあるのであり、極端な話、現在では一部の先走った人々の間では「将来はノーベル賞も人工知能がとるようになる」などということさえ言われている。

そのため現在社会は、人間の存在価値やその尊厳というものが、根底から否定される危険に直面しているわけである。実際この状況では「将来の世の中では人間が本を読んだり勉強したりすることに、自己満足以上のどんな意義や価値があるのか」と問われたとき、確信をもってそれに肯定的な答えを与えられる人は稀であろう。

事実これによって、若い人々の間でこれから本を読んで勉強しようということの精神的なモチベーションが大きく殺がれ、次第に失われていったとしても何ら不思議ではない。


破られた防衛ライン

特にこれに関しては、碁で人工知能が人間を次々に破ったことの衝撃は想像以上のものだった。思い起こせば既に二十年以上前に、チェスの世界チャンピオンがコンピューターに負け始めた頃から、そうした不安を多くの人々が感じ始めていて、いずれ人間の知的活動の全てはコンピューターに凌駕されてしまうのではないか、という密かな恐れがくすぶっていたように思う。

しかし筆者にも記憶があるが、そういう時に決まって言われたのは「確かにチェスや将棋は制圧されつつあるが、碁となると話は違う」という台詞だった。つまり碁はチェスや将棋に比べると次元が違うほどに高度なので、碁の名人がコンピューターにひれ伏す日はまあ当分来ないと思ってもよい、というわけである。

そのため筆者を含めた多くの人の頭の中で、このさい人間がチェスや将棋で勝てないことは、不本意ながらもう既成事実として認めてしまうが、そのかわり碁という場所で、コンピューターが人間には歯が立たないことが示され続ける限り、心配することはない、という意識が生まれていたように思う。

そしてこれが決まり文句のように繰り返されたため、これについて多少なりとも知っている人の間では、いつしか碁というものが、いわば人間側の優位を示す砦や防衛ラインとしての象徴的な意味をもつようになっていたのである。

そういう事情も手伝って、2016年についに碁の名人が人工知能に負けたという出来事は、まさにその人類の防衛ラインが破られたという世界的な衝撃として伝わった。

その意義はチェスや将棋の場合とは根本的に次元が異なるほどの重大なもので、それはもはや少なくとも人類のもつあらゆるゲームにおいて、人間側が結局は勝つことができない、というメッセージとなって伝わったからである。

確かに今後、対戦ソフト側の一時的な不備などで人間側が2〜3回人工知能に勝利することはあるかもしれないが、その場合でもこの印象は元へは戻らないだろう。つまり人々の意識の底には、所詮はその勝利も一時のもので、いずれは人間側が制圧される、という見解が深く沈殿してしまって、もはやそれを拭い去ることができないのである。


人々は「クラークの法則」の正しさを見た

そしてもう一つ重要なのは、この出来事がいわゆる「クラークの法則」の正しさを示す格好になっていたことである。

これは「2001年宇宙の旅」の原作者として知られるアーサー・C・クラークが科学技術に関する経験法則として述べたもので、それは「ある科学技術について、もし名のある専門家が『その技術は将来必ず実現する』と言ったとき、それはほとんどの場合正しいが、『その技術は現実には難しくて将来になっても実現しない』と言ったとき、それはほとんどの場合間違っている」というものである。

その意味では、碁の問題はまさにクラークの法則が完全な形で現実となった例だと言えるだろう。確かに今、現場で人工知能を研究している専門家から見れば、まだまだ今の人工知能の能力レベルなどはたかが知れたもので、世の中がその能力をあまりにも過大評価していると映っているかもしれない。そのため一般に言われていることの多くは噴飯もので、到底実現の見込みはない、というのが正直な感想ではないかと思われる。

しかしその台詞は、かつての専門家の「碁の名人をコンピューターが破る日などは、あと百年は訪れない」という台詞そのものなのである。そのためかえって一般大衆の方が、クラークの法則を織り込んだ形で将来を正しく予感しているように見えなくもない。

そしてまた、そのように社会全体で人々の考える将来の見込みが大きく傾いたことで、現実そのものが動いてしまっている。つまりそれによって、人工知能側に流れ込む人材や資金が大きく増えて、その勢いをさらに加速することになったからである。

例えば人工知能による機械翻訳などは、一昔前までは到底実用になるようなものではなかったが、最近では開発の本格化によってじりじりと実力を向上させてきており、もう近い将来、人間の二流の翻訳家と同程度のものには達するだろう、と見られている。

要するに、専門家が今までの経験から予想していた技術向上のカーブそのものが、ここに来て資金や人材の投入量が増えることで急角度になり、従来の専門家の予想の前提自体を覆して、クラークの法則にさらに拍車をかける格好になっているのである。


専門家も「人工知能が『無限に』発達した場合」の話には答えられない

本当のところ、人工知能と人間のどちらが最終的に勝つかについては、現在はどちらの側も確実に言えることは僅かである。実際にはいずれの陣営も両端の僅かな部分を点と線の形で確保しているに過ぎず、その間の大部分の領域は本当はグレーゾーンなのである。

しかし「碁」という防衛ラインが破られたことで、人々の意識の中でそのグレーゾーンは、一挙に全て人工知能側が制することになった。その結果現在ではほとんどの人々が、このまま人工知能が発達を続ければ、いつか人間を上回るのは時間の問題だと考えるようになり、むしろ質問自体が「それが訪れる特異点=シンギュラリティは一体いつなのか」ということに移行しつつあるのである。

そして「人工知能はまだ人間に及べない」と言っている専門家自身でさえも、もし「将来人工知能とコンピューターの演算能力が『無限に』向上した場合にはどうなりますか」と問われると、「さすがにその時は人間を超えてしまっても無理はないだろう」と答えてしまう場合が少なくない。

要するに「シンギュラリティ」の到来が時間の問題に過ぎないと考えている点では、実は一般大衆も専門家も単にそれが早いか遅いかの違いがあるだけで大差ないのである。これでは人々は意識の中で座して全面降伏のカウントダウンを待つしかなく、防衛ラインの再建ができなくても無理はない。


「数学的な証明」による新しい防衛ライン

しかしここでクラークの法則を振り返ると、実はそこには省かれていた部分があったことに気づく。それは、一般に専門家の言う「不可能」には二種類のものがあるということである。それらは

・「技術的な不可能」=つまり現場の今の技術レベルがどの程度の量的な困難に直面しているかということから判断した「不可能」

・「原理的な不可能」=つまり物理や数学の根本原理によって、本質的に超えられない壁が存在することが証明されていることによる「不可能」

の二つである。

この場合、クラークの法則が言っているのは、あくまでも前者の意味での「不可能」についてであり、もし後者に基づいて専門家が「不可能」と言っている時には(例えば光速の2倍のスピードで飛べる宇宙船などのように)、それは絶対に実現しないのである。

そして現在、人工知能の専門家が言っている不可能がどちらであるかというと、それは、ほぼ全てが前者の意味での「不可能」なのであり、後者の不可能に関する議論は、筆者の知る限りほとんど行われていない。

だとすれば、現在の状態を立て直す鍵もそこにあることになる。つまりもし数学や物理の根本原理に照らして「たとえ人工知能が無限に進歩しても、なお人間に完全に勝つことはできない」ということが何らかの形で数学的に証明され、その意味での「不可能」が示されたとするならば、クラークの法則を超えて、はじめて人間側の防衛ラインの再建が可能になるからである。


シンギュラリティに関する二種類の議論

それを踏まえた上であらためて見直すと、そもそも一般に人工知能に関する議論自体、実は大きく分けて2種類のレベルのものが存在していたことがわかる。

まず一つは、現在の技術水準を基準に考えたとき、今の人間の職能のどの程度のものが人工知能に奪われ、社会の中で過半数の人々が失業して深刻な問題となるのはいつかという話で、これはいわば「社会的シンギュラリティ」というべきものである。

この場合には、現在の人工知能の技術水準(ハードウェアも含めた)が議論の中心で、いわゆる「ムーアの法則」の技術進歩の上昇カーブが本当に妥当か、などということが問題となる。そしてここで論じられる「可能・不可能」は先ほどの前者の意味での「不可能」であり、そのため多くは現場の技術の専門家によって議論され、現在の論文などのほとんどはこちらである。

それに対してもう一方は、もっと人類史を見据えた話として、このまま人工知能やコンピューターの演算能力が無限に向上していった時、遠い将来の話として、人間の最高の天才的頭脳やその直観力も、ついにはその無限に発達した人工知能に膝を屈するしかないのか、そしてその時には人間の尊厳や存在意義も価値を失うことになるのか、という哲学的な話で、こちらはいわば「真性シンギュラリティ」というべき話題である。

そしてこちらで問題となるのは、どちらかといえば先ほどの後者の意味での「不可能」である。こちらに関しては今までは(有効な数学的解析ツールがなかったこともあって)ほとんどが文系的なアプローチによる情緒的な論文・論説に留まっており、きちんと数学的な基礎を踏まえての解析というものはほとんどなかったと言える。

しかし本当に人々が知りたいのは、実は後者の「真性シンギュラリティ」の話なのではあるまいか。確かに前者の「社会的シンギュラリティ」に関しては、現在もそれが社会内部のいろいろな職業で徐々に進行していて、ある程度までは止められないことは誰もが認めている。

しかし2016年に碁の敗北で人工知能が一挙に社会問題化したのは、むしろそれが人々の目に、ついに「真性シンギュラリティ」に王手がかかったと映ったからからであり、人々はそれに対する明確な答えをこそ求めているのである。

そのためどうしても、人工知能が極限まで発達した状態を想定して、人間の天才の直観力がそれに勝てるかどうかを根本的に調べることが要求されるのである。


そのビジョンが存在することの巨大な意義

では具体的には何が必要かというと、この場合には次のようなことができればよい。つまり現在はまだ人間の天才的直観力というものの正体ははっきりわかっていないが、それに最も近いモデルを数学的にいくつか考えることはできる。

そしてもしその中にたった一つでもよいから「もし人間の直観力がこのメカニズムによるものだったとしたならば、その際には人工知能が無限に発達を遂げた先でも、なお人間側の天才的直観力が勝ちうる」というものが存在して、少なくともその仮定の中では人間側が優位に立てる、ということがきちんと数学的に示されればよいのである。

この場合、人間の直観力が本当にそういうものなのかは、後でもっと時間をかけて物的証拠を固めて検証すればよく、今の段階では単なる状況証拠に基づく仮説で差し支えない。

とにかく現在の世界にとっては、たった一つでもそういうものがきちんとした論理として存在し得る、ということこそが何よりも重要なのである。そもそも今までは人々がそういう希望をもちたくても、頼るべき思考方法やアイデアそのものが無いので、ビジョンの作りようがなかった。

しかし手本となる思考の方法論があれば、たとえそれが単なる仮説に過ぎなかったとしても、人々が「真性シンギュラリティ」の話に関して世界の将来に不安を感じたときに、一度はそれを使って可能性を模索し、それによって何らかの希望をつなぐこともできるだろう。つまりそれさえあれば、そこを拠点として防衛ラインを再建できるのだが、現在はそのたった一つがまだ得られていないのである。

実際もしそういうものが作れて、その存在が十分に広く世の中に知られたとしたなら、その影響は極めて大きい。現代の文明社会では、数学による立証というものは最強の力をもっており、議論の最終決着としてそれを上回るものは存在しないのである。

そのためもしそれができれば、碁の敗北によって人々の意識の中で一度は完全に人工知能側に制されたグレーゾーンも、かなりのところまで人間側の手に戻ってくることになるかもしれない。

逆に言えば、人工知能の完全勝利を主張する側は、これを完全に数学的に沈めてしまわなければならず、その仮説が多少ダメージを受けてもとにかく沈まずに健在である限りは、「真性シンギュラリティ」は到来しないことになり、人工知能側の完全勝利は断言されないのである。

そして以下の議論で行うのはまさにそれであり、きちんと数学的に解析してみると、いくつかの盲点の存在が明らかになって、人間側勝利の可能性が強固な数学を基礎に見えてくるのである。

考えてみると、今まで数学という武器は、どちらかといえば人工知能側に立って人間を追い詰めるために使われることが多く、人間側に立ってそれを守るために使われることは稀だった。その観点からすると、以下はその稀な例の一つだということになる。

そういう話が存在し得るということ自体に驚かれる方もあると思うが、とにかくそこまでやることで、初めて人間側は防衛ラインを再構築することができ、この先の未来で人間が本を読んだり勉強したりすることの意義や価値も、あらためて保証されうるのである。


(注・なお以下の議論では、「天才・凡人」という言葉が頻繁に使われていて、そこに違和感を覚える読者もあるかもしれない。しかしこれは議論の性格上、避けられないことなので、一言補っておこう。

まずここで両者の意味を正しく定義しておくと、後者つまり「凡人」とは、基本的に前者の模倣によって知的活動が成り立っている存在で、かつその人数が多い、ということが本質であり、ここではその二点のみをもってその定義としている。(その意味では量産された学校秀才も、その訓練が天才の模倣プログラムによるものである限りは「凡人」に属する。)

その定義に従うと、後者の場合、前者を模倣するために使った方法論が、しばしば人工知能にそのまま使われやすいという本質的な弱点があり、さらにその人数も多くてデータ収集も容易なため、人工知能側に攻略の鍵を提供しやすいのである。

そのためここでは両者を完全に分けて扱うことが不可欠であり、人間側の勝利の可能性も基本的には前者に限定されて、それを巡る「真性シンギュラリティ」だけを議論の対象としている。

とにかく人間側としては、前者と後者の中間に線を引いてそこで城門を閉じてしまわねば、城自体を守り切ることすらできなくなるわけで、後者を巡る「社会的シンギュラリティ」については、残念ながら当面は第一目標から除外せざるを得ないのである。

要するにここでの「凡人」という言葉の意味はそれで、他に適当な単語が見当たらなかったためにこれを使っているのであり、そこには何ら差別的な意味はないので、その点は留意されたい。)


本稿の構成 

そして本稿の内容は大きく3部に分かれており、それぞれの内容をざっと述べておこう。


第1部・最初の第1部は、もし人工知能やコンピューターの演算速度が無限に上昇すれば、本当に世の中で一般に信じられているように、あらゆる問題を解決できるような万能の能力をもつのか、という問題について、新しい切り口から検証する話である。

これは「人工知能に対する戦略」という観点から眺めると、そもそも現在のように人間側が人工知能に押しまくられている状況では、戦略の常道として、まず一旦相手側の攻勢を防衛ラインで食い止め、次にそこから反撃に転じる、という二段階を踏むのが普通である。

そして本稿の構成もそういう形になっていて、この第1部がちょうどその第一段階に相当する。つまりこれは、人工知能の怒涛の攻勢がどこで限界に達するかを見極めて、人間側がひとまずどの防衛ラインでそれを食い止めて体勢を立て直すか、という話に相当するわけである。

またここでは、その防衛ラインを設定する際に、どういう対戦場所なら人間側が有利になるのかを洗い出し、その条件などについても整理してある。

実はこういう議論が可能になったことの裏には、天体力学の難題である「三体問題」のためのツールを使えたということが非常に大きく、それが解けない理由を直観的に知るための方法論を、人工知能の限界を示す問題にも転用できるのである。そのため第1部では、その背景となる「作用マトリックス」についても簡単に解説してある。


第2部・続く第2部は、それに対抗する人間の切り札というべき天才の直観力というものが、一体どういうメカニズムなのかに関する話である。

これは人工知能への戦略という観点からすると、先ほどに続く第二段階に相当し、第1部でひとまず防衛ラインで体勢を立て直した後、この第2部は逆に人間側が天才の直観力を切り札に、そこから打って出て反撃を行う話に相当すると言えるだろう。

そしてこの第2部では、まさしく先ほど述べたように、「人間側が勝てるモデルをたった一つでも具体的に提示する」ということが実際に行われている。

逆に言えば本稿の主張を否認するためには、このモデルに一度は目を通して完全に沈めてしまうことが必要となるわけで、その意味ではこの部分こそが、全体の中で最も重要な本質部分ということになるだろう。


ただ、人間の直観力のメカニズムがどのようなものであるかは一般に全くわかっておらず、本稿でも無論それを完全に解明するわけではない。

むしろ本稿で行うのは、人間の直観力に関するいろいろな状況証拠に照らして、過去の数学の中から、それに最も良く似た性質のものを探し出すことである。

その際に参照する人間の直観力の事例としては、3つの分野つまり「数学や物理の天才」「音楽(作曲)の天才」「戦略戦術(軍事)の天才」から状況証拠を探し、その3本柱の形で議論を行っている。

そしてこの議論の最大の特徴は、人間側の直観力の特性として次のことを仮定している点である。それは、数学や物理の才能や発想力というものが、芸術における音楽の調和や美などと深いところで結びついていて、この問題の最大の鍵となっているのではないか、ということである。

実はこれは昔からプロの数学者や物理学者の間ではよく言われてきたことで、少なくとも筆者の周囲を見る限り、それを否定する人はこの世界ではむしろ少数派である。まあそういう神秘的な仮定を置くことは、本来なら科学からの逸脱ではあるのだが、ここではそうした特殊事情ゆえ、最低限この一点だけは仮定として要請することを許してもらって、それ以外の部分は可能な限り論理的な推論のみで議論を行っている。

とにかくそのようにして一旦、それに最も近い形のモデルを数学的に組んでみると、そこから得られる数学的性質を頼りに、人間側の勝ちを導ける意外なビジョンが浮かび上がってくるのである。


第3部・そして最後の第3部では、第2部の結論を踏まえた上で「もし人間側のエースが最後に勝てるとしたら、そのためには具体的に何をすればよいのか」ということを、かなり現実的な方法論として論じている。

 実は第2部で提示したモデルでは、「問題のレベルを上げていくと、人工知能にかかる負担は幾何級数的に増大するが、人間の直観力にかかる負担は算術級数的にしか増大しない」という重要なことが示唆されており、これを応用すれば明確な指針が浮かび上がってくるのである。

思えばわれわれはこれまで大して深く考えずに暗黙の了解として、チェスや碁のチャンピオンに人類側のエースとしての役割を期待してきたが、実は本当のエースはこの条件に照らして選び直すべきだったのである。つまり皮肉なことだが、われわれは人工知能の存在に直面することで、それをきちんと考え直すきっかけを与えられたのだとも言えるだろう。


そしてさらにこの第3部では、具体的にそのように人間がどちらへ進めば良いかを考える際に、戦略における「間接的アプローチ」という概念が、理系文系両方を視野に入れた上で、非常に重要な鍵となることが指摘され、それが実用上の最も重要な結論となっている。

ただし、理系的な議論は第1部と第2部で集中的に行っておいたため、第3部はほとんどが文系的な議論となっており、数学が苦手な文系読者でも、その重要な結論自体は完全に読むことができる。

そういう読者の場合、最後の第3部こそが本命の話だと思って、そのアップを待ってむしろ第3部の結論から先に読み始め、そこから遡る形で第1部と第2部をお読みいただく、という流れをとった方が理解は早いかもしれない。

その場合、第1部と第2部は、それぞれ最後の「まとめ」だけにざっと目を通して、大体何をやっているのかを把握する、という程度で十分である。(ただ第2部の内容の中には、音楽関係者の方にとっては、自身の価値を再認識するという点で、恐らくこれまで想像もされなかった話が含まれているようである。そのため一人でも多くの音楽関係者に、そんな話が現実に存在し得る、ということだけでも知っていただければと思う)。


ともあれこの第3部の結論は、人間側が人工知能に対抗するためには具体的にどういう方向へ進んで、どんな訓練をすれば良いのかをかなり現実的な視点で論じたものなので、もっと広く将来の世界で人間がどういう教養を備えておくべきか、という話にも一つのビジョンを与えるかもしれない。

そのためこれは、多くの人がこれからの世界を生きる上での重要な示唆ともなりうるもので、もし人工知能のもたらす未来に暗澹たるものを感じて、将来の世界に希望を見いだせずにいる方があれば、是非とも目を通していただきたいと思っている。