最近だとこの話が一番問題になったのは、何年か前に確かキムタクがバタフライナ
イフをドラマの中で振り回してて、それをマネしてバタフライナイフで人を刺したと
いう事件が起こった事があったんですよね。で、これはやっぱりテレビがよくないか
ら規制すべきだ、という議論が当時起こったんですけれども、その時やはり例によっ
て、テレビ映像がそこに直結すると考えるのはちょっと短絡じゃないかみたいな反対
意見が出ていました。
実際その論拠の中には一見説得力のあるものがありまして、その代表は次のような
ものです。つまりそういう人を斬ったりするシーンというのは結構昔からありました
し、それにこれはアメリカなんかでも議論されたんですが、例えば西部劇とかでは昔
から悪党をバンバン殺してたけれど、別にそれは社会秩序を壊さなかった。というこ
とはテレビの暴力シーンなんてのはそんなに大して影響はないのではないかというわ
けです。
まあそういう論拠がある以上、社会の他の事が影響しているんだろうという話で、
それでこの時もやはりメディア規制の話は結局うやむやになってしまっていました。
でもこれに関しては実はちょっと盲点になりがちな一個の大きな原理が働いてまし
て、それを使えばこの問題に関してはしっかりとした一つの解答を与えることができ
るであろうというのが、ここでの考えなんです。
ではここで導入すべきその一番重要な原理と言うのは何かというと、まずそれは、
そもそも人間というものは、論理で考えて行動を決める生き物ではなく、むしろ過去
の映像を何か頭の中に思い浮かべて、それをなぞって行動する生き物なんだというこ
とです。
要するに、例えばテーブルの上にあるコップを肘で倒さないように気をつけて行動
している時などの場合、われわれの脳の中では何も、「肘を右に何センチ動かすとコッ
プに接触し、それを倒してしまう、ゆえに肘をあと左に何センチ動かすよう修正せよ」
、などという論理的なコマンドが出ているわけではありません。
そうではなくてこういう場合、頭の中に瞬間的に2枚の映像がフラッシュのように
広げられ、一方はコップが倒れて、「しまった!」と慌てている映像、もう一方は肘
がコップにぶつからず無事の映像で、それらの瞬間的な比較で後者の方が良いと判断
し、その映像をなぞるように腕を動かしているというのが、遙かに実態に近いという
ことです。
このことは意外と盲点になりやすいことなんですけれど、とにかくこれを基本原理
として要請すると、先ほどの問題に関してもかなり明確な答えが浮かび上がってくる
ようになるんですよね。
つまりさっきのバタフライナイフの話だと、その男の子は別に「キムタクがバタフ
ライナイフを持ってそれを刺した」という論理的なもので行動を決めていた訳じゃな
いんですよ。むしろキムタクがバタフライナイフを持っていたと言う映像そのものが
頭の中に浮かんでいて、それをそっくりなぞる形で動いていたに過ぎないんです。
そしてそういうふうにキムタクになりきる際に、論理じゃなくて映像そのものをな
ぞっているのだと考えると、メディアの影響の場合、実は俳優達が演じているシチュ
エーションとか、衣装とか、風体とか、そういうものがかなり問題なってくる、とい
うことがよく分かるんです。
そしてここまで考えると、一つ面白いことに気づきます。それは何かというと、キ
ムタクのドラマを見てバタフライナイフを振り回した少年の話というのは聞くんです
けれども、ところが考えてみると、『大岡越前』を見て街中で刀を振り回した人の話っ
てめったに聞かないんですよ(一同爆笑)。
つまり、キムタクのふりをした男の子というのは、多分恰好もキムタクに似た恰好
をしていて、外見上も自分が完全にキムタクになり切ってたと思うんです。だからそ
の映像をそっくりなぞって行動に移すことができたんですよね。ところが、『大岡越
前』を見てそれをやるためには、やっぱり大岡越前の恰好しないと刀を振り回すことっ
てできないわけですよ。(笑)
それが分かれば、先ほどの話の、なぜ西部劇が安全だったかっていうことも、これま
た分かりますよね。つまりコスチュームプレイ、要するに、時代劇とか、SFとか、そ
ういうものであれば、衣装そのものが違うわけですから例え論理的に見れば同じ行動
をとっていたとしても、その映像に乗せて自分が動いていくってことができないわけ
です。
だから例えそのストーリーの中でそうなったとしても、違う格好をさせて映像的に
重ならないようにしていけば、短絡的なバタフライナイフの事件みたいな事というの
は、かなり起こりにくくなるということも言える訳なんですよね。
これを言うと教育評論家みたいな人は、「子供はそういう風にテレビの映像と現実
を混同してしまうもんなんだけれども、大人が同じことをやるというのは問題だ」と
いうんですけれどもね、実はね、これは大人もほとんどはそういうふうにして行動し
てるんですよね。
というのは、昔、山口百恵かなんかのシリーズで、悪役の女の子が山口百恵をすご
くいじめるという場面が放映された時に、そのいじめ役の女優さんの母親が八百屋さ
んの店先でおばちゃんにとっ捕まって、「あんた娘にどういう教育してるんだ」って、
散々説教されたっていう笑い話がありますし、それに大体、いまだにバラエティ番組
の司会者が視聴者のおばちゃんたちに顔見知りだと錯覚されて、あんた何で私を知ら
ないのよ、と文句を言われているくらいですから、とにかく大人だろうと子供だろう
と、論理ではなくて映像が現実と混ざって行動してしまうという事がむしろ普通なん
です。
近代人はなぜか、人間というものが論理で行動するものだと決めてかかってしまい
ましたが、どうやらこれは本末転倒で、論理に基づく行動は2割もないのが実状でしょ
う。ちょうど射撃でいえば、論理に基づく行動というのはいわば間接射撃、つまり目
標を見ずに方位角と距離のデータの入力で目標を狙うようなもので、こちらは遠距離
目標に対してだけ用いられ、近距離目標に対しては、8割は人間は目視による直接射
撃、つまり目に入る映像をそのまま単純になぞる形で行動している、大体そのぐらい
の比率なんですよね。
ある意味で昔の人はこれをはるかによく知ってまして、軍服の効用というのがまさ
にそれなんです。人間というのは、軍服を着てると銃を平気で撃つことができるんで
すよ。ところがそうやって訓練を受けた人間でも軍服を脱いでしまうと、引き金を引
けなくなるんですよね。
それは、頭の中では引き金を引くという行為と軍服着用の状態が常に一体化した映
像になっていて、それをなぞるように行動するからなんです。ところが軍服を脱いじゃ
うと違う映像になるからそれをなぞって行動することができない。
だから例えばスイスなんかでは、家庭への銃器の装備が義務づけられていて、アメ
リカ以上に銃は一般社会にごろごろしているんですけれども、ただ彼等は引き金を引
く時は必ず訓練で軍服を着てやってますから、彼らは平服で銃の引き金を引くという
ことは絶対にできないんだそうです。
国際法では軍服を着ないで戦闘行為を行うと、スパイとして銃殺されるのが一般的
ですけれども、この事もそこら辺の人間の行動力学ってものをよく分かった、非常に
賢明な知恵だったんですよね。
この「コスチュームプレイなら安全」という原理は、昔のシェイクスピア劇なんか
でも、かなり正確にちゃんと理解されていたようです。
シェイクスピアの時代から演劇というのは、洋の東西を問わず性描写に対しては非
常に厳しい規制があって、シェイクスピアの時代にも女優というのはとにかく居ては
いけないことになっていました。女優の役目、例えばオフィーリアとか、ジュリエッ
トとか、それはみんな声変わりする前の少年がやってたんだそうです。
そのかわり暴力シーンや残虐シーンってのはもうすごいもんで、『リチャード三世』
なんてのは生首が平気でゴロゴロ出てくるっていうようなひどい、ものすごい残酷な
描写のもんですよ。
ただ、シェイクスピアの時代に遡ってみるならば、シェイクスピアの時代から見て
も『リチャード三世』の劇というのは歴史劇、コスチュームプレイなんですよね。だ
から『リチャード三世』とシェイクスピアの時代の服装は、我々の目から見ればあん
まり見分けはつきませんけれども、当時の常識からすれば、恐らくリチャード三世の
扮装をして街の中を歩くのは、かなり不自然な状態だったんですよ。
要するにコスチュームプレイだからこそ、暴力シーンに対してだけは、随分甘い規
制で垂れ流しになってたけれども、社会でそれをマネするなんて事は、めったに起こ
らなかったそうです。これもその原理をよく飲み込んでいたからだと言えるでしょう
ね。
そうやって考えてみると、メディア規制の問題どうするか、という問題も、はっき
り一つの答えが分かる訳ですよね。
要するにそれは、「コスチュームプレイなら安全である」という原理に基づいてガ
イドラインを定めるべきだということです。つまりそれに従うと、平服で暴力をやる
ドラマに対しては規制を厳しくしなければならないけれども、とてもその格好で街中
を歩けないだろうというようなコスチュームの中で演じられるものに関しては、かな
り規制を甘くしてもOKだというガイドラインが導かれてくることになります。
つまりその場合、平服でやるドラマは、それこそ『渡る世間は鬼ばかり』みたいに、
登場人物が一般常識をよく守る、ほのぼの系の良識的なものが主力でなければならな
いが、一方アクションものをやるときには必ずコスチュームプレイの中で行なう。逆
に言えば後者の中では比較的表現の自由が許されるというようにすれば、結果的に最
小限の規制でかなり自由な表現を許した上で、社会の弊害を防ぐことができる理屈に
なります。
だからそういった意味で、まあちょっと我田引水になりますけれども、無形化もの
で、軍服を着てる人間の中だけで戦争ドラマをやるというのは、それほど社会に害を
もたらさないわけですよね。
逆にちょっと危険なのは刑事ドラマで、あれは平服で銃を撃ちますから、本当はちょ
っと危険だったのかもしれません。
まあそれはともかく、現在のような無秩序なメディア表現を野放しにしていていい
と本気で思っている人はあまりいないはずなのですが、しかし一旦規制を始めればそ
の暴走というものは誰もが心配するところです。そしてその暴走をくい止めるために
は、かなり単純で強固な原理に基づくものでない限り、まず耐えられるものではあり
ません。
その点でこの原則は、考えられる限りにおいて最も単純で、芸術表現に可能な限り
の逃げ道を与えた上でメディアの弊害を取り除くという、本来両立し難いこの両者を
可能な限り両立させる手段として、将来重要な基本原則になっていくのではないかと
思います。
「笑い」の弊害を抑える伝統社会の知恵
ところでこの、メディアで見た映像をそのままなぞって人間は動くようになってし
まうという原理は、バタフライナイフの件以外にも別の場所で表面化していたように
思います。それは特に80年代にいじめが荒れ狂った時、教育評論家は例によって受
験戦争によってゆがんだ邪悪な心の所産だみたいなことを言っていましたけれど、実
のところ当時の子供たちにはいじめようとかそういう意識はあまりなかったと思うん
です。
むしろその答えを探したければ、先ほどの原理にしたがうと、まず80年代にメディ
アで一番流されていた映像が何であったかを探すのが第一歩でなければなりません。
そしてそれは何だったかと言えば、それは言うまでもなく『オレたちひょうきん族』
でビートたけしが英雄として君臨し、稲川淳二あたりを壮絶にいじめていた映像です。
そもそも子供というのは社会の中の一番の英雄の仕草を無条件で真似る習性があり、
そしてこのころ「一番尊敬する人物」のアンケートにビートたけしが登場していたわ
けですよね。
つまりそこから推論する限りでは、子供たちのいじめということ自体、はっきり言っ
てしまえば、教室の中でビートたけしごっこをやっていたに過ぎないという理屈になっ
てきます。ビートたけしの行動が頭の中に映像として完全にインプットされてますか
ら、それを頭の中でなぞって教室とかで再現してただけなんですよ。それ以上でもそ
れ以下でもないと思うんですよね。
それで当時、先生の方も生徒達と一緒になって、生徒の葬式ごっこをして、大問題
になったという事件がありましたけれども、先生自体も社会の賞賛の的である『オレ
たちひょうきん族』の映像が頭の中にあって、それをなぞってやってただけな訳です
から、先生は全然悪いことをしているとかいう意識そのものも無かったと思うんです
よね。
考えてみればこの先生もかわいそうな人で、インプットされた映像の命じるまま行
動していたら、ある日突然言語論理で、その行動は犯罪であると宣告されてしまった
のですから、一体どちらを信じればいいのか、そもそも自分はどこで誤りを犯したの
か、ひょっとしたら未だにこの人の心の中では折り合いがついていないのじゃないで
しょうか。
まあこの、いじめとお笑いの関係は、常に容疑者として陰で囁かれながら、メディ
アで公言するとその世界からは消されて二度とテレビに出してもらえなくなるという
噂のある、いわくつきの問題なんですが、それはともかく、この原理を応用してみる
と、今となっては手後れですけれども、当時実施されていればある程度その害を防ぐ
という方法はあったと思うんです。
その一例としては、そういうことをやったら結局因果応報になるという事自体も必
ずペアで、映像としてインプットされるようにしておけばいいということなんです。
つまり例えばお笑いの番組の最後の10分を「因果応報タイム」という事にしまし
て、とんねるずとたけしが今まで番組の中でやった罪業を全部書き出されて、それで
それをやられた人間が全部「目には目を」式の報復をする。そしてラストは必ず、懲
罰を受けた石橋貴明の泣き顔で終わり、最後に見てる子供達が「やっぱり人間ああは
なりたくないもんだわい」と思うように、必ずいじめには報いがあって「いじめ逃げ
はできない」という事が、ペアの映像として一種のメッセージになっていたとするな
らば、一方的にそうやっていじめるということは、かなり防げたんではないかと、わ
たしは思うわけですね。
参加者:(ドリフターズの場合には、大体そういうパターンでしたよね)
そうなんですよ。だからまさにドリフターズの頃というのが、最後の一線の良識を守
れた、最後の時代だったと思うんですよね。
そもそも「笑い」というものは、一般に何かを破壊する時に生まれるものです。そ
の破壊効果というものは、社会の中で制度や思考が硬直化して身動きがとれなくなっ
ている時などに、1/10ぐらいの適量でその毒を処方してやると、時にその硬直化
から人間社会を解放するすばらしい妙薬となります。
しかし言うまでもなく、もともと毒としての一面をもっているのですから、その適
量を超えてしまうと、ただの毒としてしか社会に作用しないのは当然です。そのため
その適量をどうやって保つかということは、昔から社会にとって非常に大きな課題で
あったわけです。
そして伝統社会を振り返ってみると、昔から人間は笑いのもたらす社会の破壊効果
というものをよく認識し、そしてそれをどうやって適正点で押さえるかということに
関しても、驚くほどの知恵をもっていました。それらは大体3つぐらいにまとめられ
ると思うので、ちょっと列挙してみましょう。
まず第一は西洋中世の場合ですけれども、ここでは道化師というものに特殊な扮装
が義務付けられていたんです。それは鈴のついた三角帽子を被っていさえすれば、道
化師であると言う身分証明ができる。だからその三角帽子を被っていさえすれば、何
をやっても天下御免で許される。
逆に言えば三角帽子をかぶらないでそれをやったら、即、首を切られるという厳し
い条件があったんですけれども、それゆえに、笑いというものを、その非常に限定さ
れた条件の中で、生きさせていくことができた。
なおこの場合には、むしろ後者、つまり三角帽子をかぶらなかったら悲惨なことに
なるという映像が大衆にインプットされなければ、この方法は機能しないことには注
意が必要です。
次に2つめは笑いの様式化で、落語なんか代表例ですよね。笑いと言うものを一つ
の様式の中にちゃんと確立して、その中で芸とした。だからその様式を外れてしまっ
た笑いというのは社会的には許されないものなんだけれども、様式をちゃんと守って
る限り、伝統としてその中でちゃんと笑いと言うものを生きさせていくことができた。
こういう場合、下ネタを連発するなんていうのは芸の中には入らない、下の下と見
なされるわけで、そういう良識もこの制度の中ではじめて育っていけたわけです。
それから3番目は、ドリフターズなんかいい例ですけれども、最後に日常性に返っ
ていく仕掛けをしておくことです。
ドリフターズの場合も、最後にみんなを壇上に上げて、一緒に踊って、それで日常
に帰って行く儀式をやっていたじゃないですか。あれを経てしまうと、そこから後は
もう今みたいなことはやっては駄目ということで、はっきり日常と笑いの世界を分け
ることをしていた訳です。例え中で何をやっていても、あれとこれは違うんだってこ
とが子供達の中にちゃんと印象づけられてるわけですよね。
(参加者:祭り--みたいなのはそうなんですね。)
そうなんです、そうそうそう。そしてこの儀式の時に、芸人側が破壊王としての地位
を返上して、お客さんの下に自分を置く、そういう地位の逆転を何らかの形でイメー
ジさせて終わるようにしてあるわけです。
なおこれは、実は芸そのものにとっても必要なことで、この種の儀式が一種のリセット効果をもっていることには注目する必要があるでしょう。それというのも、こういうリセットをやっておかないと、次回にはお客さんがそのレベルから参加してくるものですから、前と同じレベルの笑いではもう満足せず、もっと強い刺激でないと笑ってくれなくなる。
結果的にどんどん刺激を強くして過激化の度合いを上げていかなければならないという、一種の悪循環に陥って、ついに芸そのものが短期間のうちに消耗して破綻するという、どっかのテレビ局がやってしまったような結果になってしまいます。
逆に、何年も芸をもたせていくためには、こういうリセットをその都度行っておくことが必要で、これは芸人が生命を長らえるための自己防衛の手段でもあったわけですね。
その3点を何らかの形で守っていたから、笑いというものをうまく社会と共存させ
る事ができた訳なんですけども、やっぱりたけしととんねるずの時代にそれが決定的
に崩れてしまった。
まず笑いをやっている人間が報復を受けることなく「いじめ逃げ」ができて、それ
どころか破壊王として崇められる対象になってしまうということが、社会にインプッ
トされたわけですよね。なおかつ舞台を日常に戻す仕掛けがなくて、破壊王の立場を
ひきずったままいくらでも日常世界に飛び出しちゃってもいいという事が起きてしまっ
た。だからこの原理に照らす限り、どう考えてもそれは2重の意味で間違いだったと
いう理屈になるわけです。
まあ現在の議題は犯人探しや糾弾が目的ではなく、あくまでも原理の模索にあるの
で、その方面の話への深入りは避けたいと思いますが、とにかくこんなことをやって
いて社会秩序が保っていけるとするなら、そっちの方がよほどどうかしているでしょ
う。
最近、いわゆるお堅い職業、例えば裁判官、警察官、教師などの破廉恥罪やモラル
の低下が糾弾されていますけれど、でも彼らの立場にしてみれば、破壊王たちがこれ
ほど大衆から賞賛されるのを目にして、それでなおかつ自分たちだけはお堅くモラル
を守って大衆の冷笑の対象であり続けろと言われたのでは立つ瀬がなく、これではさ
すがにそれを要求する社会の方が少々わがままと言われても仕方がないのではないで
しょうか。
いずれにせよこういった現象すべての背後には、例の原理、つまり人間というのは
論理で考えて動くよりも、映像をなぞる形で行動するというものがあり、その性質を
うまく認識していなかったが故に、対処が全くできなかった例だと思うんです。
その意味では視覚メディアというものはちょっと特殊なものとして別格の扱いをす
ることが必要だったわけで、この先どういう社会を設計するにせよ、この原理をかな
り基礎に近いところに置いて再設計を行うことは、何をやるにしても重要なことにな
るでしょう。そのためここらへんの力学をきちんと整えていくことは、不可欠の作業
になっていくと思います。