第4部:ステルス理論を用いた日本独自の個性尊重の論理

※2003年4月27日例会における講義を編集したものです。

 次は、ステルスの理論の「共鳴効果」をもう少し社会学的に使う術はないかと言う
話です。

 我々が今後、呼吸口の数を極大化する文明をどうやって作っていくか、そのための
テクノロジーをどうやって作っていこうかということになると、やっぱり心理的なメ
カニズムに対する技術も必要になってくるわけですよね。そしてそれを考えた時に、
意外な方向からステルス理論を応用できるのではないかと思うんです。

 要するに、社会をどれだけ広く感じさせるかという話になると、なんか狭っ苦しい
息の詰まりそうな社会と、割と広々した社会というのは、建築に限らず社会そのもの
に関してもイメージとしてあるわけじゃないですか。例えばスターリン体制みたいに、
隅から隅まできっちり作られた社会というのは、労働力そのものはグワッと忙しげに
動いていても非常に狭っ苦しい、もう息が詰まりそうな社会に見えますよね。それに
対して、まあ贔屓目にイスラム文明というのを見れば、ちょっと中に入ってみると結
構広々とした感じがある、という印象を与えることが多い。

 では広々とした社会と言う印象を与えることができれば人間はそっちの方向に動い
ていくはずだということになると、そういう広々とした社会を作るということの心理
的な技術も一つ作っておく必要があるな、というのが私がこの話を言い出したきっか
けなんです。

 それで、共鳴効果というものがステルス理論を社会心理に使っていく上で意外に大
きいな、と思うのは、我々がある社会なり物語なりを広いなと感じる時というのは、
『三国志』の世界なんてのはそうなんですけれども、「スター並立の状態」というの
が結構、その物語の世界が広いなと感じさせる一つの要因なんですよね。

 つまりたった一人のスーパースターがいて、他は誰も居ないという、そういう物語
よりも、同じぐらいのサイズをもった英雄たちが何人か居るという状態が、実は一番
物語の広さを感じさせる状態なんですよ。それでこれが逆に増え過ぎちゃうといけな
いんです。つまりスターがインフレを起こして薄まって埋没してしまい、大衆の姿全
部が平等で横並びになってしまうと、これは実はノイズが増えすぎてしまった状態と
同じな訳です。それは街で言えば、同じようなサイズの建物がばらばらに自己主張し
ている、今の日本の乱雑なビル街の風景ですよ。

 一方それとは対照的に、何人かのスターが並立する状態というのは、風景の中に大
きいランドマークみたいなものが何本か並立して立ってる状態ですよね。だからギリ
シャの列柱方式に似て、そのステルス効果で都市が広く見えるのと同じことで、同じ
サイズの、それぞれ個性を持った英雄が、ある程度少ない数同じような状況で並立し
てる状態というのが社会を一番広く見せる効果があると言うことなんです。
 
 これは例えばスポーツなんかでもそうですよね。一チームだけがやたら強くても面
白くなくて、かなり強いチームが四つか五つ、並立してる状態というのが一番スポー
ツの業界というのを広く見せるじゃないですか。そしてやっぱり歴史に関してもこれ
は同じようなものであって、やはり単一帝国の時代というのはローマ帝国みたいに、
如何にその帝国が偉大であったとしても、その世界というのはやや狭苦しい世界であ
る訳ですよ。それに比べるとヨーロッパ的に、複数の国が並立してる社会の方が、そ
の歴史そのものが割と広く見えると言う印象はあるわけですよね。だからこれは一
種、共鳴効果というものを社会の中に応用した一つの例な訳です。

 アメリカ的な世界観というのは、とにかく個人が全てなんだ、個人個人の個性を全
開していくことが社会を一番広く見せるものなんだという、徹底した還元主義的個人
主義ですよ。しかしそれでやってみたら、実はあまりうまく行かなかった訳です。一
方作用マトリックス的な世界観はその逆で、逆ということは全体論的なわけですか
ら、人間の個性よりも全体的な社会の調和のほうが大事という、やはりどっちかと言
えばそう言う風に見る傾向はあるわけですよね。そうなってくると、じゃあ作用マト
リックス的世界観のもとでは人間の個性というものは存在意義が無いのかという話
に、下手するとそういう全体主義的な方向へ暴走しかねないわけです。
 
 その時にこのステルス理論を碁石理論と組み合わせて、共鳴効果のために個性が必
要なんだという論理を作ってやると、ある意味個性に対する尊重をその全体論的世界
の中で守らせるというブレーキとしての役目も果たせると思うんですよ。
 つまりいくら全体論が大事であって調和が大事であると言っても、そこでちゃんと
した個性が、抜き出た形でちゃんと見えるようになってないと、その社会の内部に
居る人間は非常に息詰まるような狭苦しさをその社会に感じさせられてしまって、結
局呼吸口の数が維持できないから、その社会そのものも維持できないということにな
ってきてしまう。
 だから、いかに全体論的な構想を取っていたとしても、共鳴効果で呼吸口の数をき
ちんと確保するという事をむしろやっておいたほうが良い。そのためにこそやはり個
性というものはその世界においても尊重されなければいけないという理屈ですね。

 逆に言えば、これは新しいやり方で「個性の意義」をどう定義するかという、大き
な主題に発展させることができるように思います。つまり今までの西欧合理主義的な
定義だと、個性をなぜ尊重しなければいけないのかという論拠が、とにかく個人とい
うものが系全体よりもよりも絶対的に優先する基本なのだから、個性も絶対的に尊重
されなければならないと言う論理でした。
 しかし我々の場合、そうではなくて、この世界はハーモニック・コスモスじゃな
かったのだから、個人の主張を無制限に肥大させれば、社会という系全体がコラプ
サーに縮退して結局個人も駄目になってしまう。しかしコラプサーがなぜいけないの
かの最終的理由の一方には実は碁石理論があって、コラプサー社会の中では人間の精
神は絶対的虚無の中で呼吸口を失って窒息状態に置かれてしまうから、それは最悪の
社会なんだという理屈があるわけです。
 つまりどっちにしても呼吸口をなるたけ増やすことが社会の目的だというならば、
そこでのステルス効率を高めて呼吸口を増やすためには、共鳴効果に頼ることは不可
欠で、結局は個性というものを尊重して置かないと逆に全体も持たなくなるという、
新しい個性の尊重の仕方の定義なんです。

 だから日本という国は必ずしもアメリカ的な、個人がとにかく全てなんだとは言わ
ないが、社会全体とその呼吸口を維持するために、この個性というものをちゃんと並
立するように出していかないといけない。これが日本がなぜ人間の個性を重んじるか、
そのことの論拠である、という一種の哲学として将来世界に向けて押し立てて行って
もらいたいものなんですよね。